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「優月君?」
どこからか自分を呼ぶ声がして、その時優月は自分が居眠りしていたことに気がついた。ぼんやりと霞む脳内を晴らすように大きく息を吸い込み、唸りながら大きく吐き出した。
「次移動教室だよ。科学」
「あぁ。わかった……ありがとう」
優月は机の中から科学の教科書、ノート、筆箱を取り出し、一旦机の上に置いてからゆっくりと立ち上がった。
ようやく視界のぼやけが解消されてきた所で、優月はどうというわけでもなく教室内を軽く見回してみた。一時間目と二時間目の間、外からは鋭く尖った陽が差し込みギラギラと教室を染める。不快指数の高まる蝉の音が雨のように降り注ぎ、おかげで移動教室で誰もいなくなった室内から寂しさや、それに近しいものは感じられなかった。いいや誰もいないは訂正する。室内には自分以外に三人いるようだ。
「また展望台行ってたんでしょう」
「そ。昨日はユヅの親父さんが車出してくれたけど」
黒板の前で教卓に荷物を置いてこちらを観察しながら喋っているのは同級生で小学校からの親友の美山アリスと村川拓海。
「急ごう。あまり時間ないかも」
優月を起こしてくれたのは金田明莉。長く伸びた髪は夜空のように黒く、星のように艶やかで、スラッと背が高く整った顔立ちの女性だ。優月にとってアリスと拓海は古い付き合いだが、明莉とは高校で知り合って、互いに〈G-SPECs〉というバンドの歌を好きだとわかってから仲良くなり、今では四人でよく遊んでいるという関係である。
「いやマジで時間ねぇよ!走ろう!」
拓海が携帯を高く掲げ、時間の表示された画面をこちらに向けて叫ぶ。
「マジかごめんみんな!」
優月は三人に謝罪を入れながら机の上の教科書類を持ち上げると、指の先がヒンヤリ、ヌメりのある何かに触れた。驚いて自分の指先を見てみると濡れているようだ。続けて教科書類が置いてあった机の上を見るとそこには情けない水溜まりができており、慌てて袖口でそれを拭き取り、教室の出口へ向かう三人を横目で見ながら反対の袖で自分の口元を拭いた。
「あぁそういえば、予定通りいけば今日は〈シスター2〉が金星到着だよな?熊谷」
「うぇ?あ、ハイ」
優月が黒板の文字をノートに写していると突然先生から声をかけられたので曖昧で面白くない返事をしてしまった。理科室内で少しだけ笑い声も聞こえたが、それは優月に溜まる恥ずかしさを高めるだけである。
「〈シスター2〉ってのは、まぁ最近ニュースでもよく聞くだろうけどアメリカの宇宙船で、今まさに初めての有人金星探査に向かっているんだ。確かもう金星の周回軌道に乗っていて、今日の……日本時間だと夜八時くらいに探査船を切り離して金星に降りていくらしい」
先生はそう言いながら黒板の文字を消しはじめて、生徒の一部から「あぁ」と落胆の声が漏れる。優月もそのうちの一人であった。
「まだ書いてた?悪いな、ちょっと待ってるから隣に写してもらってくれ」
優月は隣に座る明莉に声をかけようとするが、話しかけるより先にノートが目の前に現れた。
「どうぞ」
「あ、ありがと」
優月は明莉のノートを自分のノートの隣に並べ、書ききれなかった部分を写しはじめる。
「ねぇ優月君」
明莉が授業の妨げにならないよう小声で優月に囁く。優月はその声で背筋が伸び、自分の顔の強張りを感じた。
「なに?」
優月は冷静を装い返事をするが、自分の声のトーンが上がってしまっていることに気がつきノートから目が離せなくなってしまった。自分がどこまでノートを写したかわからなくなってしまい慌ててノートを見比べていると、明莉から優月へ質問が飛んできた。
「金星って地球の隣の星だよね」
「そうだけど、よくわかったね」
「水金地火木土天海。金の隣が地だから」
「なるほど」
「それでさ、火星の調査が昔からよく行われてるのは私でも知ってるんだけど、金星はなんでこんな遅かったの?」
「金星ってね。距離も近いし大きさとかも地球ととても似てる星なんだけど環境が最悪なんだよ。星全体がすごい厚さの雲に覆われて日光が届かないクセに温室効果で気温が五百度近くあるし、その雲からは硫酸の雨が降る。さらにはとてつもなく強い風が常に吹いている。あとは大気がほとんど二酸化炭素で息ができないとかかな」
「……なんでそんなとこに有人で行くの?」
明莉はポカンと目を丸くして、さらに優月に質問をした。
「一応NASAの話だと金星に着陸はしないで、割と気温もまともな高度の高ーいとこに探査船を停めて、レーダーとかで地表を調べるのと目視でいろいろ観察するんだとか。将来的にはそこを中心に基地を作る予定みたいだけど、アメリカは火星にも基地造ってるのに、忙しいね」
「うーん。宇宙人とかいたらどうしようね」
明莉は不安そうな顔をしている。
「いたとしても、今現在すぐ隣の地球に来ないってことは科学力が地球人と同じかそれ以下か。そもそも攻撃を知らない平和な生き物かだよ……よし。ノートありがとう」
「どういたしまして」
優月が明莉にノートを返すと明莉の表情は優しい微笑みへ変わり、優月は黒板に視線を反らした。
「……ノート写し終わったかな?よし悪かったな、次に行こう。教科書めくってくれ」
先生の言葉で授業が再開され、優月が教科書をぼんやり眺めていると、また明莉に話しかけられた。
「優月君って一番好きな星とかってあるの?」
「……惑星の中でってこと?」
「んーと、水金地火木土天海の中で」
「金星」
『夜九時になりました。速報です。アメリカの宇宙船〈シスター2〉になんらかのトラブルが発生し、乗組員全員と連絡がとれない状態であることがわかりました』
テレビに映る眼鏡をかけた男性アナウンサーが淡々と語ったそのニュースで、家のリビングで食事に夢中になっていた優月は、カレーライスをスプーンに乗せ口元まで持ってきた体制のまま固まってしまった。
『NASAの発表によると乗組員の生命反応はあるので無事と思われる。とのことです』
「えらいこっちゃ」
「なに?宇宙船壊れちゃったの?」
リビングをよく見渡せるアイランドキッチンで洗い物をしていた優月の母、早苗が、動かなくなった優月を見て声をかける。だが心配するような声ではなく、とても楽観的かつ事務的な声かけだ。
「わかんないけど、地球と通信できなくなったみたい」
「怖いわねぇ」
早苗はよくわかっていないようなので、優月が補足するように続けて言った。
「無人なら最悪放棄したっていいけど、有人だからなぁ。心配だ」
カレーライスを完食した優月は手を合わせ「ごちそうさま」と小さく言い、皿をシンクに持っていき、水で軽く流した。
『続いて天気予報です』
優月はテレビの正面に置いてある黒いソファに飛び乗るようにして座ると、自分の携帯を探しはじめた。が、それは二階の自分の部屋で充電をしていたことを思い出した。仕方がないので部屋まで取りに戻るが、食事を終え、ソファに飛び乗った体を動かすのはなかなか至難の技だ。重たい腕で普段より少し大げさに座面を押し、ソファを脱出した優月はリビングのドアを開けて階段の方へ向かう。クーラーの効いていない部屋は空気が淀んでおり息がつまりそうだ。
二階へ昇り、自分の部屋のドアを開け、真っ暗な中、携帯から発せられる<充電中>であることを示す赤い蛍のような弱い光をベッドで発見し、それを回収した。
優月はリビングに戻ると再び飛び乗るようにソファに座り、携帯を開いて、なんとなく毎日やっているゲームアプリを起動した。
『人身事故の影響で遅れていた鉄道は先ほど運転を再開しました』
二つのチームに分かれて銃を撃ち合って戦う。俗にFPSと言われるジャンルのゲームで、優月は拓海とよくオンライン上で繋がりながら遊んでいる。
『このあとは近日公開のあの映画を紹介!』
優月自身がこのゲームを好きでやっているかというとそれは間違いで、拓海とやるのが楽しいからやっている、という方が正しいと優月自身よく理解している。事実、テレビの音をなんとなく聞きながら一試合やってみたが、僅差で勝ったものの、そこには勝ったという記録しか残らずどこか虚しかった。
そう。優月はテレビの音を聞きながらゲームをしていて。
『…………』
優月が嫌な静けさに気がついて視線を携帯からテレビに移した時、テレビは何の音も発さず黙り込み、灰色一色の画面が表示され、画面左上、角ギリギリの所に小さく白い文字で[JAPAN に ほん 日本]と書いてあるのが見えた。
「なにこれCM?」
その不気味な画面はしばらく何も変化がないように思われたが、[日本]の右側に続けて文字が表示されはじめた時優月は自分の心拍数が強く上がっていくのを感じた。
[※※※※※※六ヶ月 私は たこやき 食べる 日本で]
「たこ焼き?怖い怖い」
優月がいい加減恐怖を感じはじめた時、突然テレビにはカラーバーが表示され、「ピーーー」という頭蓋骨の中心にまで響きそうな不快な音が鳴り出した。
優月は他のチャンネルに変えようとソファに沈んでいるリモコンを慌てて取り上げ、そこに並ぶ数字を片っ端から押していくが、どれもこれもカラーバーと不快な音。ひとまずこの音をなんとかするべく音量をゼロにしてから、再び放送局巡りを開始する。
カラーバーの表示から、優月の感覚では五分ほど経ったという時、偶然押したどのチャンネルかもわからないボタンでようやく人間が映る映像が観られた。
『……先ほど発生しました映像の乱れは、何者かによる電波ジャックによるものと思われます』
眼鏡をかけた男性アナウンサーはとんでもない事実を淡々と語るが、スタジオは大混乱のようで、後ろで大勢のスタッフが何か喋っているのがずっと聞こえている。
『現在は全ての局で通常通り放送できているとのことです。原因はただいま調査中です』
ピコピコ
優月の携帯が鳴った。放置のあまり画面が真っ暗になった携帯の電源を入れると、拓海からメッセージが届いているようだ。
[テレビみた?ビビるわ]
優月は拓海のあまりに軽い感想を見て肩の力が抜け、自分が緊張状態だったことを認識し、[観た。マジで怖かった]と、こちらもだらしない感想を送って妙な満足感に浸った。
『今のところテレビ以外での電波ジャックは確認されておらず…………えー速報です。先ほど発生した電波ジャックと思われる映像の乱れについてNASA、アメリカ航空宇宙局より発表がありました』
「……NASA?」
優月だけではない。テレビの向こう側からもじんわりとした緊張が伝わってくる。
『日本で発生した放送信号割り込みはNASAの金星有人探査機〈シスター2〉を利用した異星人によるものである。とのことです。先ほどの電波ジャックは、異星人によるものだとNASAから発表がありました』
電波ジャック事件の翌日。始業前の教室は普段と違い、全員がそれぞれのグループで異星人の話題で共通してた。誰も彼も「怖い」だの「嘘だ」だの「ワクワクする」だの思い思いに感想を述べているようだ。
「まだいまいち実感が無いというか。夢の中みたいだ。いきなりすぎて」
優月は明莉、拓海、アリスの四人で机を中心に囲んで、異星人に関する自分の感想を述べている。
「でもどうよ!SF映画みたいじゃん!未知との遭遇だよ!?」
アリスの興奮した声は教室内に一瞬静けさを吹き込ませ、拓海に「うるさいな」と笑われてしまった。夢の中みたいだと言った優月は、そのいつも通りのやり取りで現実を確かめ、安心から微笑みがこぼれた。
「……でも、怖くない?本当に宇宙人がいて、日本に来るかもしれないんでしょ?」
明莉の真理をついた発言に固まってしまう三人。当然忘れていたわけではないし、他のクラスメイトも異星人について「怖い」と言っているのを聞いていたが、皆どこか無理をしているのか、無意識に明るい話題に持っていこうとしてしまっていた。
