二十三話 意外といいやつ……?
瞼で瞳を覆う。
息を七秒かけて吸い込み、肺に空気をため込んだら五秒その状態を保つ。そのあとゆっくりと再び七秒かけて息を吐き出す。
―――大丈夫だ、アイネは生きてる。
自分に言い聞かせるように心の中でそのフレーズを反芻する。
徐々に心拍も落ち着き脂汗も引いてきた。同時に、動揺し自分を見失い、本質から逸れてしまったことを猛省する。
同じ過ちは繰り返さない。今回はサセッタの試験だったからよかったが、これが実践であれば間違いなくアイネは命を落としていたことだろう。
シオンは目をゆっくりと開け立ち上がる。
そこには、いつものシオンの姿があった。
誰よりも仲間想いで、時には命を懸けてでもその誇りを貫き通す気高い背中だった。
絶望の淵に追い込まれることで自覚し、明確化したことで追い求め続けていたアイネの背中に少しだけだが追いついた気がした。
しかし、その観念はアイネと似て非なるものであった。
おそらく彼は誰よりもアイネやノイア、そして家族だった母親や孤児院で共に過ごした人たちに対しては誰よりも慈悲深く、深い愛情を持っている。それはアイネよりも格段にである。
だが、それ以外の者に対しても果たして同じ行動をとるといえるだろうか。
敵の作戦かもしれなければ自分よりも年下でも容赦なく見捨てる。
感情の前に理に思考を通すシオンの観念は、アイネと近いようで、しかしどうしよもないくらいに隔たった似て非なるものであった。
シオンは高温の爆風によって負った患部に目を落す。
焼けて皮膚が剥がれ落ち肉が脈打ちながら血に染まっているのが分かった。
左手、そして左足の痛みが、正気に戻ったシオンの体にじわりじわりと侵食する。
左足を一歩前に出し体重をかける。
「……っつ!」
痛みのあまり思わず吐息に言葉が混ざる。
しかし、我慢できないほどではなかった。
今度は左手の指を動かした時だった。
稲妻に打たれたかのような痛みが全身を駆け巡った。神経が悲鳴を上げ脳にまで痛みが伝線したかのようだった。
度を超す痛みは声にすらならなかった。
シオンは思わず苦痛に顔を歪ませた。
―――左足は何とか生きてる。だけど手は完全に死んでる……か。動かせる部分は肩から上の部分だけ。動かしても空気の奔流で意識が飛びそうになるくらい痛いな。
その時、足音が近づいてくるのが分かった。
間違いなくシオンの潜んでる家に向かってきていた。
何か役に立ちそうなものはないかと周囲を見渡す。
その時シオンは山のように積み重なっているあるものを見て唯一の突破口を思いついた。
奇策でも何でもない愚直にしてただ一度の一点突破。
形勢は圧倒的に不利であったが、シオンの中でまだ勝ち筋は途絶えていなかった。
「悪い賭けじゃねえな」
迎え撃つ覚悟を決めた。
固唾を飲み、シオンはセリアンスロープの象徴である形印を首筋に浮かび上がらせた。
ファーデルが目を付けた建物はベージュで塗装が施されている二階建ての一軒家だった。
外観から判断するに一軒家にしては大きすぎ、二世帯同居をしてもなおスペースが有り余るほど広い。
家は先ほどの多連装焼夷ロケットランチャーによる爆撃で半壊し、一部瓦礫に埋まっている。怪我を負っているシオンが手間なく忍び込め、攻守を兼ね備えるにうってつけの空間だった。
ファーデルは口元に含み笑いを浮かばせ、油断なくハンドガンを構える。
カラン、と乾いた音と共に瓦礫の一部が崩れた。
ファーデルは音がした方に銃口を向けると、瓦礫の後ろに隠れるようにして立つボロボロになったシオンの姿があった。
しめた、とファーデルが思ったその瞬間、シオンがコンクリートの塊を投擲した。
ファーデルはなんなくそれを避けるも、第二、第三と続けざまに飛んでくる。
「……しゃらくせえ」
