三十八話 新たな呪い
アイネとノイアは孤児院を出て日課の散歩していた。
青空の下、自然豊かな田舎道を通り雑木林を抜けると、透き通った水の流れる川に出る。
暑い日はそこで足を浸しながら話をし、寒い日はたき火をしながら笑いあう。
なんということもない日常をいつも通り。二人は今日もひんやりと冷たい川に足を入れようと意気揚々といつもの場所に向かった。
「早くシスターたちを呼んできて!!」
いつもの場所には先客がいた。
その少年は体を血まみれにし、必死に陸に上がってきた痕跡が見受けられた。
ノイアはもう助からないと思いつつも急いでシスターを呼びに行った。
シオンは駆けつけた職員たちによって孤児院に運ばれた。
病院には行けなかった。
医者は衛生兵として徴兵されており、本部基地があるところにまで行かなければならない。その上、戦争の現状は降伏もしくは制圧されるのは時間の問題で、近くに行くのは危険だった。
それほどまでに敵兵がオーシャン帝国内にまで攻め入っていた。
職員の中には元看護士がいたため手当は彼が行った。
最善は尽くしたが、出血量が多すぎる上に左太ももの内側広筋の損傷が激しく、元通りに歩けるかどうか怪しかった。
アイネは見つめる。ベッドの上で意識を取り戻さないシオンを。少年の顔は苦悶の表情を浮かべていた。
「ねえ、ヨハン。この子助かる?」
「僕はできうる限りの処置は施した。正直言って出血量が多すぎる、生きるか死ぬかは半々といったところだろうな」
その日からアイネはシオンにつきっきりで看病した。
ノイアとの日課も次第にさぼるようになっていった。
アイネは一人になりたかった。看病はそのための名目でしかなかった。
希望を与えようと門をたたいたまでは良かったが、そこからは想像を絶するほどの気苦労だった。何せアイネが来た当初は、この孤児院内で希望を持っている人など誰一人としていなかったのだ。その中で孤軍奮闘するように一人一人に話しかけ自分の勇気を分け与えた。
そのような状況で一年がたち、孤児院全体としては以前と比べ物にならないほど活力が復活した一方で、アイネの中の勇気はすり減っていった。ファンソングの言霊はアイネの中でほとんど消えかけていた。
どうしようもなく苦しかったが、どうしたらいいか分からない。助けを求めようにも、孤児院内はアイネを光としていて、とてもではないが自分から助けを求めすがることなどできなかった。
気は滅入るばかりで、外面を整えるだけで精いっぱいだった。
だから一人になりたかった。意識がないシオンの傍ならば、どんな顔をしようとも気づかれることはない。
かといって、シオンのことを心配していなかったわけではない。本気で看病して心の底から彼の無事を祈った。
やがてシオンの瞼がピクリと動く。
ゆっくりと目を開け、焦点の合ってない死んだような目がアイネに向けられた。
「よかった! 目が覚めたのね」
「……ここは? 母さんは……母さんはどこだ?」
「お母さん? 川辺にはあなた一人しかいなかったわ」
その言葉で苦々しい記憶がよみがえる。
夢ではなかった。
母は死んだ。
未来を息子に託して。
その瞬間、シオンの顔が青ざめたかと思うと呼吸が荒くなる。
口からは泡を吹きだし白目を剥き体を痙攣させる。
「だ、大丈夫!? ちょっと、ヨハンさん!! 急いでこっち来て!」
翌日、シオンは再び目を覚ました。
隣には見知らぬ女の子が眠りこけていた。
隙間風が吹き抜ける木造の建物に、つぎはぎだらけの掛布団。
遠くから聞こえる子供たちの騒がしい声。
どうやら一般的な家庭ではないことだけは理解できた。
隣に座っていた少女の体がビクっと震えると、ハッと弾けるように顔を上げる。
シオンと目が合う。
「今度こそ……大丈夫かしら。気分はどう?」
「……よだれ、垂れてるぞ」
少女は耳を赤くし、急いでふき取る。
誤魔化すように話題を変える。
「あなた、名前はなんて言うのかしら。昨日は聞きそびれちゃったもの。あ、私はアイネって言うの」
「おれは……シオン」
「そう、シオン、よろしくね! それで、気分はどうかしら。何か具合悪くない? 昨日みたいにいきなりだと困っちゃうから……」
シオンはしばらく冷たい目でアイネを見る。
「な、なにかしら」
「……お前の方が気分悪そうに見えるけどな」
「えっ?」
「…………何でもない。一人にしてくれ」
「そ、そうよね、ごめんなさい。……またしばらくしたら来ていいかしら」
しかし、問いかけにシオンは答えることは無かった。
それを肯定と受け取ったアイネは「じゃあ、またあとでね」と言い残し部屋を出た。
シオンは外で聞こえる子供たちのにぎやかな声を背景に物思いにふける。
―――何、人の心配してるんだろうな、俺。……もう守るものなんて何もないのに。
思い出すのは自分の犯したミスばかりだった。
あの時、家でしっかりと母親を引き留めていれば。
あの時、銃を持っていけば何か変わった未来があったかもしれない。
あの時、違和感を持った瞬間に強引に母を連れて逃げれば二人とも無事だったかもしれない。
悔やんでも悔やみきれなかった。
行動の一つ一つが脳裏に絶えることなくフラッシュバックし続ける。そして決まって最後に頭に浮かぶのは母親と父親が死に際に浮かべた顔だった。
―――もういい……、もうやめてくれ! 頼むから俺にこれ以上その場面を見せるな!!
