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無能無才の男

作者: odayaka

 まさか生まれた瞬間に、無能無才と見破られたわけではないだろうが、その名を、無何と名付けられた。

 母は、生まれ落ちると同時に亡くなった。父は母を愛していたらしい。故に、少しの憤りを息子にぶつけたかったのかもしれない。それにしては、父はけして彼を蔑ろにするわけではなかった。ただ、彼を何も出来ない人間と看做した。彼もそういうものなのだろう、と自然とそれを受け入れた。

 或は、「お前には無限の可能性がある」などとおだてられれば、その気になって木にも昇ったのかもしれないが、現実は余程無慈悲なものだったろう。彼は父親の予想通り、無能無才な人間として学生時代を送り、父親のコネで軍隊に入ることとなった。父親はその国の中で頭を下げる必要のある人物は数えるほどしかいないような人間であった為、自然、彼もそれに倣うことになった。


 無能無才と決めつけられた彼に、父が教えたことは、有能な人間に全ての仕事を任せることだった。有能な部下を周囲に置き、彼らに差配させれば、万事巧く回る。下手に自分でやろうとは思わないことだ。お前にはその地位がある。俺にはそれだけの力がある。父の言葉に、無何は疑問を抱くことは無かった。


 無何は、自分に与えられた部下の仕事ぶりを眺め、有能なものはそのまま残し、無能と思われるものは外へやった。美辞麗句を用いて、軍事を芸術のように思わせようとする人間は排除した。伝統に固執するものも排除した。人間の命の重さを語るものも排除した。彼はただ、有能なものだけを望んだ。勇敢なものよりも臆病なものを好む性質はあった。けれども、ただ、臆病なものは残すことは無かった。


 立案は全て部下に任せた。実行もまた部下に任せた。外で冷遇されている有能と評判の人間を自分の下に置くように尽力をした。時に、その評判が偽りの時もあった。その人間は放逐した。冷遇しようなどと思いもよらなかった。自分自身のように使えないものは必要なかった。『使える人間』などと自己評価の勘違いをしている人間ほど度し難いものはない。


 彼の評判はけして芳しいものではなかったが、部下には慕われていた。何故かは彼にも解らなかったが、どうやら、部下の手柄を己のものにすることがなかったから、らしい。そんなことは当然の話だった。無能な自分が上に上がるようなことはあってはならない。彼の中には厳然たる事実をそのままに受け入れる感覚があった。それでも、彼の地位は上がって言った。そのことを批判するものは多かったし、彼自身もそれを喜ぶわけではなかった。ただ、彼の有能な部下たちも同じように引き上げられるのは気分が良かった。何もしていない無能な自分の罪悪感がそうさせるのだろうか――その思考は妥当な決着だった。


 生きていれば悲しいことなど無数にある。有能であった部下が、無能に変わってしまうことはその第一のことだった。――彼は自分に振られた仕事の全てを部下に任せる代りに、部下たちの観察を忘れることは無かった。それがどれだけ大きな規模になろうと変わることは無かった。有能な怠け者は許しても、無能な怠け者になることはけして許さなかった。幾人もの部下を放逐した。彼らには無論恨まれたが、気にしてはならない、と無関心を装った。彼らは他の部下を持つものに引き取られたが、左程の時間も経たないうちに無能の烙印を押され、閑職に追い遣られた。


 彼が軍隊に入った時には、彼の国は、軍事こそが第一と考えられるような国だった。

 しかし、彼が入り、しばらくして、軍隊の必要性に疑問を抱かれるようになった。



 そんな時、朝、情を通わせた女と共に同衾していた彼の元に、憲兵を名乗る男たちが現れた。男の家の執事が、彼らの侵入を防いでいた――その執事も有能だった。有能であり、絶対の忠誠を彼に尽くしてくれていたと言っても良い。無何は、彼の胸を枕に眠る女の身じまいを整えさせた。彼の分はそれほど気にすることもなかった。女がすっかりと平常の美しい佇まいになると、部屋の外にいる執事に声を掛けてやった。


