この国の中心で『日本人を差別するな』と叫ぶ
昭和六十四年。
光化学スモッグが上空を蠢いている。街の中央を流れる川には、灰色、黄土色、紺色の工場廃水がドボドボと垂れ流され、その水面は、とろみがかり、淀んでいる。
二学期が終わろうとする頃、小学六年生の僕は、公務員の父の急な転勤に伴い、生まれ育った自然豊かな住宅地を離れ、都市近郊にある工業地帯への引っ越しを余儀なくされた。
その街の人々の生活は貧しく、風紀は荒んでいた。所狭しとひしめき合う巨大な工場群の周囲には、厳重に有刺鉄線が張り巡らされている。その膨大な敷地の死角から、街の不良、チンピラ、極道者などに不法侵入をされ、場内を集会や処刑の場として利用されない為の対策とのことだった。
転校先の小学校の風紀も酷かった。同級生の男の子たちは、放課後になると運動場の遊具の陰で日常的に喫煙をした。校舎裏の屋外階段の一番下にあるワックス置き場の鍵を壊して、嫌がる低学年の女の子にエッチな行為をする男子や、透明の薬品をビニール袋に入れてその臭気を吸い、狐狸物の怪に取り憑かれたようになる女子がいた。前の晩にビールを呑み過ぎたとのことで、授業中に教卓いっぱいにゲロを吐く教師もいた。
そんな環境に迷い込んだ僕は、卒業間際に引っ越してきたよそ者、父の職業は警察官、運動も勉強も出来ない牛乳瓶の底のような眼鏡をかけたヒョロヒョロのモヤシっ子。校内にはびこる愚連隊にとっては、さながら鴨が葱を背負ってやってきたかのような、おあつらえ向きのイジメの獲物であった。
放課後に、近所の空き地に積み置かれた高さ二メートル程の砕石の山の頂上で、僕は、白いブリーフ一枚になり、同級生五人が家から持ち寄った「キン肉マン消しゴム」をぶつけられる的になっていた。
「ぎゃはは! 見た? 見た? はい、大当たり! な、今、チンコに当たったよな!」
僕の股間にキン消しがヒットすると、高得点を得られるというルールだ。いわゆる番長各の同級生が、周囲の子分各に判定を求める。
「え~、今の、当たっとらんでしょう」
「うん、俺も見とったけど、太ももの付け根に当たっただけだぎゃ」
子分各たちが口を揃えて無効を告げる。その間も僕に向かってテリーマンやアシュラマンが無慈悲に飛んで来て、乳首やヘソに当たる。ミート君が、鼻の頭に直撃をする。
「ちゃうて! 絶対当たったて! 俺のロビンマスク、絶対ケンボーのチンコに当たったもん!」
下校中のクラスメイトの女子たちが、ブリーフ一枚でいじめられている僕の姿を見て、クスクスと笑いながら空き地の前を通り過ぎて行く。
「なあ、ケンボー! おれのロビンマスク、お前のチンコにヒットしたよな!」
番長各が、いよいよ僕に最終判定を迫る。
「ゴメン。当たっとらんよ。みんなの言う通り、太ももの付け根にヒットしただけ」
的である僕が言うのだ、間違いはない。
「んだと、このガキ、おい、てめ、マジ調子乗んなよ」
僕の判定に不服の番聴各が、怒髪天になって砕石の山をザクザクと駆け上がり、僕の頭を鷲掴みにして振り回す。
「おお、こら、マジで調子乗んなよ、こら、おら、だあ、このクソ眼鏡野郎」
番長各が、砕石の山の頂上で僕の尻に蹴りを入れる。不安定な足元に態勢を崩し、僕は砕石の斜面を転がり落ちる。地獄だ。生き地獄だ。
「ちょ、おまーら、なーしとん? やめたれよ」
その時、彼は現れた。白いランニングシャツを着た同世代の少年だった。落ち着いてよく観察をすると、僕と同じぐらい痩せた、ヒョロヒョロのモヤシっ子だ。
「はあ? おまーに関係ねーがや。おま、マジで殺したろか。てか、おま、見慣れん顔だな、おま、誰だあ?」
おま、おま、おま、を連呼しながら、小六なのに既に中三のような体格の番長各が、縄張り争いをする野生動物のように相手を威嚇する。
「俺? 俺はあれだ、神社の裏の者だ」
