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夜叉ヶ池の子  作者: 七泉
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祈る女

 満月の光が地表に降る。


 エツの目の前には、風雨に晒されてささくれだった簡素な鳥居が、鎮守の森を背に青白く浮かび上がっている。振り返ると、粉雪が積もったような白銀色の畦道が、棚田の間をくねりながら、闇の奥へと溶けていた。

 不自由な右足を引きずりながら半刻あまり歩き通してきたエツの額からは汗が吹き出し、頬を滑り、形のよい顎から滴って、足元の礫の上に、ぼたり、という鈍い音をたてて染みを作った。


 静かだ。風もない。


 この世の一切が、月の強烈な光のもとに晒されることを恐れて、息をひそめているようだ。

 エツは再び鳥居に向き直り、手を合わせて白い息をひとつ吐き、深々と頭を下げた。


「どうか………」


 喉の奥から搾るように漏れ出た声が、その静寂を裂き、冷えかたまった空気を震わせた。

 半身をもたげると、エツは左の脇に鹿杖(かせづえ)を抱えなおし、疼く足を引きずるようにして鳥居をくぐった。

 

 人の手が入らない鎮守の森は、雑木が覆い茂っている。その間を縫って差し込む月光がまだら模様を描く地面は、堆積した落葉が腐ってぬかるみ、歩を進めるたびに、それらがねばい音をたてて足に重くまとわりついた。


 神無月も終わりにさしかかり、あたりの空気は初雪の便りを待つばかりと凍てついている。


 ちょうど、こんな晩秋の寒々しい日だった、とエツは歩きながら回想する。

 あれはたしか、集落から川へと下る途中のこと。軒先で赤ん坊に乳をくれている女に偶然目が留まった。

 その光景に、吸い込まれるように足を止めた。

 うつむいている女の穏やかな顔。その目線の先で、乳に吸い付く赤ん坊は薄目を開けていた。うっとりとした、恍惚とした表情で、紅葉のようなちいちゃな手で必死に乳房を掴んでいる。夢中で乳を吸うその額からは、珠のような汗が噴き出していた。

 たらふく乳を飲んだ赤ん坊は、そのまま満足げに目を閉じ、乳首を咥えたまま、深い寝息を立てはじめた。


 それはなんてことのない、ごく日常の風景に違いなかった。

 しかし、エツは鈍器で殴られたような衝撃を受け、その場で呆然と立ち尽くした。

 

 これが母親というものか。

 

 己が乳房ひとつで赤ん坊に生きる糧と、あのような安らいだ表情をもたらす存在。

 赤ん坊にとって唯一無二の存在。


 これが、母親というものなのか。

 

 エツの心は、憧憬でさざ波立った。

 自分も、そのような存在になってみたいと思った。なんの見返りもなく愛し愛される存在が、なんとしてでも欲しいと思った。


 その翌年、川向こうに住む男に乞われて夫婦になった。エツが十八のときだ。夫に対してはなんの感情もなかった。ただ、足の悪いいわくつきの自分と夫婦になろうという者は今後ないだろうと思い、受けた。

 お互い身寄りのない者同士で、気楽なところはよかった。が、夫婦となって一年が過ぎ、二年が過ぎ、三年目の春がきても、子ができない。

 四年目の夏の初めのこと、産卵を終えて死んだマスの死骸が川面に揺蕩っているのを見た。命を絞り出した後の、燃え尽き、腐りかけた死骸を眺めながら、あのときの憧憬が、再び自分の中で震えるのを感じた。

 その次の日から、エツは夜叉ヶ池へのお百度参りを始めたのだった。

 

 村はずれにひっそりとある夜叉ヶ池には龍神が住まうと言われている。その神は、太古の昔よりこの地に住んでいた龍だったという。人々がこの地に住むために、龍は封印され、その時に流した血が、池の水になったとも聞く。

 村人らは、祟りを畏れてこの池には決して近寄らないが、エツは幼い頃より、この龍神を信仰していた。エツが恐ろしい目に遭ったとき、周りの人間は、誰も助けてはくれなかった。ただただ、この夜叉ヶ池に逃げて隠れているうちに、災厄は去って行った。

 村人らには祟り神でも、エツにとっては唯一の守り神だった。


「龍神様、どうか、どうか…、おれにも子を授けてくだされ…」


 参道を一心不乱に歩きながら、祈りの文句が無意識に口から洩れる。

 エツの耳の奥では、石女、石女、と自分を揶揄する村人らの呪詛のような言葉がこだましていた。笑ったのは誰だったか、もう覚えてはいない。ただその声だけが、彼女の胸を今も焼く。

 村の女たちは皆、犬のように次から次へと子を生み落としているのに、なぜこんなにも渇望している自分のところへは来てくれないのか。

 エツは前方の暗闇を睨みつけ、涙をにじませ、唇を噛んだ。

 屈辱にも似たやるせなさと焦燥が、右足の痛みをも打ち消し、体を前へ前へと推し進める。身体の深奥から赤々と焔が燃え立つようだった。その熱が、逆巻きながら、全身をかけめぐっていく。


「男でも、女でもかまいませぬ。もし、おれに子を授けておくれないたら、この命に代えましても、大事に、大事に、育てますから、どうか…」


 そう唱え終えたとき、目の前の雑木林が突然開け、行く手に大きな池が姿を見せた。墨汁を流し込んだような湖面には月光が惜しみなく注がれ、まるで鏡のように照り輝いている。


 どんな大旱魃の折にも決して枯れたことのない神秘の泉、夜叉ヶ池。


 その神々しい様子に、エツは思わず息を飲み、手を合わす。


「龍神様、今宵もまた、エツが参りました」


 エツは鹿杖(かせづえ)に寄りかかりながらそっと小袖のたもとを引き上げて、御池の中に腰まで浸かって再び合掌した。

 身体から円心状に微かなさざ波が広がり、岸辺に触れて、音もなく消えていく。

 高揚し熱を帯びた身体は、水の冷たさなど微塵も感じなかった。


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