涙と饅頭
地元企業に勤める中年サラリーマン五十嵐喜八郎。ある日、妻のみどりから電話でその晩の急な来客を告げられ、地元の銘菓を買ってくるよう頼まれる。その銘菓は亡くなった一人娘の好物だった。彼は娘が亡くなって間もない頃のある出来事を思い出した。
「お父さん、今日は何時頃のお帰りですか?」
仕事中に鳴った携帯電話の向こうから聞こえたのは妻のみどりの声だった。普段はそんな事聞きもしないのにどういう風の吹き回しだろうと、喜八郎はいぶかしんだ。今日は何か特別な予定があるという記憶もない。
「あぁ、いつものように6時頃には戻るつもりだけど。何かあったのか?」
「ちょっとお客様が来る事になったのよ。で、あなたにも会って貰いたいの。」
「何だい随分急な話だな。いったい誰だい?」
「ふふふ、ナイショ(笑)。あ、そうそう、それから帰りに福間屋の百万石饅頭を買って来てほしいの。」
「変なヤツだな。まぁ、わかった、駅前の福間屋だな。じゃ、まだ仕事中だから、もう切るよ。」
「はい、お邪魔さまでした。お帰り待ってますね。」
どうやら急な客人が来るらしいが、彼には「ナイショ」の客に思い当たる節は全くなかった。
ただ電話口から聞こえたイタズラっぽい含み笑いは彼女が上機嫌の証である。妻のあんなに弾んだ声を聞いたのは久しぶりだ。その声の華やぎは、昔、まだ恋人同士だった頃の彼女を彷彿とさせた。いい傾向だ。よほどその客人の来訪が嬉しいのだろう。彼が調達すべき地元の銘菓もその客人のために違いない。
そういえば百万石饅頭は一人娘の風香の好物だった。かつて世界的な芸術家が「うますぎる」と絶賛したこの小判型の白い素朴な菓子を娘は愛し、何かと言うと会社帰りの土産にせがんだ。過去形なのは彼女が亡くなってから、もう5年の月日がたつからだ。不慮の事故は家族三人のささやかな幸せを一瞬にして無に帰してしまった。
最大の慈しみをもって十数年間育んできた存在が、突然にそして理不尽に奪われた喪失感。それは月並みだが彼の心に埋められない大きな穴を開けた。喪主として哀しみに沈む間もなく嵐のように野辺の送りをすませたあと、彼は仕事に熱中する事で、その耐え難い空虚に呑み込まれないよう何とか自分を保った。
しかし当時専業主婦であったみどりはそれから数ヶ月呆然自失の状態で、何をするにも心ここに非ずという風情であった。毎日の家事は無難にこなしつつも、その表情から彼女本来の豊かな感情は奪われ、以前はくるくると良く動いた瞳は空ろな硝子玉と化していた。そんな妻の様子に彼は胸を痛め、何とか少しでも早い彼女の精神的な回復を願っていた。
そんなある日、職場の部下の結婚披露宴に出席した喜八郎は、その義理堅い性格に似合わず、式が終わる前に早々と家路につく羽目になった。可愛がっている部下の門出、常ならば二次会まで顔を出し祝う所なのだが、式の最後にある両親への挨拶と花束贈呈に涙を堪えられそうになかったからだ。
披露宴の最後を締めくくる定番のイベントだというのに、どうして事前に思い至らなかったのかと彼は自分の迂闊さを恨んだが後の祭りだった。仕方なく家に残した妻の体調が思わしくないのでと嘘をついて、式場でタクシーを呼んでもらい、同僚に後事を託して駅へ向かった。
タクシーを降り、日頃通勤にも使う乗り慣れた電車の座席に座って一つ大きなため息をつく。膝の上には大きな引き出物の袋。想像したよりは重くないので、処分に困る写真入りの皿などは入ってないようだった。
車窓から見慣れた地元の風景を眺めながら、彼は今日の式の花嫁の両親を真底から羨んでいた。いつか来ると思っていた人生の節目、でももう風香には、そしてみどりと彼にもそれが訪れる事はないのだ。周囲に誰もいなければ男泣きしていたかも知れない。しかし揺り籠のように心地よい列車の揺れに身を委ねる事で、彼はかろうじていつもの自分を保ち続ける事が出来た。
最寄り駅から自宅までは歩いて10分ほどだ。予定より早い帰宅に驚く妻に引き出物を渡し、慣れない式服を部屋着に着替えてやっと一息ついた心地がした。ちょっとビールでも引っかけて気分転換しようと台所へ入ると、食卓の前に翠が立っていた。引き出物の袋は開けられ、手にはあの百万石饅頭の箱があった。
「風ちゃんは、もうこのお饅頭食べられないのよね……。」
彼女はそう一言いうと立ったままハラハラと涙を流し始めた。妻の突然の行動に喜八郎は驚いたが、少しの躊躇ののち、意を決して彼女を抱き寄せた。喜八郎は普段そんな風にストレートに感情を表現するタイプではない。だからそれは彼自信にとっても思いがけない行動だった。
急に抱きしめられてみどりは少し驚いたようにピクリと体を震わせた。が、その後饅頭の箱を胸にしっかり抱えたまま、安堵したように彼の胸に顔を埋め30分ほど静かに静かに泣き続けた。彼は幼子をあやすように背中を軽く叩きながら、時折優しく妻の髪をなでた。言葉はなにも必要なかった。彼は忘れかけていた妻のかすかな体臭を思い出した。
ようやく泣き止んだあと、照れ臭かったのだろう、みどりは子供のようにはにかんだ笑顔を見せた。大切なものを取り戻せた喜びに喜八郎は真底ほっとした。そしてその後二人で仏壇に百万石饅頭を供え、手を合わせた。
その夜、久方ぶりに二人は結ばれた。若い頃のような激しい情熱はなかったが、お互いを慈しむ温かな営みは行為のあとの二人を満ち足りた眠りへと誘った。
この後みどりはふっきれたようで、どこから募集を見つけて来たのか、地元のスーパーのパートを始めた。彼女の閉ざされていた心は、春の日差しに融ける根雪の如く、ゆるゆると潤いを取り戻していった。
それからの5年間、二人で肩をよせて哀しみに耐え支えあって生きてきた事で、夫婦の絆は強くなった。この頃になって、お互いやっと気持ちに少しは余裕が出来てきたような気がする。そのうち気晴らしに二人でどこか遠出してみるかと、喜八郎はふと思った。
「課長、経営企画部の斉木部長からお電話入ってます。」
部下からの一言で、彼はつかの間の夢想から覚め、多忙な現実に引き戻された。
「おお、わかった。こっちで取るよ。……もしもし、はい五十嵐です。あ、その件でしたら…」
終業まではまだまだ時間がある。まずは目の前の仕事を片付けることに集中しなければ…と、彼は上役との会話に没入していった。(続)
この物語はだいたい3~4話構成の短編として仕上げる予定です。2年くらい前からあたためているシリーズのスピンオフ的位置付けのもので、本編がまとまる前にプロローグ的に書き出す運びになりました。短いあいだですがお付き合い頂ければ幸いです。