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祈りのかたち

 千太は、夕闇が迫った山の中を走っていた。

 耳の奥を、ざらついた自分の呼吸音が支配する。喉が焼け、肺が煮えたぎるようだった。

 思わず立ち止まり、体を曲げて必死で息を整えていると、


 ――…う…坊…坊よ、おぅい…


 微かに声が聞こえる。

 その方を振り返ると、背後の薄闇の一部が蠢いて、それが何かの塊になる。やがてはっきりとその細部が露わになると、千太は体中が巌のようにこわばり、恐怖から、足が地に縫い付けられたかのように動けなかった。

 こちらへと向かってくるその生き物は、人のように見える。頭髪は抜け落ち、手も足もなく、わずかにひじの上まで残った突起物のような腕を使い、這っている。張り出したろっ骨と地面がこすれ、乾いた嫌な音をたてながらそれは千太の間近までくると、血走った目でこちらを仰ぎ見た。

 千太は足がすくみ、目を逸らせなかった。これは、父の目だ。


 ――よう見とけよ、坊…これは、おまんのなれの果てじゃ…おまんの業じゃ…


 血のにじんだ歯ぐきの奥で、黒く変色した舌がくちゅくちゅとうごめいているのを見て、千太は正気を失ったように激しく首を振り、足をもつれさせながら逃げた。必死に、龍神の名を呼び、助けを乞いながら。


 ――どこへ行く、坊、どこへ行く…


 千太は、夜叉ヶ池へと死に物狂いで駆け、湖畔にひれ伏して龍神を呼んだ。


 ――無駄じゃ、坊。龍神様はおまんを助けてはおくれん。おまんの業は、もう、おまんの骨の芯まで沁みておる…


 声は水の底から泡のように立ち上がり、やがて耳の中に直接響いた。

 おそるおそる池を覗き込んだ千太の目に映ったのは――顔中が鱗に覆われた、誰とも知れぬ男だった。


 目を開けると、藁戸の隙間から、白んだ朝の光が差し込んでいた。だがその清らかさとは裏腹に、体中にじっとりと嫌な汗がまとわりついている。

 半身を擡げて、顎に溜まった汗を拭った。身体の奥から絞り出すようなため息をつくと、こめかみの部分が鈍く痛んだ。

 隣には、いつものように母が寝ている。父は…姿が見えないことに、千太はほっとする。


(夢や…ただの夢…)


 まだ、心の臓が波打っていた。夢なのに起きた後の残像が鮮明で、こうして自分に言い聞かせなければ、まだ夢の世界と地続きで繋がっている気がして恐ろしかった。


 千太は呼吸を落ち着かせるため、懐から小指の先ほどの白い石ころを取り出してしばらく見つめ、お守りのように握り締めた。それは、昨日魚を捕っているときに目に留まり、川底から拾い上げた石だった。つるりと光沢がある真白な石英で、由良が笑った時に見える八重歯に似ている。

 

 彼女のことを想うと、波だった心が凪いでいくから不思議だった。

 

 吊り橋の上で再会してから、由良はちょくちょく千太を訪ねてきて、いっしょにイワナを捕ったり、山でアケビを採ったりした。冬支度で忙しいのか最近は姿を見ないが、元気にしているだろうか。


「…なにを、見とるんや?」


 隣で、母が薄眼を開けてこちらを見上げている。


「…いんや、なんでも」


 千太は、小石を懐に戻して立ち上がり、土間に降りて甕から水をすくって飲んだ。


「龍神様んとこ、行くんかえ」


 掠れるような声が、水を飲み終えた千太の背中を押した。千太は、母に気づかれぬようにため息をつく。正直、毎朝夜叉ヶ池に参りに行くのが億劫になりつつあった。特にこうして冷え込んでくるようになると、その煩わしさは増す一方だった。家の中で布団に包まり、もう少しだけ横になれたらどんなにいいだろうか。しかし、母はそれを許してはくれない。こうして毎朝、千太が家を出るまで監視しているのだ。


「…ほんなら、行ってくる」


 千太は、母に背をむけたまま草鞋を履いた。家を出る時、ちらと母を振り返った千太は一瞬息が止まった。半身を起こしてこちらを見つめる母は、生気のない人形のようだったからだ。乱れた長い髪を骨ばった肩に垂らし、土気色の頬と、水底を思わせる暗い瞳が、千太を射抜いてくる。


 そんな母がこちらに向かって手を合わせ、拝んでいるのだ。


「…どうか、龍神様によろしゅう伝えておくれ。足の悪いおれに代わって、おまんがしっかりと祈ってきておくれ」


 千太は思わず目を逸らし、逃げるように家を出た。


 日に日に、母は痩せがひどくなっていくだけでなく、その心も蝕まれていっているようだった。千太が昼間猟などに出ている間に、ウネがエツを何度か訪ねてきたのを知っていたが、どうしたことか、ウネと話したその後の方が、母の塞ぎがひどくなる。何かあったのかと訊いても、母は答えてはくれない。なのに、漠然と自分の祈祷にすがってくる母に、千太は困惑するばかりだった。


