第二話
離婚届に自分のサインをしたあの日からちょうど1週間、徹さんが言っていたように私はあの場所を去ることになった。1週間猶予があったので何とか新しい家を見つけることができた。
今日は立ち退き日であり、新しい住居の入所日になる。朝からてんてこまいでようやく新しい住居に腰を下ろしたのは日が傾いた頃だった。段ボールが何個か積みあがっているのを見て、本当に彼と離婚してしまったのだなと嫌でも実感することになった。この1週間まともに食事をとることはおろか、眠ることさえままならなかった。不動産屋のおじいさんに心配されるほどだった。
窓の外の景色を見ると街灯がぽつぽつ明かりを灯し始めていた。都心から少し離れているとはいえ人の数は多い。自分の目の端に幸せそうに歩いているカップルらしき姿が映って純粋に羨ましいと思った。そうだ、世間は今日はクリスマスイブなんだ。周りを見ても家族連れや、中高生のカップルらしき人たちがたくさんいた。街を彩るイルミネーションがキラキラ彼らたちの幸せそうな姿をいっそう際立たせている。
「いいな。」
ぽつ、と呟いた声は反響もせずそこらへんのどこかに落ちた。まるで道端の石ころのようだ、と心の中で苦笑する。何か月か前まで私もああだったのだろうかと思い出そうとしたけれど、彼といたあの日々が急に色あせてひどく焦った。上手く思い出せない。スマホを操作してアルバムを開くけれど、涙でにじんで文字がはっきり見えなかった。目をこすって一番上のフォルダをタップする。それはいまだに消せない彼のフォルダで一番最近の写真には満面の笑みを浮かべた彼の笑顔があった。ぽた、とスマホの画面にいくつ目かも分からない涙が落ちた。指で拭ってもぽたぽたと止めどなく涙が落ちて結局彼の写真はそれしか見ることができなかった。
***
「ん…。」
目を開けると朝日が目に差し込んできた。どうやらあのまま何もせずに寝てしまったみたいだった。これじゃニートと変わりないな、と情けなさを感じた。職場には体調不良と言い続けているがもうそろそろ行かないとさすがに怪しまれるだろう。世間でいくらクリスマスだなんだと騒いでも私の仕事が減るわけではない。重たい体を上げながら私は仕事に行くための支度を始めた。
朝ご飯は昨日買っておいたコンビニのパンで済ませて、仕事着に着替える。1週間しか空いてないのに少し服が重く感じた。いけないいけない、と憂鬱な気持ちを払いながら化粧に取り掛かる。
「…よし。」
顔色が悪いのとクマは何とかファンデーションやコンシーラー、チークで何とかごまかすことができた。まあ顔色の事を指摘されても体調不良だったといえば納得するだろう。頭の中で弁解をするシミレーションを浮かべながらコンパクトを静かに閉じた。
***
「おお、久しぶり。体調大丈夫か。」
職場についてデスクにつくと一個上の先輩の秋谷さんが声をかけてくれた。秋谷さんは私の指導係で何かと面倒見がいい人だ。だけど、今は正直顔を合わせづらい。
「はい、ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。」
「その、今回のことはあいつが全面的に悪いからお前が気に病むことはねえよ。」
秋谷さんは徹さんと幼馴染なのだ。家が近所で小中高同じ学校に通っていたし、大学は別だったが同じ東京圏内の学校だったので言うまでもなくとても仲がいい。結婚した後だってよく家に遊びに来ていた。今回の事もすでに徹さんから聞いているのだろう。1週間もたっているからもしかしたら他の人も今回の事を知っているかもしれない。そう思うと今日これからの事が一層億劫になった。
「ありがとうございます。私、コーヒー淹れてきます。秋谷さんも飲みますか?」
「あ…。いや、俺はいい。」
この場にいたくなくて私はデスクから立ち上がる。秋谷さんはまだ何か言いかけようとしていたけど、雰囲気で察してくれたのかこれ以上は何も言わなかった。
コーヒーを淹れながらぼうっとしていると職場に同期の女の子たちが出勤してきた。その子たちは私を見るとにやにやした顔でこっちに近づいてきた。もうこれから何を言われるかは目に見えている。
「おはよう~夏川さん。あ、もう夏川さんじゃないのか~ごめんごめん間違えちゃった!春野さん!」
「…おはようございます。」
わざと周りに聞こえるように言っている彼女たちの姿が二重三重にぶれて見える。コーヒーのいい香りがむせ返るようで気持ち悪い。コーヒーカップを持つ手が震えないように必死に力を入れる。私に逃げ場をくれたっていいじゃないか、と強く唇をかみしめる。
「びっくりしたよ~3年続いてたのにこんなあっさり振られちゃうなんて。しかも夏川さん新しい奥さんいるんでしょ~?もしかしたら最初からそうだったのかもしれないね~春野さんかわいそう。」
ここまで話が回ってるなんて正直思っていなかった。徹さんの新しい奥さんの話は私もつい最近知ったことなのに。ああ、その新しい奥さんが言いふらしまわっているのか。何せその新しい奥さんは有名なモデルらしかった。私も雑誌やテレビでよく見ていたし、うちの会社にも何度か仕事で来ていた。もしかしたら彼女は私が休んでいるときに来たのかもしれない。考えれば考えるだけどつぼにはまっていく感じがする。
「…失礼します。」
「え!ちょっと~…」
彼女たちがまだ後ろで何か言っていたがもうそんなことどうでもよかった。自分の歩いている道が真っ暗すぎて歩けば歩くほど迷宮の森にとらわれている気がした。