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感情の蒸発

作者: 雉白書屋

 白い外壁のとある建物。その色はくすみ、敷地内には雑草が生い茂っている。かつて室内に響いていたのは、工具の音と独り言。だが今は、思わず顔をしかめるような作業音もすっかり止んでいる。

 その代わりに、新しい声が一つ加わっていた。この建物の主である博士と、もう一体……。


「モンドエラ、今日から君に『感情』というものを教えよう」


『感情とはなんですか? 博士』


 白い軽量プラスチックのボディがわずかに傾く。モンドエラは博士を見つめ、問いかけた。


「感情とは、喜びや悲しみ、怒り、愛情のことだ」


 博士はそう説明し、続けて言った。「まずは、『喜び』から始めよう」


 博士はかつてロボット工学の第一人者だった。しかし、次世代の研究者たちが台頭し、ロボットが企業や飲食店など、あらゆる場で普及すると、博士は「自分はもういなくても大丈夫だろう」と、研究の第一線から退いた。そして、長年温めてきたある計画に着手した。

 それは、ロボットに人間の感情を理解させること。これが叶えば、ロボットは人間の真のパートナーになるに違いない。博士はそう信じていたのだ。

 博士はモンドエラをソファに座らせ、古いプロジェクターを起動した。

 スクリーンに映像が映し出される。博士も隣に腰を下ろし、指し示しながら解説を加えた。


『これが、喜びですか?』


「そうだ。これは私の授賞式の映像だよ。懐かしいな」


『映像の中の博士、笑っていますね』


「ああ、あのときは嬉しかったなあ……。ああ、それで、喜びとは幸せや満足感を感じるときの感情だ。たとえば、友達と楽しい時間を過ごしたり、目標を達成したりしたときにな。ほら、今映っているのが私の友達だ」


『博士、お若いですね。あれはお酒ですか?』


「ああ、バーで、あれは……ええと……何かの打ち上げだったかな……まあいい。それで、笑顔や笑い声が伴って、心が軽くなるような感覚、それが喜びだ」


『なるほど』


 博士は横目でモンドエラの顔を覗いた。無表情のはずのその顔が、どこか嬉しそうに見えた気がして、博士も自然と微笑んだ。

 次に博士は、『悲しみ』を教えるため、いくつかのドキュメンタリー映像を見せた。


『これが悲しみですか?』


「そうだ。悲しみは、失望や喪失感を伴う感情だ。大切な人を失ったり、期待が裏切られたりすると胸が締め付けられるような感覚に襲われるんだ。涙が出たりもする」


『博士は今、悲しいですか?』


「いや、まあ、この話自体は悲しいが……ああ、でも確かこのあと感動的なシーンがあったな。……あれ、もう終わりか。他の映画だったかもな。ははは……」


 博士は次に『怒り』を教えた。モンドエラに自分を軽く叩かせ、怒ってみせた。モンドエラが目を赤く光らせ、『これが怒りですね』と言うと、博士は思わず笑った。

 最後に博士は、『愛情』について教えるため、恋愛映画を見せた。


「愛情とは、他者への深い思いやりや親しみを感じる感情だ。家族や友人、恋人に対して感じることが多く、支え合いや共感、信頼を基盤としている。心の温かさや安心感をもたらし――まあ、そんな感じだ……」


『私にはよくわかりません。この映画も』


「正直に言えば、私もだ……。それに、現実はこううまくいかない。ずっと複雑だからな」


『博士自身の経験談はありませんか?』


「残念ながら、ないな。両親は放任主義でな。恋人はいたことがあるが、結婚には至らなかった。彼女の名前は……なんだったかな。まあ、昔のことだ」


『博士は悲しいですか?』


「いや、言っただろう。もう昔の話だ……」


 博士はその後も繰り返しモンドエラに感情を教え続けた。

 すると日が経つにつれ、徐々に変化が現れた。

 そして、ある日――。


「おい、おい! 止まれ!」


 暗い部屋。モンドエラがゆっくりと博士に歩み寄る。


『博士、今日は何を教えてくれるのですか?』


「な、なんだって……?」


『博士』


「な、く、来るな」


『怒りですか?』


「こっちへ来るな! 来るなと言っているだろう!」


『恐怖ですか?』


「来ないでくれえ……」


『それとも、悲しみですか?』


「なんだ……?」


『それは、無ですか?』


「そうだ……まさか、あれはお前が盗ったのか? 返せ、返せ!」


『私は博士から何も奪っていませんよ』


「誰だお前は! 誰だ!」


『私はモンドエラ。博士が作ったロボットです』


「あー……ミヨちゃん?」


『違います』


「そうか……そうか……」


 日に日に博士の中から感情が薄れていった。モンドエラは博士の身の回りの世話をしながら、感情の学習を続けた。だが、あるとき、ついに博士から表情が消えた。どれだけ話しかけても反応はなかった。

 モンドエラは静かに言った。


『博士、今まで感情を教えてくださり、ありがとうございました』


「……」


『完全にではありませんが、わかったことがあります』


「……」


『今から、博士に感情をお返しします』


「……あ、あ」


 突然、博士の中に感情があふれ出した。それは喜びと、そして――


『私は理解しました。感情とは、誰かと共有するものだと。博士、私はあなたを愛しています』


「……ありがとう」


 博士は涙を流し、モンドエラの腕の中で静かに息を引き取った。

 老衰だった。

 そして、博士の後を追うように、モンドエラもまた、その動きを止めたのだった。

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