多くの人が「あの時」と思いながらも
すっとイーサンの指が、私の頬に触れた。
「ようやく、笑顔になってくれましたね。さっきはとても悲しい顔をされていたので、僕の胸も張り裂けそうでした。やはりローズベリー伯爵令嬢は、笑顔が一番ですよ」
「クラエス副団長……」
「それで残りのロマンス小説は、何に注意して読めばいいですか?」
ああ、ダメだ。
泣きそうになっている、私。
イーサンはなんていい人なのだろう。
本人は絶対に自覚できていない。
でもこんな風に優しい言葉ばかりかけられたら、恋に落ちない方が無理というもの。
――「まだ遅くありません。これからです。これから幸せになれますから……」
――「……分かるでしょうか、どれだけ僕があなたに感謝をしているか」
――「やはりローズベリー伯爵令嬢は、笑顔が一番ですよ」
時を巻き戻せるのなら。
我が家の借金についてもっと早くに気づき、少しずつでも返済できていたら。
私はレイリー男爵家に、嫁がないで済んでいたのかしら?
ウスとの苦行の夜を、過ごさないで済んでいたの?
孫はまだかと嫌味を義母から言われ、義理の弟に言い寄られることもなかったのかしら?
そんな都合よく過去に戻るなんて。
できるわけがない。
物理的にも無理だろう。
多くの人が「あの時」と思いながらも、前に進んで行くしかない。
それは私だって同じだ。
ウスとの結婚は、なかったことにできない。
でもイーサンは「まだ遅くありません」と言ってくれた。
「これからです」と言ってくれたのだ。
そう、諦めないこと。
それが重要。
ただ、だからと言って。
さすがにバツイチで歳上の私が。
未婚年下で将来有望な公爵家の嫡男、かつ騎士であり副団長に、一途に好きですと向っていけるかというと――それは流石に無理な話。
イーサンにとっても困る案件になってしまう。
彼の万人に向けた優しさに、勘違いしてはならない。どんなに素敵な言葉であろうと、きっと落ち込む人がいたら、イーサンは同じように励ますはずなのだから。
「すみません。つい考え込んでしまいました。残り一冊のロマンス小説では、令嬢がときめきそうなセリフを見つけてみてください」
「ときめきそうなセリフ……」
「はい。ストレートに『好きです』というのも、それは最強でしょう。ですが、『好き』という言葉以外にも、令嬢を喜ばせる言葉はいくつもあるのです。ロマンス小説は、まさにその宝庫。探し出してください。名セリフを」
イーサンは「なかなか難しそうですね。……ですが、頑張ってみます」と朗らかに微笑む。
「ロマンス小説は、しっかり読ませていただきます。ただ、明日はバレエの観劇がありますから、恋愛レッスンは、明後日でいいですかね?」
恋愛レッスン。
そんな高尚なものではないのに。
でも何だかいい響き。
私が師であり、イーサンが弟子ね。
「明日はバレエを楽しみましょう。恋愛レッスンはその翌日からで!」
こうして明日のバレエの観劇の待ち合わせ時間と場所を決め、私は屋敷へ戻ることになった。明日は前世でも今生でも初めてとなる、バレエを観ることができる。
とても楽しみだった。
でもまさかあんなことが起こるなんて――。
その時の私は、想像すらついていなかった。














