魚籠の中の夏
千太は竹やりと魚籠ふたつを手に持つと、渓流へと続く竹藪の道を下った。
いつもは駆け降りていくこの道も、今日は後ろの由良に配慮し、ゆっくりと歩いていく。勾配はかなりのもので、時折振り返って、由良がちゃんと着いてきているかを確かめた。その度に、由良は大きな目をきらきらとさせて、息を弾ませながら、
「兄さ、いつもここで魚を捕っておいでるの?」
だの、
「手づかみで捕ったことある? おれな、この間イワナをたんと捕ったんよ、村の子らのなかで一番やったんよ」
だの、屈託なく話しかけてくる。
生まれてこの方、同世代の子供と話すのはたまにやってくる蝉丸くらいで、村の子供などは、意地悪をしてくる輩しか知らなかったから、にこにこと話しかけられても千太はなんと返したらよいか分からず、戸惑ってしまった。
適当に、「うん」とか「ふうん」とか「へえ」とか返しているうちに、渓流へとたどり着いた。
千太に続いて由良も、小袖の裾を尻っぱしょりにして、じゃぶじゃぶと川へと入っていく。最近は雨が少なかったせいもあってか、川嵩がいつもより低く、くるぶしのちょうど中間までの深さしかない。
「おまんの分の槍がないもんで、すまんけど、魚がおりそうなところの石をどけとくれんか。出てきたやつを、俺が仕留める」
「はい!」と歯切れよく返事をして、由良は魚が隠れていそうな岩に目途をつけると、中腰になり、そっと岩を掴んでめくった。
銀色のうろこが陽光を反射させ、鋭い光を放つ。その魚は、目にもとまらぬ速さで身をくねらせて泳いでいった。由良があっと声をあげて顔をあげると、今しがた水面下に見た魚が、今や槍の先に刺さっている。
仕留めたイワナを腰に結わえた魚籠の中に入れる千太に向かって、由良は歓声を上げた。
「兄さ、上手いもんやねぇ!」
言われたほうの千太はきょとんとしている。
「ほうかえ? いつも通り捕っとるだけやが」
それから二人は協力して、一刻の間に二十匹ものイワナを捕った。
川岸の岩場にあがり、魚籠にいっぱいになったイワナを覗き込んで、由良はまた大きな目をくるくるとさせて歓声を上げた。
「どえらいなぁ、兄さ、魚捕りの名人じゃ」
「いんや、いつもはこんに捕れんよ。今日はおまんが手伝っとくれたおかげや」
「ただ、岩どかいただけやけど?」
「うん、でもちゃんと魚がおるとこを分かってどかいてくれたもんでや」
言いながら、千太はせっせとふたつの魚籠にイワナを分け入れ、片方の魚籠を由良の方へと差し出した。
「はい、これ、おまんの取り分な」
由良はえっと声をあげた。
「ええの?」
「いっしょに捕ったんや、あたりまえやろ。魚籠ごと持って帰れ」
「おおきに、楽しかったねぇ」
由良は後生大事そうに魚籠を抱える。
「今度、この魚籠返しにくるわ。そんとき、また魚捕ろまい。今度は手づかみで、どっちがたんと捕れるか、勝負しよ」
由良はよほど手づかみ捕りに自信があるらしい。千太は思わず声をあげて笑った。
「はは、ええよ。望むところじゃ」
「言うたな、兄さ。忘れたらいかんよ」
由良もえくぼを作って笑う。白い八重歯が、日焼けした肌に冴えていた。
そのとき、川の対岸から、複数人の子供の声がした。見ると、村の子供たちが二人連れ立って、下流の方からやってくる。彼らは目ざとく、千太と由良の存在に気づいて、あっと声をあげて立ち止まる。
「おぅい、おまん、由良やないかえ」
ひとりの少年がそう声をあげると、由良も呼応して、
「おぅい、おぅい! ほうじゃ」
と、大きく手を振った。
「兄さ、あれ、喜助と与一。おれの友達じゃ」
千太の方を振り返った由良は、手を振りかけたまま、動きを止めた。見やった先の千太が、キュッと眉根をよせ、唇を引き結んでうつむいているのを見て、由良の顔から笑みが溶けていく。
唖然としている由良に、また対岸から言葉が飛んでくる。
「由良、おまん、その隣におるの、誰か知っとるんかぁ?」
「川向こうの千太じゃ。そいつのととは、夜叉ヶ池の龍神やいうぞ。かかが毎晩池にアレしに通って、孕んだ子じゃ」
与一と喜助は、キャッキャと無邪気な声をあげて笑った。
「由良、はよ離れた方がええぞ! そうでのうても、業の家の子じゃ、近寄ると、病が移るぞぉ!」
由良は理解が追い付かず、対岸のふたりのほうをぽかんと眺めていた。そのとき、千太が勢いよく立ち上がる。
「その魚籠、おまんにやる。返しに来んでええでな」
それだけ言い放つと、千太は自分の竹やりと魚籠を持って、竹藪の中へと這入っていってしまった。ひしめいた竹の間から、与一たちの笑い声が追いかけてきた。そこから逃れるために、千太は徐々に足を速め、途中からはほとんど駆け上がっていた。