(祈るって、なんなんじゃ。龍神様にすがっても、飯が増えるわけやない。ととさまの病が治るわけやない…)


 千太はもやもやとしたものを抱えながら、夜叉ヶ池への参道を登った。

 それでも、静謐な朝の夜叉ヶ池の姿は神々しく、池の畔に立つと、千太は心に溜まっていた滓が少しばかり洗われていくのを感じた。しゃがみこんで、恐る恐る、湖面に自分の姿を映す。そこに見慣れた自らの顔を見て、ほっと胸を撫でおろした。そしてまず、あの不吉な夢が杞憂であることを龍神に祈り、続いて、父と母のために祈った。


 祈りも終盤に差し掛かろうというときだった、背後に人の気配を感じて、千太ははじかれたように顔を上げた。そちらのほうを目視する前に、反射的に身を翻して湖畔の繁みに隠れると、数秒の後、参道の方から白山中宮の巫女・有馬が姿を現した。その後ろに付き従ってきた蒼白い細身の若い巫女は、何度か見かけたことはあった――確か、凪という名前であると記憶している。

 

 有馬は、村の中でも千太が最も苦手な人物のひとりだった。

 

千太が市庭へ物売りに行くために村を横切る度、白山中宮のお社の方から射るような目でこちらをねめつけている。そればかりか、時折川を渡ってきて、木陰からこちらを観察するようにじっと見ているときもある。その容貌もさることながら、何も言ってこないのが、かえって不気味だった。

 

 その有馬が、今、自分の目と鼻の先にいる。

 

 地面に引きずりそうなほど長い白髪を揺らしながら湖畔に立つや、有馬は微動だにせず空を見上げ、何かに耳をそばだてているようだった。それから、その切れ長の目がすっと細められたかと思うと、今しがたまで千太が祈っていた場所を見下ろした。


「…ここだけ、妙な形で草が折れとる」


 凪が有馬の横に膝をつき、そっとその部分に手を触れる。


「…まんだ、温うございます。私らの前に、だれか、おったんでしょうか」


 その言葉に、有馬は顔をあげ、ゆっくりと湖畔を眺めまわし始めた。

 千太は息を殺して、さらに身を低くした。あの目に射抜かれたら最後、もう生きてはここから帰れぬような気がした。

 だが、有馬に気を取られていた千太は、次の瞬間、彼女の後ろに立つ凪がまっすぐにこちらを見つめていることに気づき、思わず声を上げそうになった。

 鹿を連想させるような円らな黒目がちの瞳と、今、確かに目があった。


(…しまった、気取られた)


 千太は咄嗟に逃げようと腰を浮かせた、が、その時、凪がわずかに首を横に振った。そして、その真っ赤なおちょぼの口角をわずかに上げてみせた。


 なんとも不可解な、蠱惑的にすら感じる笑みだった。


「誰もおりませんね、有馬様」


 凪は視線だけこちらに向けたまま、仕向けるように有馬に話しかける。


「早くご祈祷をすませて帰りましょう。ここは長居せんほうがええですで」


 凪に促され、有馬はそれもそうだと探すのを諦め、祈祷の準備を命じた。

 凪は背負っていた籠のなかから首を折られた野兎の死骸を取り出すと、慣れた手つきで石をその胴回りに括り付ける。ふたりは、祈祷用に岸辺につながれている小舟で池の中心に漕ぎ出し、そこで野兎を投げ入れた。

 亡骸は、どぽん、と重たい音を立て、瞬く間に黒々とした池の水に吸い込まれていった。波はじきに消え、湖面は何事もなかったかのように再び凪いだ。


 その様子を、食い入るように眺めていた有馬の眼が、徐々に生きた何かを憑依させたかのように狂気じみたものへと変わっていった。

 舟を降り、岸辺に降り立つや、有馬は着物の襟がはだけるほどに、上体を反らせ、むせぶように祈りはじめた。

 飛び散る有馬の汗を浴びながら、凪は傍でじっと手を合わせている。


 祈祷が終わるとふたりはその場を後にしたが、去り際に、凪はちらとこちらを見て、さっきと同じ、謎めいた笑みを投げてよこした。


 千太は、その場にしゃがみ込んだまま、うつむいて動けなかった。

 心臓がどくどくと喉の奥で脈打ち、腹の底からこみ上げるものを、唇をかみしめて押しとどめた。

 見てはならぬものを見てしまった気がしてならなかった。夜叉ヶ池があの亡骸を食った――そんな妄想が根を張るように、頭から離れなかった

 それに、あの凪の微笑みは一体何だったのか。

 有馬様のお付きのくせに、なぜ――この禁忌の場所にいる自分を見逃したのだろうか…。

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