089 市場の攻防
ミトラは急な体調悪化によって、気絶と睡眠の中間くらいの状態に陥っていた。
アスラ軍が占拠した市場内の、魔硝石の備蓄置き場の傍で横たわったミトラは、まどろむ意識の中で、御用邸での特訓のことを思い出していた。
朝練を終えてひとっ風呂浴び、庭先で朝の風を浴びて一休みしていると、そこに啓がやってくる。そしていつもこう聞くのだ。
『ミトラ、体調はどうだ?』
『ん、大丈夫。少しクラクラするだけ。すぐ回復するわよ』
(ケイはいつもそう言って、あたしの体調を気にするけど、気を遣いすぎなのよねえ)
まるで夢の中のように、登場人物としての自分と、その自分を俯瞰する自分が同じ場面の中で混在していた。
『そうか、なら良かった。前みたいに吐いたり……色々大変なことにもならなくなったみたいだしな』
『言葉は選んでくれてるみたいだけど、それを口にするのは少し配慮が足りないわよ?』
『うっ、ごめん』
(ケイはそういうところが少し残念なのよね。全く悪気がないところが悩ましいわ)
御用邸でミトラが行っていた特訓は、啓がミトラの体に魔力を押し込み、ミトラがそれに耐える。そうすることでミトラの体に魔力が宿り、女神の奇跡の力を行使することができるようになるのだ。
なお、この世界には「魔力」や「魔法」という概念は無く、あくまで「女神によって与えられた奇跡の力」という認識だ。
『まあ、とにかく前みたいに具合が悪くならないなら、それに越したことはないよ』
『毎日の努力の賜物だわね』
特訓を始めたばかりのミトラは、それはそれは大変なものだった。
ミトラは啓に魔力を送り込まれるたびに、吐き気や腹痛を引き起こし、上からも下からも「色々なもの」を垂れ流していた。
そのため、この特訓を行う時には汚れても良い服に着替え、ナタリアとサリーの付き添いの元、御用邸の大浴場にて行われた。
啓の言う「色々大変なこと」とは、このことを指している。
そんな目に遭いながらも、ミトラはこの特訓をやめようとはしなかった。やればやるほど、効果が上がることが分かったからだ。
その後も安全マージンを十分に取りながら特訓は続けられ、ミトラの体に魔力が馴染み始めると、次第に「色々大変なこと」も起きなくなっていった。
『だからケイ、次からはもっと大量のマリョク?を流し込んでくれてもいいわよ』
『サリーもミトラも、なぜか「魔力」のイントネーションがおかしいんだよな。それはともかく……』
啓はミトラの提案に対して、首を横に振った。
『それは駄目だ。安全な範囲でやるようにって、ナタリアさんにも言われてるだろう?そもそも、今送り込んでいる魔力量だって、本当に安全かどうか分からないんだ』
『でもあたし、漏らさなくなったよ?』
『……ミトラ。配慮について文句を言ったくせに、自分で言うのはいいのか?』
啓は気恥ずかしそうにミトラから目を逸らした。
(こういう所はかわいいんだよね。ふふっ)
『いいかい。ミトラの魔力は、外から無理やり押し込むことで増えている。魔力の入る袋が、どんどん膨らんでいる感じなんだと思う』
『うんうん』
『その袋にもきっと限界がある。あまりに過剰な魔力を注入したら、袋が破けてしまうかもしれない』
『そうなると、どうなるの?』
『分からない。だが、色々と垂れ流すどころの騒ぎじゃなくなるかもしれない』
『なにそれ、すっごく怖いんだけど……』
『だから、安全第一なんだよ。もしもミトラが限界だと感じたら、特訓自体を中止する。いいね』
『はーい』
(そっか……そういうことか)
あくまで感覚によるものだが、ミトラはようやく体調不良の原因に辿り着いた。
特訓の初期に起きた「色々と大変なこと」は、まだ体が魔力に馴染んでいなかったせいで起きた可能性が高い。特訓を重ねる毎にそれが起きなくなったのは、体が魔力に馴染んでいったためだ。
