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その手を離さぬように

2025.8.3 加筆しました。

 昼間空を覆っていた分厚い黒雲は、まるで水が砂を洗うようにいつの間にか上空から消えさっていた。下弦の月が、さやかな光を地上に投じ、家の床をほの白く染めている。降るような鈴虫の鳴き声の合間を縫って、父と母のか細い呼吸音が途切れ途切れに耳に届く。


 千太は横を向いて、月明かりに照らし出された母の土気色の寝顔をぼんやりと眺めていた。寝顔、という穏やかな言葉に、今のこの母の顔は相応しくない。衰弱して、昏睡していると言った方がよい。骨に皮が貼りついているといった様子で、頬骨や顎の骨の形が露わになっている。眼窩は落ちくぼみ、影ができてしゃれこうべそのもののようにも見える。千太は不安と焦燥で喉がつまる。思わず手を伸ばして、母の頬にかかった油の抜けきった長い髪をそっと指先でどけてやり、そのまま、鼻の下に手をかざす。かすかな呼吸の風を手の端に感じ、ほうっと安堵の息をつく。


 母は最近、日中でも板間に転がるようにして横になっていることが多くなった。日に日に痩せていき、ついにその長い髪がごっそりと抜け始めた。板間に散らばった髪の束に気づいて、千太は血の気が引いた。


 ――餓死


 という二文字が、迫真味を帯びて眼前に迫り、その手でしっかと彼の頭を掴み、身体に覆いかぶさってきた。たまらず、投げ出された母の手を握りしめると、その皮膚は水気が抜けきって、ごわついた麻か何かの布のような手触りだった。それに、人のものとは思えぬほど冷たい。


「かかさま……」


 千太が絞り出すように呟くと、エツの手がぴくりと動き、微かに握り返してきた。

 うっすらと瞼を開けたエツの黒目に月光が落ち、黒曜石のように輝いた。

「…坊、寝れんのんか」

「…うん、おそがいんじゃ」


 口にしたその言葉で、堰が切れたように目から涙が溢れた。生温かい涙が、なめくじが這うように頬を伝う。


「今でも、その日食うのがやっとなのに、もうすぐ冬が来て、雪が降ったら…もう、しまいのような気がして」


 千太自身も、腹が減ってたまらなかった。常に口の中は登ってきた胃液で酸い味がしていたし、胃が叫んでよじれるような痛みがする。家族の中で一番優遇されて、食わせてもらっているのに、この体たらくが情けなかった。


 エツは、何も言わず、しばらく涙を流す息子の顔をぼんやりと眺めていたかと思うと、次に腕を伸ばし、赤子を引き寄せるかのように、横になったまま千太を腕に抱いた。千太は驚いたのとこっぱずかしいのとで、咄嗟に小さく拒んだが、母の胸の馴染みのある体臭が鼻腔を抜けていくにつれ、自然と体のこわばりも解けていった。


「……かかさま……死なんといてくれ」


 エツの胸に顔を埋めながら、千太はぎゅっと瞼を引き絞る。エツは無言でしばらく、むせび泣く千太の背をさすっていた。

 エツの向こうで、藤六が微かに呻くような寝言を放った。しばらくすると、またそれは寝息に取って代わった。


「…おれは、マスじゃ。マスとおんなじじゃ」


 うわ言のように、エツが呟いた。


「坊や、おまんのためなら、おれは命なんて惜しゅうない。本当や。ほんでもまだ、その時でない。おれは、おまんがもっと、大きゅうなるのを見たい」


 エツは、千太を抱く手に力を込めた。


「かかさまは、おまんをどんなことをしてでも守る。ええな、おれは、おまんを、守る」


 その瞬間、千太の胸が嵐に蹂躙される草木のように騒めいた。

 見上げると、母は土気色をした頬を月明かりに照らしながら、決然と窓の方を睨んでいた。その表情は硬く強張り、それでいて、解脱した僧のように、一切の迷いが取り払われていた。その顔つきに、千太は背筋がすっと泡立つのを感じる。


「…かかさま…何を考えておいでる…」


 千太の問いかけに、エツは静かにこちらを見下ろす。斜視が入っているので、視線は合わない。普段は全く気にならないのに、この時ばかりは、母の心が読み取れず、恐ろしかった。


