第11話:推しキャラとさよなら
「……そっちに行ってもいいですか?」
しっとりとしたトーンで告げられたその言葉は、ゆっくりと俺の脳にその意味を伝えていく。
「アイドルの小鳥遊ルリ的には、NGなんじゃないのか?」
「……こちらの世界では、まだ、アイドルじゃありません」
拗ねたような言葉が返ってくる。
そうか、こっちの世界じゃアイドルじゃないのか……と、言われてみれば当たり前のことを反芻していると、やがて、
「プロ意識がないこと言って、怒らせちゃいましたか?」
と、反省したような声が聞こえる。
「いや、そうじゃなくて。ルリはアイドルじゃないんだな、って思ってただけ」
「そう……ですか。それでは」
少し遠くでかさかさと衣摺れの音がして、そして。
……もぞもぞ、と俺の背中側に入ってきた。
「こっち、向かないでくださいね。恥ずかしいので」
そこには体温があり、鼓動があり、吐息があり、俺が振り返らないようにか、背中に置かれた手のひらの感触がある。
ルリに実体があるのかどうかという、銭湯で考えていたこともきっと杞憂で、今俺の背中側で呼吸している小鳥遊ルリは、なんの矛盾もなくここに存在しているんだろう。
「わたしの世界にも、マネージャーさんがいたんですよ。そういえば言ってなかったかもしれないですけど」
「……?」
どういう意味だろう、と心の中で首をかしげる。
「マネージャーさん……阿久津祐作さんが、わたしのマネージメントをしてくれていました」
「俺の姿形で?」
「はい、祐作さんの姿形で、祐作さんの声で」
「ほう……?」
俺には、アイプロの世界の中に入った記憶がない。
でも、あるとすれば……。
「俺の選んだ選択肢を、そっちの世界の俺が読み上げてたってことか」
「そんな機械的なことみたいに言わないでください」
ぺし、と背中を叩かれる。
「でも、きっと、そういうことです。だから、こっちの世界にきた時、マネージャーさんを見た時に驚かなかったんです。わたし的には、初対面じゃないのですよ」
「そうなのか……」
たしかに、ゲームには、主人公=マネージャーの姿形は出てこない。
あれは、そもそも、自己投影をするためのギミックなのだろうけど、ゲームの中の世界にもそのように干渉している、ということらしい。
そりゃ、夢のある話だな、と素直に思う。
「そう考えると、どっちがゲームの中だか分かったもんじゃないな」
「そうですよ? お互いに、マジックミラー越しに見てるようなものです」
「マジックミラーねえ……」
なるほど。物理的にありえないけど、わかりやすいたとえだ。
「だから、わたしにとっては、マネージャーさんは、祐作さんだけなんです。それだけ、忘れないでいて欲しいです」
「……ありがとう」
俺は、小鳥遊ルリしか育てていない。そのことが妙な形ではあるが報われたと言うか、肯定された気がして、ほんの少し声が湿ってしまう。
「こちらのセリフです、本当に、」
ルリの方も思うことがあるのか、少し潤んだ声で、
「いつも、ありがとうございました」
過去形で、御礼を告げた。
待ち合わせの時間が来る。
荷造りをしたルリと一緒に俺は『音無カフェ』に向かった。
「それじゃ、あたしが責任を持って預かるから」
昨日と同様にキャスケット帽をかぶった霜田が、頼もしい笑顔でいう。
「なあ、霜田」
「ん?」
「たまには会わせてもらえるか?」
涙ながらに話す俺と、そばで涙ぐんでいるルリを一瞥して、
「……は?」
霜田がジト目を返してくる。
「あんた、あたしの元夫……?」
「それは昨日ルリにも言われた……」
「言いましたあ……」
「はあ、二人して泣かないでよ……。あたしが2人を引き裂く悪役みたいじゃん……」
霜田は呆れたように頬をかく。
「別に喧嘩してるわけでもなんでもないんだから、いつだって会いにきたらいいじゃない。ていうか、しばらくはルリちゃんを一人には出来ないんだろうし、あんたかあたしのどっちかといないとでしょ?」
「じゃあ、いいのか……!?」
「だから、良いってば……。ま、今日くらいは我慢してバイトにでも向かいなさい?」
「おう……」
俺は霜田のコメントに、ルリの方に向き直り、勇気を出して手を振る。
「じゃあ、またな。ルリ」
「はい……!」
そうして立ち去ろうとした俺を、
「ちょっとちょっと!」
霜田が呼び止める。
「ん?」俺が振り返ると、
「ん!」霜田がスマホを掲げた。
「んん……!」そうか、たしかに、と俺は応じる。
「『ん』だけで会話してます……?」呆れ声のルリ。
言われてみれば、霜田と連絡先を交換していない。
さすがに、ルリと会うためには、霜田と連絡が取れる必要がある。
「そのうち、ルリちゃんにもスマホを買ってあげようと思うけど、今日の今日ってわけにはいかないから。とりあえずはあたしと交換しとこ?」
「いいのか? 女性声優の連絡先を男性が知ってても」
「別にいいのよ。あたしの連絡先くらい」
住所はダメだけど、ラインはいい、と。まあ、ちょうどそこらへんに彼女的なボーダーラインがあるんだろう。
俺たちはQRコードでラインを交換し、差し障りのないスタンプを送り合う。
本当はルリのスタンプ(『なってみせます!』)を送ろうと思ったのだが、アイプロのスタンプの中からルリのスタンプがなくなっていたから、そっと無関係のコンテンツのスタンプを送った。
返事をくれる時の霜田の目や指の動きを見たところ、彼女もきっと、同じような思考の動線をたどったのだろう。
「それじゃ、今度こそ」
そこまで言って霜田はニヤリと笑う。
「ほら、ルリちゃん、パパに最後のお別れ言いなさい?」
「ぱ、ぱぱ……?」
「いや、離婚風シチュエーション、楽しんでるだろ……!?」
思ったよりも意地悪な人だな、霜田茜。
「……ただいま」
そのままバイトに行って家に帰ると、当然のように一人だけの部屋が俺を迎え入れた。
たった3泊、ルリがいただけなのに、どうしてこうも寂しい気持ちになるんだろう。
ドラえもんが未来に帰った直後ののび太くんみたいに、部屋のすみっこで体育座りをする。
「ルリちゃん。きみが帰ったら部屋ががらんとしちゃったよ……」
気持ち悪いことを口走ってから、しきっぱなしにしていた布団で眠りについた。
……ポーン、ピンポーン、ピンポーン!
「……?」
ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン!
けたたましいインターフォンに起こされる。
「……なんだ?」
かすれた声を出すと、いつの間にか朝になっていた。
重たい身体を引きずって玄関に向かう。
「はい……?」
寝ぼけ眼でドアを開けると。
「どうしよう、阿久津……!」
顔面蒼白の霜田茜と、
「マネー、ジャー、さん……!」
熱があるのか、真っ赤な顔をした小鳥遊ルリが霜田にもたれかかりながらどうにか立っていた。




