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夜叉ヶ池での祈り

 その翌年、川向こうの男に乞われ、エツは夫婦になった。十八のときである。


 夫に対してはなんの感情もなかった。ただ、足の悪いいわくつきの自分を娶る者など他にいないと思い、受けた。


 お互い身寄りのない者同士で、気楽なところはよかった。

 だが一年が過ぎ、二年が過ぎ、三年目の春がきても、子はできなかった。


 四年目の夏の初め。

 産卵を終えたマスの死骸が川面に揺蕩うのを見て、エツの中で、あの憧憬が再び震えた。


 その次の日から、エツは夜叉ヶ池へのお百度参りを始めたのだった。


 村はずれの夜叉ヶ池には、龍神が住まうと言われている。

 太古、この地に人が住む前からいた龍であり、封印されたその血が池の水になったという。

 村人らは祟りを恐れ、誰ひとり近づかない。


 だが、エツにとって龍神は唯一の守り神だった。

 幼いころ、恐ろしい目に遭ったとき、誰も助けてくれなかった。ただ夜叉ヶ池に逃げ隠れているうちに、災厄は去ったのだ。


「龍神様、どうか……おれにも子を授けてくだされ……」


 祈りながら歩く耳の奥では、石女、石女、と村人らの呪詛がこだまする。

 エツは前方の暗闇を睨みつけ、涙をにじませ、唇を噛んだ。

 屈辱にも似たやるせなさと焦燥が、右足の痛みをも打ち消し、体を前へ前へと推し進める。

 身体の深奥から赤々と焔が燃え立つようだった。その熱が、逆巻きながら、全身をかけめぐっていく。

 

「男でも女でもかまいませぬ。もしおれに子を授けてくだされば、この命に代えましても大事に育てますから、どうか……」


 唱え終えたとき、森が開け、池が姿を現した。

 墨汁を流し込んだような湖面が月光を照り返し、鏡のように輝いている。


 どんな旱魃の折にも枯れたことのない神秘の泉――夜叉ヶ池。

 その神々しい光景に、エツは息を飲み、手を合わす。


「龍神様、今宵もまた、エツが参りました」


 鹿杖(かせづえ)を支えに池へと進み、腰まで浸かって合掌する。

 円心状に広がったさざ波が、岸辺に触れて音もなく消えていった。

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