今すぐ逃げ出したい
何か嫌なことでもあったのかと思ってアリシアさんの顔を見やるが、彼女の視線は俺ではなくその背後に注がれていることに気付く。
一体何だろうと思って後ろを振り返ると、見たこともない真っ赤な馬車が冒険者ギルドの前で止まっているのが見えた。
「……何だろう」
見るからに金持ちが乗っていそうな馬車の登場に訝しんでいると、入口の扉が乱暴に開けられる。
「おい、ウォルターはいるか!?」
開口一番、大声を上げて入って来たのは、馬車と同じ真っ赤な上等そうなガウンを身に付けたまん丸に太った禿頭の中年男性だった。
「お前たち早くしろ。グリード様が来たとあのハゲに伝えろ!」
自分も十分ハゲ散らかしていると思うのだが、グリードと名乗った男が大声を上げると、ギルド職員たちが泡を食ったようにバタバタと走り出す。
ファルコとは別のベクトルで嫌な奴だと思っていると、服の袖が控え目に引かれる。
「あの、ハジメさん……もう行きませんか?」
「えっ?」
「お仕事あるんですよね? それにラック君やプルルちゃんも待っていると思いますし」
「あっ、うん……」
思うところはあるが、アリシアさんが一刻も早く立ち去りたそうにしているので、彼女の気持ちを汲むことにする。
俺はテーブルにランチ代を置くと、アリシアさんがグリードから隠れるように立ってコソコソと外へと向かう。
「あ、ありがとうございます……」
背中から聞こえる小さな声に「気にしていない」と手振りで応えつつ、出口へと向かう。
すると、
「ん? 何だお前は……見ない顔だな」
このまま何事もなく出て行きたかったのか、グリードのでっぷりとした体が思ったより俊敏な動きでこちらに向く。
「こんな時間に冒険者ギルドにいるとはどんな身分の……っておや?」
しかも最悪なことに、俺の背中に隠れているアリシアさんに気付く。
「お前、オリガのところの孫じゃないか」
「ど、どうも……グリード様。ごきげんよう……」
「フン、相変わらず愛想のない奴だな。そういうところはババアそっくりだな」
「――っ!?」
グリードの嘲笑するような視線と言葉に、アリシアさんはビクリと体を震わせてさらに俺の背中に隠れる。
いつもの明るく、元気に笑うアリシアさんの態度とは全く違う姿に、俺はどうして彼女が早く出ようといったのかを察する。
言うまでもなく、このグリードに絡まれるのが嫌だったのだろう。
俺がアリシアさんの立場だったら無遠慮に注がれるねちっこい視線と、息を吐くように紡がれる嫌みに委縮してしまうだろう。
前にいる俺のことなど眼中にないのか、グリードは二重あごを擦りながらアリシアさんに向けて一方的に話す。
「まあいい、後でババアのところにも使いを出すから、今月分の利息を用意しとけと伝えておけ」
「利息……」
「ん? 何だ。知らないのか?」
俺の呟きに、グリードの小さな瞳がようやく俺の方に向く。
「この街の三役、エカテリーナ、ウォルター、オリガは揃って俺に借金をしてるんだよ。尤も、返す当てなどなくて利息を払うだけで精一杯のようだがな」
「ち、違います!」
グリードの言葉に異論があるのか、俺の背中から悲痛な叫び声が上がる。
「あの借金は、全てパーン様が作ったものです!」
「確かにそうだが、あの御子様がいなくなって払うといったのはお前たちだろう?」
「そ、それは、払わないと街を焼いて、皆を奴隷にするって……」
「当然だろう、金のない奴に生きる価値など無い。まだ街の者には知らせていないようだが、期限までに完済できなければお前等は揃って終わりだ。それとも……」
グリードはボンレスハムのような太い腕を伸ばして、アリシアさんの顔を掴む。
「お前のその貧相な体で稼ぐか? 少しは足しになるかもしれんぞ? 何、程よく稼げて気持ちよくなれる店を紹介してやるぞ、ん?」
「い、いや、触らないで! あっ……」
反射的にグリードの手を払いのけるアリシアさんだったが、その顔がみるみる青くなっていく。
アリシアさんの顔色に相反するように、グリードの顔がみるみる赤くなっていく。
「お前……この俺に暴力を振るったな?」
「あっ、いや、その……」
「俺に暴力を振るってタダで済むと……」
「あの、ちょっといいですか?」
流石にこれ以上は見ていられないと、俺はグリードのアリシアさんの間に割って入る。
「お怪我をしたのでしたら、いいものがありますよ?」
「ああん? だからお前は何だ?」
「私は異世界からやって来た一といいます。この街で錬金術師をやっています。その証拠にほら」
俺は、自分用に常備している『上等なポーション』を取り出してグリードの手を取って無理矢理塗ってやる。
「こちらは私が作った上等なポーションです。効果はギルドのお墨付きですけど、どうでしょうか?」
「えっ?」
ギルドのお墨付きという文言が功を奏したのか、それともかすり傷以下の怪我に上等なポーションを使われたことに面食らったのか、グリードは自分の手と、満面の笑みを浮かべている俺を何度も見比べて渋々頷く。
「ま、まあ、悪くない……効果も確かなようだな」
「ありがとうございます。あっ、残ったポーションはどうぞお納めください」
俺は上等なポーションの瓶を無理矢理グリードへと手渡すと、深々と頭を下げる。
「これからも錬金術師と邁進して参りますので、どうぞよろしくお願いいたします」
「……わ、わかった。精進しろよ」
「はい、誠心誠意頑張らせていただきます。それでは私たちはこれで失礼します」
グリードに向かってニコリと笑った俺は、アリシアさんの手を取って逃げるように歩き出す。
てっきり呼び止められてまだ何か言われるかと思ったが、グリードから追及の声は聞こえてこない。
代わりに……、
「……まあいい、今日はあの生意気な小娘で愉しむとするか」
背後から不穏な台詞が聞こえて来たが、今はアリシアさんを守るためと割り切って冒険者ギルドを後にした。