その後の特訓では、頭がクラクラするなどの軽い症状は発生したものの、重度の体調不良には見舞われなかった。それはきっと、啓が無理のない適度な魔力を、やさしくミトラに送り込んでくれていたからだ。
つまり今回の不調は、体に貯められる魔力の限界容量を超え、一気に魔力を貯め込んだために引き起こされたのではないか。そうミトラは結論付けた。
(だったら……力を使えばいいんだ)
ミトラは夢うつつのまま、そっと拳を握りしめた。
◇
シャトンは、ミトラの体が少し動いたのを目の端で確認した。しかしまだ起き上がってくる様子は無い。
(私一人でミトラさんを抱えて逃げても、きっとすぐに捕まってしまう。ノイエちゃんとミュウちゃんに手伝ってもらっても無理……)
シャトンは物陰に隠れたまま、そっと市場の入口に目を向けた。入り口付近では、少なくとも二人以上の人影が市場の中の様子を伺っている。
時折、外に顔を向ける仕草をしているのは、応援の到着を待っているのだろう。応援が到着するまで、それほど時間もかからないだろう。
(仕方ありませんね。ミトラさんが起きるまで、なんとか時間を稼ぎましょう)
もしもシャトン一人だけであれば、逃走は容易だったかもしれない。しかしシャトンは、ミトラを見捨てるつもりなどサラサラ無かった。
たとえミトラが恋敵だとしても、決して仲間は見捨てない。もしもそんなことをすれば、啓に愛想を尽かされるに決まっている。
むしろ、ミトラを助けたほうが、啓のシャトンに対する好感度は上がるはずだし、ミトラにも貸しを作れる。
そんな多少の打算はあったものの、シャトンはミトラを必ず無事に連れて帰ると心に誓った。
そしてシャトンは音を立てないように、静かに服を脱いだ。
◇
市場内の異変に気付いた兵士が応援を呼んだ数分後、市場の入口には二十人以上の兵士が集まった。
兵士達が市場の中に充満する不快な匂いに顔をしかめる中、そのうちの一人が「これ、グレースさんの匂いだ……」と呟いた。
その兵士は、ミュウの激臭攻撃を受けて野営地に戻ってきたグレースとすれ違い、その時にグレースが浴びた匂いを覚えていたのだが、グレースにとって不本意な言われようは、幸い、誰にも聞かれることはなかった。
「とりあえず、中の様子を確認する。全員、武器を携帯して、口元を布か何かで覆ってから市場に入れ!」
その場で最も階級の高い兵士が、全員に指示を出す。兵士達は難色を示しつつも、貴重な物資の確認が先決と、指示に従った。
「本当に酷い匂いだな……」
「食料が腐ったのか?」
「いや、さすがにこんな匂いにはならんだろう……」
携帯灯を照らしながら、兵士達は暗い市場の中を進んだが、やがて先頭の兵士が「止まれ、何かいる」と言い、全員足を止めた。
全員が警戒する中、前方に携帯灯を向けた兵士が、その何かを光に捉えた。
そこには、一頭の獣の姿があった。
「ウウウ……」
獣は唸り声を上げ、兵士達を威嚇する。兵士達は武器を構えて獣の攻撃に備えた。
「あれは……ルーヴェットか?」
「いや……ルーヴェットにしては小さい」
「ならばルーヴェットの子供じゃないのか?」
「子供だとしても、毛色が違う。知らない獣だ」
「てか、なんで背負い袋をしょってるんだ……」
ルーヴェットは四足歩行の獣で、毛は少なく、黒い体表をした大型の獣だ。しかし兵士達の前にいるのは、茶色味のある毛に覆われた、小型から中型の獣である。
ここがもし地球で、それを知る人がいればこう言っただろう。
『シェルティだ』
と。
兵士達の前にいる動物は、この世界には存在しない犬科のシェットランドシープドッグであり、無論、その正体はシャトンが変身した姿である。いや、元の姿に戻った状態である。
なお、シェルティの姿に戻っても、着ていた服まで一緒に消えるわけではないので、シャトンは一度全裸になり、服を背負い袋にしまってから変身している。
「おい、どうする?」
「どうするったって、あの獣がこの臭い匂いの原因なら、駆除するしか無いんじゃないか?」
(私じゃないですし!)
