歯医者さん
『枕草子』の三百五段の「病は」は、
「病は胸。物の怪。あしの気。ただそこはかとなく物食はぬ。
十八九ばかりの人の、髪いとうるはしくて、はたばかり、裾ふさやかなるが、いとよく肥えて、いみじう色白う、顔愛嬌づきて、よしと見ゆるが、歯をいみじく病みまどいひて、額髪もしとどに泣き濡らし、髪の乱れかかるも知らず、表赤くて、おさえゐたるこそ、をかしけれ。……(以下略)」(小学館 日本古典文学全集より引用)
清少納言の美意識として、「病は胸の具合が悪そうにしている様子。物の怪に悩まされているところ。脚気。なんとなく食欲が無くている様子。
十八、九歳くらいの、髪が非常に綺麗で、身丈ばかりの長さで、裾にふさふさと拡がっていて、大変肉付きがよく、色が白くて、お顔に愛嬌があって、うつくしく見える女性が、歯をひどく病み、額髪もすっかり泣き濡らし、髪が乱れかかっているのもかまわず、顔を赤くして、口元を押さえている様子こそ、趣きがある」
テキトーに現代語訳しましたが、清少納言に塞ぎこんで食欲がなくなるとか、歯痛に悩まされることはなかったのかと、言いたくなる図でございます。
勿論、清少納言は「他人の不幸は鴨の味」なんて悪趣味で書き綴っているつもりはないでしょう。病に「をかし」もなにもありません。これは我々が物語で美しきヒロインが倒れる理由に、痔の悪化による出血の為の貧血を原因としないのと似たようなものでしょう。痔疾の方、ごめんなさい。
歯が痛いのは深刻です。子どもの頃、歯が痛いと祖父に泣きついたら、正露丸を虫歯に詰められました。わたしには効き目がありませんでした。
歯医者さんの数々の治療道工がほとんど電動で、治療技術が進歩したのは二十世紀後半になってからなのかしらと、思っています。歯科治療の歴史は調べておりませんので、抜歯以外にはどんなことしていたのだろう、千枚通しみたいな鑿で削ったのだろうか、鎮痛効果のある薬草など虫歯に詰めたりしたのだろうかと、想像してみるだけです。
フランスはルイ十四世の寵姫のモンテスパン侯爵夫人は当時の貴婦人としては珍しく真珠のような白い歯をしていたとか、オーストリア皇妃エリザベートは美人で有名だったが歯並びが良くないのを気にしていつも扇で口元を隠していたとか、太平天国の乱の洪秀全の妹・宣嬌の歯が美しく、その歯が宝物として清王朝に収められていたとか、歴史上の逸話を聞くと、古来から歯を美しく保つのって大変だったんだ、現代文明は有難いものだとつくづく思います。
この春に長男が就職するにあたって、就業前に歯医者に行っておけと厳命しました。これまで長男は歯痛に悩まされたことがありませんが、しばらく歯科検診を受けていなかったので、用心の為に行っておくべきだと説明しました。就職すれば、被保険者証の切り替えがあり、それに時間も掛かるであろう、またペーペーが少しの体調不良で休みますと言い出しづらいだろう、体調は万全整えておけ、歯医者のほかにも気になるところがあるなら、その診療科の医者に行ってこい、としつこく言われて、呑気者もやっと意味を理解して、ちゃんと行ってきてましたね。
わたしには、今は一応虫歯がありませんよ。全て治療済みです。でも詰め物が古くて、定期検診の度に、歯医者さんとお互い、キャラメル食べてみても取れないんですよ、劣化してますが沁みる、痛む様子がないならまだ様子を見ましょうか、と会話しています。
片頭痛など体調が悪いと歯も痛くなってくるような気がして、詰め物を取って、クリーニングして、最新技術で何とかしてくれ、でもきっと治療は痛いだろう、少しお莫迦なジレンマに悩まされております。
モンテスパン侯爵夫人については『ヴェルサイユ宮廷の女性たち』(加瀬俊一 文春文庫)、エリザベート皇妃については『麗しの皇妃エリザベト』(ジャン・デ・カール 三保元訳 中公文庫)、洪秀全の妹については『妖のある話』(陳舜臣 講談社文庫)を参照しております。