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六十二話 ギンガ



――――――――――――

――――――――――――



俺が生まれたのはオーシャン帝国の片田舎、スラムよりもさらに劣悪な肥溜めのような場所だった。

さびれた町では少しのことでケンカが起こり、道を歩けばどこかで必ずどこかで乱闘が起こっていた。

大人たちの大半は酒や薬物に依存し、HKVという殺人ウイルスから何とかして意識をごまかそうとしていた。


死が怖かったんだろう。

馬鹿な奴らだ。


法なんてものは無い。

強い奴だけが生き残る。

あらゆる“力”を兼ね備えた者だけが立ち続けられる。

まさに弱肉強食の世界。

そんな世界で“力”のない弱者に容赦などなかった。


平気で人を殺す奴。子供を奴隷のように扱う奴。そんな奴がごまんといる。

死体が道に転がってることさえ日常の光景だった。


負ければ死ぬまで搾取されつづける。

抵抗すれば死よりも惨たらしく生きていく。いっそ死んだ方がマシと思えるくらいに。


人の住むような場所ではなかった。

だが、俺はそんなとこで育ったんだ。

それが当たり前の世界だと思えるくらいに小さなころから―――。




★



「ギンガァ! なに寝転がってんだ、さっさと立ちやがれ!」


セコンドとは名ばかりの薄汚れたネズミのような男の声が聞こえた。


内心舌打ちする。

くっさい芝居しやがって。

おまえがこのラウンドで、パンチ貰ってギリギリまで倒れるように言ったんじゃねえか。


倒れながらリングの上で息を深く吸い込むと、会場全体を満たす煙草の煙と熱気が肺に流れ込む。

俺に向けての怒号や指笛が響き渡っているのが聞こえる。

賭けに負けそうになってイラついているんのか?

このまま俺が倒れ続けたら、どれくらいの奴が金を失うんだろうな。


試合中だというのに、俺はそんなことを考えていた。



そう―――俺が今やっているは地下闘技場の賭け試合。

表向きは野良犬のようなドラック漬けの大人たちの遊興の一環だが、裏ではマセライ帝国やその属国の貴族たちが賭けに参加して、莫大な金額がひと試合で天秤に乗せられている。