乙女に向かって臭いとは失礼な、と言いたいところをグッとこらえ、シャトンは再び唸り声を上げる。兵士達は後ずさりしたが、それも半歩までだった。
「……所詮は獣だ。それに体格も小さい。全員でかかれ!」
上官の命令で、兵士達の意識が戦闘モードに切り替わる。兵士達は武器を構えて、シャトンを包囲するため、半円状に広がった。
しかし、先制攻撃を仕掛けたのはシャトンだった。
シャトンは大きく息を吸い、そして吠えた。
『ワン!』
その鳴き声で、シャトンに最も近くにいた兵士がバタッと倒れた。その近くにいた兵士も片膝をつき、耳を押さえて呻き声を上げている。
「うあああ……」
「おい、どうした?」
「耳が……頭が……」
「全員、撤退!撤退だ!」
兵士達は倒れた兵士を抱え上げ、入り口付近まで撤退した。
(はあ……すぐに引いてくれて助かりました)
兵士を倒したシャトンの技は、いわゆる衝撃波のようなものだ。
魔力(こちらの世界で言う所の女神の奇跡の技)に起因するため、物理現象の衝撃波とは若干異なるものの、吠える声と共に衝撃波を生み出し、前方の物体にダメージを与える事ができるのだ。
事の発端は、犬の姿の時に、啓に「試しに思いっきり吠えてみて」と言われ、力いっぱい吠えたみたところ、近所の窓を破壊するという事態になったことから発覚したものだ。
もしも啓が顔の真正面近くから受けていたら、鼓膜どころか、眼球や頭が破裂していたかもしれない危険な事案だったが、結果オーライということで、シャトンは犬の姿と一緒に授かったこの能力を、実用レベルで使えるように練習している。
連発はできないし、制御も不完全ではあるが、出会い頭の不意を突くにはもってこいの技だった。
「おい、バルダーを持って来い!奴に生身で挑むのは危険だ!」
「分かりました!」
(やっぱりそうなりますよね……)
一度は撤退した兵士達も、やられっぱなしではいられない。兵士達は、外の警備に充てていたバルダーを呼び、再びシャトンを退治することにしたのだ。
(そろそろミトラさんが起きてくれれば……ん?)
その時、外にいる猫達から、次々と念話が届いた。市場の異変によって、猫達と呑気に遊んでいられなくなった兵士達が、慌ただしく動き出したという報告だ。
『みんな、連絡ありがとう。敵はこれからバルダーで市場に向かってくるつもりです。みんなは当初の予定通り、町外れの集合地点に向かってください。私はミトラさんを連れて、なんとか市場から脱出しますので……』
だから先に行ってください、と伝えようとしたシャトンだったが、その言葉は一匹の猫の念話によって遮られた。
『シャトン姉様。バルダーってあのおっきな機械だよね?』
『フェルトちゃん?えっと、こちらからは見えませんが、おそらくそうでしょう』
フェルトはクロアシネコという種類で、褐色に黒の斑点のある模様が特徴の小さな猫だ。実際、猫達の中でも体は最も小さいが、その分すばしっこく、唯一、チャコとの鬼ごっこ訓練で、チャコに触れた実績もある。
なお、フェルトや一部の猫は、シャトンのことを「シャトン姉様」と呼んでいる。
『それってシャトン姉様が練習してた自走車をすっごくした感じ?』
『まあ……そうですね』
シャトンは無人のヒルキの町で、自走車の運転練習をした。それはいざという時に、サリーのバルダーを運ぶ輸送車を、代わりにシャトンが運転するためである。
その練習の時には、猫達も一緒に自走車に乗り込み、シャトンの頑張る様子を見ていた。
『オーナーからは、自走車もバルダーも、操作は似たようなものだと聞いていますが……』
『そっか。分かった!』
『え、分かったって何が?フェルトちゃん?』
その数分後。市場の外では、更に大きな騒ぎが勃発するのだった。
シャトン、脱ぎました。
そして吠えました。
次回、猫達も暴れます。
レビュー、ブックマーク、評価、誤字指摘などいただけると大変励みになります。
よろしくお願いいたしますm(_ _)m