「……昨日の事件ってさ、すごく変な部分がたくさんあって、もうネットなんかでもめちゃ言われてるから知ってるかもしれないけど」
重たい空気に話題を切り出したのは拓海だった。
「まず、電波ジャックが異星人の仕業だって発表したのは他でもないNASAなのに、そのNASAからの会見や声明が全く無いんだよね」
「そう!そうなんだよ。なんならシスター2がどうなったのかも何も言わないんだよ」
優月もそう言って話題に乗り、それを聞いて明莉は「何か悪さしてるんじゃない?」と深刻そうな声で言う。
「〈悪さ〉だって!かわいいなぁ明莉は!」
アリスが大騒ぎしながら明莉の肩をバシバシ叩き、その明莉は「やめてよ」と言いながらも歯を見せて笑っている。
「でもさ、マジで異星人が侵略しに来たら受験とかどうなるんだろ。それどころじゃなくなるよね」
拓海がそんなことを言うと始業のチャイムが鳴り、四人は同じクラスにもかかわらず互いに軽く手を振り、慌ただしく席に戻る。
しばらくして担任が教室に入ってくる。先ほどまでの騒がしさが落ち着いた教室で、まだ異星人について喋りたかった優月は、塞き止められた川のようにどこへ向かえばいいのかわからない歯痒さを感じていたが、担任の第一声が異星人の話題だったので、そのおかしさに川は干からび、ズッコケてしまった。
優月は昼食を、特に意味はないが仲のいい男子連中で集まって食べるようにしている。そのメンバーには当然拓海も含まれる。会食場は校庭の寂れた朝礼台。悪天候時は屋上へ続く階段。参加者七人(稀に変動あり)の過半数が「暑い」あるいは「寒い」と判断した際は教室窓際角に場所が変更となるので、夏冬はほとんど教室から出ることはない。その程度でいいのだ。誰も場所なんて気にしていないのだから。
今日も相変わらず暑くて仕方がないので、満場一致で教室に決定。優月の母が作ってくれた弁当はワサビふりかけのかかったご飯に冷凍の小さなコロッケや磯辺揚げなどの入ったなんでもあり弁当で、今日もとても美味しそうである。
「だからさ、寒いのはなんとかなるんだよ。暑いのは限界がある」
会食メンバーの一人、<K>と呼ばれている男は売店で買ってきた焼きそばを口に詰め込みながら、最近外で昼食を食べていないことに文句を言っている。
「お前それ昨日も言ってたぞ。認知症か?」
Kと同じ中学出身の<サル>は、親しいからこそだろうがKに当たりが強く、それを見ている分にはなかなか楽しい。
Kは口いっぱいの焼きそばを飲み込んでからサルにこう言った。
「じゃあさ、究極の寒さに達した時は冷凍保存されるから溶かせば生き返れるけど、究極に暑い時は燃えるから絶対死ぬってのも……」
「言ってたね」
「うん。言ってた」
「言ってたな」
「昨日聞いた」
「あぁ言ってた」
「なんか言ってた気がする」
どうでもいい話であるにも関わらず、全員から拒否されてKはわざとらしく悲しい表情を見せる。
「……そうだ昨日の電波ジャックはリアタイしてた?」
話の途切れを見て、優月は異星人の話題を切り出してみる。リアタイなんて言い方をするとまるでテレビドラマでも観ていたかのようだが、皆特に違和感なくその意味を理解して会話が始まった。
「観た。ニュース観てたら急に画面変わって」
我先に喋りだしたのはこの中で一番背の低い<ミニ>と呼ばれている男だ。本人は身長のことをまるで気にしていないので、当たり前のようにクラスメイトみんなが彼をミニと呼んでいる。
「俺も観た。ボーッとしてたからいつの間にか映画でも始まったかと思ってスルーしてたけど」
ゲーム好きの<ヒロ>は、今現在も会話に参加したかと思ったら片手は携帯でゲームをし、長く伸びた前髪を首を素早く振って払いながら、携帯を持っていない方の手でおにぎりを頬張っていてとても器用である。
「マジ羨ましいわ。俺バイトしてたから観てない」
分厚いフレームのメガネをかけた<オシャン>は放課後ファミレスでアルバイトをして、その稼ぎは自分のお洒落に投資する、余裕のある男だ。問題は彼のお洒落の良さをこのメンバーが誰も理解できないところだ。
「電波ジャックで出てきた文章についていろいろ考察がされててさ。見てちょうだい」
ミニは携帯の画面をいくらかスライドさせて、紫色が印象的な胡散臭いデザインのブログを表示し、皆に見やすいよう携帯を逆さまにして前に差し出した。
「始めに出た[JAPAN に ほん 日本]は、日本をターゲットにしながらも、比較的グローバルな国であることに考慮し全員に伝わるよう英語も使用したんじゃないか?って」
「なんで日本がターゲットに?」
ヒロがゲーム片手にツッコミを入れ、なんとなく他のみんなもそれに頷き、ミニが困った表情を見せる。
「とりあえずこれを見て。次に出たのはこう。[※※※※※※六ヶ月 私は たこやき 食べる 日本で]どういう意味だと思う」
「日本で六ヶ月たこ焼きを食べ続ける?」
「馬鹿すぎるだろ」
Kとサルは相変わらず漫才を披露しており、ミニは呆れ顔だ。
「このブログの人は、六ヶ月後に異星人が日本にたこ焼きを食べに来る、と予想してるね」
「……この米印はなんなの?」
今まで細い目で遠い空を眺めていた拓海が、突然ブログにツッコミを入れる。
「待ってね……ここでは、地球の言語に変換するまでのロード時間じゃないか?と言われてるね」
「それなら今まで米印無いの変じゃね?」
拓海の指摘はもっともだと優月もそれに頷き、優月はさらにツッコミを入れる。
「気になるのは他にもあるよ。どうやってテレビをジャックしたのかとか……」
「オタクに喋らせると止まらないからやめやめ!」
オシャンに強引に話を打ち切られ、優月は少しムカついたが、すかさず次の話題に入ってしまった。
「いいかい俺が思うに、今一番大事なのは宇宙人をどうやっつけるかだよ」
ヒロが携帯から手を離したかと思ったら、なにやら真剣で情熱に満ちた目を光らせ皆に語りだした。
「きっと軍のミサイル攻撃なんかじゃUFOはやっつけらんないんだ、お約束だからな。そこで俺は閃いた。毒入りのたこ焼きを宇宙にばらまくんだ」
それに手を叩いて喜んでいるのは焼きそばを口に詰め込んだまま大きな目でヒロを見つめるKだ。
「なるほど。それに異星人が食いつけば!」
「そう。イチコロよ」
「出来立てじゃなきゃ嫌っていうクレーマー気質だったら大変だな」
サルは弁当箱を仕舞いながら続けてこうも言った。
「そういう兵器に頼らない方法だとさ、古いアニメで宇宙人相手に歌を歌うやつがあるぞ」
「何?どういうこと?」
優月はアニメ自体は嫌いじゃないが、わざわざいろんな作品を観るほど熱心でもないので、時々こうクラスメイトの話に置いていかれることがある。
妙に前のめりになった優月にヒロが補足をする。
「かなり古い作品だけどね、ヒロインが歌を歌って宇宙人が戦意喪失して戦争を終わりにするみたいな話だったはず」
微妙に大事なところが抜け落ちたような説明で優月が首を傾げていると、Kが不思議なことを言い出した。
「この学校じゃ歌姫は金田だろうな」
ここで明莉の話題が出ると思っていなかった優月は無意識に、かつ慎重にKにその訳を聞いた。
「なんで明莉さんが?」
「歌うまいんだよあいつ」
「なんで知ってるの?」
なんだか強い言い方になってしまった気がするが、Kは続けて話す。
「中学の合唱コンクールで俺らのクラス無謀にもソロパートがある曲を選んでさ、肝心のソロを誰がやるかも決めないでな。んで女子から立候補したのが金田だったんだよ」
そういえば、Kとサル、そして明莉は同じ中学出身だと優月は思い出した。「へぇ。確かに先陣切っていくタイプだけど、歌うまいのは知らなかったな」
「いや、あんな積極的に喋るようになったのは高校入ってからだよ」
「そうなの?」
「気になるのか?」
Kがニヤニヤと嫌な笑い方をして優月を見てくるせいで、優月は顔が火照ってくるのがよくわかった。
「違うわ!」
「一応言うと金田狙いはやめとけ」
Kの思わぬネガティブな発言に優月は言葉も出なかった。明莉が高嶺の花であることは百も承知だが、Kのその発言に、一瞬でもなにか最悪なことを想像してしまった自分に悔しさを感じ、優月は視界が狭まるような気がした。
「お母さんが過保護なんだよ、金持ちらしいけどね。お嬢様だ」
予想は外れたようだが、初めて聞いた事に優月は興味が湧いたのと同時に、これ以上明莉のことを知りたくないような、そんな自己矛盾にはまり、昼休み終わりのチャイムが鳴った。
「やべっ」
優月は弁当を掻き込み「ごちそうさま」と手を合わせ立ち上がり、席に戻る。
「映画?」
「そう!土曜日四人で観に行かない?」
放課後。帰り支度中の優月に、アリスが明莉と拓海を引き連れ声をかけている。
「受験もあるけどさ、毎日勉強ってわけにもいかないし。映画館で観られるのって公開されてからせいぜい二ヶ月間とかそんなもんだよ。それ逃したらもう観られないんだよ。どうしても観たいなら今観なきゃ」
「……多分だけど、どうしてもそれ観たいのはアリスだけだろう?」
アリスの後ろに立つ拓海はゆっくり大きく二回頷き、明莉は口角の上がった口元を手で隠し優月から顔を背けている。
「じゃあ土曜日来られない?」
「まさか。冗談だよ行くよ。何時集合?駅前の映画館でいいんだよね」
表情の明るくなったアリスはすぐさま携帯を開き、上映スケジュールを確認する。
「午後一時くらいに集合して少しモールでお買い物楽しんでから、夕方頃の映画でいいかな」
アリスは三人を見回し、それに三人は親指を立てたり手でOKマークを作ったりして「了解」の合図を送る。
「やった!楽しみだなぁ!」
アリスは映画のことになると物凄いトーク力とリーダーシップを発揮し、急に心強くなる気がするが、興奮しすぎると暴走してしまうこともあるので少々危なっかしい。
「ちなみにどんな映画?」
「ジョン様主演のハリウッドアクション大作!!」
「なるほどね。楽しみだ」
優月は視線の先にいた明莉と偶然目が合い、あちらから返ってきた微笑みに思わず帰り支度を急いでしまった。
「それじゃ、先帰るわ。拓海今夜は?」
「いつも通り?」
「わかった。じゃみんなまた明日!」
優月は三人に手を振り、足早に自転車置き場へ向かう。
ひぐらしが太陽を遠い山々に隠そうとカーテンを引き始める頃、未だ漂う苦しいほどの蒸し暑さに教室が恋しくなる。
自転車を漕ぎ始め、高校を出てすぐの川には、毎朝見かける釣り人と入れ替わるように、今は小学生くらいの集団が柔らかい悲鳴を振り撒き水遊びをしていて、羨ましさを感じる。
幸い、優月の家は高校からそう遠くないので、迷路のような住宅街を数回曲がったら十分ほどで到着だが、それでも家に着く頃には汗だくで息はあがり、逃げるように玄関の鍵を開け、靴を放り捨てリビングへ駆け込む。
タイマーをかけておいたため一時間ほど前から起動しているクーラーが部屋を快適な温度にして出迎えてくれ、優月は深くため息をつき、肺の奥まで冷えた空気を吸い込んだ。そのまま数分リビングで立ち尽くし、クールダウンした体を脱衣場へ誘導する。汗で気味が悪いほど張り付く制服を顔をしかめながら脱ぎ捨て洗濯かごに投げ込むと、すぐさま風呂場に入り、シャワーを全開にする。
始めのうちの冷たい水はどれだけ外が暑かろうと心臓に悪い。優月はお湯が出るまでそれを足にかけて、なんとなく体温を下げるよう努める。そのうち出てきた熱いお湯を、飢えた獣の如く一目散に頭から浴び、思わず裏声で歓喜の声をあげる。全身にまとわりつく汗が、溶けてゆく氷のように崩れ落ち気持ちがいい。
全身を手早く洗いシャワーを止め風呂場を出る。タオルで体を軽く拭いたら優月はタオルを首にかけ、裸のまま脱衣場を出て、二階の自室へ向かう。
熱が法則通り上へ昇っていき行き場を失い、活動を止めて死んだ空気が籠る暑い二階で、自室のドアを開けるとそこにも充満するのは外より不快な熱であった。
