日常
――コンコン―――
聞き慣れた日常の音に俺は、ベッドで身をよじり壁に視線を向ける。
(あいつか……)
『起きてる?』
思った通り、隣の部屋の主である彼女の声が聞こえた。俺は適当に返事をする。
「あいよ」
疲れていたせいもあって、自分が思っていた以上にいい加減な返事を返してしまったことを少し後悔する。
『なんだか今日は元気ないわねー、また遅刻した?』
こんな感じで、俺の声色一つでこちらの様子を探ってくる隣人に少しうんざりしていた。野嶋志継。それが彼女だ。同い年だが、何かにつけて偉そうなのだ。お節介という言葉が一番適切な気もするが。
『あと一回で寮生活決定でしょ。なんだったら、私が起こしてあげようか?』
またもや痛いところを突いてくる。確かに、俺の日常生活は自堕落の極みで、一人で朝早く起きるのすら危うい。だからと言って、俺にもプライドはある。
「いらねーよ。今日だって、ギリギリ間に合ったんだ。いらぬお節介だって」
『あ、そう。わかりました』
本当のことではあるが、顧問の先生からキツく指導を受けたのも事実。でも、それは秘密だ。俺の通っている原高校は、スポーツが全国的に強いことで有名だ。その分、顧問の指導も厳しい。俺は、そんな監督の指導に憧れて今の学校に入ったわけだが、去年は泣かず飛ばずの結果で俺が出たかった県の駅伝大会には出られず、当然、全国の場で走ることも出来なかったのだ。
そのことを、電話口で友達に愚痴っていたら、隣から声がかかってきたのが全ての始まりだ。今までは、隣人の存在など気にも留めていなかったのに。
(いや、そもそも……)
壁越しだってのに、こんな鮮明に声が聞こえるこの壁の薄さが大問題だ。今だって俺たちは、壁越しに会話している。
「そういえば、今日は話できたのかよ?」
俺は、思い出したかのように話題を切り出した。ここ最近で知った、志継の大事な情報だ。憧れの先輩がいる。だけど、簡単に成就する恋でないということを。
『……うん。話せたよ、少しだけ。』
正直、この話題は振るか振らないかでいつも迷うところであるのだが、これがコイツと会話する時のいわゆる習慣みたいなものになってしまっている。
「でも、お前って奴もなかなか思い切ったことするよなー。いくら中学からの憧れって言っても彼女いる奴を好きでいるってさ」
『……私も不毛な恋だなーとは思ってはいるんだけど、先輩に憧れて今の高校に入ることを選んだからね。後悔は……きっとしていないよ。』
ならいいけど、という言葉を俺は言えなかった。とても、そうは思えなかったからである。自ら傷つくことに何の意味があるのだろうか、俺には理解できなかった。しかし、これも価値観の違いというやつなのかとも思うし、自分は偉そうに説教する程の人間でもないのでここは「そうか」という一言で片づけた。
「でも、残念だったな。せっかく、選手として活動してたのに怪我で引退なんて」
昨年の夏の話、と言っても、その頃に俺と志継に関わりは無かったから、後になって聞いた話だ。練習中に、先輩マネージャーとぶつかるという不慮の事故で足を挫いてしまった。そのことが原因で、志継は選手活動を休止。半ば引退したと言っていい状況だ。
『……別に、そうでもないよ』
この話になると、急に声のトーンが落ちるのは毎度のことだ。だからこそ、俺は疑ってしまう。
「なぁ? ほんとに事故なのか?」
『……そうだよ。あれは、紛れもない事故』
いつもこの調子だ。含みを持たせた彼女の言葉は、俺に疑念を生ませるには十分だった。仕方ないので、俺はこういう時いつも別の話題に逸らすことがほとんど。
「そういや、あのカナさんって言ったっけ? クラスで少し浮いているっていう子」
本名は、たしか南野華菜と言ったはず。
濃紺のブレザーにグレーのスカートが、大島高校の制服らしいが、入学式初日から茶髪で来て即座に学級指導の先生に目をつけられたというのが、南野さんだ。ちなみに、俺は学ラン。
『あー、いい子だよ? あの子』
俺は、志継のあっけらかんとした言葉に、次の句が詰まった。
「……お前って、絶対、人見知りとかしないだろ? そんな外見の奴は、明らかに不良って思われがちなはずなのに。よりによって、クラスで浮いてる奴から進んで友達になりたがるなんてな」
『大したことしてないよ。それに、由雄くんだって似たようなことしてるじゃん?』
なぜだか、急に話題がこちらへと向けられた。
「志穂のことか?」
『ああ、そう。その子。クラスで、いじめられてたんだっけ?』
志継の言った人物のことを、頭の中で思い浮かべ、言葉を選びながら話した。
「いじめられてた、というか、あいつもただ浮いてるだけな気もしたけど」
日向志穂。俺の、クラス内での数少ない女友達の一人で、少し引っ込み思案で暗い印象を受ける。正直、俺も最初は絡みづらいという印象を受けてしまった。だから、少し距離を置いていたせいもあって、俺は気付けなかったのだ。クラス内の雰囲気の変化に。
『全員で無視ってのは、さすがにきついよ。私だったら耐えられないな。由雄くんは、その子にとってヒーローだね』
「そう言われてもなぁ」
まったく、その通りだ。俺なんか、ヒーローになんてなれない。さっきも言ったけど、異変に気付いたのは俺じゃない。
「あいつが気付かなければ、俺も何もしてやれなかったし」
あいつ、とは俺のもう一人の親友のことだ。
『シゲルくん……だっけ? ちょっと派手な由雄くんの友達』
「まぁ、ちょっと……な。見た目だけだよ、あいつこそ。髪染めてねーし……」
『あ、ちょっと! 今、さらっと華菜のこと馬鹿にしたでしょ⁉ 』
「馬鹿には、してねーよ。落ち着けって」
『むう……』
今、志継が言ってた「シゲル」とは、俺のもう一人の友達で、中学からの親友。神楽坂茂のことだ。
父親が医者で、自分も将来は同じ道を行くと話してた奴だが、何故か学力は平均的なレベルの原高校に一緒に入ってきた。
そう。
どうやら、俺が選んだ高校だから入ってきたというのだ。この馬鹿は。
お前といると退屈しない、と大層な理由を添えて。ちなみに、二人とも地元から原高校は遠い。だけど、朝練がある俺と、帰宅部で勉強優先の茂では明確な差があった。これで、俺が一人暮らしで、あいつが実家通いなのが説明つくだろうか?