反射的に避けていたが石の一発や二発、当たったとしても大したダメージにはならないと踏んだファーデルは銃を構える。
右目でサイトを確認し、フロントサイトの頂上をシオンに合わせトリガーに右指の腹を滑らせた時だった。
シオンはこの瞬間を待っていた。
シオンが投石という極めて原始的な攻撃手段をとったのも、ファーデルが威力を軽視し捨て身になり射撃に専念することを想定してのものだった。
石による投擲は重要かつ効果的な戦術で、現代はもちろん太古の昔より使用されている。武器となる石は見つけるのが容易であり、風の影響を受けにくいことからも即興の武具としては敵に対しかなり有効なものになる。
しかし、投石のみで相手に致命傷を与えることはできない。せいぜいダメージを与えさらに追撃するか、もしくは逃げることが次の定石になるだろう。
そう、普通の人間ならば。
「二重加速」
最初の避けられた三つのコンクリート片はこの一撃を確実に当てるための仕込みだった。
セリアンスロープの力を引き出しおよそ二倍の速度で振りぬかれた塊は、ファーデルが引き金を引く前に顔面に直撃した。
完全に想定外の速さとダメージは致命傷に限りなく近かった。
反動でファーデルはのけぞり両足がわずかだが地面を離れ、手から拳銃が滑り落ちる。
シオンは瓦礫から身を乗り出し、落ちたハンドガンを拾いあげようと走り出したが、すんでのところで体勢を立て直したファーデルのミドルキックが繰り出され阻まれた。
「やるじゃん、キッズ」
額から流れる紅蓮の血を舌で舐めとりながらファーデルは言った。
その顔にはいまだ余裕の色が浮かんでいた。
対してシオンは左手が微動するたび、投石のたびに起こった激痛に苦悶の色を浮かべていた。
「予想通り、さっきのロケランで怪我したみたいだな。まあ、むしろ一発で退場しなかったことに驚いてるんだけど」
ファーデルは余裕綽々と言った感じで話しかける。しかしその瞳には初対面の時に向けられた蔑んだ眼差しではなく、純粋に驚きと感嘆、そして賞賛のものだった。仲間を失い、痛みに耐え、分が悪い中でもわずかな勝機を見出さんとするその気概をファーデルはいたく気に入った。
「正直見くびってた。ナナロールが倒されたときは偶然かと思ったが、そうでもなかったみたいだな。
さっきの石のカラクリもどうやったかは知らんがしてやられたわ。てっきり遊び感覚でここにいるもんだと思ってたから舐めた口きいてたけど、なかなかどうして噛み応えがある。
さすがにギンガには及ばないが……、キッズ、名前は?」
「……シオン」
少し警戒しながら答える。敵を見据える視界の端にはハンドガンが転がっていた。
「シオンか。俺はファーデル、残り少ない時間だが死力を尽くそうか」
そう言うとファーデルは前後に肩幅ほどの足を広げ、後ろ脚に少し重心を掛ける。上半身をわずかに前倒しにし、脇を少し開け両方の拳が目線の上に来るように構える。
その構えは一朝一夕で身についたものではなく、長い年月をかけて洗練されたものであることは誰の目から見ても明白だった。
もちろんシオンにもそれは伝わってきていた。
互いの距離は数歩、歩み出せば懐に入ることができるほどではあったが、さして近接しているわけでもないのに格闘家独特の闘牙は、可視化できると錯覚してしまうほどにシオン襲い掛かってきていた。
シオンの頬に嫌な汗が流れ落ちた。
本来ならば投擲で決着をつけるつもりであった。しかし、激痛によるコンディション不調で思いのほかセリアンスロープとしての力が出せず、スピードが乗らなかったため運動エネルギーが不足してしまい仕留めそこなってしまった。
賭けは完全にシオンの負けだった。
だが、不幸中の幸いか、力が引き出せなかったことでシオンの能力にはファーデルは気付いていないようだった。
限りなく低い可能性だったが、勝てるチャンスはそこしかなかった。
