満月は遠く
翌日、由良は再び川を渡り、千太の家を訪ねた。
軒下に筵を敷いて細く切った大根を干していた千太は、由良の姿を認めると、弱弱しく笑った。
秋の寒空の下とはいえ、村からここまで黙々と歩いてきた由良の額には汗が滲んでいる。
「おれも、いっしょに手伝う」
汗を拭うや、由良は千太の隣にしゃがみこみ、いっしょに大根を干しはじめた。
「…おおきに。助かるけど、おまんも冬支度があるやろう」
「ええんよ。ちいと手伝ったら帰るから」
由良は、少し眉間に皺を寄せている。
「…ねえ。兄さのととさまは、いつ帰ってきなれるん」
千太は、どきりとして手を止めた。
「なんで?」
「だって、兄さひとりがいつも冬支度しとるから。かかさまは…足が不自由やろ? もうすぐ、雪が降るのに」
由良は、自分でも無遠慮に感じるほど、千太をまっすぐに見据えた。彼の痩せた頬に、もともと大きな目が一層ギラギラとむき出しているように強調されている。
「心配なんよ。前より、痩せたみたいやし…」
そう言うと、千太は露骨に不機嫌になって、籠の中から大根を筵の上に放り投げた。
「じゃあ、なんか食いもん分けてくれんのか。くれんやろ。おまんとこだって、冬越しはきついやろうで」
その剣幕に気圧されて、由良は口を閉ざしてうつむいた。
「…出過ぎたこと言った」
「………いや。俺も怒鳴って、すまん」
千太は渋い顔をして、くしゃくしゃと爪を立てて自分の頭を掻き、
「ちと、休憩しよまい」
と、立ち上がった。由良はしゃがんだまま躊躇ったように千太を見上げる。
「…ほんでも、これ、終わらせんならんのやろ?」
「ええんや。ちぃと休んだほうが、はかどる。ここじゃなんやし、川の方に降りよ」
竹藪を抜けて渓流の近くに降りていくと、岩場にふたりは並んで腰を下ろした。千太は岩から上半身を乗り出すようにして、直接顔を川面につけて洗い、そのまま水をがぶがぶと飲んだ。顔面から滴る水を手ぬぐいでごしごしやって、
「わっ、冷たっ」
わざとらしく身震いしてみせる。
「犬みたい」
と、由良は思わず破顔する。先ほどまでのぴりついた雰囲気が、少しだけ和らいだ。
「今日は、なんか言いたいことがあって、来たんやろ?」
千太の直球の問いかけに、由良は一瞬戸惑ったように俯いた。
「なんで、分かったの?」
「なんでって…顔に出とるもん。いつもの、笑った顔でないもん」
「参ったなぁ、兄さはなんでもお見通しやわ」
と、迷った挙句、昨日源助から言われたことを洗いざらい話してしまった。
「次の満月に、白山中宮様でお祭りがあるんや。そこに、いっしょに来いって」
話を聞き終えた千太は思わず目を輝かせた。隠し切れない期待と興奮がその表情の端々に表出していた。が、冷たい声に呼び戻されるように、哀し気に俯くと、
「…いんや、そりゃあ、ない話や。きっとその源助いうやつは、おまんをからかって試しとるだけじゃ」
由良は力なく頷いた。
「…源助の兄さは、子供組の頭をしとるような人なんよ。男気のある人でな、村のみんなから一目置かれとる。そんな人が、兄さを連れて来いって言ったもんで…たわけやわ、おれ。期待なんかして」
まるで弁解するように話しながら、由良は千太から顔を背けた。
由良は自分の浅はかさに恥じ入っていた。こんなことを話してなんになる。千太と自分の生きる世界の違いが、浮き彫りにされていくばかりではないか。
「祭りか…」
千太は、呟くように、対岸を眺めた。
「おまんと行けたら…うん。楽しいやろうな」
まだあどけなさが残る横顔に、複雑な憂いが差す。
由良は息を潜めるように、そんな千太の横顔をじっと見つめていた。
龍の子、災いの子、業の子…
この千太にそんな罵詈雑言を軽々しく放つ村の子らが、醜悪で陳腐なもののように思えてならなかった。
由良は、自分の村が好きだった。生まれた時から、村のみんなに護られ、育てられてきた。大人たちは、まるで自分の子供のように親しく接してくれる。子供たちは、血は繋がらずともみんな兄弟姉妹のようで、いっしょに野山を駆けまわって遊ぶのが楽しくて仕方がなかった。
けれども、今、千太との関わりの中で、由良の中の〈村〉が瓦解しようとしている。それが、時折恐ろしくて仕方がなくなる。
「由良がそんなに高う買っとる男なら、その源助は、きっとええやつなんやろうの」
見る角度によっては碧にさえ見える千太の美しい瞳が、再び由良を見る。そのまなざしは、穏やかな信頼に溢れていた。
「祭りに、行ってみる…」
そう言いかけた千太の口を、見えざるエツの手が塞いだ。
村の者とは関わってはいけない、決して目立ってはいけない――自分を護るために。
幼い頃から繰り返し刻まれたその言葉が、千太の足に強固な枷となっていた。それは、容易には外せない。肉を裂き、骨にまで食い込んだ金属のおぞましい枷だ。叶うことなら、それを自らの手で引きちぎり、跡形もなく壊してしまいたかった。けれども、その枷につながる鎖の先を、エツがしっかと握り締めている。エツだけではない、藤六もいる。
由良を見つめる千太の双眸に、水底のような暗がりが広がっていく。
この子を通して、村を見てはならないと、今一度千太は自分に言い聞かせた。この子は村の子だから、知らないのだ――村の者たちから、今まで自分達がどんな目に遭ってきたのかを。
「…仕事が残っとる。もう行かんと」
立ち上がった千太を、由良はためらいがちに見上げた。何かを言いかけたようだったが、結局は何も発せず、千太について腰を上げる。
ふたりは黙って竹藪の坂道を登り、家の前で別れた。
が、吊り橋へ続く坂を下りようとする刹那、由良は思いとどまったように足を止めた。しばらく、その場で固まったように立ちすくんでいたが、ぱっと身を翻すと、わき目もふらず、千太のところへ走ってきた。
「次の満月じゃ、兄さ」
息せき切って駆け寄ってくるなり、由良は切羽詰まった声でそう言うと、念を押すように、千太の袖を掴んだ。
「道祖神様んとこで、待っとる。いっしょに、祭り、行こ。村の者らにどう思われても、おれは構わん。爪はじきにあっても、構わん。おれ、兄さが好きや」
由良は一語一語強い口調でそう言い切り、千太の袖を掴む手にぎゅっと力を込め、ぱっと離すなり、その場から走り去ってしまった。
疾風のような出来事だった。
千太は口を半開きにしたまま、その場に立ち尽くした。視界が白く霞んだようになっているのは、空腹のためだけではなかった。完全な不意打ちに朦朧とする頭で、彼女の言葉を再確認するように反芻する。そのたびに、体から力が抜けていった。しまいには立っていられなくなり、思わずその場にすとん、と腰を下ろした。
おれ、兄さが好きや…――
由良の声が、何度も何度も耳の奥で響いていた。必死に、訴えるようにして伝えてくれた、由良の想いだった。辛くなると、千太は、懐にいつも忍ばせている白い石英を取り出して見つめながら、その言葉を思い返した。すると、どうしたことか、腹の底から妙な力が湧き出てくるようだった。
千太は、次第に、次の満月を待ちわびるようになった。
けれども、その夜を迎えることはなかった。
祭りの日の前日のこと。藤六が、この世を去った。




