訪問者
妻のみどりから頼まれた土産を手に予定より早く帰宅した喜八郎。再び訪問者の事を問うが妻ははぐらかすばかり。そうこうするうちに玄関のインターホンが鳴る。やってきた訪問者はうら若い女性だった。彼女が届けに来た意外なものとは?
「ただいま。」
左手にカバンと土産の百万石饅頭を下げた喜八郎は自宅のドアを開けた。予定より少し早く着いたのは、やはり今晩やってくる客人の事が気になっていたせいだろう。
「お帰りなさい。早かったんですね。」
「ああ、大切なお客さんを待たせる訳にはいかないだろ。」
ダイニングから出てきたみどりは上機嫌でカバンと手土産を受け取り、用意していた部屋着を彼に手渡した。
「で、一体誰なんだい?」
「え?」
「お客さんさ。夫婦の間で隠し事は良くないぞ。」
「ふふ、ダメよ。内緒って言ったでしょ。」
「そんな事言わないでさ。長い付き合いじゃないか。」
おどけた口調でお願いしてみるが、敵は簡単には口を割らないらしい。そんな戯れのやり取りを彼はとても愛おしく思った。
「もうそろそろ来ると思うわよ。いま客先を出たって30分くらい前に電話をくれたから。もうちょっとだから、それまで我慢しなさい。」
「やれやれ、分かったよ。」
観念して、自室に戻り部屋着に着替える。用意されていたのが、いつもよりやや洒落た、彼女お気に入りのシャツなのも、来客を意識しての事なのだろう。
「ピンポーン」
自室を出て居間に向かう途中、玄関でチャイムの音がした。どうやら噂の訪問者のお出ましらしい。居間に入るとインターホンの受話器ににこやかに話しかけるみどりの明るい声が耳に飛び込んでくる。
「はーい、お待ちしてました。いま開けますね。」
少女のようにパタパタと軽やかな足取りで玄関へ出る妻の後ろ姿を、彼は眩しいものを見るように眺めた。
「いらっしゃい。はじめましてかしら?さ、どうぞ上がって下さい。」
「奥様、今日は急なご訪問になってしまい申し訳ありません。」
「いえいえ。狭い家ですけど。さ、スリッパどうぞ。」
玄関のやり取りを聞く限り、客人はどうやら女性らしい。しかも声の感じからすると結構若そうだ。そして妻も面識はないようである。二人分の足音が近づいてくるのを聞いて、喜八郎は居住まいを正した。
「さ、どうぞ。」
「はい、失礼します。」.
入って来たのはまだ20代とおぼしきスーツ姿の女性だった。背はみどりより少し高いが、まぁ中肉中背の部類だ。喜八郎と目があうと、微笑みながら名刺を取り出しこう名乗った。
「五十嵐喜八郎様ですね。はじめまして。わたくし大地生命川之辺支店営業第二課の沢野井 市子と申します。今日はお忙しい所お時間頂きありがとうございます。」
なんだ保険屋か……。この訪問者に対する関心が一気にしぼんで行くのを彼は感じた。何か新しい保険の売り込みだろうか。とは言え通常時間外にこうして来てくれたのだ。とりあえずの礼は尽くさなければならない。それにしても妻は一体なぜ彼女の来訪を心待ちにしていたのか。
「いやいや、遅い時間にわざわざご足労いただいて申し訳ない。ま、どうぞおかけ下さい。」
「はい、お言葉にあまえて。」
彼女がソファの向かいの席に着座すると、キッチンからみどりがお茶と茶菓子を持って入ってきた。茶菓子はもちろん喜八郎の土産の百万石饅頭だ。
「はい、どうぞ」
「ありがとうごさいます。わあ、私これ大好物なんです!」
「そう、良かったわ。」
「実はこっちに来るまで知らなかったんですけど、お客様からいただいて食べたらはまっちゃって。えへへ。」
「やぁ、お口にあって良かったですよ。我々のソウルフードですからね。沢野井さん、ご出身は?」
「一応東京です。奥多摩なんで、イノシシや鹿の出る超田舎ですけど(笑)」
「え、東京でもそんなとこあるの?」
「ええ、実家は農家なんですけど、秋になると畑が荒らされてそれは酷いんです。」
何とはない雑談のうちに彼はこの外交員に好感を覚えている自分に気がついた。明るくハキハキとした口調にキビキビした態度、折り目正しいが堅苦しくはない印象は人を引き付けるものがあった。そして娘の好物を好きだと言ってくれた事も大きくプラスに働いていたのかもしれない。
「それで、今日来られたご用件というのは?」
「あ、奥様にはお話したんですが」
「びっくりさせようと思って内緒にしてたの」
「そうなんです、何度聞いても教えて貰えなくて。いくつになっても女房には勝てませんよ」
すました顔で答えるみどりに抗議するように喜八郎は合いの手をいれた。
「ふふ、仲がよろしいんですね。では私からお話させていただきますね」
そういうと外交員はカバンを開け、一通の封筒を大事そうに取り出し、ソファの前のテーブルにおいた。
「今日はこちらをお届けにあがったんです」
カバンから取り出した封筒は何の変哲もないものだった。しかも表に宛名もない。
「これは五十嵐風香様からご両親にあてたお手紙です」
喜八郎は耳を疑った。そんなバカなことがある訳ない。5年も前に亡くなった娘が手紙を書くことなんて出来る筈がないではないか。だいたい何で保険屋がそんなものを持ってくるのだ?
「沢野井さん、いったいどういう事なのか理解出来ないんだが。冗談にしては筋が悪すぎる」
「戸惑われるのも無理はありません。突然こんなお話を申し上げてご不快に思われたのならお詫びします。でもまず私どもがお嬢さんのお手紙を何故お持ちしたのかをご説明したいんです。お時間頂けますか?」
市子の真摯な表情は彼女の誠意を伝えるには十分な説得力を持っていた。喜八郎は隣に座るみどりの顔を見た。妻まだ戸惑いを隠せない彼の視線を悠然と受け止め、「大丈夫よ」というようにゆっくりと深く頷いた。彼は大きく深呼吸をすると背筋を伸ばしてソファにかけ直し、市子の目を真っ直ぐ見てこう静かに答えた。
「分かりました。お話を伺いましょう」
(続)
手紙 第二話「訪問者」お届けしました。いかがだったでしょうか?今回の、というかこのシリーズの登場人物の名前はお酒の銘柄が元になっています。あ、けして「黒の組織」とかではありません(笑) 次回またお目にかかれれば幸いです。ではっ!