『でも、結果的に由雄くんが助けたみたいな感じなんだっけ?』
「違うと思うけど。俺はただあいつの話をあっちが飽きるまで聞いてやっただけだし」
『部活は?』
「もちろん、終わるまで待ってもらってたよ」
『……』
なんか、溜息が聞こえた気がした。
「俺、変なことした?」
『あんたねぇ、そういう事は自分の好きな娘のためにしてやんなさいよ』
「は、はぁ⁉ なんでだよ、俺は思ったままのことしただけだろ?」
『だから、それが……もういい』
今度こそ、わざとらしい大きな溜息が聞こえた。
「放っておけなかったんだよ。俺一人じゃ気付けなかったけどよ、気付いちまったらそれは放っておけない。だってあいつ、話したいこと全部話せ、って言っただけで泣いてたんだぞ」
『……』
黙って聞いている志継に、俺はさらに言葉をかぶせる。
「そしたら、次第に笑うようになってさ。相変わらず、クラスメイトとはぎこちなかったけど、最近じゃ普通におしゃべりしてるし。でも、俺は何もしてないだよな。本当に」
『由雄くんて、先輩に似てるね』
また、急に声のトーンが落ちた。
「伊達先輩のことだよな? 前にも言われたことあるけど、そんなに似てるか?」
『うん。単純なところが特に。あと、ものすごい駅伝バカ』
なんだか、気が合いそうだ。俺は、嬉々として話す。
「良い先輩じゃん。特に、駅伝が好きってところが素晴らしいと思う」
『やっぱり、そっくり』
半ば呆れたような声が返ってくるも、俺は気にしない。だって、これが俺なんだ。我慢することとか、自分に嘘つくとかそういう事が苦手で。色々と失敗もあったけど。
「今日は、これくらいにしないか? 明日また、話聞くからさ」
『うん。ありがと。また明日ね』
――これが、俺とあいつの奇妙な関係だった。本来繋がるはずのない関係が、今こうして繋がっている。お互いに素性を知ってるはずなのに、何か大事なものが見えてこない。日常学校で顔を合わせて喋るってことが大事なんだと、身に染みて気付く。
俺は、あいつの顔を知らない。
一度も顔を合わせて会ったことがない。
それでも、あいつのことを良く知っているのは、今みたいな関係になる前からもずっと、あいつの声がこちらへはっきりと聞こえてきたからだ(……お互い様ではあったが)。正直なところ、このアパートは欠陥住宅なんじゃないかと毎度疑っている。
(なんで、こうなったんだろうな……)
発端を思い返せば、たしかあいつが俺に声をかけてきてからだったはず。学校の友達と電話していたとき、俺のことを『きみって、おせっかいなんだね』と言い放ったことがきっかけだった。その一言から、俺たちはお互いの近況とか悩みとかを打ち明けるようになって、今の関係までもつれていた。正直なところ、志継がいてくれて助かったことがある。
くどいようだが、俺はやっぱりアイツの顔を知らない。知りたいと思ったことは何度だってある。でも、そのたびにあいつはそれを拒否した。顔を見られたくない、だそうだ。その言葉の真意がなんであるかを俺は知る由もなかった。
だけど。
だけど、その言葉の裏に、アイツの本質が隠されているような気がしてならなかった。
(ふあー……もう寝よう)
気付けば、すでに時計の針は日付を変更しようとしていた。高校に入ってから、ずいぶんと考えに更けることが多くなった気がする。クラスの親友との出会い。成績の伸び悩み。これだけなら、単純な悩みだけで済んだのだろう。
だからその中で、志継との関係だけが、俺には異質で何とも言えない気持ちになるのだ。