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雪が降るまえに

 秋も深まり、山が燃えるように赤く染まりはじめた頃だった。

 昼をすぎたあたりから、どうしたことか、この時期には似つかわしくないほどに空気が凍てつきはじめ、地面は霜が溶けず踏みつけるとぱりぱりと薄氷が割れるような音がした。

 空を覆った分厚い黒雲が、今にも冷たい雨を降らせそうでもあった。

 軒先で山椒魚の皮を剥ぎ、冬場の貯蔵食をこさえていた千太は、首を伸ばして曇天の空を仰ぎ見た。吐く息が白く天へと昇っていく。

 

 ふと、洞にいる父のことが心配になった。皮膚の感覚がないということは、暑さも寒さも感じないということではないか。つまりは、凍えてしまっても、それに気づかないということだ。千太は残りの皮を手早く剥くと、つるっぱげになった山椒魚を家の勝手場に投げ置き、厚手の藤六の着物を選び、それを抱えて洞へと向かった。


「ととさま」


 洞の中は風がない分空気は籠っているが、岩肌は氷のように冷たく、その間にうずくまる藤六はすっかり唇が青紫色に変色していた。


「ととさま、これ、着とくれ。寒うないかもしれんが…」


 藤六は白い息を吐きながら、千太から着物をひったくるようにして包まり、さらに体を縮こまらせて丸まった。


「食いもんは、ないんか」


 千太は言葉に詰まった。


「今日は、持って来られなんだ」


 藤六は、もはや怒る気力もないようだった。虚ろな目で一瞬千太を見、それからまた下を向く。


「昨夜は、ようなかったの」


 藤六の謝罪に、千太の左頬が鼓動するように痛み、思い出したかのように口の中に鉄のような血の味が広がった。

 昨晩、帰ってくるなり藤六は人が変わったように凶暴になり、いきなり千太を殴りつけた。止めに入ったエツをも突き飛ばし、執拗に千太を殴りにかかった。

 だが、いまや千太も、体格では父に引けを取らなかった。

 母が倒れるのを見るや、頭に血がのぼり、千太は咄嗟に藤六を組み伏せていた。そうなると藤六は途端に気弱になって、幼子のように泣いて許しを乞うた。千太は、やりきれない気持ちになり、振り上げたこぶしをそっと下したのだった。


「なあ、坊。ととさまがむしゃくしゃとするのも、分かっとくれよ。こんなとこで犬ころみたいに震えとる姿、おまんの目からも憐れじゃろう? せめて、せめて冬の間だけでも、家におらしてもらえんかの。かかに、頼んでみとくれよ、な?」


 千太は、頷くことしかできなかった。母に頼んだところで、期待した答えは得られないだろう。けれども、確かに父の言い分もその通りなのだった。雪が降れば、山は雪で閉ざされてしまう。その前に、あんなところにいたら、いつ冬眠前の熊に食われるかもしれない。今すぐにでも、家に戻してやりたかった。


 重い足取りで山を下っていくと、家の脇で、由良がこちらに手を振っているのが見えた。千太はあっと声をあげて、はやる気持ちを抑えきれず、小走りで残りの道を駆け下りた。


「由良、やっとめ(久しぶり)やのう!」


 約二十日ぶりに会う由良は、急に背が伸びたようだった。


「冬支度でなかなか忙しゅうてな。やっと来れた」


 由良は、嬉しそうに破顔して、それにしても今日は冷えるねぇ、と白い息を吐きつつ手をこすり合わせた。

 妙に大人びて見えた彼女にどぎまぎしていた千太だったが、彼女のあどけないえくぼと八重歯の笑顔に、いい意味で裏切られ、ほっとしていた。


「その背中の籠。木の実でも採りにきたんか?」

「うん、ほうや。兄さも、いっしょに行かんか」

「じゃあ、籠もってくる」


 そう言うや家へとひとっ走り、冬に備えてはめ込んだばかりの扉を勢いよく開くと、板間に座っていたエツとウネが、ひどく驚いた様子でこちらを振り返った。

 まるで侵入者を見るようなふたりの目に、家の中へ入るのが躊躇われるほどたった。


「あっ、ウネさ。おいでとったんですか」


 強張ったウネの顔が、千太を認めるやゆるゆると溶け、いつもの笑みへと取って代わる。


「おぉ、千太。やっとめやの」


 千太はぺこりと頭をさげる。


「今日は由良もいっしょや。そこで会わなんだか」

「うん。今から、いっしょに木の実を採りに行こうて言われて…」

「おお、ほうかえ。たんと採ってきとくれよ」


 ウネの作ったような明るい声音に、千太は違和感を覚え、向かい合って座っている母の方をちらと伺った。考え事をしているかのように俯く母の眉間にはうっすらと皺が寄り、いつになく険しい顔をしている。母は、息子の探るような視線に気づくとわずかに目を上げ、はっとしたように目を歪めて笑みを作った。


「…行っておいで。はよう、はよう」


 母の言葉に追いたてられるように、千太は木の実を入れる籠を背負うと、静かに扉を閉める。が、その場から動かず、扉に身を寄せて聞き耳をたてた。

 母の笑顔がどうにも嘘くさく、胸が不穏にざわついていた。気配を消して耳をすますと、ふたりの小声が聞こえてきた。


「…藤六さ…………が……」


 くぐもってはいるが、かろうじて父の名前を耳が拾った。

 ふたりは、父について話しているのだ。


「……ゆき………ふ………もう………たべ……」


 雪? 雪がふると…なんだろう。他の言葉がどうしても聞き取れない。


 冬の間の父をどうするかについて話しているのだろうか? となると、ウネは、父の病のことを知っているということなのだろうか?


 必死で耳をそばだてているうちに、待ちくたびれた由良が家まで迎えに来てしまった。


 千太は、後ろ髪を引かれるようにして家から離れ、由良と連れ立って山へと向かった。


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