誰に向かって思ったものではない。ただ、心で叫ばざるを得なかった。
そして、シオンは再び泥のような深い眠りに落ちていった。
すすり泣く声がどこからか聞こえた
耳を澄ますまでもなく隣から聞こえている。
シオンはゆっくりと目を開け、横を見る。
体は万全でないため、それがシオンにできる唯一の可動域であった。
横にはアイネがいた。
堪えようとしてもこぼれ出る涙が頬を流れる。
「横で泣かれると寝れないんだけど」
まさかシオンが起きているとは夢にも思わなかったのだろう。アイネは驚きに体を弾けさせ、涙を見せまいと慌てて後ろを向いた。
だが、時すでに遅し。ばっちりと泣き顔を見られていた上に、指摘までされてしまう始末。
アイネは後ろを向いたまま言った。
「……誰にも言わないでよね、泣いてたって」
「分かったよ」
しばらくアイネのすすり泣く声だけが部屋にこもる。
その声を聴くとかつての母親が泣いていた姿を思い出し、シオンはついつい聞いてしまう。
「何かあったのか? この間もつらそうな顔してたよな」
「別に……ただちょっと……情けないなぁって」
アイネは後ろを向いたまま答えた。
「情けないって、誰が」
「……私よ、私自身」
静寂が二人の間を流れる。
シオンは、彼女が何か大切なことを言おうか迷っている雰囲気を察し、そのまま次の言葉を待った。
やがてアイネが背を向けたまま口を開く。
「私ね、昔いろいろつらいことがあってね、喋れなくなってた時期があったの。そんな時に優しくしてくれた人がいてね。憧れたの、その人に―――」
アイネは言葉を続けた。
誰にもしゃべったことがなかった自分の過去、境遇、ファンソングとの日々、そして現在抱いている想い。
不思議とアイネは心境を吐露することに抵抗がなかった。
アイネの心が弱っていたというのもあっただろう。しかし、それ以上にシオンという男の子が信頼に足りる人間だとアイネは直感的に思ったのだ。
この人は安い同情などしないだろうがきっと理解してくれると。
「……だから私も同じようなことをしてあげられたらなって。それをやらずに死ぬのだけは嫌だなって思ったの。私が生きてる限り、手の届く人に生きる希望をあげたい。……でも、もう無理みたい。私はファンのようにはなれない。あんなに自信をもって自分の道を生きていけない!」
それはアイネの心の叫びだった。
寄り添うたびに死におびえた子供たちはアイネの心を踏みにじった。
『お前に僕たちの何が分かるんだ!』
数々言われた中で、最も傷ついたのがこの言葉だった。
そんな中でもアイネは寄り添い続け、この孤児院はようやく活気を取り戻した。
しかし、もう限界だった。
孤児院で年下からは姉のように慕われ続け、シスター達からは頼りにされる一方、彼女の心は誤魔化し続けてきた負の感情が蓄積していた。
「私ね、たまに最初に決めた道を忘れそうになっちゃうの。ファンなら絶対そんなことはあり得なかったのに。……しょせん憧れは憧れだったのかしら。私の思いは偽物だったのかなって、最近思うようになって、そしたら苦しくて、つらくて……。もうわからないの」
シオンは黙ってその言葉を聞き続けた。
話の中での印象は母親とは全く逆の女の子だということだ。
母は結局最後まで他人に依存し続け命を落とした。
しかし、目の前の女の子はどうだろう。苦しんで、もがいて、自分の運命を切り開こうと必死になっている。
なるほど、他の孤児院の子供たちが導かれるのも頷ける話だとシオンは思った。
同時に、彼女は何が原因で消耗しているかにも気づいた。
シオンは嘆息を漏らす。
「お前は期待に応えようとしすぎだ」
それを聞いてアイネはようやくシオンの方に体を向ける。
「そんなことないわ、そんなことない。あの子たちには……」
「子供たちの期待にじゃないぞ、さっきからお前の口に出てくる死人の期待にだ」
「……死人って誰よ。もしかしてファンソングのこと言ってるの!?」
アイネの語気が強まった。
しかしシオンは臆することなくいう。