番長各の質問に対する少年の返答を聞いて、同級生たちの様子が一変した。
「……神社の裏って、あの神社の裏?」
子分各の一人が、空き地から数百メートル先にある鬱蒼と茂る森を指差した。
「おう、あの神社の裏に住んどる者だ。ちなみに俺の名前は――」
そう言って、少年は右の人差し指と中指を立てたVサインを、水戸黄門の印籠のように同級生に突き付けた。
「チョキ……。まさかお前、あの『神社の裏のチョキ』か?」
状況を掴みかねた。先まで威勢の良かった同級生たちが、ゆっくりと後ずさりを始めたのだ。少年は、無言で頬の片方だけを吊り上げる、この上なく不敵な笑みだ。
「出た! チョキだ! チョキが出た! 逃げろ! あの指で目玉を突かれるぞ!」
そう誰かが叫ぶと、同級生たちは、一目散に散り散りになって逃げ出した。
※ ※ ※ ※ ※
静まり返った空き地で、僕はチョキと呼ばれる少年と二人きりになった。赤茶色の砂埃が、掃き溜めで竜巻のように舞い上がる。
「まったくよ~、あいつら、人を化け物みたいに言うでかん」
助けてくれてありがとう。服を着終わった僕は、鼻をほじりながら何やらぶつぶつ言うチョキに、心からお礼を言った。
「気にせんでええよ。同胞だでな。当たり前だがや」
「同胞?」
「ああ、俺とお前は同胞だでな。だもんで、俺はお前を助けた……あれ、嘘ん、お前、えーっと、ケンボーって言ったか、おい、ケンボー、おま、ひょっとして『神社の裏の者』と違うのか?」
「違うよ。僕は最近他の街から引っ越してきた者だよ」
「何だて~、早よ言え~。俺、お前のその体格を見て、俺らの同胞かと勘違いしたがや」
「僕の体格?」
「おお、そのガリガリっぷり。俺らはみんな貧乏だで、みんな揃いも揃ってお前みたいにガリガリに痩せとる。ちっ。同胞じゃないのかよ。ったく。助けて損した」
出刃包丁で刺した魚の腹からに滲むような夕焼けが、僕とチョキを包む。二人の靴の裏に隠れていた影法師が、うにょうにょと這い出てきて、地べたに長く寝そべっている。
「それにしても、おま、悔しくないんか。同級生に、あんなふうにオモチャにされて」
「悔しいに決まっとる。あ~あ、僕に強靭な肉体があれば、あんな奴ら片手で捻り潰したるのになあ」
「あのなあ、ケンボー、力なんか無くても喧嘩には勝てるぞ。俺やお前のようなヒョロヒョロでも絶対に喧嘩に勝てる。相手を殺す気持ちさえあればな」
「相手を殺す気持ち?」
「ああ、喧嘩をする時に重要なことは、相手を殺す気で戦えるかどうか、その一点だ。相手の将来も、俺の将来も、喧嘩の最中には関係のないことだ。だから俺は、喧嘩になったらこの二本の指で真っ先に相手の眼球を突く。するとどうだ、どいつもこいつも、真っ青になって俺から逃げて行く。ちゅーわけで、俺は喧嘩に負けた事が一度も無い」
少年は先程と同じようにVサインを作り、それで僕の眼球を突き刺す真似をした。
「まあ、これも何かの縁かも知れん。俺の名前はチョキ。小学六年生だ。覚えとけ。お前らとは違う学校へ行っとるけどな。よろしく頼むわ」
「チョキって、変な名前だね」
「アホ。本当の名前は別にあるわ。でも、俺はこのあだ名を、でら気に入っとる。そして俺は、チョキこのマークを、でら気に入っとる。俺はこのハサミで、この下らない世界を切り裂く。このハサミで、このどうしようもない世界をぶち壊したい」
己の右手のチョキをまじまじと見詰めながら、チョキが自分に言い聞かせるように呟く。
「ねえ、チョキ、違うよ。そのチョキマークは世界を破壊するマークではないよ。そのマークは、ピースマークと言って平和への願いを表すものだよ」
「ほえ? へへへ、ケンボー、お前、面白い奴だな。気に入った。おま、今から俺と神社の裏に行こまい。この俺が特別に案内したるで」
僕にくるりと背を向けて、チョキが鬱蒼と茂る森の方へ歩き出す。擦り剥いた膝に唾を塗りたくり、僕はチョキの背中を追いかけた。