屈辱感と、恥ずかしさと、敗北感と、押し寄せてくるそれらない交ぜになった感情を振り切るように、千太は駆けた。登り切った時には、体中を炎が駆けずり回るように熱く、胸が早鐘を打っていた。
息を整えてから家に戻り、戸口の筵を上げると、ちょうど出て行こうとするウネと鉢合わせた。ウネの肩越しに、板間にぺたんと座り込み、項垂れている母が見える。
「ああ、おかえり」
ウネが、千太にほほ笑みかける。そのえくぼを見るや、千太は由良のことを思い出し、しまったと思った。
「おばばさま、すんません、俺…由良を置いてきてまった」
取り乱す千太に、ウネは少し首を傾げ、
「ああ、ほうかえ。あの子はどうもない、自分ひとりでも帰れるやろうで」
「ほんでも…俺、見てきますで」
慌ててきた道を戻り、川辺に降り立ったが、由良は忽然といなくなっていた。岩の上には、魚籠から滴った水たまりだけが残されていた。千太はしばらくあたりを探し回ったが、由良の姿は見当たらず、そのままとぼとぼと家へ引き返した。
「あの子の連れが来とったんなら、きっといっしょに帰ったんじゃ。ちいちゃい子供でもなし、心配せんでええ」
ウネは能天気にそう答えて、また来ると一言、坂を下って村へと帰って行った。
「また、村の連中が来とったんか」
ウネを見送って帰ってきた千太に、板間からエツが声をかける。
「なんも、されなんだか?」
「…うん。別に」
千太は、捕ってきたイワナを魚籠ごと勝手場の机に置きながら、ぽつりと答える。
「あんな、屑で、糞より劣る虫ども、相手にならん」
藤六の顔が目に浮かぶ。こうやって罵ると、まるで自分がやつらより優位にたった気がして、一時は気分が晴れた。が、次の瞬間には虚しさと悔しさが波のように押し寄せてきた。こうして隠れて陰気くさく悪態をつくことしかできない自分に、どうしようもない苛立ちを覚えた。
次の瞬間、千太は、うなじのあたりに板間からの鋭い視線を感じた。いきなり村の連中を口汚く罵倒しだした千太を、エツが訝し気に見つめているのだ。
「おまん、まさか、かっとなって、そいつらに何もせなんだやろうな」
いつもこうやって母は探りを入れてくる。村の者はこわいぞ、逆らったら何をされるか分からん、と言い添えて。なるべく関わらず、息を潜めて生きること、それが鉄則なのだと耳がタコになるくらい言い含められてきた。
実際、千太も村の連中が嫌いだった。特に子供が嫌だった。市へ行くときに村の往来を通れば石を投げつけてくるし、事あるごとに川を渡ってからかいにやってくる下衆な連中だ。
千太はそこまで考えて、ふと、干物にするためにイワナを捌く手を止め、まな板の上に飛び出した腸をじっと見据えた。いつも見ているその腸が何か異様なものに思えてきて、一瞬、捌き方を間違えたのかと思った。
目線を上げると、まな板の向こうに置いた魚籠越しに、真白な八重歯をのぞかせて笑う由良の顔が浮かんだ。千太が見知っている連中とは、まるで違っていたけれども、あの子も、確かにその連中のひとりなのだ。千太は不思議なかんじがした。「楽しかったねぇ」と彼女は言った。確かに、楽しかった。いつも黙々とひとりで行っている作業が、こんなにも楽しいものだったなんて。
自分は確かにあの時、〈遊んで〉いたのだ。村の子といっしょに…。
(いんや、ほんでも、これが最後やわ)
しかし次の瞬間、千太は自嘲気味になる。由良がああして笑いかけてくれたのも、自分に関する何の情報もなく、偏見がなかったからにすぎない。与一と喜助の登場で、すべてが露呈してしまったのだ。龍の子、業の子、そんなふうに言われている自分のところに、彼女は二度と現れまい。川に探しに行ったとき、既に村の連中と帰ってしまっていたのが、その証拠だった。
帰る道すがら、喜助と与一から、散々自分の噂を吹き込まれている由良を想像すると、千太は息が苦しくなった。それを紛らわすために、ただただ、イワナを捌くことに集中した。
干物にする分を捌き切って、後ろを振り返ると、まだ母はさきほどの場所に座り込んだままでいた。その目は虚ろで、西にひとつだけ穿たれた格子窓をすり抜けてきて床にできた陽だまりの部分を、じっと見つめていた。その様子に、千太は空恐ろしいものを感じる。
「…ウネさと、何を話しとったの?」
千太が問いかけると、エツは目だけを上げて千太を見、なんでもない、というように首を振って、弱弱しく笑ったのだった。




