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魚籠の中に残るもの

 ウネが家へ帰ると、母屋の前で息子嫁の雪が立っていた。


 臨月に差し掛かった腹は、小柄な雪を飲み込んでしまいそうなほどに大きく膨れている。雪はウネの姿を認めるや、その腹を抱えるようにして歩いてくると、浮腫んだ顔に怒りをにじませ、姑を睨み据えた。


「かかさま、どういうつもりやえ」

「なにがじゃ」

「由良の連れから聞いたんや。今日、あの子を川向こうのエツんとこに連れてかっしたらしいでないの」

「…うん。倅の千太と同じ年頃やでの、いっしょに遊んだらええと思って」

「なにを、たわけたこと…!」


 雪は、ウネの言葉を遮るようにぴしゃりと言った。


「かかさまが、あの女と懇意にしておいでるのは、おれももう何も言わん。どんなに村のもんから後ろ指刺されようが、付き合いをやめなんだ人に、今さら何を言っても無駄やと分かっとりますで。ほんでも、由良を巻き込んでもらっては困る。なんも知らんあの子を連れていって、どうするおつもりやったんかえ? かかさまのことを村のもんはなんと言うても、迷惑が被るのはうちのもんなんや。由良まで同じ目で見られたら、どうするおつもりなんかえ…!」


 雪に小言を言われるのはこれが初めてではない。ウネはしかし、こういうときには口答えはしないようにしている。したとしても、余計に雪の機嫌を損ね、罵詈雑言を畳みかけられるだけだと分かっているからだ。ぐっとこらえて雪を静かに見返すと、


「すまなんだな、ちと、お産の帰りに寄ることにしたもんで、いっしょに連れてったんじゃ。もう、連れていくのはやめるでの」


 姑に下手に出られると、さすがの雪もそれ以上はなにも言ってはこない。切れ長の一重をさらに鋭くして、念を押すように、

「約束やでの」

 と言い添えた。

「ところで、由良は? わしより先に帰ったはずやが」

「…かかさまの隠居小屋におるわ」

「…なんかあったんかえ?」

「たいしたことでない。あの子、エツの倅とイワナ捕りをした言うて、魚籠いっぱいのイワナを持ってきたんやが。食えたもんでないがな、あの倅が捕った魚なんて。そう言ったら、なんか知らんが急に泣き出いて、小屋に引きこもっとる」


 ウネは目を細めて、母屋の裏手の土手を少しばかり上がったところにある隠居小屋を眺めやった。


 そちらの方へと向かうウネの背中に、雪がまた声をかける。


「そろそろ、青苧引きをはじめるでの。由良にいいかげん手伝いに来いと伝えて、母屋のほうに寄こいとくれ」


 ウネは黙ったまま土手に据えられた薪の階段をあがり、小屋の戸を開けた。

 すーっと光が中の土間に伸びる。川魚の生臭い匂いが鼻をつく。奥の方の板間に腰掛けるようにして、由良は魚籠を抱え込みすすり泣いていた。

 ウネがそっと隣に腰掛けると、由良はちらとこちらに目をあげる。


「これまた、たんと捕ったのうし」

 由良が抱える魚籠の中を覗き込んで、ウネは明るい声をあげた。

「…かかさまが、捨てて来いって言いないて」

「ほうかえ。ほれなら、この魚、わしが貰ってもええか?」

 由良は鳴き腫らした顔をあげて、頷くと、ウネの方に魚籠を差し出す。

「うまそうやなぁ、煮つけにでもしようかなぁ」

 そう言いながら、ウネは魚籠を勝手場の机において、また由良に向き直った。板間に腰掛けたまま、由良はまだ俯いて浮かない顔をしている。その目の淵に、再び涙が滲み始める。


「由良や」

 ウネはまた由良の隣に腰掛け、背中をぽんぽんと叩いてやった。

「…千太の兄さのこと、与一と喜助から聞いた」

「…ほうか」

「おれ、おそごうなって、与一らといっしょに村まで戻ってきたんじゃ。逃げるみたいにして」

「…うん」

「ほんでもなんか、兄さに悪い事した気がする。あんとき、与一らといっしょに帰らんければよかった…」

「なんでそう思うんや?」

「…よう、分からん。おれな、兄さといっしょに遊んで、楽しかったんよ。ええ人やった。でも、色んな噂聞いておそごうなって…よう、分からん。ほんでも、おれが逃げたことで、兄さを傷つけたような気がする」

 ウネはしばし目を伏せて黙っていた。

「千太も、おまんを川に置いてけぼりにしたこと、悔いとった。慌てて迎えにいったけんど、もうおまんはおらなんだと、しょんぼりして帰ってきた」

「え…?」

「連れといっしょに帰ったんやろうで心配するなと言ってきたよ、どうもない。わしも、悪かった、安易な気持ちでおまんを川向こうに連れて行って。おまんのかかさまから、今しがた叱れたところや」


 由良は息をひそめるようにウネの横顔を見据えていた。何かを訊こうと、口を開いた、そのとき、小屋の外から雪の怒号が聞こえる。青苧引きをするから早く来いと言うのだ。麻布の原料となるからむしを水に漬けおき、皮の部分を引き剥がす青苧引きは、この時期の女たちの重要な仕事だった。


「…おばばさま、おれ、行かんと」

「うん。わしも、イワナを捌いたらすぐに行くでの。お雪にはそう言っとくれ」

「わかった…あの、おばばさま、今夜、ここに布団敷いて寝てもええ?」


 立ち上がりこちらを見下ろす由良のまなざしに、どこか切実なものを見て、ウネは頷いた。

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