「どうもない、おまんはなんも、心配せんでええ」


 囁くように言って、エツは微かに笑ったのだった。



 そのまま、千太は一睡もできず朝を迎えた。

 布団に染みた涙が、一晩のうちに冷えて、触れている頬が気持ち悪かった。母はまだ、薄闇の中で眠っている。


 母の向こう側で藤六が、もぞり、と動き、咳をひとつ漏らすと、身を起こした。

「…ととさま」


 千太が声をかけると、草鞋を履こうとしていた藤六がちらとこちらを振り返った。


「…もう、行かれるんか。いっしょに行く」


 千太は藤六に付き従う形で、朝靄に霞む秋の山を登って行った。薄暗い靄の中をとぼとぼと進む藤六の姿は、まるで物の怪のように不気味だった。オオカミのもの悲しい遠吠えが、遠くから空気を揺らして耳に届く。鳥もまだ眠っているのか、森の中はいっそう静かで、落ち葉が地面に落ちる音まで聞こえてきそうだった。


 あの世への入口のように、薄暗い森の中にぱっくりと口を開けている洞までたどり着くと、藤六は節くれだった沁みだらけの手で岩壁をつたいながら、地上から少し下ったところにある、岩のくぼみに腰を据える。その光景を入口から見下ろしながら、地上からの陽の光がここに溜まって、昼間はそれでも温かいのだと、もうずいぶんと前に藤六が話していたのを千太は思い出す。


「…坊、腹がへった」


 幼い子供が母親に食い物をねだる様な声音で、藤六は赤い目を見開いて千太を見上げた。


「分かった。なんか、食えるもの探してくるでな」


 千太は、竹筒に入った水を藤六に手渡しながら言うと、洞を後にした。


 探してくる、とは言ったものの、まだ暗くてあたりがよく見えないので、魚を捕るのも、木の実を拾うのも難しかった。が、じっとしてはいられなかった。突き上げるような焦燥感に駆られて、山を下り、夜叉ヶ池へと向かった。千太の頭にあるのは、先日有馬たちが贄として投げ込んだ野兎だった。もちろん、あの野兎を引き上げるなんてことはできないだろうが、あの祈祷より後に、彼女たちが別の祈祷を捧げているとしたら――まだ、食える状態の贄が水底に沈んでいるのではないか…


 そこまで考えて、千太は立ち止まり、考えを振り払うように首を振る。


 龍神様への贄を掠めるなど、なんと罰当たりな考えをしたものだ。自分が自分で嫌になったが、しかし、一度に腹にたまり、父や母に滋養をつけられるようなものが、他にどこで手に入るというのだろう。

 ふと隣を見ると、いつのまにここまでやってきたのか、夜叉ヶ池参道入口に立つ道祖神が、薄闇の中にぼんやりと浮き上がってみえた。


 千太は、思わず手を合わせる。そして、道祖神の背後に広がる棚田、その向こうの村のことを考える。

あの村の、白山中宮の近くには、村の貯蔵物を入れている蔵があることを知っている。その中には、種籾も含まれている。

 それを少しだけ拝借して炊けば…――千太は鍋の蓋をあけると同時に湧き立つ白い湯気と、甘い米の匂いを、そして、噛んだときに口の中に広がるなんともいえぬ香ばしい味を想像する。たちまち、口の中が唾液でいっぱいになる。今それが食えたら、天にも昇る思いだろう。父と母の嬉しそうな顔が目の裏に浮かび、一歩、また一歩、夢遊病者のような足取りで、村の方へと進んでいく。


 もし種籾を盗んだことがばれたら、村人から凄惨な目に遭うだろう。けれども、どうせこのままでは、一家三人冬を越せず飢えて死ぬのだ。ならば懸けるしかない。棚田の坂を下って行きながら、千太は捨て鉢になっていた。妙な高揚感があり、口元には薄い笑みさえ載っていた。

 