シオンは形印を浮かび上がらせる。初期頃、左の首筋にあった痣は喉元や鎖骨にまで延び広がっていた。
その瞬間、ファーデルの目の色が変わり口角が上がった。
「ひゅ~、それ形印だよね。なるほど、さっきの急に早くなった石はそういうことね」
「……」
「ギンガのも厄介だったけど、シオンのもめんどくさそうだ」
そう言ったかと思うと、ファーデルの両拳にだんだん痣が浮かび上がってくる。それは紛れもなく、シオンやアイネと同じセリアンスロープにのみ現れる形印だった。
「ギンガには内緒よ? まだ秘密にしときたいから、な!!」
言い終わると同時にシオンに向けて、小太りの体型からは想像もつかないほどのすさまじい速さで溜めた拳を放つ。
空気が破裂したかのような音が響いたかと思うと、数メートル離れているシオンの脳天に衝撃が走った。ぐらりと視界が回転して平衡感覚がおかしくなり、まるで見えない拳で殴られたかのようだった。
シオンは意識が飛びそうになるのを何とかこらえ、倒れそうになるのを何とか右足一本で踏ん張る。
気付くとシオンとファーデルの距離は目と鼻の先にまで詰まっていた。
ファーデルはシオンにダメージが残っている機会を逃すまいと、威力を重視した先ほどのスマッシュではなく、続けざまに繰り出せるジャブを放つ。
シオンは右手一本でガードできるはずもなく、成す術も無くサンドバックと化した。
「俺のモデル生物は、みんなが知って生き物、シャコってやつだ。ネタバラシすると今さっきのは空圧よ。まあ、スマッシュ打つとあまりに威力ありすぎるもんだからソニックブームもどきが起きちまうんでそれを応用してるのよ。
だもんで、危ないからセリアンスロープの状態で生身の人間に拳を直接あてたことはないけど、仮想空間なら問題ないよな」
ジャブを一瞬止めたその隙にシオンの顔面めがけて音速を超える拳を繰り出した。
拳は見える。
その軌道も見える。
ただ、通常のスピードでは避けきれない。
二倍速でも当たってしまう。
避けるにはそれ以上のスピードを出すしかなかった。
しかし―――カースとの闘いでのトラウマがよみがえる。
二倍以上の能力を出してしまった時、果たして再び体が壊れてしまうのではないかと不安がよぎる。
だが、命中すれば間違いなくシオンの頭部は吹き飛ぶだろう。そうなれば時間を残しその時点で退場だ。
アイネの顔が脳裏をよぎる。
迷っている暇はなかった。
「三重加速!!」
体中の骨が軋み、いたるところで毛細血管が破裂し筋肉が悲鳴を上げる。
体を左にずらし拳を躱したかと思うと、次の瞬間シオンを襲ったのは衝撃波による爆音、そしてそれによる空圧だ。
右頬は引き裂かれ、脳が激しく振動した。一種の脳震盪のような現象がシオンを襲う。
視界は色を無くし、足の力が一瞬にして地面に抜け落ちるような感覚を覚えた。
「終わりだ!」
ファーデルは地面に崩れ落ちたシオンめがけてローキックを繰り出した。
刹那、シオンの網膜に焼き付いていたのはハンドガンの位置だった。
自分、ファーデル、建物、瓦礫の山、ハンドガン。視界を失う前のシオンが覚えている限りのあらゆる要素の座標を鮮明に一瞬で脳に構築する。
シオンは倒れこんでる自分を攻撃する手段で最も使用確率が高いのは“蹴り”だと考え、二倍速でファーデルの脇腹を通り抜けるように頭から飛び込んだ。
着地点には、果たしてハンドガンが転がり落ちているのが手触りで分かった。
体を反転し、右の膝を地面につけ体を安定させ射撃姿勢を整える。
シオンのその姿は、グリップの握り方から構え方、重心のかけ方、どれをとってみても軍人やファーデルと遜色のないもので、とても初めて銃を持つ人間とは思えない様だった。
慣れた手つきでトリガーに指の腹を乗せ撃鉄を下す。
一発、乾いた銃声が空に響いた。