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蜩の波

 ウネの隠居小屋は、すぐ裏手に竹林と雑木が入り乱れる山が迫っている。


 日が傾くと、そこから蜩の鳴き声がまるで大波のように押し寄せてくる。その波はたちまちにして小屋に覆いかぶさり、ウネを押し流そうとする。


 この耳障りな金切り声は、彼岸へと人を引きずっていく小鬼らの声か、それとも、引きずられていく魂の慟哭か――ウネにとっては、その双方を連想させた。


 自分の夫も、エツの母も叔父も、かつての想い人も…ウネの周りの人間は、いつもこの蜩の声に導かれるように彼岸へと逝ったのだった。


 蜩どもが鳴く頃になると、西の格子窓から床と水平に差し込んでくる陽の灯りを頼りに、ウネは紡錘車を回して糸を紡ぎはじめる。それは、とにかく単調な何かであればよかった。糸紡ぎでも、草鞋を編むでも、なんでもいい、とにかくひたすらに手を動かすことで、この煩い鳴き声から意識を逸らすことができれば。


「おばばさま」


 戸口が開き、紅い夕暮れの陽が小屋を染める。

 そこには、薄い布団を両手に抱えて由良が立っていた。

 布団を板間に置いた由良は、小屋の中に香る煮つけの匂いにいち早く気が付き、ほっとしたように顔を綻ばせた。


「イワナ…おおきに、おばばさま」


 ウネは由良の謝礼の意図を一瞬考えた後、気が付いたように、ああ、と生返事をして、糸を紡ぐ手を止め、勝手場へ向かった。


「…おまんのぶんも、取ってあるよ。お食べ」


 皿の上に乗った煮つけを由良はしばらく見つめてから、一口頬張り、ゆっくりと噛みしめた後に飲み込んだ。


「うんまい…」


 思わず口から声がでた。身がぎっしりと詰まったイワナは肉厚で、くさみもなく、いっしょに煮た山椒の実のさわやかな匂いといっしょに香ばしさが鼻腔を抜けていく。由良は夕餉の後にも関わらず一気に頬張ると、また、


「うんまいなぁ…!」


 と、感心するような声をあげた。そんな孫娘の様子を、糸を紡ぐ合間に、ウネは目尻に皺を寄せて愛おし気に眺めやる。あっという間にイワナを平らげてしまった由良の眼からは、しかし、今の今まで輝いていた光が失われ、俄に暗い影が宿った。


