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喧嘩の顛末は、生クリーム

作者: 彼方

 俺はいつものように会計を済ませた客を送り出し、営業スマイルで接客を続けていた。それは俺にとってもう体の一部になっている習慣の一つで、今更変えようとしても笑顔が肉にこびり付いた仮面のように自然と出てくるようになっていたのだった。これを店長は、慣れたな、と一言で片づけてしまうのだが。

 俺だって精一杯仕事を覚えて、それなりに努力してここまで来たのだから、少しは褒めて欲しい。とは言っても、雰囲気のいいこのお店で働かせてもらっているだけで有難いのだから、文句は言うまい。

 そうして新たに一番の隅の席のお客にキリマンジャロとサンドイッチを届けると、俺はきびきびとカウンタの中へと戻ってきて、作業を続けていたが、そこで――。

 カラン、とドアベルが小気味良く鳴り、新しく客が入ってきた。そのすらりとした細い体が店内へとすっと入り込み、栗色のショートヘアーが舞った時、俺は何気なく笑顔で挨拶しようとして、そしてその顔を見て硬直した。

 頭に、大きな盥が続けざまに落ちてきたような、そんな衝撃を受けた。

「こんなところで、働いていたのね」

 ぞっとするほどに整った顔立ち、伏し目がちなその睫毛の長い大きな瞳、きめ細かな白い肌……どう見ても、それは早矢香だった。

「お、お前……どうしてこんなところに」

「探したのよ。知り合いを手当たり次第にあたって、ここで働いているって突き止めたの。それにしても、随分と私に対して失礼なのね。何も言わずに部屋を出て行って、全ての連絡手段を断ち切り、新居でのうのうとバイト生活ですって? 私がどんなにあなたを探して……」

「ちょっと待て、話を聞けって!」

 カウンターの前で殺気立った女性を前に慌てている俺を見て、オーナーと同僚の岬が駆け寄ってくる。

「どうしたんだ、蓮? こちらの方は?」

「あ、いや、違うんです、こいつはただの知り合いで、」

「何で私を残して部屋から出て行ったの! 私なんてどうでもいいってこと? ずっと一緒だったのに、捨てる気でいたの?」

 俺は周囲の人間の様々な言葉が頭の中でくるくるとごちゃ混ぜになって回り、混乱してぶっ倒れそうになっていた。ごめん、と謝ってもこいつはきっと許してくれないだろう。でも、ここはもう、本当のことを言うしかない。

「ねえ、蓮、この人もしかして……」

 岬が青ざめた顔でポニーテールの髪を小刻みに揺らしながら、そう険のある声で言った。俺は慌てて彼女の肩をつかみ、「詳しいことは後で話すから」と耳元で囁いた。

「戻ってこないつもりなの? ねえ、返事してよ!」

 早矢香が大きな瞳に涙を溜めて、そう大きく怒鳴った。俺は歯を食い縛りながら、その小柄な女性へまっすぐ体を向けて、そして低い声でつぶやいた。

「すまない、早矢香。もう俺は戻らない。悪いけど、帰ってくれ」

「なんで……どうして、そんなこと……」

 俺は短く息を吸い込んで、そして目を逸らすことなく前を見据えて言った。

「俺はずっとずっと一人で暮らしていきたいと思っていた。自分一人の力で生きていきたいって決心したんだよ。お前とは今までずっと一緒にいたけど、俺はもう自立するって決めたから。だから、お前ももう、俺のことは忘れて自分の人生を生きろ。ここで今、説得されても、俺の決意はもう数ミリも動かないぞ」

 そう言って彼女に一歩歩み寄り、ドアを開いて外に出るように促すと、早矢香は唇を噛み締めて、きっと俺を睨んだ。そして、その大粒の涙を溢れるようにして零しながら、身を翻らせた。

「もう、いいわよ。蓮を信じた私が馬鹿だったわ」

 彼女はそうつぶやくと、すっとドアの隙間を抜けて外へと消えていった。

 俺はドアをゆっくりと閉じ、細く息を吐くと、そうして背中に地獄の業火を燃え上がらせている二人を見て、心底飛び上がってぎょっとした。

「蓮……あんたって奴は、私がいるのに、他の女の子にも手を出して……」

 指の関節を鳴らしながら岬が唇を吊り上げ、ゆっくりとにじり寄ってくる。

「蓮、お前だけは男気のある奴だと思っていたが、まさか二股だと? お店の面子を潰した罪は重いぞ?」

 オーナーがいつの間にか嵌めた手袋を擦りながら、ゆっくりと歩いてくる。

「ちょ、ちょっと待て、二人とも! これには深い訳があるんだ!」

「「弁解の余地なし!」」

「違うんだって、本当に! あいつは――」


 俺の双子の妹だ!


