剥がれ落ちた記憶
「あっ、起きた。起きたよぉ、おばあちゃーん」
目が覚めると、見覚えのある部屋にいた。嗅ぎなれた古い木の匂いに安心する。多分祖父母の家だ。高い声を上げて祖母を呼んでいるのは誰だろう。分からないわけではないが、頭がぼんやりとして考えられない。そういえば、体もうまく動かせない。瞼を持ち上げるので精いっぱいだ。
「起きたね、イザベラ」
「……おばあちゃん?」
年の割に若く見える祖母が部屋の奥から姿を出した。その横には小さい女の子がいる。そうだ、従妹のリタだ。クセのある長い赤毛がかわいらしい。どうして忘れてしまっていたのだろう。
「おばあちゃん、ねぇ、私……」
「あんたって子は、心配ばっかりかけて! 今の島で夜中出歩くなんてどうかしてるんじゃないのかい」
おばあちゃんはずんずんとベットの近くまで歩いてくると、私の頭を軽く叩いた。それから、呆れたように眉を寄せて短いため息を吐いた。
「あの人がいなかったら今頃どうなってたことか」
「私、なんで生きてるの?」
「助けてもらったんだよ、あとでお礼言いに行きな」
「誰に?」
記憶をいくらたどっても、あの怪物を前にした時から場面が進まない。誰かを見かけたり、声を聞いたりなんてしていないはずだ。
私の問いかけにおばあちゃんは首を傾げる。
「さあ、名前はなんて言ったかな」
「テセウスよ!」
リタが頬を染めながら嬉しそうに言った。
「あたしあの人と結婚するの!」
「なに言ってんの。あんたみたいなガキ相手にされないよ」
「するもん! テセウスも約束してくれたもーん!」
テセウス。
その名前を聞いても心当たりはない。知り合いにそんな名前の人はいないはずだ。最近島にやってきた旅人だろうか。それにしてはいやにリタが懐いているように見える。この子は人見知りなところがあるので、一度や二度会っただけの人と打ち解けることはないはずだ。
「あんたはテセウスって人に会ってるはずだけど」
おばあちゃんは不思議そうに言った。
「やっぱり、喰われかけたショックで頭がおかしくなってるのかね」
「テセウスに会えば思い出すんじゃない!」
リタがぴょんぴょんと跳ねながら私の腕を掴んだ。会いに行かせるついでに自分も遊んでもらいたいのだろう。はやく、はやく! と急かしてくる。けれど私はそんな気分にはなれなくて、すがってくるリタの手を引き剥がした。
「ちょっと混乱してるだけ。休んだら大丈夫よ」
「やだぁ! 行こうよぉ! もう行く準備しちゃった!」
「うるさいよ、静かにしてな!」
おばあちゃんが駄々をこねるリタを抱き上げた。リタは小さな体を懸命によじらせて地面に降りようとするが、簡単にいなされる。さすがはおばあちゃんだ。何人ものわがままな子どもを育てただけあって慣れている。
「結局、テセウスってどんな人なの?」
「国軍の人よ。一週間前から島に来てるじゃないか」
「へぇ……」
「まあ、あんたはそのテセウスより、もう一人の方と仲がよさそうだったけど」
「もう一人?」
ここ最近、家族以外の誰かと仲良くしたどころか、会話した覚えもない。それなのにどうしてそんなことを言うんだろう。
おばあちゃんは私の疑問に答えるつもりはないらしく、リタを抱えたまま部屋の奥へ引っ込んでいってしまった。どうやら昼食を作っている途中らしい。好物のミートパイの匂いがする。
「ミートパイ、大目に焼いてるから、あとでリタと届けに行きな」
「……うん」
覚えがないとはいえ命の恩人だ。お礼を伝えないわけにもいかないだろう。ひとまず焼きあがるまでもう少し休もうとして、私は布団を被りなおした。