「お前の不安はそこから来てることは話聞いたら誰だってわかる。結局、お前は憧れだった男に認めてもらいたいだけだ。自分のためにやってるんじゃない、だから辛くなる、だから偽物だって疑いたくなる」
「そんなことない!! 私は、わたしは助けたいと思って……」
「あぁ、それは間違いなく本当の思いだと思う。だが、俺が言ってるのはその自分の姿と死人を重ね合わせるなってことだ。重ね合わせることで小さなズレが大きく見える。お前が歩もうとしてるのは自分の後悔しない道じゃなくて、その男の後悔しない道なんじゃないのか?」
「…………ッ!!」
アイネは何も言い返せなかった。
その通りだった。彼女は憧れるあまり自分の姿を亡きファンソングに投影していたのだ。
彼ならもっと早く立ち直らせれた。
彼ならもっとうまく寄り添ってやれた。
その思いが焦りになり、いつの間にかアイネは周りが見えなくなっていったのだ。
結果、ファンソングとして周囲の期待に応えることに疲れ果ててしまった。
そこを直接的に指摘され、アイネはその場にとどまることができなかった。
再び背を向けたかと思うと、一目散に部屋から出ていった。
「……言い過ぎたか。まぁ、いいか、どうでも……」
そう呟いたシオンの眼は虚ろで、生への執着を無くしているように見えた。
☆
翌日、扉をノックする音でシオンは目を覚ました。
見るとアイネが立っていた。
しかし、昨日までの思いつめたような面持ではなく、どこか心につっかえていた棒が取れたかのような晴れやかな表情だった。
「お礼を言いに来たの。あなたのおかげで気が楽になったわ。確かに私はファンの影を追いすぎていた、それをあなたに言われるまで気が付かなかった。……ありがとう」
相変わらず体を動かせないシオンは、天井に顔を向けたまま目を閉じて言う。
「別に俺は言いたいことを言っただけだ。何もしてない」
「ううん、あなたが言ってくれなければ私は自分で自分を殺してた。ほんとに助かったわ」
「……そいつはよかった」
それからのアイネはまるで人が変わったようだった。否、元からそういう性格だったのだろう。物言いがよくなり表情も自然なものになった。周囲からは以前より少し明るくなった程度の認識だったが、シオンからすれば驚くほどの変貌ぶりであった。
しかし、そんなアイネとは真逆を行くようにシオンは徐々に衰弱していった。
筋肉が落ちていき、頬はげっそりとやつれていた。
最初は聞き取れていた声もか細くなっていき目に見えて異常だと分かった。
もう彼には自分が生きる意味が見いだせなかった。
父を失い、守れたはずの母も失った。
シオンにはもう正義を成り立たせるための支えがなくなっていたのだ。
寝ても覚めても脳裏に蘇るのは母のことだった。
―――もう疲れた……もう疲れたよ、母さん。楽になりたいよ。早く楽に……。
いつものようにアイネは、シオンにつけられている点滴が少なくなったことを確認し、付け替える。シオンの額に浮かぶ汗をふき取り冷たいタオルを乗せる。
アイネは日に日にやつれるシオンを何とか元気づけようと話題を振るも、しかし全てそっけなく返され会話が途絶えてしまうのだった。
アイネはシオンの太ももの包帯を直しながら聞く。
「ねえ、ずっと聞きたかったんだけどあなた、どうしてこんな傷を負ったの」
決して明るい話題にはならないだろうと思って今まで口にしてこなかったが、何かしゃべる口実がほしかった。話題もなくなってお互いが無言になる時間が多くなっていたが、時折シオンの目が死人のそれになるところをアイネは見てしまっていた。このまま喋らなかったら一層衰弱していくのではないかという不安がアイネにあり、話題を選んでいる場合ではないと考えたのだ。
「撃たれたんだよ」
シオンはそっけなく言った。
「そう……じゃあ、前にお母さんが、って言ってたのって」
「殺されたよ、ドセロイン帝国に」
「……そうだったのね。ごめんなさい、辛いこと思い出させちゃって」
「いや……別に……」
このとき、シオンは自分の声が震えているのが分かった。