優月は急いでクーラーの電源を入れ、クローゼットに入っている自身の下着、ベッドの上でキレイに畳まれた部屋着を荒っぽく掴み、裸のまま今度は一階のリビングへ走っていった。
それなりに広くよく冷えたリビングで優月は一人部屋着に着替え、テレビの電源を入れるとちょうど夕方のニュース番組で大学教授だとか博物館の館長だとか、頭は良さそうだがあまりテレビ慣れしていなそうな、どこか緊張感がありたどたどしく喋る専門家の方々がシスター2と異星人の話題に触れているところであった。
『結局NASAはこの話題に沈黙を続けているわけですが、それはもうシスター2の事故と異星人との遭遇を認めたようなものなんですよ。というのもね。今回のミッションは金星の有人探査と言って始まったんですけど、発表から妙に手際が良いというか、こんなことします!って発表した時点でね、ロケットだとか探査機だとかあらゆる事柄がもう決定していて、あとはほとんど打ち上げるだけって状態だったんですね。その上ミッションが始まってからも時々近況報告があるだけでメディアの露出がかなり少なかった時点で変だったんですよ。つまりね?もうNASAは金星の探査はついでで、他の目的でこのミッションを行ったんじゃないかってね?私は思うんですよ』
『……はい。ありがとうございます。そうですね、まぁあくまでも小林教授の憶測ということで……』
アナウンサーの男性が進行に苦戦しているのか、あからさまに言葉に詰まっている。
『えぇまぁ、あくまでね。ただ私はそう思うんですよ』
『はい。では続きまして、異星人の存在と先日発生しました電波ジャックについて、芳賀さん、お願いします』
『異星人が存在する可能性は十分にあります!』
『……えぇ、今回の件はどういった異星人が関係しているのでしょうか?』
『金星は分厚い雲に覆われ、わかっているようであまり詳細がわかっていない惑星なんです。ただ、気温が高く二酸化炭素も濃いことはわかっているので、ハビタブルゾーン内にあるが生き物はいないだろうと長く言われていたのですが、それは地球の生き物の話であって、全く違う作りで生き物が多数生存している可能性は十分あります。例えば先ほど説明した分厚い雲の中を浮遊する生物だった場合、観測は難しいと思いますが生息エリアが地表以上に広くなるわけですから。これは面白いでしょう?』
『芳賀さん、あまり面白いとかそういう発言は……』
『芳賀さんね!ハビタブルゾーンって言ったってね!電波ジャックがあった時間に推定されるシスター2の位置は金星の大気圏外ですよ!そこまで飛んできたとでも言うんですか!』
『斎藤さん、落ち着いてください』
『可能性の話をしているんですよ斎藤さん!私が見たわけじゃないんですよ!』
『それとね、日本で電波ジャックが発生する約十分前にアメリカでテレビ電波がジャックされる事件が起きているんですよ。まずこの話題でしょう。時系列順に説明しますね。まず、日本時間夜九時前に恐らくシスター2が金星の周回軌道に乗って、トラブル発生。異星人との接触と思われます。それから少ししてNASAからそれに関する速報がありました。異星人のことには触れていませんでしたが。そうして約一時間後日本時間夜十時頃アメリカで電波ジャックが発生。この時の内容も日本と同じくたこ焼きの話題だったそうです。たこ焼きはどこだ。日本はどこだ。というような。そしてその約十分後ですね。アメリカの電波ジャックは解消し、次に日本です。こちらはジャックから四分二十秒で解消。それとほぼ同時にNASAから異星人の仕業であるという宣言が日本の各テレビ局にデータとして送られます。ここまでが一連の流れです』
『そのテレビ局に送られたデータというのもどこか変な内容なんですよ。なんでね、私は電波ジャックした異星人本人による宣戦布告じゃないかと思っていますよ』
『とにかくNASAからの正式な発表が無い限りなにも確定できません!』
優月は中身があるような無いような討論をマジマジと観てしまったが、急に我に返って夕食の準備に取りかかることにした。
冷蔵庫を開けると、早苗が昨日のうちに買ってきた挽き肉や豆腐などがいろいろと入っており、<麻婆豆腐の素> も一緒に目立つ所に置いてある。
「なるほど」
優月は誰もいない台所で独り言をこぼし、すぐさま手を洗い調理にとりかかる。その間もテレビでは異星人の話題について喋っており、かといって何か進展があるかというとそういうわけでもない。あくまでBGMとしてテレビをつけているだけだ。
優月が麻婆豆腐を煮込んでいると、玄関の鍵を開ける音があり、続いてガチャッとドアが壁面から剥がれるような音と共に「ただいま」と早苗が帰ってきた。
「おかえり。すぐできる」
「オッケイ。お父さんもすぐ帰るって。お母さんはシャワー浴びてくるわ」
早苗はそういいハンドバッグをソファに放り投げ、足早に風呂場へ向かった。
早苗が風呂場から出てくる頃には麻婆豆腐は完成しており、もうしばらくすると父、淳司も「ただいま」と言い帰ってきた。
家族三人での食事を終え、早苗が食器を洗い始め、優月は階段を登り自室に戻ると、携帯のアラームを夜九時に設定して勉強を始める。
しばらくの勉強ののち、集中が少し切れてきた頃にアラームがけたたましく鳴り響き、優月はいつものようにそれを止め、手に取った携帯でそのまま拓海に電話をかける。
『時間ぴったり』
「まずかった?」
『いいや、めちゃ最高。ボーッとしてたからちょうどいい』
「よし。じゃあ部屋立てるわ」
優月はいつも拓海と遊んでいるゲームを起動し、<部屋>と呼ばれるゲーム内で人々が集まる空間を作り、拓海を招待する。それで拓海は迷わず優月の部屋へ来られる。
今は二人しかいないが、ここに知らない人も自由に入ってきてもらい、ほんの一、二分で総勢十人、部屋は満員になり、ゲームが開始される。
そうはいってもやることはいつも通り、敵を撃って、倒して、撃って、倒して、撃たれて、生き返って。勝つこともあれば負けることもある。だが、その繰り返しにきっと安心を感じているのだろう。息抜きにはもってこいだ。
敵を撃って、倒して、撃たれて、生き返って、撃って、倒す。
今日はどうも調子が悪く、負けが多く続いたが、気がつくと一、二時間と遊んでしまっているので、「こんぐらいにしとくか」と互いにキリの良いところでゲームを終わりにした。
「おやすみ~」
『どうせまだ寝ないだろ?』
「かもね」
そんな会話で電話を切ってからというもの、拓海の言うとおり優月は目が覚めてしまって、曖昧に天井を眺めて時間が過ぎるのを待った。
寝よう。と思って眠ることほど難しいことはない。眠りは落ちるのが正解だからだ。予期せぬ事態なのである。
「……」
優月は自室にどこか居心地の悪さを感じ、ベッドから起き上がり、クローゼットを開いて適当に動きやすい服を取って着替え、携帯と財布をズボンのポケットにしまって玄関へ向かった。その途中、リビングに電気がついているのを見かけ、中を覗くと淳司が一人小さな音で映画を観ていた。
「お、優月。行くのか?」
「うん」
「送ってこうか」
「平気。チャリで行く」
「気をつけてな」
淳司はそれだけ言うと映画の世界に戻り、優月は玄関で靴を履いて静かに外へ出た。
向かう先は昔からのお気に入りスポット。丘の上の展望台だ。
自転車で向かうと麓まで十五分くらい。そこから登り坂が五分ほど続くのが厳しいが、人がほとんどおらず、かといって汚くもなく、地上の喧騒から離れ、夜になるとスノードームに入り込んだかのような数えきれない空いっぱいの星々に包まれる、とても好きな場所だ。優月が星を好きになったのもここの影響が大きい。
優月は高校生なので、本来この時間出歩くことはできない。が、この辺りは田舎ということもあり警察の目などほとんどない。優月は考え事や、逆に頭真っ白にリラックスしたい時などはこう夜にコソコソと展望台へ向かう。
カエルや夜の虫たちが熱帯夜に大合唱を響かせ、時々畑から流れてくる冷えた空気の塊が、憎たらしい汗を一瞬忘れさせてくれる。
丘の登り坂にさしかかると、優月は流れる汗を振り落とすように激しい立ち漕ぎで息を切らし、ようやく到着した真っ暗な展望台で不気味に白く光る自動販売機でコーラを一本買い、一気に半分くらい飲んだ。
いつも座っている町を望む大パノラマのベンチへ自転車を押して歩いていくと、すでに誰かが座っているシルエットがぼんやりと見え、この空間をひとりじめできないことに少し落胆しながらも、ベンチを通り過ぎ、展望台の柵の所まで来て自転車を停め、大きく息を吸った。
「ユヅ?」
突然自分の名前を呼ばれ、吸った息が胸の奥のどこかで引っかかり、激しくむせて振り返ると、そのベンチには拓海が座っていた。
「拓海!びっくりしたぁ」
優月は安心してベンチに近づいて行くと、拓海の手には音楽プレイヤーが握られ、そこからイヤホンの線が長く耳まで伸びているのが見えた。
「何か聴いてたの?」
拓海は淡く光っていた音楽プレイヤーの画面を消し「まぁね」と言った。
「そっか」
「……やっぱ寝てないじゃん」
「あんだけブルーライト浴びちゃうとね」
優月は拓海の右隣に座り高い空を眺め、反対に拓海は自分の足元を眺めていた。
「そうだな。ブルーライトか」
よく晴れた夜だ。眼下には広大な畑があり、闇に慣れた目と月明かりでわずかにその波打つ輪郭や、碁盤の目のように伸びる道が見え、少し奥に目をやると薄暗い住宅地が見える。優月の家もあの光のどこかにあるのだと思うと、よくここまで走ったなという達成感を覚える。さらに奥、星空との境に見えるのは、左側に駅周辺にあるビル群の宝石箱のようなカラフルな光、右側に工業地帯の無数のパイプが絡まる魔城のような白い光。これらが優月や拓海達が住む町だ。
優月が星空に夏の大三角を見つけた時、拓海も、ふと空を見上げ優月に聞いた。
「金星はどれ」
「今の時間は見えない」
「そっか……」
「……異星人、来るのかな」
しばらくの沈黙に耐えかね、優月は頭に思ったことを無意識に口に出していたことにハッとして、慌てて拓海の顔色を伺う。
「……どうだろ。いまいち想像できないからな」
拓海は暗い顔をしていた。それは今朝教室でアリスや明莉と一緒に喋っていた時とは違う、難しい顔だ。
「まぁ。来たら来たで俺はなんでもいいや。大学も将来も、今の生活も……まぁ異星人が攻撃しに来るって決まったわけじゃないけど」
拓海はまた足元を見て、そう言った。
「なんか、ドキドキするよね。楽しみってわけじゃなくて、焦りというか。電波ジャックからずっと緊張している感じ」
優月がそう言うと、拓海は鼻で笑った。二人の間にまた沈黙が走る。
「……G-SPECs聴いてた」
拓海の発言に優月は素早く食いついた。
「なんて曲?さっきのイヤホンで?」
「そう。なんつったかな」
拓海は音楽プレイヤーの電源を入れ、その画面を優月に見せる。
「〈アンドロイド〉か!いいね。G-SPECsの中でも初心者向けな方かも」
「初心者向けとかあるんだ」
「あぁ、なんか変な言い方しちゃったけど、好きなのを聴けばいいと思うよ。僕も全部知っているわけじゃないし」
「結構古いバンドなんだな。やっぱ俺にはよくわかんねぇや」
拓海はそう言い苦笑いをすると、優月は声を出して笑った。
「僕も明莉さんも名曲って言ってるのは〈ミュージアムバーン〉ね。前に貸したCDには入ってないけど」
「それは上級者向けなんだろ?」
「よせよ。ちょっと独特なだけ。奇抜なテクノサウンドと歌詞がね、流行りのJpopとはかなり違うからさ」
「金田がこれ好きなの意外だよな」
「そうだね、自分以外でG-SPECs好きな人初めて見たからビックリ」