※ ※ ※ ※ ※
森の樹々が、今にも天から崩れ落ちそうに生い茂っている。太陽の光は分厚く遮られ、住居に向かう小径は、昼間だというのに重苦しく暗い。神舎の裏手にある猪程度の獣が通れる小径を、チョキに連れられてしばらく歩くと、そこに寂れたバラック集落が出現した。
雑木に繋がれた後ろ足が一本ない雑種犬が、僕に唸り声を上げている。踏み潰された毛虫から飛び出た紫色の体液が、薄っぺらなコンクリートの上で生乾きになっている。バラック小屋の入り口の扉は、どの家も開けっ放しで、扉の前を通り過ぎる度に、小屋の中から住民たちの強烈な視線を感じる。放し飼いになった鶏が数羽、辺りをうろついている。
「何か臭いね。鶏の臭いかな」
「この臭いは豚。豚の糞の臭いだ。すぐ近くに豚小屋がある」
しばらく歩くと自動車のタイヤのゴムを半分だけ地面に埋めて家の周りを囲い、それを隣地との境にしているバラック小屋に辿り着いた。
「ここが、俺の家だ。まあ、ゆっくりしてちょ」
そのタイヤのひとつにチョキは腰を掛け、ポケットの中から赤い肉の干物を取り出して、それをかじった。
「ほれ、腹減たっろ。ケンボーも喰え」
チョキが、名刺程のサイズの干物を前歯で引き千切り、その半分を僕に放り投げる。僕も埋まったタイヤに座り、チョキと一緒にそれを食べた。
「美味しいね。これ、何の肉?」
「知らん」
「ええ、何の肉か知らずに食べとるの?」
「聞くな。肉は、肉だ。黙って喰え」
はじめて入った神社の裏の世界は、引っ越してくる前に住んでいた自然豊かな住宅街とは似ても似つかない景色だったが、何故だかとても懐かしい感じがした。この懐かしさの正体が何なのか、僕にはよく分からない。でも、少なくとも、今住んでいる借家のある赤錆と機械油と排気ガスにまみれた町内より、僕はこの神舎の裏の世界の方か何倍も好きだと思った。
「ねえ、チョキ、これからも時々、ここに来て遊んでいい?」
「おお、ええぞ。ただし、約束だ、一人で勝手にここに入るな。必ず俺と一緒に入れ。絶対に一人でぶらりとここへ来たらいかん」
「何でだて?」
「聞くな。約束は、約束だ。黙って守れ」
干物を食べ終わると、チョキは道端に生えた雑草を摘まんで、何気にそれを口に含む。僕もチョキと同じ雑草を摘まみ、口に含んで奥歯で磨り潰す。青臭い、ほろ苦い味がした。
その日から僕は、学校が終わると、毎日神舎の裏の入り口でチョキと待ち合わせをし、チョキと一緒に森の奥深くにあるバラック集落で遊んだ。チョキと付き合うようになってからというもの、僕が学校でいじめられることなくなった。
※ ※ ※ ※ ※
冬休みになった。休日の朝に僕が自室で日誌の問題を解いていると、おもむろに父が部屋に入って来た。
「おい、ケン。お前最近神社の裏の地区に出入りしとるって本当か?」
「うん、そうだよ。あそこに親友がおるで」
父の形相が変わる。
「いかん! 神社の裏の者とは付き合うな! あそこの連中は危険だ!」
普段は穏やかな父には珍しい、あからさまな憤怒の表情だ。
「お父さん、何を言っとるの! 何で勝手にそう決めつけるの!」
「お父さんが、この街に転勤して来たのは、あの連中を取り締まる為だ。最近神社の裏の者たちによる犯罪が多発しているとのことで、その防止策の増員として、お父さんはこの街に配属をされた」
「……そうなの」
「いいか、ケン。神社の裏の者を取り締まるべき警察官の、その息子が、寄りによって神社の裏に入り浸っているなんて、笑い話にもならん。金輪際神社の裏の者とは縁を切れ」
「嫌だ! 絶対に嫌だ! お父さんに、僕の親友の何が分かるの! 出てってよ! お父さん、僕の部屋から出てってよ!」
大きな声で言い合いをする僕と父のその声に反応をして、お隣の加藤さんが飼っているシェパードのジョンが吠え始めた。ジョンは一度吠え始めると、しばらく鳴き止まない。犬の鳴き声に負けぬ勢いでむせび泣く僕を見かねて、父はしぶしぶ僕の部屋から出て行った。