気が付くと目には大粒の涙が溜まっていた。
言葉にしないことで夢であってほしいというわずかな希望が抱けていた。頭では何度も母が死んだ瞬間がよみがえるが、心の奥底では受け入れることが出来ずにいたのだ。
無意識のうちに心の中に留めておいた事実を口に出した途端、せき止めていたものが溢れだした。
「ほんとにごめんなさい、ただ私は……」
アイネが慌てて弁明を図ろうとするもシオンの声によってかき消される。
「うるさい!! うるさい、うるさい! だまれ!」
シオンは涙を見せまいと壁の方を向く。
しかし、彼の心はもうどうしよもないほどに壊れていた。
意識を取り戻した瞬間から鮮明に頭の中に浮かび上がる母の死。
寝れば悪夢のように再現される父との日々。
思い出さないようにするほど自責の念に押しつぶされ、自らの存在価値を見出せなくなっていた。
形容できずにいた感情が、アイネを怒鳴りつけたことで形を作っていく。
「おれは…………守りたかったんだ。どうしても母さんを守りたかったんだよ! でも、おれにはどうすることも、できなかった!!」
これ以上は言ってはいけない。言えば自分という人格が壊れてしまうと直感的に思った。
しかし止めようと思っても、一度形になったが最後、溢れだす感情を止めることはできなかった。
「あそこからどうやって逃げればよかったんだ! なあ!? 母さんが必ず助かる方法があったのか!? ドセロイン帝国に行く前に止められたらよかったのか!? いや、俺は何度も止めたさ! 何度も引き返そうっていった! 何度も、何度もなァ!」
その言葉は自分以外の部屋にいる人間―――アイネにぶつけられる。まるでアイネが親の仇でもあるかのように。
彼女に怒りをぶつけてもどうしよもないことぐらいシオンは分かっていた。
しかし、頭では分かってはいても、どこかにこのどす黒い感情をぶつけずにはいられなかった。
「人を信じる? 信じた結果がこれだ! どうしよもないお人よしが五人、自分から死にに行ってりゃせわねーわな! まんまと騙されたってわけだ! それを守ろうだなんて悪い賭けにもほどがある!」
「……」
「お前に分かるか!? 守ろうとした人を守れず、挙句の果てには命を懸けて守るはずだった人に守られた俺の気持ちが!! 実の父親を殺してでも守りたかった人が目の前で死んだ俺の気持ちが!! 分かるわけないよな!? お前は常に守られてばっかりだった! そんな奴に俺の気持ちなんて理解できるはずがない!」
アイネは黙ってゆっくりと枕元に寄る。
シオンは肩で息を切らせ、ベットの上でぐったりとする。死に体で残ったすべての体力を使ったようなものだった。
シオンは自嘲気味に笑う。
「……もう生きるのは疲れた。俺をこのまま死な―――」
しかし、そこから先の言葉は言えなかった。
否、シオン自身は言おうとしていた。アイネがそれを防いだのだ。
アイネはベッドに寝るシオンを横から抱きしめた。
優しく、そして強く、ぬくもりを与えるように。
シオンは荒ぶった心が落ち着きを取り戻していくのを感じた。彼はこの暖かさを知っている。
アイネはシオンの耳元で囁くように言う。
「確かに私は守られてばかりだったわ……。でもね、だからこそ分かるの。あなたに守られてたお母さんの気持ちが」
「……」
「ずっと一緒だったんでしょ。辛い時も、苦しい時も、どんな時だってお母さんはあなたの姿を見て勇気をもらってきてたと思うの。この子が頑張ってるんだから私も頑張らなくちゃ、って。だから、自分が殺されるって分かっていても、ためらわずにあなたを守ることができたのよ」
「……」
「だから、ね。言わせてほしいの。あなたが守っていたお母さんが、今は言えない言葉を」
しばらくの間の後、シオンは小さく、うなずいた。
「―――『シオン、ありがとう。私のためにそこまで辛い思いをしてくれて。私はシオンと一緒にいて、とっても幸せだったよ。だから、自分を責めないで。シオンには私の分までしっかりと生きてほしいな』」