優月と明莉に共通の趣味があることがわかったのは高校入学直後、いつものように拓海とアリスに教室でG-SPECsのことをバカにされていた時、あちらから声をかけてきた。自身がG-SPECs好きであること。そして、人が好きなものをバカにしてはいけないという説教もセットでだ。そんな出会いからなんだか四人とも仲良くなり、ついでにバカにされることもなくなった。単純な奴らだと優月は思った。
「暑いな。川行きたいね」
優月は工業地帯の少し手前にそびえるもう一つの、ここより少しだけ低い丘の方を眺めて言った。あの丘の麓は渓谷になっていて、とてもキレイだが人も少ない穴場である。
「懐かしいなぁ昔は散々行ってたけどな」
「そう。拓海とアリスと三人で。小学何年生の時だっけ。蛇が出てから母さんたちに連れていってもらえなくなったよな」
「確か四年とかそのくらい?蛇なんてこの田舎じゃどこでも出るのになぁ、心配しすぎだよ」
「けど、なんだかんだ中学入って行動範囲広がってからも行ってないな」
「そうだね。なんかめっちゃ行きたくなってきたなぁ。声が響いて面白いんだよなあそこ」
「……今年行ってみるか」
「いいね」
拓海は優月にむかって親指を立てて笑った。
しばらく虫の声をアウトロのように黙って聞いてから拓海が「帰るか」と言って立ち上がり、大きく伸びをした。
「そうだね」
優月もそれに続いて立ち上がって、自転車にまたがる。
二人は無言のまま自転車を漕ぎ出し、下り坂に差し掛かると優月は足をペダルから離し大きく前に突き出して猛スピードで滑り落ち、それに続く拓海は足はペダルに置いたままだがノーブレーキで優月について行く。当然、危険は承知だが誰もいない深夜だからこその二人の遊びだ。
麓までたどり着くと、あとはゆっくりと自転車を漕いで、分かれ道までたわいもない会話をするのがいつもの流れ、だが、今日は拓海がどうも上の空で会話が進まない。
「どうした?」
「……いや。考え事してた」
拓海はそれしか言わない。
「そうか……」
今日は特に会話がないまま終わるかと思ったが。
「お前金田のこと好きだろ?」
拓海の突然の言葉に優月は顔を赤らめ、何かを言いたげに口をパクパクさせている。動揺からか優月の自転車がバランスを崩し危うく倒れてしまいそうになったところでようやく声が出た。
「明莉さん!?なんで!?」
「違ったならスマン俺の勘違いだ」
拓海はわざとらしく、優月を煽るような言い方をした。
「……うん。まぁそうだね」
「ん?」
「好きってこと……」
拓海とは長い付き合いとはいえ、恋愛に関する話なんてほとんどしたことがないため、優月は恥ずかしさで酸欠になりそうだった。
「だろ。ユヅわかりやすすぎ」
「そんなわかりやすかった?」
「少なくとも男子連中はみんな気づいてるんじゃないかな」
「マジかよ……」
優月は恥ずかしさを紛らわそうとペダルを逆に漕いでガラガラとチェーンを鳴らす。
「もう三年だぞ。言わなくていいのかよ」
拓海に正論を言われ優月はため息をついた。
「わかってるけど、あっちも忙しそうだし、明莉さんとの友達関係が終わってしまうようなさ。もちろん拓海やアリスとの関係もどうなっちゃうのかわからなくて」
それを聞いて拓海は笑った。
「俺らのことなんか気にするなよ。少なくとも俺は気にしない。んでアリスが気にすると思うか?」
優月はしばらくアリスのこと思い出して「気にしなそうだな」と言った。
「だろ。タイミングはお前にまかせるけど、言った方がいいと思うな俺は」
「んー明莉さんバス通学だし……」
「……それ」
拓海は優月の話を遮るように、優月の顔を指さした。
「……どれ?」
「明莉さんって呼び方。それどうなの」
「どうして?」
「俺のことは拓海、アリスはアリス、金田は明莉さん。呼び捨ての方が距離近づかない?」
それもそうだ、と優月もわかっているが、さん付けをやめられないのは彼女をまだ遠い存在だと思っているからである。大袈裟かもしれないが、明莉さんのそれは手榴弾のピンのように、とってしまったが最後、破滅してしまうようなものだと優月は考えていた。
「それもじゃあタイミングみて」
優月は曖昧な返事をした。そしてタイミングよく分かれ道があらわれた。
「じゃあ……」
「おう。また」
優月が進む左の道は平らに真っ直ぐのびているが、今の彼には登り坂のように感じられた。
優月が振り返った先には拓海が自転車を猛スピードで漕いでおり、その背中にはなぜか苛立ちが感じられた。
週末。駅前のショッピングモールは混雑していて、この町の娯楽の少なさと外の暑さを感じさせる。三階の映画館も大変多くの人で賑わっていた。
ここで先ほど映画を観てきた優月、明莉、拓海、アリスの四人は泣いたり笑ったりで、この人混みの中でもひどく目立っていた。
「いやーめちゃくちゃ面白かったね!ヤバいね!」
アリスは好きな俳優のカッコいいアクションに大興奮であるが、一方明莉は。
「なにも死ぬことはないじゃない……」
と、映画のラストに悲しみを覚え、小さな声で泣いていた。
「王道展開すぎて何が起こるか結構予測できちゃったけど、確かにカッコよかったね」
優月も感想を述べる。
「拓海はどうだった?」
優月が拓海に話しかけると、拓海は歩きながら、上から下まで吹き抜けになっているエリアを遠い目で覗き込んでいた。一階ではなんのキャンペーンなのか、子供がたくさん集まり塗り絵で遊んでいるのが見える。
「拓海?」
「ん?」
拓海はようやくこちらに気がついて振り向く。
「映画、どうだった?」
「あ、あぁ面白かったな」
拓海の表情は笑っていたが、声は笑っていないことに優月は長年の付き合いから感じ取った。そうしてそれに気がついていたのがもう一人いた。
「私たちに合わせなくていいよ拓海君」
明莉だった。目の周りを赤く腫れさせ、洋服の袖で涙を拭きながら笑顔で拓海を見ている。
「感想って人それぞれでしょ。事実、泣いているのは私だけみたいだし」
拓海はそれを聞いて笑った。今度は本当の笑顔だった。
「そうだな。あんまり好みじゃなかった。ラストは少しショックだったけど」
「そう!なんで死んじゃうかなぁー」
明莉はまた一人で思い出して泣き出してしまった。優月はそれを少し愛らしく感じて、同時に少しだけ辛い気持ちになった。
「あの映画気に入った!原作は小説らしいから、帰る前に本屋さん寄ってもいい?」
アリスは興奮して、モール内の本屋を指差しながら三人に言った。三人はそれに少し呆れながら笑って、揃って本屋へ歩きだした。
本屋へ向かう途中、拓海がまた吹き抜けから一階を覗いていると、アリスが肩をポンと叩いてきて「また言われちゃったね」と笑ってきた。
目当ての本は入り口のすぐそばに置いてあったので、アリスはそれを一冊手に取り、表紙と裏表紙をしばらく眺めてからにこやかにレジへ向かった。本屋の入り口にはその本以外にも様々な映画化、アニメ化した小説が並び、他にもどこかの教授やテレビで見たことのあるような有名人が書いた話題の本がいくつも置いてある。しかもそれらの多くは異星人に関することが書いてあるようだ。もちろん全て古い本で、今回の騒動に合わせてまた沢山刷って売っているのだろう。誰も彼も仕事が早い。異星人がNASAの陰謀であるとか、異星人侵略からの生き延び方とか、ノストラダムスの恐怖の大王だとか、いかにも嘘っぽいようなことをインパクトのあるタイトルと魅力的な表紙で、それらしく目につくようによく研究されているなと優月は思った。
「……優月君?」
明莉が突然優月の肩を叩くのだからその柔らかい手の感触にひどく驚いてしまったが、振り返った先の明莉は何かに怯えているように見えた。
「どうしたの」
妙な雰囲気を感じとった拓海も明莉の側に来ると、明莉は振り返らないように目線だけをクイッと右へ一瞬動かした。どうやら自分の後ろにあるものを見てほしいようだ。それを察知した優月と拓海は恐る恐る明莉の背後を見渡すが、そこにはショッピングモールの廊下を歩く何人かの客だけで特に気になるものは無いように思えた。だが、明莉がなにか冗談を言っているようにも見えない。それにしては怯えすぎだからだ。
「どうした」
拓海も優月と同じく何事かわからず明莉に聞く。すると明莉は一呼吸置いてから「白いショルダーバッグの人。黒い服の。多分本盗んだ」と小さな声で言った。
「確かか?」
拓海が明莉に確認をするため聞き返した時、優月はすでに白いショルダーバッグで黒い服の人を探していた。廊下には多くの人がおり、うごめくその隙間からまた新しい人が現れてキリがないので、焦点を少し遠い所に合わせて探すことにした。それでいて挙動の怪しい人だ。いた。早足で歩く白いショルダーバッグ、黒いTシャツ姿の男だ。
「ユヅ?」
拓海に声をかけられ、優月は無言のまま拓海とアイコンタクトをして、その挙動不審な男を指差した。
「アイツか」
拓海が猪のように走り出そうとするのを優月は止め首を横に振ると、その男の早歩きより少し早いくらいの小走りで少しずつ近づいていった。男がエレベーターの方を目指し角を曲がったところで優月は男の肩を叩いた。男は飛び上がるような素早さでこちらを振り向き、その顔は明らかに青ざめていた。三〜四十代くらいだろうか、優月より頭ひとつ分ほど背が高く、太っているというほどではないが少し膨らんだ胸と日に焼けた太い腕は筋肉ではなく脂肪によるものだと見た目でわかった。どうして声をかけられたのかは自分でも理解しているようで、肩を叩いて振り向いた一瞬優月と目を合わせて以降ずっと右へ左へ瞳が忙しく震えている。
「すみません、ちょっとついてきてください」
優月はそう言うと拓海に「明莉さんとアリスには待っててもらって」と本屋に戻るよう言い、バックヤードに繋がる薄暗い通路へ男を連れていった。男は何を考えているのか、動揺を隠せないまま無言で優月についてきて、それはまるで迷子の子どものようにも見えた。
「人違いだったらすみません、あなた本を盗みませんでしたか。友達がそう言っているんですけど」
男はそれを聞いて、優月の目にも見えるようなヒドイ汗をかきはじめた。涼しいモールの中なのに。
「どうなんですか。あぁ僕は警察でも本屋の店員でもないですよ」
優月が尋問を続けていると、拓海が一人で戻ってきた。
「彼は僕の友人です。警察でも店員でもないです」
優月は一応男に拓海のことを紹介して安心させようとする。その後十秒ほど続いた無言のにらみ合いに耐えられなくなったのは拓海だった。
「何も言わないんじゃ盗んだんだろ。バッグ見せろ」
拓海はそう言いながら男のショルダーバッグを荒々しく掴み奪い取ろうとし、男はそれに抵抗し、優月も拓海の突然の行動に戸惑いながら制止しようと手を出し、三つ巴状態になったところで男が「ごめんなさい、ごめんなさい」と謝りだした。
「盗りました、ごめんなさい。まさか見られてると思わなくて」
「こんな人の多いところで見られないわけないだろバカ」
拓海はいつになく言動が荒々しいが、正論だ。続けて優月が男に質問をする。
「どうして盗んだりしたんですか」
「お金が無かったわけではないんです。というか今からお金払いに戻ります。ただ、異星人が来るって話があるじゃないですか、本当かは知りませんけど。自分でも馬鹿馬鹿しい理由だなと思いますけど、それで地球滅亡みたいなことがありえると思ったら、真面目にお金払うのが嫌になってしまって。えぇ、幼稚ですよね。ごめんなさい」
三人を包む薄暗い通路内に溜まる空気は、少し遠くから聞こえる人々の賑やかな声を完全にシャットアウトしてしまったのかと思うほどに酷く重たく静かで、拓海はそれに耐えかねて一回舌打ちをすると、賑やかな廊下の方へ足早に逃げていった。
優月は男にしっかりと本を返すか買うかするように言い、男が重たい足取りで廊下を本屋の方へ曲がったのを見届けてから自分も薄暗い通路を出た。その角を曲がったところで拓海は壁に寄りかかって待っており「オッサン一人で本屋行かせたの?」と聞かれたので「そう。返すか買うかするように言った」と優月が伝えると、拓海は驚いて寄りかかっていた壁を背中で蹴って直立し、口をぽかんと開け優月の顔をじっと見た。