 執事は初めて彼の言うことに逆らった。けれども、彼の穏やかな声に、とうとう引き下がった。憲兵よりも先に彼が部屋の戸を開き、そして、皺だらけの顔を更にくしゃくしゃにしていた。

 感情を表に出す執事は無能である、と亡き父は言った。彼もそう思う。

 けれども、一人くらいは無能な人間を傍に置いていても良かろう――彼はそんなことを思い、苦笑した。どこまでも自分は救いがたい人間らしい。憲兵はその執事の後で、どたどたと部屋の中に上がり込んだ。


 彼らは自分たちの素性を名乗り、その身分の証明もし、本題を切り出した。

 無何に戦争犯罪の疑いが掛かっている、とのことだった。寝耳に水の話だった。が、そういうこともあるのだろう。彼は女と執事に今までの忠義と、献身と愛に感謝する旨を告げ、自分の財産を、女と自分の子と、縁者と、愛すべき部下たちに分け与えるように願い、憲兵たちに微笑んだ。

 その疑惑を向けられているのは、自分だけかね? 尋ねると、彼らは頭を振った。部下たちにも容疑が掛かっていると言う。『そうか』と彼は一言だけ告げ、憲兵の上司の名を尋ねた。知った名だった。少しの時間をくれるように頼み、彼に連絡した。

 軍事裁判で裁かれるようだ。戦争犯罪と言って憲兵がここまで来るとなると余程のことだろう。だが、部下には責任はないのだ。全ての責任は上司である俺がとらねばならん。

 無何はそこまで言って、嬉しくなってしまった。全く、これでは無能な俺が、まるで有能な人間のようではないか。

 そうだ、全ては、俺の責任だ。

 電話口の先では、諫める声が聞こえる。だが、そんなことはどうでも良い。もう既に話は動いているのだ。このままでは誰かが罰を受けねばならない。ならば、俺が良い。俺で終いにする方が良い。

 どうか、部下たちは救って欲しい。彼は懇願した。電話口の向こうで了承の答えが返って来た時、感謝する、とただそれだけを言って、受話器を下ろした。待っていた憲兵たちはすっかりと恐縮した様子だった。手錠を掛けねばならんだろう、と両手を差し出すと、彼らは頭を振った。『いいえ、閣下、あなたの手に掛けるものなど持ち合わせておりません』。


 牢獄に入れられてから、キリがないほど面会があった。罪人も地位で待遇が変わるらしい。豪奢な部屋に通された時、呆れて溜息をついてしまった。「よせ、俺にはこのような場所はふさわしくはない」。面倒なことを言うものだ、と言いたげな看守に小汚い部屋に連れていかれ、ようやくに人心地ついたと思ったら、ひっきりなしの面会に、まるで見世物にされているような錯覚に陥った。自分に敵意を抱いている上司たちの優越感に満ちた表情には、呆れるものがあった。時間の無駄とはこういうことを言うのだろう。彼らが満足して去っていった後に、部下たちと顔を合わせることになった。彼らは涙を浮かべ、無何の無実を訴える、と一人残らず口にした。彼は、よしなさい、と一言だけ返し、君の献身に感謝する。とだけ告げた。

 戦争犯罪、と言われても、心当たりなどは無かった。けれども、自分を追い落としたいものがいることは知っていたし、今更に疑問を抱くこともなかった。嫌うものは無数にいる。勿論、信頼してくれているものもいる。だが、一度、こうなってしまったからには、もう元に戻ることは無いだろう、と彼は覚悟していた。


 果たして自分を陥れたのは何者だろうか、と一瞬考え、くだらない考えだと打ち消した。

 ただ、無能な己は、誰を巻き込むこともないままに死ぬべきだろう、と当たり前のようにそう思い、ただ、死を待ち望んだ。


 どうやら、その自分の希望は、『誰か』に届いたらしい。誰一人も巻き添えにすることなく、彼の処刑の日時が決まった。それは随分と先の話だった。死に赴く前に、その整理をする時間を与えてくれたのか、それとも、死ぬまでの間、煉獄に焼かれるような時間を過ごさせようと言うのは、その意図は知らない。


 分かっていることは、無何は粛々と断頭台に立ち、見苦しいさまは見せないまま死んだ。

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