056 生体実験
研究所の一室から現れたのは、ルーヴェットという四足歩行の獣だ。本来は臆病で、人の姿を見るだけで逃げ出すようなルーヴェットが、唸り声を上げながらサリーと職員を睨みつけている。
その理由は、おそらく額に埋め込まれている魔硝石のせいだろうとサリーは考えていた。
「おい、お前。一体ここで何をしていた!ルーヴェットに何をした!」
サリーは部屋から逃げてきた職員を問いただした。肩に怪我を負い、衣服を赤く染めている職員は、サリー(の仮面)から目を逸らしたまま、小さい声で答えた。
「生体実験です……捕まえたルーヴェットに魔硝石を埋め込んで……支配と能力強化の実験を」
「馬鹿なことを……」
サリーはこの職員を殴り飛ばしてやりたいと思ったが、今はルーヴェットから目を離す訳にいかなかった。サリーはスカートの中から取り出した短剣を構えて、ルーヴェットを睨み返した。
「でも、今までこんなことは起きなかったのです。それなのに、今日になって突然、ルーヴェットが暴れだしたんです」
「今日のいつ頃からだ?」
「えっと、一時間ぐらい前から落ち着かなくなって……暴れ出したのはついさっきです。まるで何かを見つけたように外に出たがって、それを止めようとしたら、噛みつかれたんです……」
「なるほどな……」
その時間は、サリーがこの地下施設に来た頃と合致した。サリーは、そっとカンティークの仮面に触れてみた。サリーの思惑を拾ったのか、カンティークが超小声で囁く。
(ご主人、あの獣は私達に気付いています。うまく説明できませんが、おそらくあの魔硝石のせいで、私達を同類のように認識しているようです。獣が暴れたのはそのせいかと)
つまり、カンティーク達を連れたサリーとミトラがこの施設に入ったことを認識したルーヴェットが、カンティーク達に会うために施設から出ようとして暴れ、職員に噛み付いたのだと思われた。
(この職員が怪我を負ったのは、私達のせいか……それは申し訳なかったな)
しかし、そのことを職員に説明するわけにはいかないので、代わりにサリーは、こっそりと職員に治癒の術を施した。
サリーの持つ女神の奇跡は、治癒の力だ。啓を治癒した時のように、完治するほどの効果は出ないだろうが、傷を塞いで出血を止めるくらいのことはできる。そうすることでサリーは、自分への免罪符とした。
再び、カンティークがサリーに囁いた。
(ご主人、獣が魔硝石の力を使い、同調を試みようとしています)
同調というのは、カンティークやバル子達が、魔硝石の力を使って念話をするようなことだ。それを聞いたサリーは、カンティークに尋ねてみた。
「話はできそうか?」
「あんな獣と話ができるわけ無いじゃないですか!」
サリーの言葉はカンティークに向けたものだったが、職員は自分に言われたものだと思ってサリーに答えた。職員は、サリーの「こっそり治癒」で怪我の痛みが消えたせいか、言葉に元気が戻っている。
サリーは職員を無視して、カンティークの返事を待った。
(……かなり弱いものですが、獣の思念が伝わってきました)
サリーは頷き、カンティークに続きを促した。
(……殺して欲しい、と訴えています)
その言葉に、サリーはショックを受けた。野生動物が自決を願うことなど、あり得ないと思った。魔硝石で知性を得たせいか、それとも実験の苦しみに耐え切れなくなったのか、あるいはその両方か。
とにかく目の前の獣は、殺されたいと願っているのだ。
「そんなこと、できるわけ無いだろうが!」
「だから、できないって言ったでしょう!」
サリーは仮面ごと頭を抱えた。なお、職員とのすれ違い会話は、耳に入ってすらいなかった。
たかが獣の命など、昔のサリーであれば、それほど気にすることも無かっただろう。
しかし啓と出会い、カンティークや他の動物達と出会ったサリーは、動物に愛情を注ぐことを学んだ。やや特殊な例だが、動物と心を通わせる事ができることも知った。
もちろん、問答無用で襲ってくる獣や、人間に被害を与える害獣に対しては、サリーも容赦することはないだろう。
しかし眼の前のルーヴェットは、むしろ人間から被害を受けた側だ。それにカンティークを通して、その心情も知ってしまった。そんな獣を無碍に殺すことなどできなかった。
「私は……私は、どうすればいい」
「やれ!」
サリーの苦悩は、聞き覚えのある声の主によって、ある意味解決した。その声は、自分のそばにいる職員のものでも、カンティークのものでもなく、背後から聞こえた声だった。
サリーは、その「背後から聞こえた声」に反応して頭を上げた。そしてサリーが目の当たりにしたのは、無数の槍で体を貫かれ、その場に倒れ込むルーヴェットの姿だった。
サリーが振り向くと、そこには所長と、他の職員達の姿があった。襲われた職員の悲鳴を聞きつけ、武器を持って駆けつけた所長と職員達は、所長の号令でルーヴェットに無数の手槍を投げたのだ。
「所長……ありがとうございます!」
怪我をした職員が立ち上がり、所長の元へと駆けていく。逆にサリーは、倒れたルーヴェットの元へと向かった。
全身から血を流し、呼吸も弱くなったルーヴェットを間近で見たサリーは、治癒を施しても既に助からない状態だと一目で分かった。
(ご主人……)
カンティークがサリーを気遣い、声を掛ける。サリーは小さく、大丈夫と応えた。