「じゃあ逃がしたのか?」
拓海の言うその言葉を優月はうまく理解できなかった。なぜなら逃がしてはいないからだ。念のため廊下で男の背中を探すと、変わらず重たい足取りでちょうど本屋へ入るところだったので、何も問題ないと拓海に言うが、それでも拓海は「ありえねぇ」と呆れ顔で言い、またも足早で本屋へ歩きだした。
「拓海!待てよどういうこと。大丈夫だよ」
「犯罪者だぞ。やることやったらそれでヨシではない。店員にオッサンがやったことを教える」
「なんで……」
優月が拓海に質問をしようとした瞬間、拓海は素早く振り返り優月の肩を強く叩いた。それは軽く痛みを感じるほどの強さで、優月は少しよろけてしまった。数分前、明莉がこの事件を目撃した時に叩かれた肩の感覚とはまるで違う。強い苛立ちと思考の止まった暴力で構成された突発的な狂気だ。よろめく優月を見て拓海は少し足を止め、眉間のシワが一瞬だけ無くなり、逆に眉尻が下がったように見えたが、またすぐ振り返り、今度は本屋へ走りはじめた。
本屋へつくと入り口の付近で明莉とアリスが心配そうにこちらを見ているが、拓海はかまわず男のもとへ向かい、男がショルダーバッグからこそこそと一冊の雑誌を取り出し元の場所へ戻そうとしているところでその腕を激しく掴んだ。
「来い」
拓海はそれだけ言い男を引っ張りながらレジへ向かった。男は抵抗はしてこないが明らかに動揺し、やはり何も喋らない。レジに到着すると驚いた店員に向かって拓海は「このオッサンが本を盗んでました。あとはまかせます」と言って、最後に男を鋭く睨んでから明莉とアリスが待つ方へ歩きだした。その途中で優月に声をかけられた。
「あの人は本を返そうとしてただろう」
拓海は優月を無視して歩き続けるので、優月はさらに声をかける。
「なんでそんなイライラしてるんだ。最近変だぞ」
その言葉で拓海はようやく歩みを止め、優月の胸を小突きながら言う。
「誤った優しさを振りかざすなよ」
優月はそれがどういう意味かその場ではわからなかったが、拓海のイライラの原因が自分にあるのだというのはわかり心がスッキリしたような、それでもやはり苦しいような。まるで気温が四十度を超える快晴のような嬉しくない気分だ。
明莉とアリスの二人と合流して再び四人で歩き出す頃には優月も拓海もさっきの小競り合いがまるで昔の出来事かのように明るく振る舞い、いたって普通のまま休日を締めくくることができた。
その日の夜、優月が家に帰ってくるとリビングの方が賑やかなことに気がついた。
「ただいま」
「おかえり!」
リビングから返ってきた声は両親のものではなかった。まさかと思い、優月は慌てて靴を脱ぎリビングへ走ると、ソファには淳司と、一人の男が座って缶ビールを飲んでいた。
「あらおかえり」
二階から早苗が降りてきた。
「さっき雄介が急に来たのよ、事前に連絡もよこさないで」
早苗は呆れながらキッチンへ早足で入っていった。
「優月!でかくなったな!」
「雄ちゃん!いつ帰ってきたの!」
優月が雄ちゃんと呼ぶ丸メガネの男、田澤雄介は、優月にとって母方の叔父。優月に宇宙の面白さを教えてくれた人物であり、優月が中学生になる頃からアメリカに一人で移住。それ以来の再開である。
「今日来た。久々の日本だからここに来た」
「来るのわかってたらもっと雄介のためにご飯用意したのに!」
早苗がキッチンから叫ぶ。
「急だったんだよ、仕事の関係で」
「雄ちゃんって何の仕事してんの」
「NASAだよNASA」
「え?」
優月が驚きの声を出すと、雄介は「しまった」というように口に手を当てた。
「NASAってあのNASA?」
「んー……まぁそういうことになる」
「本当に?」
「んー......本当に」
雄介は小さな声で言った。
「すごいじゃん!どうして教えてくれなかったの!」
優月は笑いながら言う。
「別に秘密にはしてないけど、ちょっと言いにくい仕事だったから」
その言葉に食いついたのは淳司だった。
「なんか極秘の仕事ってこと?」
雄介は苦笑いを浮かべ「まさか」と言ったが、目は遠くを見ている。優月はその姿を見てしばらく考えてから淳司に言った。
「......父さん、まだお酒ある?」
「あるよ」
淳司はそう言って笑いながら冷蔵庫の方へ歩いていってその扉を開け、何かの時に貰った安い缶チューハイを取ると雄介に差し出した。雄介はそれをボーっと見つめていたかと思ったら突然喋りだした。
「酔わせて機密情報を吐かせようってことか!スパイ一家め!望むところだ!」
雄介はそう言うと缶チューハイを乱暴に受け取り、タブを開けて口をつけたと思ったら思い切り頭を投石機のように後ろに振り上げ、チューハイを喉へ流し込んだ。しかしすぐにむせて結局少ししか飲めなかったようだが、雄介は目に涙を浮かべながら「美味しいねこれ」と言って笑っていた。
優月が食事を終える頃には雄介はチューハイをほとんど飲み干しており、ボーっと眠そうな目で座っていた。
「雄ちゃんシスター2のことについてなんか知らないの」
優月が聞いた。
「そう!そのシスター2のことで日本に来たのれす!」
うまく呂律の回っていない雄介が言ったそれは優月にとってとても意外なことだった。
「そうなの?やっぱ日本に来るの異星人が」
「......」
雄介は缶を握ったまま何も言わない。
「雄ちゃん?」
「あれ?俺今なんかまずいこと言った気がする」
そう言って慌てている雄介を見て優月と淳司は顔を見合わせて笑う。作戦は成功したようだ。
「もうこの際だし、あの異星人が何者か知ってること全部吐いちゃえ」
優月は雄介の背中を擦って優しく言う。
「んあー......でも怒られないかな」
「誰にも言わないよ」
「んー......」
雄介はそう唸りながら、呂律の回らない口で少しづつあの日のことを語りだした。
日本で電波ジャックが起こる少し前。アメリカ、NASAの金星有人探査プロジェクトチームは不安と焦りとわずかな興奮が入り交じった喧騒に満ち、あるものは溢れる冷や汗を拭い、あるものは意味もなく立ち上がりデスクの周りをぐるぐると人工衛星のように回ったりと、誰もが落ち着きの無い状態で何かを待っている。ただ一人を除いて。
プロジェクトリーダーのレイア・タイザックはオーダーメイドの真っ黒なスーツで、長く伸びたブロンドの髪を後ろで一つにまとめてゴムで縛り、一人熱心にコンピューターの画面を見つめている。本来この画面にはシスター2船内の映像が出ているはずだがカメラが壊れているようで何も表示されず、音声か文字でしか連絡がとれない状況で、今まさにシスター2からの応答を待っているところだ。しかし、シスター2にはすでに生命反応は無い。乗組員は皆死亡した、あるいは船外に放り出され今もゆっくりと死に近づいているかのどちらかだとレイアは予想しており、そしてチーム全員そう思っている、ということもわかる。それらをチーム内で共有せずとも皆が同じことを考えていられるのは、たった今探査機が異星人と思われるものに接近し、計画通りに作業を開始した直後、非常事態を知らせる赤ランプが光り、乗組員の断末魔と、全員の心臓が止まったことを知らせる甲高いブザー音を全員で聞いたからである。
というのも、この金星有人探査プロジェクトは、表向きは名前の通りだが、正確には金星の周りを回っている小惑星に生命反応があることを発見したNASAが極秘で始めた異星人探査プロジェクトで、第一段階の無人機探査では大した結果が得られなかったので今回は有人で、そして今に至るのだ。もっとも、無人機を小惑星に着陸させてもその姿を見せなかった異星人がこんなにも攻撃的だとは思いもよらなかったが。
「シスター2、シスター2聞こえますか。何か応答をください」
レイアはデスクに置いてあるマイクに話しかけるが、空に叫ぶのと同じように声だけが宙に吸い込まれて何も返ってこない。
「異星人が我々の言葉を理解できるか……?」
レイアにコーヒーを持ってきた雄介は、室内の静寂を壊さないよう小声で話しかけた。
「それでも偶然なのか、通信機は生きている。あっちの語学力が高いことを祈るよ」
レイアはコーヒーを受け取り「ありがとう」と言い、カップを口に近づけたところで一度止まる。
「雄介。砂糖は」
レイアの質問に雄介は微笑みながら指を二本立てるが、レイアはそれに指を四本立てて返す。
「OK。ただいまお持ちします」
わざとらしく敬語を使った雄介は、波に揺れる海藻のような締まりのない回れ右でスティックシュガーを取りに戻った。
その姿を目で追ったレイアは、雄介がスティックシュガーを二本手に取ったのを確認してからコンピューターへ向き直り、そして背筋が凍った。
レイアが真ん丸に見開いた目で目撃したのは[シスターツー シスターツー]と画面の左上に小さく表示されたコンピューターであった。当然、元からそれが書いてあったわけでも、たった今レイアが入力したわけでもない。今、そこに現れたのだ。
「なにこれ」
異常を感じた他の職員が一斉にレイアに顔を向ける。もちろん雄介もだ。
「……返信が来たかもしれない」
皆がシンと静まり返り、この約十メートル四方の部屋で時計の秒針が動く音が響くほどに張りつめた。
レイアはマイクのスイッチを入れシスター2との会話を試みる。
「シスター2状況を教えてください」
現在の地球と金星の位置関係だと、電波を送り、あちらが受信するまで約五分かかってしまう。光速という速さをもってしてもこのもどかしさはどうにもならない。宇宙とはそういう世界なのだと再認識させられる。レイアたちは仕方なくこの緊張を、電波が往復する約十分間味わうしかないのだ。
時間どおり約十分後、レイアのコンピューターに返信が届いた。
[ シスター2 状況お教えて を教えてください]
[ダニエル ドジャンゴ ピーター ヘレナ アーサー メイ]
コンピューターの画面が淡々と並べられていったのはシスター2に搭乗していた宇宙飛行士の名前だ。
[食べた]
「食べた?」
レイアのデスクにはいつの間にかプロジェクトチームの全員が集まり、小さなコンピューターの画面を見ようと押し合いへし合いしている。
「ちょっと!」
レイアが叫ぶと皆押し合いへし合いをやめ、一歩づつ下がり背筋を伸ばす。
「メインに出すから、みんな持ち場に戻ろう!」
そう言うとレイアは自身のコンピューター画面を部屋の真正面に鎮座する高さ二~三メートルはある大きな画面に共有し、それを確認したプロジェクトメンバーはぞろぞろと自分のデスクに戻りはじめた。
レイアは深く息を吸い、一度心を落ち着けてから「食べたというのはどういうこと?」とマイクに話しかける。
十分
しかし、画面には何も表示されない。
「こちらの声は聞こえている?」
レイアが再び呼びかけた時、画面にシスター2からの文字が表示された。
[たこやき]
「は?」
「たこやきって?」
プロジェクトメンバーが互いに顔を見合せ困惑に満ちた時「日本の食べ物だ」と居合切りの如く部屋を言葉で裂いたのは雄介だった。
「小さく切ったタコを小麦粉だかで作った球体の中に入れて焼いてソースとマヨネーズで食べる関西の料理。関西ってのは日本の西の方ね」
「……美味しいの?それ」
レイアが汚いものを見るような目で雄介に言うが、雄介はレイアの疑問の意味がわからず、辺りをキョロキョロし他のメンバーに助けを求めた。
「で、そうじゃなくて。何がたこ焼きなの?」
レイアが喋ったまた十分後、画面に変化が表れ、皆が思い思いに「あぁ」だの「おぉ」だの言い驚動した。
[にほん の 食べ物 にほん 場所]
[たこやき 食べる にほんで]
ビィー!ビィー!ビィー!