奴らの人造人間(レプリオン)という半永久的な人生を生きていく上で、ちょっとした刺激のある紳士の嗜みというわけだ。


だからこそ、その金をめぐってあらゆる陰謀が影で企てられている。

まあ、言ってしまえば俺が今やっているようなイカサマだ。


殴る、蹴る、目つぶし、金的、何でもありのこの四角いリングでは、武器もグローブも一切なし。

相手が倒れたら攻撃を止めなければならないが、床に体がつかない限りはどんな状態だろうと攻撃を続行していい、全5ラウンドの単純なルールだ。

死をも辞さない、己の拳のみで戦い抜いていくゲーム。


そのゲームの中で、ときにわざとパンチをもらってノックアウトさせられ、ときに判定負けにまでもつれさせる。

勝たなければならない試合は、イカサマでない場合でも確実に勝つことができた。

それだけの技量と力が俺にはあった。


今日の試合も、三ラウンド目にパンチをもらってノックアウト寸前まで行って、ギリギリで立ち上がり、ラウンド終了間際に敵をK.O.させる。


いつものことだ。

くだらねえ話だ。

実にくだらねえ遊びだ。


「立てーー! お前にいくら賭けたと思ってんだ、ゴラァ!!」

「ギンガァ!! 負けたらブッ殺すぞ! 金返しやがれ!!」

「それで終わって今日無事でいられると思うなァ!!」


ったく、いつも以上に薄汚れた豚の声が聞こえやがる。

俺が負けるわけねえだろ。

まあ、目が節穴だからイカサマが出来るんだろうが……。


だが、何度やってもこうやって倒れたフリするのは至難の業だな。

まともにパンチを貰っても全然堪えやしねえ。



「……シックス! ……セブン! ……エイト!」


あぁ、いけねえ。

そろそろ立つか。ダメージがいかにも残ってますって感じでな。

リングの外でギャンギャン喚くネズミ男の小言を聞くのも鬱陶しくなってきたし、予定通りこれで終わらせるか。


「―――よっと。おい、もうカウントはいい。始めようぜ」


「……ナイン! お、立ったか。なら続きを……、lady!」




★★



「ったく、ヒヤヒヤさせんなよ。動けんなら何とか言うかサインぐらい送りやがれ、この野良犬が!」


試合後、控室でネズミ男が振り抜いたビール瓶が、俺の頭に当たり砕け散る。

ドロッとした紅い血が、自分の黒髪に絡みつくのが分かった。


「拾ってやった恩を忘れんじゃねえぞ。俺が拾ってなかったら、お前は今でも道端に落ちてる腐った食い物を巡ってケンカしてただろうからな! ケッ!」


そういって踵を返すと、部屋の奥に座っている高そうなスーツを着た男の方に向く。


「へへっ、すいませんね。お見苦しいとこみせちまって。あの……、それで今回の報酬なんですが」


「あぁ、手形は用意してある。持っていけ」


側に侍らせている隆々とした肉体を持つボディーガードと思しき人物が、紙切れを手渡す。

ネズミのような男は額面を見て、一瞬顔をしかめる。


「……あ、あのっ、約束の金額とちょっと違うんですが。……へへっ、た、たしか約束の値段は―――」


「いらないのなら返してもらおうか?」


その一言で部屋が一瞬で凍り付くのが分かった。

人造人間(レプリオン)に歯向かえばどうなるかは、ここに住んでいる人間全員が骨の髄まで理解している。


逆らえば殺されるよりもむごたらしく生かされる。

裏切れば死を免れない。死ぬその時まで利用され続ける。


それを一瞬で思い出したネズミ顔の男からは、嫌な汗が噴き出すのが分かった。


「と、とんでもごぜーやせん! 頂戴いたします、ありがとうございます!! ほら、ギンガ。てめえも言え!」


「……ありがとうございます」


力のある者には逆らえない弱肉強食か。

まさに今のような状況のことを言うのかね。


こうして偉そうに座ってるスーツを着た人造人間(レプリオン)も、おそらく末端の人間だろうな。

大元の依頼人から何人の仲介人を挟んでいるのか知れたもんじゃねえ。


そんなことを考えながら、イカサマの報酬金を受け取ろうとするが、


「おっと、ギンガ君。きみはこっちだ」


人造人間(レプリオン)の側にいるボディーガードの男が何かを蹴飛ばす。

足元にそれが当たるのを感じた。

見ると、犬の餌入れに肉やら果物やらが雑に詰め込まれている。


「金より現物支給の方が喜ぶと思ってね。ほら、君には二人ほど小さいのがいるだろう?それでうちの帝国のゴミに捨てられたものを、わざわざ回収してきたんだ。我々は食事を必要としないが、趣味で食べる奴もいる。そういった類の知り合いがいたんだ」


弱肉強食の世界で犬扱いか。

飼い主は人造人間(レプリオン)で、それに従事する俺はさしずめ負け犬ってとこか。


だが、抵抗する気はない。

これでも拾われる前よりは何十倍と良い生活が出来てる。

これ以上の生活を望もうとも思わない。


だから、俺は今日も機械的に人造人間(レプリオン)相手にこう言う。


「ありがとうございます」


「あぁ、礼には及ばない。君ほどの人材は稀だ。間違いなくあのリングで頂点は君だろう。一級品のパンチ、一級品の動き、そして何よりも、どれだけ攻撃が当たろうと意識を失わないタフさ。イカサマにはもってこいじゃないか」


