音の匂いを知りたくて 短編
僕はある時、天才だった。
ピアノの発表会で、一番うまいと言われた。幼いのに上手だねと言われた。将来はピアニストだねと言われた。
そう言われるのが嬉しくて、いっぱい頑張った。いっぱいいっぱい頑張った。何時間も練習した。世界で一番僕がうまいと思った。だってこんなにも頑張ってるんだもの。
僕は結局、凡才だった。
初見が急に難しくなった。できるようになったら、今度は即興ができなくなった。頑張ったって音は深くならない。いつまで経っても絶対音感は身につかない。
段々弾くのが嫌になった。自分よりうまい人がいるのを知った。僕には出せない音を出す人がいた。
僕は少しずつ大人になった。大人になるにつれて、諦めることが多くなった。そして、毎日に音楽を感じられなくなった。
鳥のさえずりに
雨が屋根を叩く音に
風にそよぐ葉に
音楽を感じられなくなった。
鍵盤に音が馴染まない。自分の音とプロの音はいつまで経っても違うまま。周りの眼が哀れみを帯びた。
そして僕は、音楽が嫌いになった。
嫌いになった、はずだった。
なのに、この指は、気づけば机を叩いている。街中の音楽に体を揺らしている。音楽を体が欲している。
僕の体は正直だ。これはもう、僕にはどうしようもなかった。そして僕はまた、諦めた。諦めるのを、諦めた。音楽を嫌いになることを、諦めた。
この世界には、曲の先に風景を見る人がいる。激情を感じる人がいる。音に匂いを感じられる人もいるらしい。
僕はこれからコンクールに出る。二十歳越えたらただの人、と言われる世界だ。だからこれは、僕が音楽で名を残す最後のチャンスかもしれない。でも正直、プロになることに執着はない。
ただ、もしかしたら。もしかしたら、コンクールの舞台でなら、僕も音の匂いを知ることができるかもしれない。別に賞が取れなくたっていい。音楽に愛されなかった僕だ。一度は音楽を手放そうとした僕だ。それでも、音の匂いが、知りたいんだ。