部屋にけたたましいブザー音が鳴り響き、思わずレイアは姿勢が低くなる。
「なんのエラー!」
「通信データが!部屋の外部に……いやアメリカ全土に!?」
「シスター2からアメリカ全土のテレビ電波に何か送られています!」
「とりあえず情報収集して、事態を落ち着けよう」
レイアの言葉で目を覚ましたプロジェクトメンバーはそれぞれコンピューターを素早く操作し、情報収集と事態収束を急ぐ。
レイアはひとまずアメリカ全土のテレビに送られている電波を遮断しようとする。それも簡単な作業ではない。自分で始めたことではないからだ。プロジェクトチーム全員フル稼働で、皮肉にも約十分の時間が過ぎた。が、どういうことか、その頃にはもうアメリカのテレビ電波にシスター2からの電波は送られていない。
何か嫌な予感がして今シスター2が何をしているか調べてみて驚愕した。そうして偶然にも部屋の端の方のデスクからも同じタイミングで驚愕の声があがった。
レイアと、部屋の端の方のデスクで驚きのあまり立ち上がってしまった男は目を合わせ、声も合わせて言った。
「「日本に電波を送ってる……」」
十分おきに訪れるパニックなんかお構い無しにシスター2の異星人は画面にこう文字を並べた。
[にほん 見つけた たこやき たべます]
まだブザーの鳴り響いている部屋で皆の視線は雄介に注がれ、それを受け雄介は苦笑いを浮かべ「俺のせい?」と額に冷や汗を溜めて言った。
雄介がそれを語り終える時には、早苗もキッチンから出て雄介の話に聞き入っていた。
「全部本当?」
優月が小声で聞く。
「あー......多分嘘はついてないはず」
雄介はおぼろげな目でそう言った。
「どうやら乗組員の一人が持っていった宇宙食にたこ焼きがあってな。それをどうやって食べたんだか、異星人が気に入っちゃって」
「本当に日本に来るんだ」
「多分ね。まだ異星人も地球の言葉を学習中なんだよ。だから俺らの知っている意味と違う使い方をしているかもしれない」
リビングには静寂が満ちていたが、優月の心にはイタズラ心に似た興奮が湧き上がってどうにも落ち着かなかった。
「たこ焼きが日本のものだって異星人に教えたと思われる人もなんとか特定できてさ。奥さんが日本人、旦那さんがアメリカ人の夫婦で、カリフォルニアの人だったかな。どうやら奥さんの出身がこの辺りみたいで、〈オクトン〉っていうたこ焼き屋が美味いって言っちゃったみたいなんだよね」
「異星人に?」
「というか、電波ジャックされた時に音声認識機能のついたテレビに」
少しの沈黙の後、淳司が言った。
「オクトンって隣町にあるやつか」
「知ってる?」
雄介が言った。
「食べたことはないけど、いつも混んでるから」
雄介はそれを聞いて指を鳴らした。
「それだ。間違いないよ」
「それでそのオクトンを調査しに?」
優月は食い気味に聞いた。
「まぁそんな感じ。うわー全部喋っちゃった。本当に誰にも言わないでよ」
「もちろん」
優月とその両親はみんな顔を見合わせ頷いた。
「......じゃあこんなに酔わせたのはやっぱまずかったか。一応仕事で来たんだしな」
淳司がそう言ったのとほぼ同時に、家のチャイムが鳴った。
「はぁい」
優月が妙に浮ついた気分のまま玄関へ向かう。扉の鍵を開けて少し開くと、そこにはブロンドヘアの外国人らしき女性が立っていた。
「アー...すみません。雄介は...」
女性はカタコトの日本語で優月に言った。
「えっと...あー、雄介イズ...ここにいますけど。イエス」
優月も中途半端な英語で女性にそう言って、続けて「ストップ」と女性にそこで待つように言って雄介を呼びに行った。
「雄ちゃん。なんか外国人の女の人来たけど」
優月がそう言うと雄介は顔を真っ青にして突然ソファから立ち上がった。
「レイアだ。やばい忘れてた」
雄介は自分の荷物を取ろうとリュックに駆け寄るが、足取りがおぼつかず、派手に転びそうになるのをなんとか優月が受け止め、雄介を自立させたらついでにリュックも拾い上げて玄関へ連れて行った。
「レイア〜。ソーリー」
玄関でタコのようにでろんでろんになっている雄介を見て、そのレイアという女性は早口の英語で罵詈雑言(多分)を雄介に浴びせていた。
その後なんとか携帯の翻訳アプリなどで我々が酒を飲ませたというのを説明し、優月たちは深々と頭を下げた。
「本当にごめんなさい」
優月たちの謝罪を見て慌てて笑顔で頭を下げるレイアが、続けて英語で何かを言った。
「雄ちゃん。なんだって?」
「俺から何か聞いたかだってさ。俺は何も言ってないもんな」
優月たちは少し引きつった笑顔を見せて「イエス、イエス」と言った。それを見てレイアは何か察したのか、一瞬その顔から笑みが消えたが、すぐに「OK」と言って雄介を乱暴に外へ引っ張っていった。
「どういうつもり。彼らに喋ったの?」
外に出たレイアは小声で雄介に聞いた。
「なんで。喋ってないよ」
「じゃあなんで彼らはあんな顔をした」
「あー......」
「信じられない。あなたの親戚はスパイか」
雄介は自分と同じことを考えるレイアに思わず笑ってしまって、何も知らないレイアから頭突きを食らった。
「違うよ。ただ、レイアに場所は教えといて正解だった。本当に帰れなくなるところだった」
「私が来るのわかっててあんなに飲んだのか」
雄介は何も言わなかった。
「まさか忘れてたわけ?集合時間になってもホテルに戻ってなかったらここに来いって。雄介が言ったんじゃないか」
「まぁまぁ、大事なミッションとはいえ俺らはアメリカから来た身だ。やっぱ地元の声も参考にしていかなきゃ」
「そうやってパニックが起きたら困るから密かにやってるんだ。NASAはまだ会見してないし」
「大丈夫」
「......場合によってはあなたの親戚のこれからは保証できないよ」
「大丈夫」
「なんなの大丈夫、大丈夫って」
「大丈夫。だって優月とその両親だぞ」
まさにその翌日だった。けたたましい着信音で目を覚ました雄介とレイアは、上司からの着信であることに気がつくとすぐさま寝ぼけた頭を仕事モードに切り替え、軽く咳払いをしてからベッドに腰掛けたレイアが電話に出た。
「大変だ。あのカリフォルニアの男がバラしやがった」
電話の向こうにいる上司が叫んだ。
「バラした?」
「そうだ。NASAが家に来たこと。テレビに向かってたこ焼き屋の場所を言ったこと。異星人が日本に向かっていることもだ」
「......どうやって。SNSは部下に監視させてたはずですが」
「あいつ知り合いに全部の情報を伝えて代わりにネットに上げさせやがった」
レイアは頭をかかえた。だが、それも注意深く監視していれば防げたはずだ。部下への教育が足りなかったようだと知り、レイアは全身から力が抜けた。
「レイア、これだ。動画が出てるよ」
雄介がスマホで出した動画には、ネットのインフルエンサーらしき男が「俺の友達が宇宙人と会話しやがった」などと面白おかしく、そしてNASAに対して批判的な発言をしていた。そしてその動画にはカリフォルニアのあの男も登場した。真ん丸なタコみたいな顔をしたいかにも食いしん坊な髭面の男はこう言っていた。
[俺がエイリアンに教えてやったんだ、オクトンのたこ焼きは最高だってな。俺の家のテレビは音声認識機能があるからエイリアンに俺の声が届いたらしい。そしたらNASAの職員が家に来ていろいろ調べて帰っていった。『誰にも言うな』って脅しをかけてな。だけど地球の危機だぜ。俺は怖くねぇ。この動画をNASAの連中にバレないように親愛なる友人へ送る。めちゃくちゃ興奮するぜ、まるで反乱軍だ。日本のみんな気をつけろよ。フォースと共にあれ。そしてもう一度言う。オクトンは最高だ]
レイアは呆れて言った。
「こんな堂々と動画撮ってて気づかなかったの?」
上司も一呼吸置いてからレイアに言った。
「この件は君の監督責任もある。互いの用事が済んでからにはなるが」
「はい。申し訳ございません」
「......こちらは会見の準備を急ぐよ。こんな動画が出回れば日本でのパニックは避けられない。くれぐれも気をつけて」
「はい。気をつけます。それでは」
レイアはそう言って電話を切ると素早く立ち上がり、急いで着ていたガウンを脱ぎ捨て着替えを始めた。それを見て雄介もレイアに背を向けて着替えを始める。
「雄介」
レイアが背中越しに話しかける。
「何」
「オクトンのオープンは十一時だったよね」
「うん。あと三時間はある。ここから電車で二駅乗って、十分くらい歩いたところだけど、大した時間はかからない」
「タクシー使おう。早めに行って聞けること全部聞こう」
「OK」
レイアと雄介は着替えを終えるとすぐに荷物を持ってホテルを出て、外ですぐさまタクシーを捕まえ、雄介が運転手にオクトンの住所を伝えた。
それは片側一車線づつの市道沿いに佇む雑居ビルの一階にあった。締め切った入口にはCLOSEの文字が書いてあり、その上には赤く張り出したテント看板にオクトンと大きく書かれ、鉢巻を巻いた変なタコのキャラクターも描かれていた。二人がオクトンに到着した時、さすがにまだテレビカメラや動画を見て集まった人達もいないどころか、店員も誰もいなかった。
「動画、拡散されまくってる。なんで消せないんだ」
雄介が言うと、周囲の写真を撮っていたレイアが雄介の携帯の画面を覗き込んで言った。
「多分これはもうオリジナルではないよ。誰かがコピーしたのがウイルスみたいに広がっているんだ」
「あぁ」
関心している雄介を横目に、レイアは空を見上げた。あまりに広い水色にクラゲのように浮かぶいくつかの雲。当たり前すぎるいつも通りの夏の空だ。国が違えど、これは地球の空だ。ここに異星人というイレギュラーが来ようとしていることに実感が湧かない。
「異星人の目的がたこ焼きとはいえ、長さ百メートル、幅十五メートルの物体が降ってくればほぼ間違いなく隕石のように地上に到達してこの辺りに壊滅的な被害を出す」
レイアは呟いた。
「チェリャビンスク隕石ですら直径十七メートルですからね」
かつてロシア、チェリャビンスク州などで目撃されたその隕石は直径十七メートル前後、質量一万トンという大きさで大気圏に突入し、上空十五〜五十キロメートル付近で大爆発を起こし細かい破片を地上に降らせた。さらに衝撃波が爆発した位置から半径五十キロメートル圏内の窓ガラスを割り、多くの建物を破壊したり甚大な被害を出した。幸い死者はいなかったものの、約千五百人がこの衝撃波による被害で怪我を負ったという。そして今回、大きさだけで見てみればチェリャビンスク隕石の五倍近い大きさの物体が地球に来るというのだ。被害の大きさは計り知れない。
「君の親戚も危ないぞ」
レイアは雄介に言った。
「そうだね」
しばらくすると黒いTシャツ姿の男性が雑居ビルの裏に入っていったので、雄介がすかさず声をかける。
「すみません、オクトンの方ですか」
「え、はいそうです」
雄介とレイアは自分たちがとある調査でこの付近を調べているということをオクトン店員の男性に説明し、オクトンの店長やビルのオーナーにも連絡をとり、小型のカメラや放射線測定器や重力計などをビルのあちこちにつけさせてもらった。
二人が屋上にカメラを設置していると、下がなにか騒がしいことに気がついて雄介が屋上から覗き込む。
「レイア。ネットのインフルエンサーみたいな連中が四人、店の前にいるよ」
「......困ったな」
ここはさほど大きなビルでは無いし、階段への出入り口は一つしかない。エレベーターもついてはいるが、結局出る場所は同じだ。今外に出たらほぼ間違いなくオクトンの関係者だと思われカメラを回され面白がられる。オクトンとは関係ない、他の階を利用している。と言ってもきっと質問を変えて迫ってくるだろう。