人造人間(レプリオン)は鼻で笑いながら椅子から立ち上がり出口へと向かう。


「―――だが、分かってるな。イカサマは口外無用だ。バラせばどうなるかは、この世界に長年いる君たちが一番知っているだろう?」



★★★




「帰ったぞ」


地下格闘技場から少し離れたとある薄暗い裏路地。

閑散としたその場所は、めったに人が訪れることはない。

そこに俺の住処があった。

だが、俺が住んでいるのはお世辞にも家とは呼べない、トタン板を重ねて作った、せいぜい雨風をしのぐ程度の小屋のようなものだ。


「お帰り!! ギンガ兄ちゃん!!」


いや、俺だけではない。

“俺たち”が住んでいる家だ。


中で待っていたのは双子の姉弟のサチとレントだった。

二人とも燃えるような赤毛が特徴で、サチは女の子らしく長く、レントは短髪だった。


「うわぁ! なにそれ、お肉!? すごーい!! どうやって手に入れたの!?」

「ギンガにぃスッゲー! 見たことない食べ物いっぱいあるぞ!」


目を輝かせながら袋に入った食べ物をあさる。


「ッハ、知り合いに貰ったんだよ。ゴミから拾ったっつってたが、いつも漁ってるここらのゴミ箱から食べるよか全然ましだろ。俺はもう食ってきたから、お前らで食っていいぞ」


「うはぁーー! まじかよ! さんきゅ、ギンガにぃ」

「こら、レント。ありがとでしょ!」

「ありがとありがと、ありがとさん!」


しっかり者のサチに、お調子者のレント。

まだあどけなさの残る顔を目一杯使って笑顔を浮かべている。


狭くて隙間風の入る小屋ではあったが、三人で囲むこの光景は何よりも暖かかった。


「おっ、なんだこの木の実みたいなやつ! あっめ~!」


袋から紫色の果実をほおばりながらレントが言う。


「たぶんそれブドウよ! 私本で見たことあるもん」


得意げに言うサチの言葉に、俺は少し驚いた。


「サチ、お前本読めるのか?」


「うん! 屑鉄探してるときたまーに本が落ちてるんだ。ちょっと字が読める子と友達だから、休憩してるときとかにその子に教えてもらってるんだ」


「ッハハ、やるじゃねえか。大きくなったら学者にでもなれんじゃねえのか」


「えー、そうかなぁ~」


サチはそう言いながらも、まんざらではない照れ笑いを浮かべる。

それを見たレントは俺とサチの間に割り込んでくる。


「へッ! 本なんて読めても腹いっぱいになんねーだろ! そんなことより聞いてよ、ギンガにぃ。俺、今日もケンカで勝ったんだぜ、これで十戦負けなしだ! 俺もギンガにぃみたいにゼッテー倒れなくて強い男になるんだ! そんでもって世界で一番強くなるんだ!」