「ねえ、あなた、お隣の犬、毎日うるさ過ぎるでかん。流石にこれは苦情を申し立ててよいレベルだと思うわ。あなたから、加藤さんに、しっかりと犬をしつけて頂くように、お願いをしてくれないかしら」
居間の方から、両親の会話が聞こえてくる。
「馬鹿言うな、お隣の加藤さんは市会議員だぞ。しかも我々が住んでいるこの借家の大家さんだ。更に言えば、加藤さんは現在あの神社の裏の者の立ち退き運動の中心にいる人物。苦情なんて言える筈が無いがや」
以降の会話は、ジョンの鳴き声に掻き消されてよく聞こえなかったが、『立ち退き運動』という、聞き慣れない言葉がやけに耳に残った。隣のジョンが吠え続けている。
それからも、僕が父の言いつけを守ることは無く、両親に内緒で神社の裏に入り浸った。
※ ※ ※ ※ ※
「おい、ケン、喜べ。来年の夏には、前に住んでいたあの自然豊かな街に帰れるぞ」
お別れは、突然訪れた。三学期が始まってひと月が過ぎたある日の夕方。帰宅した父が、居間でテレビを見ている僕に上機嫌で話しかける。
「え、どういうこと?」
「神社の裏の者たちの立ち退きが決まった。市会議員であるお隣の加藤さんの政治力で、来年の夏までを目途に、半ば強制的に彼らはあの森から出て行くことになった。街の治安が戻る。お父さんがこの街にいる必要は無い。必ず異動命令が出る。愛するマイホームに戻れる」
「ちょ、ちょ、ちょ、ちょっと待ってよ、お父さん。ほしたら、追い出された彼らはどこへ行くんだて?」
「何、心配するな、別に野晒しにする訳ではない。あの集団をバラバラにして勢力を衰えさせる目的で、それぞれ市内の遠く離れた場所に住居を与えて住まわせる計画らしいで」
「アホか。僕は承知せんぞ。この街の治安が悪いのは、神社の裏の者たちのせいじゃない。ぎゅうぎゅう詰めに建っている工場のせいだ。川や、空や、緑を汚した、ここに暮らす大人たちのせいだ。よく聞け。僕をいじめたのは、この街に住む者だぞ。その僕を助けてくれたのは、神社の裏の者だぞ。そこんとこ分かっとるんか、この糞オヤジ、殺すぞ、馬鹿野郎」
「ケン! 親に向かって何だ、その口の利き方は! いつからそんな子になった!」
右の手の平を僕の頬目掛けて大きく振りかぶった父の小脇をすり抜け、僕は家を飛び出した。
工場地帯の夕暮れが、闇に染まろうとしている。絵の具のパレットの広いところで、不本意に色と色とが混じり合ったような複雑な空だ。僕は走った。チョキに会いたい。会って事の真相を確かめたい。その一心で、彼との約束を破り、単身で神社の裏の世界に飛び込んだ。
夜の始まりの、神社の裏の小径を、一人で進む。すっかり見慣れた景色の筈なのに、まるで別世界のように不気味で、ちょっとした肝試しをしているようだ。いつもチョキの後ろをただ気なしに付いて歩いていたので、小径の分岐店に差し掛かると、どちらへ進めばよいのか迷ってしまう。
幾度か道に迷い、何とかチョキの家に辿り着いた。すると、チョキの家の前で、角材や鉄パイプを握った五人の痩せた大人たちが、地面に倒れた一人の青年を取り囲んでいる。集団リンチだ。傍らに青年が持っていたと思われる高級なカメラが、フイルムを抜き出されて転がっている。
「ぎゃ」
思わず恐怖が漏れた。僕の声に反応した大人たちが一斉にこちらを振り向く。
「ん~、誰だ、おま~」
中でも一番凶悪な顔面の大人が、僕に話しかけた。
「知らんのか。こいつ、お前んとこのガキが最近連れて歩いとる日本人だがや」
周囲の大人が、耳打ちをする。
「何やよう知らんけど、面倒臭いで、このガキもやってまうか?」
そう吐き捨てた凶悪な顔面の冷たい手が、僕の細い腕を掴み上げる。その刹那、バラック小屋の奥から、慌ててチョキが飛び出してきた。