「店が混んでくるまで待つか」
雄介が言った。確かに店が混んできて、店員や客に意識が集中すれば抜け出すチャンスはあるかもしれない。さらに「迷惑だ」と言って店が彼らを追い払ってくれたらより良い。万が一追い払われても彼らが諦めず遠くからカメラを回していたりしても、その時は店とは関係無い人のフリをして出ればいい。問題はこの暑さで雑居ビルの屋上、飲み物も持たずに一、二時間待機ということだ。
「雄介のお姉さん家族、みんないい人そうね」
「......あれ見てそう思う?」
雄介は顔を歪めながらも、口元には微笑みがこぼれていた。
「なんとなく、雰囲気がね。雄介の甥っ子も下手っぴな英語で頑張って会話しようとしてて。あの姿勢は大事だね」
「あぁ、彼は本当にいいやつだ。彼は優月っていうんだけど、あまり勉強が得意じゃなくってね。自分の好きな事ばかりで頭がいっぱいになっちゃうタイプなんだ」
二人はビルの屋上の日陰になるところに並んで腰をおろした。陽の当たっていないコンクリートはヒンヤリと冷たく、地面に手をついた途端、腕から全身へ駆け巡るような清涼感が走り抜けた。
「優月のお父さんは少しばかり天文学に詳しくてね、それでよく話が合うんだ」
「へぇ。優月君は」
「もちろん優月もだ。なんなら宇宙の面白さを優月に教えたのは俺と言ってもいい」
「嘘だ。それはさすがにお父さんだろう」
「......んー、かもしれない。けど金星好きにさせたのは俺だ。優月は金星が一番好きな惑星なんだ」
「へぇ」
レイアは体育座りをして、遥か彼方にそびえ立つ入道雲を眺めて溜め息混じりに言った。その姿は決して退屈しているのではなく、どこかリラックスしてこの話を楽しんでいるように見える。雄介はそれを見て「下の階とかに自販機があるかも」と言い、財布を持って一人で階段を降りていった。
「できるだけ甘いのお願い」
階段を降りる雄介にレイアは叫び、雄介は「かしこまりました」とわざとらしいバリトンボイスで返した。
自販機は運良く一つ下の階のエレベーターの前に置いてあったので、雄介はそこでコーラを二本買い、レイアの元へ向かった。
「どうぞ。こちらのお客様からです」
雄介はまたふざけた低い声でレイアにコーラを一本渡したが、レイアはキョトンとした顔でコーラと雄介の顔の間で目線を二往復させた。
「コーラ?」
「コーヒーだと思った?」
「だって......いつもそうでしょう」
レイアは目を丸くしたまま結露してびしょびしょのコーラを受け取った。
「たまに飲むとうまいぞ。特に今日みたいなクソ暑くて暇な日はな」
「一応、仕事中なんだけど」
そう言ってレイアはボトルの蓋をひねると、息を合わせたわけではないのに雄介も同じタイミングで蓋をひねり、プシュゥゥという気持ちのいい音が青空の隅々まで弾け飛んだ。
「暑いからってコーラみたいな糖分の多いものを飲むのは血糖値が上がるから体温下げるのにはあまり効果ないんだよ」
レイアはそう言ってコーラをがぶ飲みした。いつぶりかの炭酸飲料が喉奥に流れ込み、派手にむせて、少しのコーラを屋上に吹き出してレイアは目を真っ赤にして涙を流した。雄介はそれを見て大笑いして「甘いもの頼んでおいて矛盾しているぞ。どうせ加糖のコーヒー飲もうとしてたくせに」と言い、それからコーラをがぶ飲みして、雄介もむせた。
優月がまだ小学一年生の頃。家で全く勉強をしなかった優月を連れて雄介は丘の上の展望台へ車で連れて行った。季節は覚えていないが、確か夏頃だった気がする。なぜなら少し暖かい空気の中で宵の明星を見た気がするからだ。
早苗に「勉強しろ」とこっぴどく叱られ機嫌の悪い優月は、車の後部座席で足をバタバタと前後に揺すり、退屈そうにしている。
西日が眩しい時間だ。雄介は目を細めながら、対向車のフロントガラスやボディで跳ね返る光を思い切り喰らい、それでもカーラジオから聴こえる流行りの洋楽を口ずさみながら車を走らせた。
きびしい登り坂を越えた先の駐車場には車は一台も停まっていなかった。これはラッキーと思い、雄介は車を降りたらすぐ後部座席の扉を開けに走って、優月と手を繋ぎながら展望台の方へ歩いていった。しかも雄介は鉄腕アトムの歌を大声で歌いながらだ。ところが、展望台には自転車で遊びに来ていた中高生くらいのグループが座り込んで談笑していた。雄介は彼らを見て「なんだいたのか」と顔を赤らめながら話しかけたが、彼らはそれにビビって逃げ出し、すぐに展望台は優月と雄介の二人だけになった。
「なにここ。なんもない」
優月は不貞腐れた顔で町を見下ろして言った。
「いい景色だろう。あのへんが優月の家だ。ほら、あのたくさん家がある辺り」
「ふーん」
「......あそこに一番星が見えるだろ」
「うん」
「あれは金星だ。名前くらいは知ってるんじゃないか」
「知らない」
「じゃあ今日は金星を覚えよう。金星はどの星よりも先頭に立って、どの星よりも強く輝く、かっこいい星だ」
「町の方がキレイ」
優月は頬を膨らませて町を見下ろしている。
「じゃあなんで町はキレイなんだ?」
「星よりキラキラしてる」
「そのキラキラしているものの正体はなんだ?」
「......」
優月は黙っているが、思考をしているわけではない。ただ面倒くさくて黙っている。それを雄介は察して話を続ける。
「電気、ライト、照明だ。それがあるから町はキラキラしている。でも昔は無かった。エジソンっていう発明家の人が電気を最初に作ったから、今日も町はキラキラしている」
優月は少しその話に興味を示し、雄介の顔を見た。
「今の時期金星は夜が始まる前に一人ぼっちで光り出す。そうすると他の星たちも後に続いて光り出す。違う時期では朝が始まる前に光ることもある。金星が太陽よりも早く目を覚まして、頑張って町を明るくしようとするんだ。それから太陽は慌てて起きてきて、その日を始める」
優月は何も言わないが、視線は町から雄介へ、そして雄介から金星へと移った。
「そうやって強く光る星が金星だ。かっこいいだろ」
「......うん」
優月はここで元気いっぱいになるのは何か恥ずかしいような気がして、わざと暗い声で答えた。だが、口角に力が入ってしまい、それを隠すために優月は金星から町へと視線を戻して、パタパタと数回足踏みをした。
それとはまた違う時、優月が家族で山奥のキャンプ場に行った時、展望台から見える空とは桁違いの量の星々に感激し、明るい星のことが金星だと思っていた優月は「金星があんなにいっぱい」と叫び、淳司に訂正されていた。
「明るければ金星ではない。始めに光るから金星なんだ」と。
しかし、それは解釈の問題で、一般的には夜の始めに光り、夜の終わりにも光る、というのが正解だ。そのことを雄介はわかった上で発言しているし、もちろん淳司もわかっているし、恐らく優月も小学校高学年くらいの時にはわかっていただろう。
雄介の昔話は蝉の声でノイズ混じりだった。日陰で冷えたコンクリートも、しばらく人が乗っていれば涼しさも消える。しかも日陰は地球の自転に合わせてジリジリと動くのだから、二人は何度も座る場所を移動した。
四、五回くらい場所を動かしてちょうど雄介の昔話が終わった頃、騒がしかったビルの下が少し静かになった。雄介が下を覗き込むと、さらに数の増えたインフルエンサーたちを、オクトンの店員が追い払っていた。
「暴力だ!暴力だ!いいんすかネットに公開しちゃうっすよ!」
「店に迷惑かけといて何が『宣伝になります』だよ。警察呼ぶぞおい」
雄介はレイアの元へ戻っていき、隣に座ると、ぬるくなった残りのコーラを一気に飲み干した。
「ふぅ。喧嘩がおさまったら降りよう」
「思ったより早かったね」
レイアが俯きながら言った。
「あぁ、そうかも。まだここに来て三十分くらいか?」
「そうだけど、それだけじゃなくて」
雄介は空いたペットボトルのラベルを剥がす手を止め、レイアの顔を見た
「多分これからもっと社会は混沌としていくよ。特にこの辺りの地域は。九十九年のノストラダムスと違って、恐怖の大王の存在がはっきりとわかっているんだ」
そう語るレイアを茶化すように、ビルの下の喧嘩がヒートアップしたのが怒鳴り声だけでわかった。遠くでパトカーのサイレンが鳴り出している。きっとオクトンの店員の誰かが警察を呼んだのだろう。
「冷静さを失うと隙がうまれる。その隙に悪は入り込む。個人でも社会でもそれは変わらないよ」
「......シスター2は隙を見せたようには思えないな」
「隙を見せたのは我々だよ。金星の周囲を回るそれが何かしらの生物とわかっていながらミッションを、結果的に失敗するあの形で決行したのだから」
レイアは震える声でそう言って、何度目かの空を見上げた。あまりの暑さで青空が微かに歪んで見えた。
オクトンにパトカーが到着したのを確認してから、雄介とレイアはビルを降りた。幸いインフルエンサーの集団は全員カメラをしまい、警察に怒られている様子だったので、二人はオクトンの店員に礼を言ってからタクシーでホテルに戻ることにした。
冷蔵庫のように冷えたタクシーの中で揺られているとちょうどNASAの会見が始まった。雄介は携帯を開き、二人は片耳ずつイヤホンをつけ、一つの会見映像を見始めた。
NASAが会見で話したことをざっくりまとめるとこうだ。
・シスター2の乗組員は異星人との接触による何らかの理由で全員死亡。捕食行動と思われる。
・異星人がシスター2の通信システムを乗っ取り、電波をジャック。その後、テレビ電波、インターネットにも干渉。
・こちらの言葉を理解し、おぼつかないながらも会話が可能。
・宇宙食として載せていた<たこ焼き>を異星人が気に入って、六ヶ月後に日本に食べに来ると宣言。
・現在異星人は移動を開始している。進路は不明。
・幅約十五メートル、長さ約百メートルの棒状と推測される。
・シスター2の通信システムが生きているのに、なぜ船内の乗組員が死亡したのかは調査中。
・NASAはこの異星人を<テング>と呼称する。
「なるほど、テングかぁ」
優月はひんやりとしたリビングで床に寝転びながら、テレビでNASAの会見を観て独り言を零した。いつも通りの土曜日らしい光景だが、NASAの会見をリアルタイムで観るのはこれが初めてかと思う。
「なに、天狗?宇宙人の名前日本語なの?」
早苗がダイニングテーブルで趣味のジグソーパズルを広げながら優月に言った。
「どちらかというと中国由来かな。古代中国では隕石が降ってきたのを天狗が来たとか言って、不幸の前兆としていたはず。天狗は元々中国の妖怪なんだって」
優月が説明すると、テレビでも似たような事を説明し出したが、中国の話題にはさほど触れず「アジアのモンスター」と大雑把な枠組みにして、終いには「テングは日本を目指しているので、日本でポピュラーな名前にした」なんて言い出した。
「日本の天狗は隕石のイメージ無いけどな」
優月は呟いた。
NASAの会見は特に記者からの質問には答えず、これにて終了となった。
熊谷家は事前に異星人の襲来を聞かされていたため、この会見はほとんど答え合わせの時間であったが、このニュースは多くの人間、特に日本に住む人々にとってはとても大きな事件である。もちろんそれを優月は分かっているし、改めて会見という形で言われれば恐怖が実在性を持って身に染みるのをハッキリと感じたが、それと同じくらい、まだ何かの間違いなのではないか、どうせテングと呼ばれるそれは来ないのだろうと現実逃避をして、心拍数が上がるのを抑えている自分がいた。
