第1話 忠臣立往生
身の丈6尺を超える大男は、荘厳な響きを持つよく通る声できっぱりと言い切った。
「お断り申し上げます」
自身が最も信を置く忠臣が命令を拒絶した事を理解するまで、義経はしばし時を要した。
「……もう一度、申してみよ」
ようやく、その一言を搾り出す。その声は震えている。
「恐れながら。この弁慶、どれほど不忠者と誹りを受けようと、その命令には従えませぬ」
「弁慶。どういうつもりだ」
「殿。某、ここで殿が果てる事を良しと致せませぬ。ここを脱し、兄君の目の届かぬ地へ」
「ならぬ。そなたらを置いて逃げるなど、私には出来ぬ」
衣川館は、泰衡の軍勢に包囲されている。
郎党のほとんどは、今日に至るまでの逃避行の果てに捕らえられ、殺害された。
愛妾の静も、今は敵の手の中にある。
「もはや、私にはそなたしかおらぬ。最期の願いを、聞き届けてはくれぬか?」
「散っていった同胞達の願いはたった1つ。殿の平穏無事のみにございます。故に某には、あなた様の命に背いてでも、成し遂げねばならぬ使命がございます」
「……弁慶!私の命令を……」
聞け!と言おうとした義経の身体を、弁慶は抱きすくめる。
「……大きく、なられましたなぁ。某はあなたに最も古くから仕えているだけの木偶に過ぎませぬが、今ほどこの身を誇りに思う事はございませぬぞ」
「……弁慶?っぐぅ……!な、何を!?」
怪力無双として世に名を知らしめた大男の腕が、義経の首を締め上げる。
数秒もかからずに、義経は意識を失い、弁慶の腕の中にその身を預けた。
「大きくなっても、寝顔は変わりませぬな。相も変わらず、女子の様にお美しい」
微笑んだのもほんの一瞬。義経の身体を軽々と抱え上げ、弁慶は館の裏へと歩き出す。
裏には、2人の人間が居た。傍らには、馬も2頭用意されている。
「もはや日本は頼朝殿の領域。その外へお連れするのだ。くれぐれも、殿を頼んだぞ」
「はっ!我らの命に代えましても」
名も無き若武者達に、弁慶は義経を託した。
自身には、やるべき事がもう1つだけ残っている。
館を離れる馬を見送った後、踵を返す弁慶。改めて館の入り口へと歩を進める。
泰衡の軍勢は、堂の入り口付近に迫っていた。
奮戦を続ける義経の少ない臣従達も、1人、また1人と力尽きていく。
そこへ、義経家臣団筆頭の男が現れる。
男は、かの蜀の猛将関雲長の青龍偃月刀とも呼べそうな大薙刀を頭上で旋回させ、口上を述べる。
「我こそは武蔵坊弁慶なり!ここを通りたくば、我の屍を見事超えてみせよ!」
泰然と館の入り口に立ちはだかる大男。
立ち上る気炎が、その男を身の丈以上に大きく見せる。思わず泰衡軍は立ち止まる。
命知らずの数人が、果敢に弁慶に切り掛かる。
しかし、たった一合切り結ぶ事さえ叶わずに切り伏せられる。圧倒的な膂力であった。
哀れな犠牲者が10人を超えた頃であろうか。
目の前の大男に挑む蛮勇を持つ者は1人も居なくなっていた。
これ以上、自軍の士気をいたずらに低下させるのは下策と見たのか、指揮官らしき男が非情な判断を下す。
「弓を構えよ」
指揮官が手を挙げると、後方に控えていた弓兵隊が最前列に布陣し、弓を番え弁慶に狙いを定める。
「……いよいよか」
弁慶は自らの最期を悟る。
それでも尚、館へは誰一人として通さないと言わんばかりに両手を広げ、眼前の軍勢を威圧する。
「放て!」
号令の下、次々と放たれる矢。独特の風切り音を辺りに響かせ、館の入り口へと殺到する。
たった1人、館を守る大男は、その矢すら1本も通さぬと言うかの如く、全てをその身で受け止めた。
それでも、矢の雨は降り止まない。たちまち、男の体はハリネズミの様に矢で埋め尽くされた。
男が倒れる気配は無い。
全身に矢が突き刺さり、夥しい出血を伴いながらも、その双眸は輝きを失わない。
「殿ぉーーー!!」
男が吼える。誰一人その場に動く者が居なくなり、時が凍る。
「お心、お静かに……」
搾り出す様にそれだけを口にすると、ついに男は動かなくなった。
最期まで地に伏す事無く、忠臣は役目を全うしたのだった。
やがて、男の咆哮が合図であったかの如く、館のあちこちから火の手があがる。
その回りは凄まじく、何人たりの侵入も拒むかの様に館全体を覆っていく。
燃え盛る炎に包まれる衣川館を背後に、弁慶は息絶えた。
その表情は怒り狂う不動明王そのものであったが、どこか優しげで、穏やかな温もりも見え隠れしていた。