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橋の向こうに

 数日後、魚籠を抱えて、由良は吊り橋を渡り、坂道を登っていた。


 降るようだった蝉の声も、いくぶん鳴りを潜め、由良の麻の小袖にまだら模様を描く木漏れ日が、すでに初秋の濃い陽の色を帯びている。暑さは和らいだとはいえ、じっとりとした残暑がまだ漂っていた。


 しかし、由良が汗ばんでいるのは暑さのせいばかりではない。今、この魚籠を千太に届けに行こうとしている自分の行動が、不安でならなかったのだ。


 第一、この魚籠を手渡したところで、嫌がられはしないだろうか。あの日与一らと村へ帰った自分は、きっと彼らの仲間だと認識されているはずだろうから。それに、もし自分がまた川向こうへ行ったと母に知れたら、いや、母だけでなく他の村の子らに知れたら、いったいどんなふうに言われるだろうか。病がうつる? 本当にそうなのだろうか。村に災いをもたらす龍の子? あの屈託なく笑う千太が、本当にそんな恐ろしい存在なのだろうか。


 もつれあった感情が、自然と由良の足を止める。

 由良はそのまま、抱えた魚籠の中をしばらく見やっていた。

 木漏れ日が籠の中で跳ね、その光が網目の間をゆらゆらと気持ちよさそうに揺蕩っている。まるで千太とイワナを捕った日の川面に写る光の粒のように。


 由良は顔をあげる。目の前には、千太の家へと続く坂道が細く伸びている。これはウネの贖罪の道だ。


 ――悪うないかえ?


 あの晩のウネの問いかけが、今一度、由良の脳裏に響いた。あの時、その問いかけに対して否定できなかった自分の心を、由良はこの数日探っていた。けれども、まだ、答えは闇の中だった。


 由良は魚籠の中の光に励まされるように、また坂を上り始めた。願わくば、自分の目を曇らせた千太にまつわる種々の流言を払いたかった。初めて会った時の、彼に対して何も知らない無垢なまなざしを取り戻したいと思っていた。

 由良が今信じられるのは、この魚籠の中に溢れる光だけのような気がした。


 坂を上り終えると、千太の家が見えてきた。


 おそるおそる近づくが、人の気配がなかった。もしかしたら留守なのかもしれないと思うと、緊張が落胆へと変わり、由良は急に体の力が抜けていくのを感じた。

 藪の中にあるここらはひっそりと静まり返っている。

 竹藪が風にそよぐ音と、鳥のさえずり、耳元で飛ぶ虫の羽音が妙に長閑な雰囲気を醸していた。

 もってきた魚籠をそっと軒先に置いて去るべきか、もう少し待つべきか迷いながら、由良は千太の家をしげしげと眺めた。


 家というよりは、小屋に近い粗末な作りだった。掘立柱に板を横に並べて浅木で止めただけの壁に、屋根に張った板も長木と石で押さえただけのもので、由良の頑丈な藁葺きの家はおろか、下人百姓の家よりもずっと下等のものに見えた。

 家そのものだけでなく、立地もよくない。雑木と竹林に囲まれ、風通しも日当たりもあまり望めないだろうし、山を背負っているので地滑りでも起ころうものならひとたまりもないだろう。夏は虫が多そうだし、冬は大雪が降れば簡単に潰れてしまいそうだ。


 そんなことをはらはらとしながら思いめぐらしていると、家の裏手から、おせどで収穫したばかりのわずかな里芋を入れた籠を右手に抱え、左脇にはさんだ鹿杖にもたれながら、よちよちとエツがでてきた。


 由良と目が合うや、エツはわずかに呼吸を止めて身構えた。その緊張が伝わり、由良も一瞬、体を強張らせる。


「おまん、ウネさとこの?」


 由良は慌ててぺこりと頭を下げる。何と言っていいか分からず、顔を上げた後も口ごもっている由良をエツは、つと見つめてから、少し首を伸ばすようにして、背後の坂道の方に誰かを探すような視線を送った。


「…おまん、ひとりかえ? ウネさは?」

「あ…おばばさまは、今日、膝が痛むと言って、家におります」


 エツは何かを考えるようにして、また由良の顔をじっと見た。

 エツと対峙し、あらためて間近に見ると、その顔立ちの整いぶりに、由良は思わず息を呑んだ。しかし同時に、ひどくやつれた頬とうつろな目から漂う気配はどこか不気味で、背筋をすっと氷で撫でられたような感覚になった。


「ほれで…、なんか、用かえ?」


 エツに問いかけられて由良ははっとする。


「あっ、えぇと…これ、返しにきたんです。この間、千太の兄さとイワナ捕った時に借りたんやけど…」


 由良が抱えていた魚籠を恐る恐る差し出すと、エツは自らの右手に抱えていた籠をぞんざいに地面に放り置き、魚籠を受け取った。その目が、中に入っている笹に包まったものに怪訝そうに注がれる。