鼻息荒くして拳を握る。

輝かせる瞳は眩しいくらいだった。


レントが俺に憧れているのはなんとなく分かっていた。

力こそすべてのこの世界で、力のある者に憧れるのは当然だった。

いつも早く起きては俺に組み手を挑んでくる。それも何年もだ。


そのかいあってか、最近ではケンカの時の俺の動きや癖も完璧に真似できるまでになっていた。

十歳でそれだけできれば上等だ。

そこいらの大人でも苦戦するだろう。


確かに十戦負けなしという自称の肩書も頷ける。


「でもよぉ、レント。世界一っつうんなら、この俺も倒さねえとな。それに世界を支配してるマセライ帝国もいるぜ」


「そ、そうか……。マセライ帝国は、まあ何とか倒すとして、問題はギンガにぃだよな。一度も勝てたことないからな~」


頭を悩ませるレントを見て、サチはクスクスと笑う。


「あんたがギンガ兄ちゃんに勝てるわけないでしょー。なに馬鹿なこと言ってんのよ」


「なんだとー! やってみなきゃわかんねーだろうが! このブス!」


「まずは、ギンガ兄ちゃんと同じ黒髪にするとこから始めたらー。赤い髪は逆に弱そうに見えるもの」


一触即発の雰囲気で姉と弟がにらみ合う。


いつものことだった。

こうなったら俺が止めに入るまでケンカし続ける。

先にレントが手を出して、サチが怒る。

くだらねえ話だ。


気が付くと、サチがレントにマウンティングを取り、一方的に殴りつけていた。

レントが世界を取るには、まず姉から倒さないといけないようだ。


「おい、サチそこまでにしといてやれ。早く飯食わねえと盗まれるぞ」



この生活を幸せというのかは俺には分からない。

だが、どん底で惨めな生活だとは一度も思ったことは無かった。

サチがいて、レントがいて、その中に俺がいる。

これ以上の何があるというんだ。


例えこれがピラミッド社会の底辺だとしても。例え負け犬だったとしても。

贅沢はいわねえ。

俺はこれで満足だった。



だが、そんな俺はどうしよもなく愚かで、ガキで、本当の意味の弱肉強食の世界を知らなかった。

そう―――俺が生きているのは動物の世界ではない。

人間の世界なのだ。

そこでの底辺の生活なんてものは、頂点に立つ人造人間(レプリオン)の一言で、脆く儚く散っていくもの。


そうやって消されていった連中は何人も見てきたはずなのに。

俺はなにも分かっていなかった。

いや、目を反らしていただけか。


人間社会の弱肉強食。

頂点に立つ奴は、自らの保身か益のためにしか動かない。

慈善に見えても、その行動や言葉の裏には何か別の思惑がある。

外面(そとづら)を磨き上げ、利用できるモノは利用するだけして骨までしゃぶり尽したら、また別の肉を探す。

搾取される側は常に力のない者だ。


そしてそれは、自分の知らぬところで事が動き始め、厄災となって己に降りかかってきた時には、いつだって遅いんだ。




★★★★




いつもの地下格闘技場でリングに立つ。むせかえるような薬物の匂いと煙草の煙。

歓声はいつも以上に大きく、建物が震えるのが分かった。


HKVでいつ死を迎えるか分からないこの世界で、今日も死を受け入れたと自分をだまし続ける大人が金を賭ける。

どうせその金はマセライ帝国が売りさばく薬物へと消えていくに違いない。

弱い奴らが自分をだまし続けるには、心を麻痺させるしかないからな。


そんなことを考えリングの上から見下してると、ようやく今日の対戦相手がリング上にあがってきた。


2mはゆうに超える身長に、常識はずれの肩幅。

異常に盛り上がった筋肉からは血管が浮き出て見え、激しい呼吸に合わせて筋繊維が動いているのが分かる。

瞬身のボジャー。

通り名どおり軽いフットワークが売りの男だ。


半年前に一度闘ったことがあるが、拳が軽すぎてノックダウンの“フリ”をするのに相当骨の折れた相手だ。

だが、ボジャーは小柄な男で引き締まった体をしていたはずだ。

今目の前にいるような大柄な筋肉ダルマのような体躯ではなかった。


しかし―――まあ、どっちでもいいか。

大男だろうと小男だろうと関係ない。

相手が誰であろうと、俺は今日も指示通りに動くだけだ。


踵を返してリングの外を見る。

普段ならば既に待機しているはずのいつものネズミ面の男がいない。

形式上はセコンドという役割ゆえ、リングの側にいないといけないのだが、どこにも見当たらなかった。


「チィ、どうすんだよ。試合はじまんぞ」


と、そこに見知らぬ男が群衆を割って近づいてくるのが見えた。