「おいおいおい、ケンボー、あれほど一人で来るなと言ったがや!」
凶悪な顔面の手から僕を離し、相手に立ちはだかる。
「おい、ガキ、こいつも日本人だ、ついでにやってまうで、ほら、こっちよこせ」
「こいつは、俺の大切な連れだ。こいつに指一本でも触れてみい、お前、燃やすぞ」
「こら、ガキ、いい加減にせいよ、それが実の父に向かっていうことか?」
「……」
「お、どうなんだ、親に向かってそんな口の利き方していいんか?」
「……」
「ほら、答えろ。黙ってねえで、答えてみやあ」
「……お父さん、生意気を言って申し訳ありませんでした。でも、お願いです。こいつのことは勘弁してやって下さい。自分はどうなっても構いません。でも、こいつは許してやって下さい」
嘘、嘘だろ、チョキ、いつもの威勢の良さはどこへ行ったのだ。チョキの態度の豹変に、僕は焦った。
「……ふん。消えろ」
そう言って凶悪な顔面は、握っていた鉄パイプを振り上げつつ、僕たちにくるりと背中を向けた。
「ケンボー、見るな」
チョキが、咄嗟に僕を抱きしめ、眼前の風景を覆い隠くす。鈍い音と人間の呻き声が聞こえた。ケンボー、行くぞ、振り向くな。強く手を握ったチョキに引っ張られ、僕は元来た小径を戻る。
※ ※ ※ ※ ※
小径を足早に歩くチョキの後ろから、僕は彼に質問をした。
「ねえ、チョキ、さっきボコボコにされていたのは誰?」
「知らん。どうせ三流雑誌の記者か、ジャーナリストとか抜かすアホだろ。時々ああいうアホが無断でここに侵入して、俺らの生活を盗撮しとる。アホが、捕まって、アホが」
入口の辺りで、一匹の大型犬をつれた痩せた大人とすれ違う。
「あれ、今すれ違った犬、ジョンじゃない? 間違いない。僕の家のお隣の、市会議員の加藤さんが飼っている、シェパードのジョンだよ。え、え、え、どうしてジョンがここにおるの? どうしてジョンが、見知らぬ大人に連れられて神社の裏に入って行くの?」
「知らん。見せしめだ。聞くな」
やがて僕たちは、神社にある苔むした神楽殿の、朽ち果てた板の上に腰を掛けた。
「ケンボー、今日でお別れだ。もうここへは来るな」
チョキが、唐突に結論を述べた。
「噂には聞いていると思うけど、俺らの立ち退きが決まった。街の偉い奴らに強引に決められてしまった。神社の裏の大人たちの怒りが収まらん。ここは危ない。二度と来たらいかん」
「おまーらアホか! いつまで無駄な抵抗しとん! お前らが大人しく従えば、この街の者も、神社の裏の者も、みんな平和に暮らせるがや!」
僕はやりきれない気持ちから、ついカッとなって、横にいるチョキのヨレヨレのトレーナーの胸座を掴んだ。
「……何だ、その言い草。ふ~ん、ケンボー、やっぱりお前もただの日本人っちゅ~こった」
チョキが、醒めた表情で僕のジャンパーの胸座を静かに掴み返す。
「違うよ! 変な意味に取るなよ! 何故お前らはそうやって直ぐにひねくれる! 何故そうやっていつもいじける!」
「ここでこうして生きとる、ただそれだけで差別される俺たちの気持ちが、日本人のお前に分かるか!」
僕たちはしばらく無言で睨み合い、やがて相手の胸座から手を離した。
「……分かったよ。もうここへは来ないよ。でもチョキ、僕たちが二度と会えないってことじゃないよね。僕のお父さんが言っていたよ、みんなバラバラになって市内に住むのだろう?」
「そういう選択をする連中もおる。でも、俺の家は、違う選択をした。ごめんな、ケンボー、俺は、この国を出て、外国で暮らす」
「外国? 外国ってどこ? アメリカ? フランス? アフリカ?」
「ソコクだ」
「ソコク?」
「うん、両親が言うには、俺は、ソコクという国へ引っ越すらしい」
「そんな国、聞いたことないよ。どこにあるの?」
「聞くな。俺だって知らん」