「こんなにうまいんやに、かかさまはどういて、捨ててこいなんて言ったんやろう。汚いやなんて…」


 空になった皿を見つめながら由良が自問するように呟くのを、ウネはあえて何も聞こえなかったふりをして糸を紡ぎ続けた。



 やがて、あたりを暗闇がすっかり包んでしまうと、ウネと由良は板間に布団を並べて横になった。

 けたたましく鳴いていた蜩どもはいつしか声を潜め、それが蛙たちの大合唱にとってかわった。

 仰向けになったまま、由良は、そっとウネの方へ顔を傾ける。


「…おばばさまは、昔っから、エツさと仲がええの?」


 由良は、青苧引きの作業をしながら、母にもう川向こうへは行かぬよう改めて念を押されたことを思い出していた。


「かかさまから聞いた、村でエツさと懇意にしとるのは、おばばさまだけやって。どういて、村のみんなから嫌がられとる人らと、仲良うするの?」


 由良の隣の暗闇から、衣擦れの音がした。ウネが、こちらに寝返りを打ったようだった。


「…それ訊いて、おまん、どうするんや? もう川向こうへは行かんし、関わらんのなら、知らんでもええことやろうが?」


 ウネの問いに、由良は一瞬言葉に詰まった。確かに、ウネの言うとおりなのだった。


「…でも、知りたいんや」


 しばらく後に、由良がぽそりと言った。


「おれな、かかさまや与一らから色々な話を聞きながら、なんでかしらん、胸が苦しゅうなってな…」


 闇の中に響く由良の声が、張り詰め、掠れている。


「次は、イワナ手づかみで捕ろうなって、どっちが多くとれるか勝負しよまいって、兄さと約束したんやに…おれ…もう、このまま会えんなんて、いやや…」


 ウネは由良の気配を注意深く観察するようにしてから、ふっと短い息をついて、仰向けになった。


「エツはの、わしが取り上げ女をやるようになって、はじめてひとりで取り上げた子なんよ」


 闇の向こうで、由良が静かに息を飲む。


「エツが生まれてきたのは、ちょうど今頃の、蜩どもがやかましゅう鳴きまくっとる時分やった。他の取り上げ女の姉さらは、他のお産と重なったり、風気をこじらせたりして、お産に立ちあえたのはわしひとりやったんよ。エツのかかさまはもともと体の線が細いお人やったが、やっぱり腰の骨もそうでな…。ひどい難産で…、なんとかしてエツは取り上げたが、代わりに、かかさまが命を落としてしまった」


 ウネの声が、掠れていた。


「仏さんのお乳に必死で吸い付いとるエツの姿が、なんとも不憫でな…。三十年以上もたつのに、まだ目の裏にこびりついとるわな…」


 ウネは、見上げた先の天井の暗がりの中に、その時の光景をありありと見つめていた。由良は何か言おうとしたが、胸の中が混濁して、なんと声をかけていいのか分からなかった。結局口を閉ざしたまま、由良もウネに倣って仰向けになり、その視線の先に、同じ光景を見ようとした。


「自分がもっとうまくやれとったら、エツのかかさまは死なずにすんだんかもしれん…あの時の自分の判断は間違っとったんかもしれん…そう思いだいたら、やりきれんくてな、毎日申し訳のうて、たまらんかった。ほれで、その罪滅ぼしというか…わしはエツの家へ通うようになったんよ。女手がおらんと、エツを養うのも大変やろうで。そんな中で、あの子のととさまと懇意になってな。わしを後妻に、と言ってくださったんじゃ」


「…え?」


 今度ばかりは由良も思わず声をあげ、ウネの方を振り返った。お産でエツの母親が亡くなったところまでのくだりは、由良もうっすらと母から伝え聞いていた。が、父親との話はまったくの初耳だった。


「まんだ十に満たん年の離れた弟もおいでたし、やっぱり女手がいると思いないたんやろうな。ほれに、ええ人でな…、わしも一緒におるうちに、惹かれてな…。後妻にと言ってくれたときは嬉しかった。エツもわしに懐いておったし、かかさまの代わりになってやりたいとも思ったんじゃ。ほんでも…、嫁ぐその前に、業を背負われておることが分かって…、あの人は、村を追われることになった…」


 ウネは、自分に背を向けて去っていくかつての想い人の姿を、暗がりに見つめていた。その惨めで寂し気な背が、耳殻に染み付いた蜩の声とともに、闇の奥へと溶けて消えた。


「おばばさま…」


「去り際に、残される弟と娘をどうかと頼まれたけんども、わしは結局あの家に入らなんだ。あの人のおらんあの家に入るのは…何より、業を出したという家に入るのは…おそごうて、できなんだ。村の者から爪はじきにされて、ひとりぽっちであの人の子らの女親だけやっとるのは、どういても、わしには無理やと、ひるんでまっての…」


 由良は喉の奥がぎゅっと締め付けられたようになった。村で別の者に嫁いでからも、律義な祖母は足繁くエツの家へと通っていただろう。しかし、家に入り、自分の子が出来た後に、それまでと同じように他の家の世話までこなすことが果たしてできただろうか。


「あの子らを…捨てたも同然のことを、してまったんや、わしは」


 呻くような呟きの方へ、由良ははじかれたように体を向ける。


「おばばさまは、悪うない」

「…………悪うないかえ?」

「……………」


 うん、悪うない。そう強く言ってあげたかった。けれども、由良はそう言いきることができなかった。若かったウネは、自分の幸せを考えて決断をしたのだ。それは決して間違っていたとは言えない。が、その代償としてエツ達から逃げたことを、祖母が今もずっと悔い続けているのも分かるような気がした。


 村の者から後ろ指をさされながらもウネが川向こうへと通い続けるのは、その罪滅ぼしということもあるだろうが、なにより、エツの母親になってやりたかったという未練も、確かにあるのではなかろうか。

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