リングの側まで来ると、右手を突き出してこういった。


「こいつをお前に届けるよう言われた」


そう言われ受け取ったのは、豆の大きさ程の小型通信機。

耳の中に入れると、カチッという音と共に固定されたのが分かった。

しばらく砂嵐の音がしたかと思うと、やがて聞きなれた声が機械を通して鼓膜を揺らした。


『やあ、ギンガ君。私が誰かは声を聴けば分かるだろうから、自己紹介はあえて省略させてもらおう。今日はあの男に変わって私が指示を出す』


誰かと思えばあの人造人間(レプリオン)サマじゃねえか。

イカサマの報酬を与える時だけしか姿を見せねえくせに、どういう風の吹き回しだ。


『理由は聞くなよ、こういうことはよくある話だろう。……さて、順序良く話していきたいとこだがもう時間もないからな、手短に話そう。ここ最近、君が連戦で疲れているだろうと思ってエナジードリンクを持ってきた。ぜひ飲んでくれ。そこの彼に渡してある。―――あぁ、そうだ、言うのを忘れていた。今側にいる男はセコンド代理人だ。安心してくれていい。といっても指示は私が出すわけだから、そこに立っているだけの案山子だがね』


セコンド代理人の男から遮光瓶に入ったエナジードリンクが手渡される。

確かにこの三日間は連戦の連続だったな。

一日に三試合も立て続けにやった日もあったっけか。


エナジードリンクのふたを開け一気に飲み干すと、口の中に苦味と酸味が広がる。

そこに審判がリング中央に両選手が集まるよう、指示を出すのが聞こえてきた。


『試合だな。三ラウンドまでは適当にやってくれ。その後の指示は追って出す』





第一ラウンド、第二ラウンドを終えたリングにはいくつものクレーターが出来ていた。

常人ならざるパワーを以てして、相手のボジャーがえぐり取った跡だ。


俺は自陣のポールに戻りながらボジャーを観察した。


明らかに様子がおかしい。

いくらなんでも人外じみている。

常に興奮状態でありながら、その高揚は一向に衰えを見せない。

むしろ時間が経つごとにそのパワー、スピードを増している。


流石の俺でもまともに喰らえばヤバいな。

そんなことを考えていると、耳の奥から声がする。


『お疲れ様、ギンガ君。いい出来だ、まさかあの改造したボジャーに倒れず持ちこたえるとは思いもしなかった』


「ッハ、そのタフさを買ってくれてたんじゃなかったんですかね」


口元をほとんど動かさずにボソっと返事をする。


『そうだとも、だからこそだ。この三ラウンド目は期待しているよ。試合が残り一分になったところで相手を倒してくれ。先方にも話はつけてある。それで君の仕事は終わりだ』




第三ラウンドが始まり、ボジャーと睨み合う。

倒すことはむつかしい事じゃない。

大ぶりの攻撃ばっかしやがって、破壊力こそあるがボディーや顔面ががら空きなんだよ。

どんな改造したらそんな膨れ上がった筋肉ダルマになるのか知らねえが、ちとやりすぎだね。


ラスト一分に入ったら、大ぶりのストレートの軌道をそらして顎に一撃。

それでいくか。今回も楽勝だな。

しかし、数撃の攻防を交わし二十秒ほど経ったところで、その異変は突如として俺の体に襲い掛かった。


まず来たのは頭痛、次いで吐き気とめまい。

目の前がかすんでいき、膝に力が入らない。

一瞬、連戦による疲労の蓄積で引き起こされたものかと疑ったが、どうにもそんな次元ではない。

こんなことは今まで一度も無かった。


「ウッ、オェエッ!!」


胃からこみあげてくる消化物を抑えきれずに吐き出す。


だが、俺にとっての異常は他者にとってなんてことない光景だ。

リングで吐く奴なんてごまんといるし、内臓が破裂して血反吐をまき散らしたり、なんなら死ぬやつだっている。

それが普通、俺たちの日常なんだ。


当然、対戦相手のボジャーにとってもこんな状況をおいしいと思わないわけがない。

またとないチャンスに、次々と巨大ハンマーのような手を振りぬいてくる。


しかし、既に俺にはガードをする意思や、躱すための気力が失われていた。

いや、出来なかったといった方が正しいか。

逆流する胃液や、体の内側から鋭い爪で引き裂かれているような激痛。

挙句の果てには、平衡感覚すらも意識の内側へと影を潜めていく。


ボジャーの拳が俺の腹に突き刺さり息が止まる。

続いて顎に重い一撃が入る。


「ガッ!!!」


呼吸ができない。

息ってどうやってするんだったか。

俺の手はどこいった。

どうやって動かせばいい。


足は? 目は? 頭は?