嘘だろう。チョキと離れ離れになるなんて嘘だろう。僕の目から涙が零れた。見ると、チョキも大粒の涙を流して泣いている。
「なあ、チョキ、僕も連れてってちょ。僕も、こんな国を飛び出して、チョキとソコクで暮らしたい」
「……アホ、無理言うな」
「な、頼むよ、僕をソコクに連れてってちょ」
「……俺を困らせるな」
「どうして僕をのけ者にする! 僕が日本人だからか! 日本人を差別するな!」
「ははは。ケンボー、お前、この国の中心で何を叫んどるの。ケンボー、やっぱりお前は面白い奴だなあ」
泣きじゃくる僕の鼻から垂れた一本の鼻水と、泣きじゃくるチョキの鼻から垂れた二本の鼻水、合計三本の鼻水が、とほんど同時に神楽殿のささくれた板の上に落ちた。
「なあ、チョキ、僕はこのハサミで、僕の家族の目を突く。このハサミで、この街の目を突く。そして、君と一緒に、このハサミで、この下らない世界を切り裂く。このハサミで、このどうしようもない世界をぶち壊す。だからお願いだ。僕をソコクに連れて行ってくれ」
僕は右手でVサインを作り、それでチョキの眼球を突き刺す真似をした。
「ケンボー、違うぞ。そのチョキマークは世界を破壊するマークではないぞ。そのマークは、ピースマークと言って平和への願いを表すものだ。イェイ、イェイ」
それは、いつか僕がチョキに言った台詞だった。チョキが、両手でピースマークを作り、まるで記念写真でも撮っているみたいに、ふざけたポーズを決める。拍子抜けする程、可愛らしい笑顔だ。
「ケンボー、俺は、今回のことでつくづく思った。暴力で世の中は何も変わらん。俺は、ソコクで、沢山の本を読んで、沢山の勉強をする。そしてきっと偉くなる。偉くなって世の中を変えてみせる。ケンボー、お前は、この国でそれをやれ」
「沢山の本を読んで、沢山の勉強をする。偉くなって世の中を変える……」
「そうだ、そしていつか俺は、ソコクからお前にこのピースマークを贈る。お前は、この日本から俺にピースマークを贈れ。ほら、泣くな、ケンボー。いいな、約束だ、黙って守れ」
「……分かった。約束だ」
僕たちは、互いのピースマークを、天に掲げた。二つのピースマークに、未来を誓った。
森の奥から、大型犬の野太い鳴き声が聞こえる。尋常ではない威嚇の鳴き方で吠え続けている。何かを察したチョキが、僕の耳を両手で塞ごうとする。でもそれを待たずして、かん高い犬の悲鳴が虚空にひとつ響き、以後、鳴き声はぴたりと止んだ。
※ ※ ※ ※ ※
引っ越しの朝が来た。両親はあの自然豊かな街の、現在空き家にしているマイホームに戻れるとのことで、朝からご機嫌だ。荷積みを完了した引っ越し業者のトラックが、ひと足先に出発をする。
「ジョ~ン、ジョ~ン、ジョ~ン」
がらんとした借家から屋外へ出ると、お隣の加藤さんが、また近所を徘徊している。愛犬の死体を自宅前に晒されたあの日から、加藤さんは、すっかり様子が変になってしまった。
「ねえ、どなたか、うちのジョンを見かけませんでしたか? ねえ、どなたか、うちのジョンを見かけませんでしたか? ねえ、どなたか……」
加藤さんが、うわごとを続けている。父がマイカーの運転席に乗り、母が助手席に乗る。僕は後部座席に乗り込み、ゆっくりと瞼を閉じた。
「沢山の本を読んで、沢山の勉強をする。偉くなって世の中を変える。沢山の本を読んで、沢山の勉強をする、偉くなって世の中を変える。沢山の本を読んで……」
僕もあの日から、うわごとを言い続けている。僕は、僕なりのうわごとを、これからもずっと続けるつもりだ。
運転キーを回す音が、眉間の辺りから聞こえ、エンジン音が、尻の穴から体内にジンワリと染み渡ると、僕は前進をする。瞼を開くと、いつだって、そこに日本。
神社の裏の者たちは、それぞれの場所へ散った。鬱蒼とした森は、伐採され、更地となった。周囲を丸裸にされた神社だけが、今は只、八月の炎天下に、寒々しく佇んでいる。