 そのとき。


 行く手の畦道に、ぼんやりと、誰かが立っているのが見えた。


 一瞬、見間違いかと思ったが、目をこすって今一度よく見ても、その薄闇の輪郭は、確かに人の様子を呈している。それは、ゆらり、ゆらりと体を揺らして、こちらへと近づいてくる。その白い顔が闇に浮かび上がると、千太は思わず声をあげた。腰を抜かしそうになるのを必死でこらえ、身構える。


 おびえて強張った千太を、鹿のような黒目がちの円らな目が、食い入るように見ている。まるで、そこに何かを見出そうとしているかのように。


「……巫女様」


 千太が呼びかけると、凪は巫女様と呼ばれたのが意外だというように薄い眉をちょっと上げる。


「こんな時間に、どこへ行く?」


 千太はどきりとした。そして、その一言に頬を叩かれたような気がした。今自分がしようとしていたことが、急に恐ろしくなって、千太はしょんぼりと肩を落とす。


 その様子を、凪はじっと見つめてから、懐から笹に包まったものを取り出し、千太にそっと差し出した。


 その中身がなんであるか、見るまでもなく、飢えて研ぎ澄まされた千太の鼻は嗅ぎとっていた。これは米だ、握り飯だ。


「お食べ」


 静かに言って、凪が笹をめくると、反射的に千太は手を伸ばして掴み、かぶりつこうとした。が、前歯が握り飯を抉る寸前、千太は動きを止め、口の中にいっぱいに溜まった涎を、音をたてて飲み下した。そして、細かく震えながら握り飯を遠ざけた。


「どういたんじゃ。毒なんぞ、入っとらん。お食べ」

「…巫女様、こんな貴重なもんを、なんで見ず知らずの俺なんかに」


 凪は、能面のように動きがなく、思考が読み取れない顔をしているが、その千太の問いかけへの回答を考えているようだった。


「見ず知らず、というわけではないよ。この間、夜叉ヶ池で目が合った。おまんも、気づいておると思っていたが」

「知っとります。隠れとる俺の事、巫女様はじっと見ておいでた。有馬様に、告げ口もせんと」


 すると凪は、その鹿のような目を半月型にしてほほ笑んだ。この前池でこちらに投げた笑みとは、また違った類のものだった。


「さあ、早くお食べ。今から夜叉ヶ池へ行って、それをお供えしてご祈祷しようと思っとったんや。けんど、おまんにやったほうが、龍神様もお喜びになる気がする」

 

 その真意を測りかねて、戸惑ったように凪を見つめる千太を、凪はもう一度、さあ、と促した。


「顔色が悪い。食べて元気をお出し」


 千太は手の中の握り飯を喉を鳴らしながら見下ろし、歯を食いしばって首を振った。


「理由はよう分からんけんど、龍神様のお供えものを頂くなんて、畏れ多いことです…。おおきに、巫女様。これ、持って帰ってもええですか。ととさまと、かかさまに食わせてやりたいんじゃ。俺よりも、腹を減らしとる」


 凪は少し考えた後、それならば、と残ったもう一つの握り飯も差し出した。


「これも、持ってけ」

「ええんですか?」

「ええんじゃ。ほんでも、約束や。このうちひとつは、おまんがお食べ、ええね?」


 千太はもう一度、畏れ多い事、と頭を下げる。顔を上げると、凪がいっそうその白い顔を近づけて、千太の目をじっと覗き込んでいた。千太は、無意識に背が泡立ち、身を固くする。


「それから、有馬様には気を付けるんやぞ。おまんのことを、いつか災いを呼ぶと信じておいでるから。なんかあったら、わたしを頼っておいで。わたしは、おまんの味方じゃ、ええね?」


 掠れたようなその声には、どこか凄みがあった。千太はなぜ凪がここまで自分に肩入れしてくれるのか解せぬまま、気圧されたように小さく頷いた。それを確認すると、凪は満足げに笑んでから踵を返し、朝靄の向こうへと消えさってしまった。


 千太はその場で呆然と立ちすくんでいた。今しがた自分の前に立っていた凪は、幻想だったのでははなかろうかと思いさえした。しかし、自分の手にはしっかりと、握り飯が握られている。


 まるで狐にでもつままれたような不思議な気持ちで、千太は藤六の洞へと走った。


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