俺はすでに俺という存在が認識できなかった。

まるで意識だけが現実世界に縫われたままのような。

浮世離れした感覚が体と心を引き離しているみたいだった。


その時、耳の奥で飼い主の声が響いた。


『おいおい、ギンガ君。今回のイカサマは勝たなければいけないんだよ? 倒れてたら駄目じゃないか』


愉快に笑いながらそういうのが聞こえた。


『まあ、無理だとは思うがね。君がどんなにタフでも“猛毒”には勝てないだろう。今日で終わりさ、今までご苦労だった』


「ど、どういう……ことだッ!!」


ボジャーの拳を受け続けながら、気力を振り絞って尋ねる。


『どういうことも何も、相方が来てない時点で気が付いていたものだとばかり思っていたが……。ハハハッ! こいつは傑作だ!』


薄れゆく意識の中で、ただただ不快な声が脳に響く。


いったい、いつ毒を盛られた。

考えるまでもなく、その答えはすぐに分かった。

あのエナジードリンクか。

うかつだった。普段は影にいるこいつが、指示を出すことに気を取られすぎていた。


『君の相方は殺しておいた。どこからか、我々がイカサマをしているという噂が流れていてね。これがまた、だいぶん正確な噂なんだよ。そして悲しいかな、この事情を知っている者を抹殺せよとの命令が上から下ったんだ』


「……ッ、俺は、喋ってねえ!!」


『古人曰く、疑わしきは罰せず、ということわざがあるそうだ。これは同胞に対する、温情のあるあたたかな言葉だと私は思うのだよ。だがね、ギンガ君。私たちは人という殻を捨てた新たな生命体―――人造人間(レプリオン)なのだよ。私たち人造人間(レプリオン)は、旧人類とは一線を画した存在。その私が君たちのような弱者に、温情をかけると思うかね』


ボジャーの蹴りが俺の横腹に直撃する。

鈍い音が立て続けに四回、体内で響き渡る。

吹き飛ばされた俺はそのままリングのネットに弾かれると、次の瞬間には顔面に右ストレートの拳を撃ち込まれていた。


『疑わしきは抹殺だよ、ギンガ君。それが君たち弱者に課せられた運命だ。君に関係のある人物は全て抹殺させてもらった。……あぁ、だが君が一緒に住んでた女の子がいただろう。あの年頃の娘は、一部趣向の曲がった方々に好評でねえ。今回の監督不行き届きの私の責任を大目に見てくれると言ってくださった』


「―――ッデメェ、サチに何しやがった!!」


口と鼻から血を吹き出しながら叫ぶ。

刹那のうちに様々な憶測が頭を飛び交う。


しかし、そんな思考も毒が回るとともに立体を失っていき、俺は膝から崩れ落ちる。

自らの意思以外で倒れるのは初めてのことだった。

だが、そのまま倒れることを許すボジャーではない。


ダウン寸前で俺の首根を鷲掴み宙吊りにする。

歓声が沸き、あらゆる暴言や歓喜の言葉が会場を埋め尽くす。


だが、そんな中でも脳にまとわりつく声だけは、はっきりと聞いて取れた。


『何をしたって言われてもね……。ただ売り飛ばしただけだよ。今から出向場に行けば間に合わんこともないが、今の君の体で倒れずにいけるかな?』


「……ス、……ブッコロス!! ぇメエだくうぇはゼッテーブッコロス!!」


『落ち着けよ、ギンガ君。もうろれつが回ってないじゃないか。私としても心苦しいんだ。……ちなみにもう一つ君に隠している心苦しいことがあってねえ、今回の試合は新薬の実験なんだよ。ボジャー君に投与したドーピングは身体能力や筋肉を一時的に増強させる薬でね。地下闘技場をさらに刺激的なものにするために作られたんだ。裏の貴族たちの間では、君が倒れるか、それとも生き残るかの賭けが行われている』