乾いていた瞳が再び潤いを取り戻し、涙が頬を伝う。
シオンは嗚咽を漏らし、声を出して泣いた。
どうしよもなく砕け散っていた心が一つ一つ戻っていくようだった。
この言葉はアイネでなければ言えなかったものだ。いや、似たようなことであれば誰にでも言えたであろう。
しかし、孤児院の職員や他の人物がこの言葉を言ったところでシオンの心には響かなかったことに間違いない。
ずっと守られ続けてきたアイネだからこそ、その言葉に魂がこもりシオンの心に届いたのだ。
シオンは震える声で言う。
「でもっ、でも、お、おれには……もう誰も守る人がいない。生きてたところで―――」
「なら、私を守って。どんな時でもいい、どんな瞬間でもいい。私の心が折れそうなとき、私がピンチになった時、私の魂が穢されそうになったとき、必ずシオンが駆け付けて私を守って。ううん、私だけじゃない。この孤児院にいる家族全員を守って」
「おれで……俺でいいのか? 一度、失敗してるんだ。次だって―――」
「大丈夫、シオンは失敗しない。『私を信じて』」
最後の言葉が―――誰かと重なった。
その瞬間、シオンのその眼に再び生気が宿った。
「―――ああ、……信じる。今度こそ……守ってみせる。絶対にだ」
その言葉を聞いてアイネはシオンの側から離れる。
「ふふ、期待してるわよ。でも、その前に早く体力戻さないとね」
そこからのシオンの回復力は驚くべき早さだった。
二日で上半身を起こせるようになり、一週間後には立ち上がれるまでに回復した。
足のけがで最初は歩くことは困難だったが、それも一か月のリハビリで順調に元に戻っていった。
周囲とも時間をかけて少しずつ馴染んでいった。
「シオン、少し髪の毛伸びたんじゃないの?」
ある日アイネは言った。
シオンは前髪触りながら確認する。両サイドの髪の毛は耳が隠れるほど伸び、前髪も手で押し延ばすと目を覆い隠すほどだった。
「あー、確かにな。言われてみれば全然髪の毛切ってなかったな」
「もー、ずぼらねー。ちょっと待ってて」
そういってアイネは引き出しからハサミを持ってくる。
「まさかとは思うが……アイネが切るとかやめてくれよ?」
「なぁに言ってんの! タダで切ってあげるんだからむしろ感謝しなさい。どんな髪型がいいかしら。うーん、やっぱり男ならスポーツ刈りよね」
「まじかよ、やめてくれ」
「あーもー、口答えばっかり。いいからそこ座って」
シオンはしぶしぶ指定された椅子に座る。
運の悪いことに正面には誰かの手鏡があり、見事にシオンの顔を映し出す。
「前髪ちょっと上げるわよ」
シオンの右の額には大きな傷跡があった。
橋から落下した際に撃たれたものだった。
「うーん、やっぱり跡になっちゃってるわね。しょうがない、スポーツ刈りは諦めてあげる。代わりにとびっきりかっこいい髪型にしてあげるわ」
「別に傷跡見えててもいいから、ちゃんとした髪型にしてくれよ。頼む、ほんと」
「分かった、分かった」
言うが早いか、アイネは芝でも刈るように勢いよく切っていく。
「ここはこうで……。うーーん、こっちはこう。あ、やっちゃった。でもここをこうすれば……」
「やっちゃったって何を? やめてくれよ、おどかすなよ」
20分後、アイネの「かんせ~」という声を聴き、シオンは出来上がった髪の毛を鏡で見る。
「おぉ……」
悪くなかった。
両サイドの髪はバリカンでも入れたかのように短く整えられ、前髪は傷を隠すように右側を長く残したまま流していた。
素材を生かす匠の技である。
「ふふん! どんなもんですか、シオンさん! かっこいいでしょ」
「お、おう。あ、ありがと」
「えーー? なんてー? もっと大きい声で言ってよね!」
「うるさっ、ノイアのとこ行ってくるわ。んじゃ!」
「あ、ちょっと待ちなさい、シオン」
かくして三人は出会い、シオンは再び生きる活力を取り戻し、アイネは自らの道を切り開いたのだった。
しかし、それは皮肉なことにシオンの心に新たな呪いを上乗せさせたことに他ならなかった。