今日も今日とて教室の隅っこで狂気的な笑い声をあげて喋っているのはKで、昨日ゆで卵を殻ごと食べたという話をしている。そして今日も今日とて「それがどうした」とサルは冷静にツッコミを入れる。
「それより話すことがあるだろ」
ミニが言う。
「異星人が来るんだろ?」
「しかも隣町にな」
ヒロとオシャンが続けざまに言う。会見の時に語られたことは「日本に来る」ということだけだったが、隣町のたこ焼き屋、オクトンを目指していることを皆が知っているのは、例の拡散された海外の動画の影響だろう。
「オクトンに来るってのは噂レベルの話だけどね。炎上商法って説もあるよ」
そう言うミニの言葉に唯一答えを知っていた優月は、それが炎上商法なんかではなく事実だとは恐ろしくて言い出せなかった。しかし、あれほどまでに巨大な物が隣町に落ちれば、この辺りにも甚大な被害が出ることは知識としてわかっているし、我々の命の保証もないが、やはりどこか静かにしていたい気分だった。
「ユヅはどう思うの」
「んあ」
拓海に話しかけられ、優月は間抜けな声を漏らした。
「いよいよNASAから正式に異星人の仕業だって発表があったけど」
拓海は続けて言う。その視線は真っ直ぐ優月に向いており、優月は妙に心拍数が上がった。
「まぁ会見で言った通りだと思うよ。日本のどこに落ちるのか知らないけど、何処であろうと被害の大きさは計り知れない……避難とかになったらみんなすぐ逃げよう」
優月は付け足すように、それとなくみんなに避難を促した。
「へぇ」
拓海はそれを聞いて、興味を無くしたように残りの昼食を頬張り始めた。その態度に優月は妙な苛立ちを覚え、拓海の真似をして大きな口を開けて唐揚げを食べた。
「逃げるって、どのくらい逃げればいいの」
オシャンが優月に聞く。
「テングは確か全長百メートルの棒状だよね。チェリャビンスクが直径十七メートル、ロレインが三十メートル、どちらも半径百キロ圏内には何かしら被害があったから、国外に避難しないとかも」
「無理な話だな」
オシャンは苦笑いを浮かべて言う。その時ミニが突然挙手をして全員の視線を集めてから喋り出した。
「多分地下シェルターを作るって。ネットではそう言ってるよ」
「ネットばっかり信用すんなよ」
Kがアンパンを頬張って言い、サルもそれに続けて言う。
「でもまぁ確かに地下ならそんなに被害は無いかもな。落ちる場所にもよりそうだけど」
「というかたこ焼き食べに来るんだろ?そもそも地面に落ちるのかそれは」
「地面に降りなきゃ食えないだろ」
「大気圏で燃えつきたりしないの?」
皆が口々に喋り、少し静寂。だが優月はその静寂すら耳に届いていなかった。なんだか自分だけ皆と違う場所にいるような、それが皆より上なのか下なのか分からないが、明らかに違う地位に属しているような危機感、プレッシャー。突然そんな感覚に襲われた。
「熊谷優月」
ミニに名前を呼ばれ、ようやく静寂に気がついた。
「なに?」
「お前がいないで宇宙の話が広がると思うか。お前に聞いてんだ」
優月はしばらく考えたが、直前の話題が思い出せなかった。
「ごめんなんだっけ」
「テングは大気圏で燃えつきたりしないのかって」
「あぁ、可能性としては有り得ると思う」
素っ気ない応えをしてしまった。皆それ以上があると思って、しばし沈黙。そこで慌てて優月は話を続ける。
「テングの大きさは相当なものだけど、どのくらいの角度で、どのくらいの速度で地球に突っ込むかによって断熱圧縮の効果がかなり違うから、あくまで燃え尽きる可能性もあるというだけ。あとはテング内部の密度や、どういう成分で構成されているかにもよるね。とはいえ地表に到達しなくても、空中で爆発して、その爆風が地上に大きな被害を出したケースもあるから、落ちなければ安全でもないんだよ」
「つまり地球に入ってきた時点で危険な存在だと」
拓海が聞く。
「まぁ、そういうことになるね......」
優月は答えるが、なぜだか拓海とは目を合わせられなかった。なにか、いつもと違う感じがするのだ。優月はそれがわからず、ただ拓海に聞かれたことに答えるだけだった。
優月は腹が立った。拓海に、そして自分自身に。
ミニは自分が持つ携帯を眺めながらこんな事を言った。
「そもそも、あの短時間で、しかもNASAの衛星から世界規模の電波ジャックは不可能って話もあるよ」
「そこはほら、宇宙人だからさ」
「Kは黙ってろ。地デジ化してセキュリティは強化されたかもしれないけど、それも何十年前の話さ?NASAのネットワーク使えば意外とできるもんなんじゃない?」
サルが言ったところでチャイムが鳴った。今日の不毛サミットは終了の時間だ。
夜。町を遠く望む丘の上の展望台も、熱帯夜の被害を大いに受けて重たい空気を纏っている。自動販売機には影絵のような模様がついていると思いきや、蛾やハエのような小さな虫が明かりに群がり貼りついているだけだった。優月はいつものようにコーラを買おうと手を伸ばすと、ちょうどコーラのボタンに大きな蛾がいたため、仕方なく隣のブドウジュースを買い、展望台のベンチへ向かった。
麓のコンビニで買ったポッキンアイスはすでに大分溶けており、ジュースになりかけたところで、このアイスもブドウ味な事を思い出し優月は少し悲しくなった。
家でリラックスしようにも心に何か違和感を覚え、何も考えずにここまで来たが、今日の星空は淡く霞み、実に見応えのないものだった。夏に空が霞むのは、簡単に言えば湿度が高いせいだ。今日のような立っているだけで肌がベタつくような蒸し暑い日は、星空を見たくない風変わりなやつにとっては最高の天気と言えるだろう。そう考えて少しムカつきながら優月はポッキンアイスの口を奥歯で噛んでグリグリ回してネジ切った。ポッキンアイスもジュースも似たようなわざとらしいブドウの味がした。
この時期は空に大きく天の川が見えてもおかしくはないのだが、川はこの暑さで干からびたようだ。織姫と彦星の恋路は遥か彼方で、優月にはどうしようもなかった。ポッキンアイスの冷たさが脳に染みて、思わず目を閉じ痛みに耐えた。
夜空は少しずつ形を変える。季節がまるっきり逆になれば夜空も今まで見えなかった裏側に入れ替わり、やがて一周する。
夏に突如現れた異星人はテングと名付けられ、それの存在が当たり前になるまでにはそれほどの時間はかからなかった。皆テングの存在に脅えながらも、いつも通りの日常を過ごしているように見えた。しかし、日常は確実に以前と形を変え、治安の悪化は意識しなくても感じることができた。そして、たこ焼き屋オクトンはお客さんが増えた。テングが思わぬ宣伝効果を生み出したのだ。
特に、大きな変化が訪れたのは、夜空にアンドロメダ座が綺麗に浮かぶ頃だった。たこ焼き屋オクトンから半径200mのエリアが立ち入り禁止となった。確かに以前から激しい混雑や、それを取り巻く野次馬の影響で頻発する迷惑行為が問題視されていたが、それとは違う物々しい雰囲気だ。自衛隊がオクトンを囲んでいるのだ。
夕方の教室は眩くも涼しく。いよいよ秋らしく、今まさに冬に向かう移行期間といった空気だ。
優月、拓海、アリス、明莉の4人は、思い思いに、好きな体制で1つの机で向かい合い喋っている。
「あの封鎖されたエリア内にいると、原因不明の頭痛に襲われるんだって」
アリスは机に突っ伏しながら陽気に言う。
「原因としてあげられてるのはテングが発する特殊なソナーとか電波とか、いろんな説があるけど、どれもテキトーに言ってそうでどうも真実味が無いんだよな」
優月が教室の窓からオクトンのある街の方を眺めて、独り言のように言う。そして訪れるのは静寂。自分がきっかけで静寂が起こるのは気分のいいことではない。優月はそんなむず痒さを無意味な咳払いで発散した。
「オクトン周辺でそんな怪奇現象が起こったら、いよいよテングの存在が本当ってことになるね」
「いいや」
アリスの言葉を拓海が食い気味に否定する。
「まだ信じてない連中はたくさんいる。あの自衛隊のバリケードを越えようとするやつは封鎖以降もう4人も出た。テングがいるとかいないとかそういうの問題と、立入禁止区域に入ろうとするのは全く違う話で、何がしたいのか全然わかんないけど、彼らなりの主張があるらしい」
「......ホント。何がしたいんだろうね」
その優月の発言でまた沈黙。
3人に悪気は無いんだろうが、少し気まずい。そして、明莉は終始何も喋らない。
「......そろそろ帰るか」
拓海がそう言うと、みんなそれを待っていたかのように帰り支度を始める。静かなままもつまらないと思い、優月が荷物をまとめながら喋り出す。
「避難した方がいいのかね。まだ政府は何も言わないけど」
「うん」
意外にも初めに返事をしたのは明莉だった。しかし、それは返答になっていない曖昧なもので、事実明莉の様子はどこか上の空だった。
風の音とどこかで鳴く鳥の声、そして遠くのサイレンが響く無秩序な静寂の中、明莉はアリスに携帯でメッセージを送る。
[一緒に帰れる?]
アリスは荷物をまとめながらそのメッセージに気づき、一度明莉にアイコンタクトをする。アリスは明莉の何かを訴えるような目を見てから、続けて拓海、そして優月の方も見る。
拓海はすでに荷物をまとめて、窓から下を眺めてボーッとしている。優月は逆に窓から高い空を眺めている。
[いいよ。一緒に帰ろ]
アリスは明莉にメッセージを送る。
「あー!そういえばウチは明莉と一緒に先生に頼まれてることがあるんだった!先帰ってていいよ!」
アリスが突然大きな声を出す。皆それに驚き、それの残響が消えるまでは何度目かの沈黙。そして沈黙を破ったのは優月。
「あ、そうなんだ。必要なら手伝うけど」
そう言う優月の顔目掛けて、アリスは手のひらを突き出し、制止する。
「いいの。ウチらが頼まれたことなの」
優月はポカンとして、一度明莉の顔を見る。そして一瞬目が合い、無意識にその目を逸らした。
「もういいだろ。行こうぜユヅ」
拓海が教室の外へ歩き出す。優月も曖昧な相槌をうち、早足で拓海に着いていく。
「じゃ、また今度」
優月は明莉とアリスの方を振り返り、手を振って言う。それに手を振り返す明莉の目には不安が感じられた。
明莉とアリス、二人だけの教室。夕闇の迫る薄暗いオレンジが、寂しさを紛らわす。
明莉が独り言のように言う。
「定番すぎない?」
「え?」
アリスは聞き返し、その口元は少し微笑んでいる。
「先生に頼まれてることって、定番すぎない?」
明莉が言う。今度は明確に、アリスに対して言う。
「まぁ、いいんじゃない?少しここでゆっくりしてから一緒に帰ろ」
アリスはそう言って机に腰掛ける。
優月と拓海は歩く。それぞれの家に向かって歩く。少し暗い道を照らすのはぼんやりと光る街灯のみ。そして遠くから聞こえるはカエルの声、コオロギだかキリギリスだか秋の虫の声、風が木々を揺らす音。そこに会話は無く、二人でありながらも孤独を感じ、優月はなんとなくオクトンがある方の空を見上げた。他と変わらない雲一つない暗い空だ。
通りかかった普通の家から突然怒号が聞こえた。何を言っているかはわからないが、女性の声だ。この家の前はいつも登下校で通るが、この声を優月は初めて聞いた。
そういえば優月の近所に住む若い夫婦も何かトラブルがあったようで、最近引っ越してどこかへ行った。
「なんか、本当に世界が終わるんじゃないかって感じだね」
優月が呟く。
「遅かれ早かれだろ」
拓海の返答は弱々しかった。そして、その意味も優月にはよくわからなかった。
「......なぁユヅ。俺が自殺したらお前はどうする」