この時ようやく気が付いた。

こいつは俺たちを人間として扱ってねえ。

死体蹴りもいいとこだ。

どうせ抹殺するなら、その死すらも利用しようって魂胆か。


力あるものは自らの保身か益のためにしか動かない。

慈善に見えても、その行動や言葉の裏には何か別の思惑がある。

外面(そとづら)を磨き上げ、利用できるモノは利用するだけして骨までしゃぶり尽したら、また別の肉を探す。


つくづく思い知らされたよ。

この世は弱肉強食。

弱いものは強いものに食われる運命なんだってな。


だが―――だがな。

どうしても気に食わねえことがある。


「サ……サチは、関係ねえだろうがッ!!」


そう、あいつは関係ねえ。関係ねえんだ。

俺一人ですむ話じゃねえか。

なんであいつにまで、火の粉が降りかからなくちゃいけねえんだ。


『君がイカサマのことを喋っているかもしれないだろう。それにもう一人いた男の子は、君がここで戦っていることを知っていた。消すには十分な判断材料だ』


「―――ッ、テメェェェェエエエ!!!」


その時。

俺の体にズン、と重い衝撃が腹に響いたかと思うと、そのまま口から吐しゃ物と血が混ざった液体を吐き出す。

ボジャーが俺の首を左手一本で鷲掴みながら宙吊りにしている状態で、空いた右腕で渾身の力を込めて殴りつけたのだろう。


「オマエ、キタナイ」


ボジャーはそう言うと、押さえつけている俺の首をより一層強く握りしめる。

さらにもう一発、拳を腹にお見舞いされ腹の中から液体がこみあげてくるが、しかし、圧迫されたのど元でせき止められ、代わりに肺に入り込む。


だが、むせこむための空気も、もはや吸い込めない。

毒で侵された体はもうその反射機能すら失っていた。

液体が一部、鼻の穴から流れ落ちる。


「コ……ロス。……ス、……こ……すッ!!」


俺は呪文のようにつぶやき続けた。

そんな俺の声が聞こえたのだろう。

人造人間(レプリオン)が通信機を通して、諦め口調で言った。


『旧人類はどうせHKVで死ぬのだ。どう扱おうが誰も困らないだろう。むしろただ死んでいく無価値な存在な君を、有用な道具として育て上げたんだ。感謝こそされど恨みを買う覚えはないのだがね。そこらへん、君も分かってると思ったのだが……、まあ、所詮は野良犬ということか』


「い……ま、すぐ……こr……し――――――」


『それができるのは、君が倒れず生き残ったらの話だ。まあ、最も毒を飲んだ時点でその可能性はゼロだがね。ボジャー君には君を完膚なきまでに潰して殺すように言っておいた。―――この世界は弱肉強食なのだよ、それを忘れちゃいけない。さようなら、ギンガ君。来世でまた会おう』


とんだ皮肉のきいた別れ台詞だ。

半永久的に死ぬことのない体を持っている人造人間(レプリオン)が、来世で会おうだとよ。

まったくもって笑わせてくれる。

だが、その乾いた笑いは声に出されることはない。


その後も俺はリングの上で、サンドバックのように殴られ続けた。

両手はだらしなくぶら下がり、足は糸のように衝撃で揺れる。

体が壊れていくのを意識の外で感じながら、そして俺はその意識すらも無くしてしまった。





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