「それ、おばばさまと作った蕎麦の団子じゃ。よければ…」

「こんな上等なもんを、ええんか」エツは、すまなさそうに、しかし目をぎらぎらと輝かせながら、顔を上げる。「ようない(申し訳ない)ね」


「…いんえ」由良はどこか気まずそうにあたりをそっと見まわしてから、「あのぅ、今日、兄さはおいでんのですか?」


 と、意を決して尋ねた。


「ああ、あの子は…」


 エツは何と答えようか少し迷ったようにためらった挙句、


「…うん、おらん」


 とだけ答えた。ほうですか、と由良は落胆の色をエツに気取られぬよう細く息をついた。それを察してか否か、


「ほんでも、じきに帰ってくると思う。家ん中で待っとるかえ? むさくるしいとこやが」


 エツはその美しい瞳をちらと家の方へと流した。由良は少し迷ったが、そこまでするのはためらわれた。


「いんえ、おおきに。家の仕事もあるで、帰ります。兄さに、よろしゅう伝えてください」


 由良はまた深々と頭を下げて、その場を辞すため踵を返した、そのとき、

「おおきにな」と、背後からエツの謝辞が肩を叩いた。思わず振り返った由良に、エツは少しばかり目を細めた。


「わざわざ、返しにきとくれて、おおきに…。村の子から、おれらのこと色々聞いたやろうに」


 今までのエツとは違う声音だった。そこには仄かに、血が通った温かい響きがあった。同時に、隠しきれない卑屈な寂しさも。


 由良は戸惑い、針の先でちくりと刺されたように胸の奥が痛んだ。


「いんえ、礼なんか…」


 それ以上何と答えてよいか分からず、由良は黙して再度頭を下げ、その場を後にすることしかできなかった。

 坂道のところで背中に視線を感じて振り返ると、エツがその場に立ったまま、まだじっと由良の方を見ていた。由良は見て見ぬふりをして視線を逸らし、逃げるように坂を下った。

 

 吊り橋に近づき、川の水音が大きく聞こえてくるにつれ、先ほどの胸の痛みがじわりと広がっていった。

 一体自分は何がしたくてこの坂道を登って行ったのだろう。自分が魚籠を返したことが、エツにどうしてあんなに惨めな顔をさせたのだろう。

 結局、千太にも会うことができなかった。

 あの坂を登り、あの家を訪ねた自分は、何を求めていたのだろう。


 しょんぼりと項垂れて吊り橋を渡った。

 抱えていた魚籠もなくなり、空いた腕を持て余しながら橋を渡り終え、地面をぼんやり見ながら歩いていると、突然、その視界に誰かの足先が入り込んだ。

 

 はっと顔をあげると、そこには千太が立っていた。


「あ…」


 思わず声が出た。


 由良と目が合うと、千太は一瞬驚いたようにわずかに目を見開いたが、しかし次の瞬間その表情はたちまちに曇ってしまった。


 ふたりの間にしばし気まずい沈黙が垂れこめた。谷を流れる川の音と自らの心臓の鼓動の音が混ざり、由良の耳に大きく響いてくる。


「…この間」先に口火を切ったのは千太だった。「すまんかったな。川に置いてけぼりにして」


 謝罪の言葉とは裏腹に、どこか苛立ったような顔で、千太は伏し目がちになってそう言った。由良は首を横に振る。


「ううん、おれこそ、勝手に帰って…。おばばさまから、兄さが心配しとったと聞いたんよ。ようなかった」

「いや、おまんが謝ることでない。先に置いてったのは俺の方やし…」


 千太はぶっきらぼうに言うと、ちらと由良の方を見た。


「ほんで、俺ん家になんか用か」


 言いながら、やはりエツと同じく、千太もあたりを見回してウネの姿を探していた。


「おばばさまは、おいでん。今日は、おれひとりで来たんじゃ」


 怪訝そうな顔をする千太に、由良は、


「今日は、おばばさまの付き添いでも、連れてこられたんでもない。おれが来とうて、来たんじゃ」


 と、念押しするように付け加える。


「この間借りた魚籠を、返しにきたんよ」

「…ああ、あれか。別に、わざわざ返しに来んでもえかったのに…」

「どういて? 借りたもん返すのは、当たり前やろうが」


 いつになく声を荒げた由良の方を、千太は驚いて見やった。由良が目の淵を赤らめ、唇を震わせているのに気付いて、千太は動揺したように眉根を寄せ、


「どうかしたんか、いきなり…」


 由良は、熱くなった目と喉の奥に力を入れて、こみあげてくる涙を堪えていた。


「兄さ、おれな…、この間、与一らと帰らんかったらよかった。兄さから逃げるみたいにして、帰らんかったらよかった」


 千太は合点がいったというように、あぁ…と、生返事をする。


「色々聞いたんやろ、俺らのこと。まぁ、そういうことやで、ここへはもう来んほうがええ。おまんも、村の子らから爪はじきにされるでな」


 そう石を蹴飛ばすように言い、由良の横を通り過ぎて橋を渡ろうとする千太を、由良は思わず呼び止めた。

 振り返った千太に由良は正面から向き合って立った。そして、エツ譲りのその美しい目の奥を、まっすぐに見ようとした。

 瞳はその人の心を写す。

 初めて会った日、由良は千太の瞳を見て思ったのだ――もし心に形があるのならば、自分のそれは、この人と似ているような気がする。


「今日は、魚籠を返しにきただけやないんよ」


 由良は、思い切って言った。

 自分は決して、後ろ暗い感情に引っ張られて、この橋を渡りたくなかったから。


「兄さ、覚えとる? イワナ、手づかみで捕って競争しようって、おれら、前に約束したんな」


 日に焼けた頬にえくぼを刻み、川底の石英のように真っ白な八重歯をのぞかせて笑む由良を、千太はしばらく不思議そうに眺めていたが、まるで氷が溶けるようにして、強張っていたその表情が弛緩していった。


「うん、もちろん、覚えとる」


 そう答えた千太の笑った顔は、由良と初めて会った日のそれに還っていた。


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