結果だけ見れば、ルーヴェットの願い通りになったのかもしれない。しかしサリーは、このルーヴェットをできれば助けたいと思っていた。助けるための方法こそ分からなかったが、サリーは命の灯が消えていくルーベットの前で打ちひしがれていた。
「ワルキューレさん!」
遅れて来たミトラがサリーの元にやってきて、サリーの横に並んでルーベットを見下ろした。ミトラには詳しい経緯が分からなかったが、ミトラはサリーから、怒っているような、あるいは悲しんでいるような雰囲気を感じた。
「……一体何があったの?」
「後で話すよ」
その時、床に硬い物が落ちる音が聞こえた。見れば、ルーヴェットの額から、拳大の魔硝石が外れて落ちていた。サリーはその魔硝石を拾い、素早くスカートの中に入れた。
「帰ろう、ミトラ。所長との話も終わったんだろう?」
「うん、なんか悲鳴が聞こえて、所長がすぐに立ち上がってさ。それで職員を連れてこっちに来たんだ」
「そうか」
サリーとミトラがルーベットから離れ、通路に戻ると、そこで待っていた所長がサリーに向かって深々と頭を下げた。
「危ない目に合わせてしまったようで申し訳ございません」
「いや、私は大丈夫だ。それより、あのルーヴェットをしっかり弔ってやって欲しい」
「ほう、さすがは動物使いの方だ。こんな獣にまで情をかけるとは、実に素晴らしい!そういった心がけが、獣と心を通わせる秘訣なのでしょうな」
「……お前には、一生分からぬことだろうな」
サリーは所長にそう吐き捨て、所長の横を通り過ぎようとした。しかし所長は、手でサリーの進路を遮った。
「何のつもりだ」
「恐れ入りますが、今ここで見たことは、秘密にしていただけるとありがたいのですが」
「……心配するな。誰にも言わん。口の端に乗せることすら忌々しい」
「そうですか、それは良かった。では、出口まで職員に案内させましょう」
職員の先導で出口に向かったサリーは、途中で「口封じ」をされる可能性を警戒していたものの、その心配は杞憂に終わった。
無事に研究所から開放されたサリーとミトラは、今日はもう宿へ戻ることにした。
(ご主人)
(なんだい、カンティーク)
帰り道の途中で、カンティークがサリーに囁いた。
(あの獣ですが……最後に、ありがとう、と言っていたように思います)
(……そうか)
それが事実なのか、カンティークの気遣いなのかは分からないが、それでもサリーは、少しだけ心が救われたような気がした。
宿の部屋に戻ったサリーはカンティークの仮面化を解除して、濡れてしまったカンティークの腹を乾いた布で拭いた。
◇
死んだルーヴェットの事後処理に当たる職員を見ながら、所長は仮面を被った動物使いの事を考えていた。
「どこかで見たような……それに聞き覚えのあるような……」
最初は声色は変えていたようだったが、最後に会話を交わした時の声は、地の声だったように思われた。そしてその声にはかすかに聞き覚えがあるような気がしていた。
「あの、所長。これなんですが、どこに処分すれば……」
「はいはい。それはですね……」
職員からの質問に答えようとした所長は、ふとその職員の肩を見た。
「そう言えば、あなたはルーヴェットに噛まれたのでしたね。怪我をしているのですから、無理をしてはいけませんよ」
「はい、ありがとうございます!所長は本当に優しいですね……でも大丈夫です。そんなに傷も深くなかったので!」
「そんなに血が出ているのにですか?」
ルーヴェットに噛まれた職員はまだ着替えもせず、肩口から脇腹にかけて、真っ赤に染まった服を着たままだった。
「ええ、最初はかなり痛かったのですが、たぶん強く押されたからだと……えっ、所長?ちょっと!」
所長は職員に近づき、職員の服をグッと引っ張って肩口を見た。確かに噛まれたような痕は残っているが、皮膚を深く割いたような傷は無かった。
「この傷で、こんなに血が流れるはずはない……いや、最初はかなり痛かったと言ったな……」
「あの……所長……」
「つまり、途中で痛みが消えた……そして傷も消えた、いや、傷が癒えたのか?」
「所長、所長ってば!」
職員は、考えに耽っている所長を突き飛ばした。床にすっ転んで頭を打った所長は、その職員に向かって抗議した。
「いきなり突き飛ばすなんて、ひどいではないですか!」
「ひどいのは所長です!いきなり私の服を脱がすなんて!もう少しで胸が出るところでしたよ!」
「あ……それはその、大変申し訳ない」
一転、所長は平謝りした。しかし所長は、今の衝撃で、ある人物のことを明確に思い出した。
「そう言えば、彼女もお転婆でしたね。そして治癒の力を持っていた……確か死んだはずでしたがね」
「あの、所長?」
当たりどころが悪かったかも、と心配した職員だったが、所長は心配無用と言って起き上がると、所長室へ戻るために廊下を歩き出した。そして懐から懐中時計を取り出した。
「ふむ……もうこんな時間ですか。では明日にでも報告書を作って、あの方に送るとしましょうかね」
所長が手の中で、くるくると懐中時計を弄ぶ。
その懐中時計の背面には、サリーの事故現場付近でナタリアが見つけた短剣と、同じ紋章が刻み込まれていた。
中途半端に長くなったので分割しました。2話連投します。
試合は次回です。
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