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ひと鳴き

 あれから、三度目の夏が過ぎようとしていた。


 夜明けとともに起きた千太は、まだ薄暗い小屋の中を見回す。


 千太のすぐ隣では、こちらに背を向ける形で、母のエツが横になり、深い寝息を立てていた。その隣の布団は、すでにもぬけの空だった。父は、千太が起きるより早くに、もう家を出たようだった。


 突然、土間の方から、鉄を爪で掻いたような音が大音量で部屋に響いた。何事かと千太は身を竦めたが、次の瞬間にはぴたりと音は止んでしまった。おそるおそる土間をのぞくと、そこには蝉の死骸がいっぴき転がっていた。

 土間へ降り、そっとそれを拾い上げて掌に載せ、じっと眺めていると、背後の板間で衣擦れの音がした。


「なんの音やえ?」


 エツが、眠た眼をこすりながら、半身を擡げている。


「蝉や。蝉が死ぬ間際に、ひと無きしたんや」


「ああ…ほうか。やっとこさ、夏も終わるの」

 と言いながら、エツは汗ばんだ額を寝間着の袖で拭う。今年の夏は、暑さがだらだらと続き、長く苦しいものだった。


「…ととさまは、もう行きないたか」


 隣に藤六のいないのを確認したエツが、安堵したように肩を落とす。ことあるごとに父を疎む母のそういう微細な所作や表情のひとつひとつが、刃の先でつつくように、千太の心に傷をつけた。


「坊、今から、龍神様にお参りに行くんかえ」

「うん」

「最近いつも戻りが遅いが、まさかととさまのとこに寄り道しとるんでなかろうな」


 千太はしばらく黙っていた。掌の上の蝉の死骸を、大切に袖袂の膨らみに入れると、


「ちと、様子を見に行っとるだけじゃ」


 言い訳をするように告げた。


「最近、前の晩に炊いた稗の残りがなくなっとるが、おまん、まさか、ととさまのところに持っていっとるんか」


 千太はいんや、と首を振る。


「すまん、腹が減って、朝のうちに、俺が食ってまったんじゃ」


 とっさに、出まかせが口をついだ。

 エツが前の晩の稗飯を少し取って握り飯をこさえ、千太に食わせるために竈の裏に隠していることを知っている。それを食ったのが千太であれば、文句は言われまいと思ったのだ。

 しかし、息子の拙い嘘を見抜かない母ではなかった。


「千太、渡せ」と手を差し出す。「懐に入れとるんやろ、分かっとる」


 エツの剣幕に圧される形で、千太は懐から握り飯を出してエツに手渡した。黙って母に従った自分自身に対し忸怩たる思いがした。立ちすくんでいる千太をエツは睨み据えて、


「これは、おまんが食わねばならん飯や。もう決してととさまに持っていってはならん、ええな」


 千太は頷くが早いか、ぱっとエツに背を向けて、そのまま家を飛び出していった。坂道を下りながら、情けなくて涙が出た。

 病の兆候が顔や手の皮膚に出始めた藤六は、いよいよ家にはいられなくなった。日の出とともに、藤六は人目から隠れるように家の裏にある烏帽子山の洞に行き、夜になるとこっそりと家に戻って来て、冷えた飯をひとりで食う。食い終わると、月明かりの下で、エツと千太が体液で汚れた包帯を取り換え、体を拭ってやったが、月が出ていないときにはそういった手当もできなかった。


 日中の働き手が減った分、家計はますます火の車だった。エツは足が悪く野良が十分にできぬため、藁や藤の蔓で籠などを作って、それを千太が月に一度市で売ってわずかな銭を得た。千太は沢で魚を獲り、藤六の分まで畑を耕したが、少年の細い腕では、満足なものは得られなかった。


(俺に、もっと力があれば…)


 千太は、唇を噛みしめて歩き続ける。


 先ほどは鬼のように見えた母も、日に日にやつれていくのだった。


 エツは藤六の飯を、自分の分を削って捻出した。千太がいくら自分の分もと希望しても、断固として、彼の食事から割くことは許さなかった。


 雑穀が椀の底に沈んでいるだけの冷めた重湯をすすりながら、藤六は時折狂暴になった。腹が満たされない赤ん坊が喚き散らすように、四肢を振り回して暴れ、椀をエツや千太に向かって投げつけるのだ。そういった時、千太は父に対して腹の内から憎しみが湧き上がってくるのを感じたが、その暗い感情は次の瞬間水をかけられた熾火のように消えてしまった。自分には重湯しか出さず、その裏で息子に食わせているエツに藤六が腹を立てるのも理解できたからだ。同時に、朽ちていく藤六とは対照的に、日に日にたくましい若者へと成長していく息子に対しても。


(せめてもう少し、みんなに食わせてやれるだけの力があれば…)


 夜叉ヶ池に着いた千太は、御池のほとりでひれ伏し、龍神に祈りを捧げた。


 物心つく頃から、自分を授けてくれた龍神様に感謝の祈りを捧げることを欠かさぬようにと、エツに口酸っぱく言われて育ってきた。その結果、今や千太の足は、起床と同時にほぼ機械的に夜叉ヶ池に向かうようになっている。しかし最近は、どうしても、その感謝の祈りというのができない。

 やせ衰えていく両親を見ながら、まるで自分が彼らに寄生し、その養分を吸ってぶくぶくと肥え育っていく虫のように思えてならなかった。


「龍神様、どういて、俺をかかさまにお授けになったんですか…」


 ぽつり呟くと、千太は袖の袂から蝉の死骸を取り出し、湖畔にそっと埋めたのだった。

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