「は?」

 先に言葉を零したのは岬だった。目を点にして両拳を握ったまま硬直している。

「蓮……どういうことだ?」

 オーナーが真剣な表情でそう訊いてくる。俺はゆっくりとうなずき、その真相を話した。

「あいつは双子の妹で、ずっと一緒に同じ部屋で暮らしていたんだ。でも、このままだとお互いに依存し合って、いつまでも相手に頼りすぎるだけだと思ったんだ。もう自立の時期だと思ってさ。だから俺、あいつに手紙を残して部屋を出てきたんだ。しばらく別々に暮らして、そして時間が経ったら会いに行こうと思って。そしたら、あいつ、わざわざ俺の職場を突き止めて……」

 俺がそのまま説明を続けようとすると、突然岬が俺の背中をドゴッと物凄い勢いで叩いた。俺は危うくつんのめってすっ転びそうになる。

「だったら、さっさと追い掛けなさいよ! 妹が訪ねてきたのに、もう来るなって追い返す馬鹿がいるっ!?」

「えっと、それはどういう……?」

「追い掛けなさい、あなた――」


 お兄ちゃんなんでしょう?


 俺はその言葉が胸に響いた瞬間、はっと目を覚ました心地がした。自分が自立という現実を見据えてただ自分のことだけを考えて突っ走っていたこと、早矢香の気持ちを全く考えずに無視していたこと。兄ならば、もっと他の方法で彼女を助けることもできたはずだ。だから――。

「すまない、岬、ちょっと行ってくる!」

 俺がカウンターを出ようとすると、いつの間にかオーナーが屈み込んでガラスケースから何かを取り出した。

「おい、これ、持っていけ!」

 渡されたその白い箱を見て、俺は思わず目を丸くして、そして大きくオーナーにうなずいてみせた。オーナーは全く怒った様子もなく、白い歯を見せていつものそのとびきりの営業スマイルで送り出してくれる。

 俺は箱を握ると、そのままドアを開き、「行ってくる!」と叫んだ。そして、蒸し暑い空気が俺の顔を包み込み、店へと押し返そうとするが、俺は前方を見据えて走り出した。微かに見えるその背中を追って、俺はその箱を胸に抱え、ただ妹の涙を振り払いたくて、駆け続けた。そして、そっと追いつくと、震えながら歩く背中を叩いた。

「おい、早矢香、ちょっと待て」

 俺は息を切らしながらそう零し、彼女の肩をつかんで振り向かせた。彼女はその手を振り払い、顔を背けてしまう。

「蓮が言いたいことはわかってるつもりなの」

 早矢香がふとそう零した。彼女の栗色のショートヘアーが小刻みに揺れ、ひらひらと微かに舞い始める。俺は今度こそ彼女の前へと回り込み、謝ろうとした。すると――。

「でもね、突然何も言わずに自立しようなんて、そんなの意味わからないよ」

 妹の顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃに歪んでいた。その顔は彼女が今までずっと見せてこなかった、幼い頃に見せた本心からの泣き顔だった。俺は彼女をそんな風にさせてしまった自分に、今更胸を震えが突き抜けてきた。

「すまない、早矢香。俺は兄貴ばっかり頼るお前のことが心配だったんだよ。何かあればすぐに俺を頼ってくるし、兄妹だからそれは当たり前だとわかってるけど、やっぱり俺達もう今年で成人しただろ。だから今度は、一人ずつ、真っ向から人生を生きてみてもいいんじゃないかって」

 俺はそう言ってそっと手を伸ばし、彼女の目元を拭った。そして、ズボンのポケットからハンカチを取り出し、彼女の鼻をかんであげた。彼女は目をぎゅっと瞑って、子供のように鼻から音を鳴らす。

「だから、お前とは会わないなんて思ってないよ。ただ、これからはそれぞれ頑張って生きていこうぜ」

 彼女は俯きながら、小さくうなずいた。そして、お兄ちゃん、と小さくつぶやいた。

「私もね、このままじゃいけないって微かに思ってたんだ。だけど今、少し安心してもいるんだ。お兄ちゃんもあんなに職場で一生懸命頑張ってるんだって。私も頑張ろうかなって今、思えたよ」

「ああ。だからこれは、お前のそんな新たなスタートへの、前祝いだ」

 俺はそっとその箱を取り出し、彼女に差し出した。彼女は目を丸くして、そして呆然とそれを受け取ると、微かに箱を開いて中を見た。

「わ、美味しそう……」

「聞いて驚け、それは俺の作ったケーキだ。今まで俺が一人暮らししながら必死に編み出した、絶品スイーツだ。帰ったら、食べ――」

 すっと早矢香の指が伸び、ケーキに触れた。そして、そのままそれを掴んで、口まで運んでいく。

 俺は目を丸くして、彼女が小さな口を開けてケーキを頬張るのを見守ることしかできなかった。

「甘い……さすがだな、お兄ちゃんは」

 早矢香は口の端に生クリームを付けたまま、栗色の煌めく微笑みを見せて、涙をふわりと散らせた。

 それは俺達双子がお互いを必要として、そしてだからこそそれぞれの道を歩もうとする、純粋な想いから来ているのだ。俺は彼女がケーキを食べているのを頭を撫でて見守りながら、そんな自分にやっぱり苦笑してしまうのだった。


 了


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― 新着の感想 ―
[良い点] 双子であるという事実を気付かせない描写力。リアルティの感じられる仕事への主人公の姿勢。甘い匂いが漂ってきそうな、スタバ的な統一感ある雰囲気がよく伝わってきました、、 [一言] 双子の妹が…
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