~ 八ノ刻 妖神 ~
薄暗い旧病棟の廊下で、異形の怪物がじりじりと迫って来ていた。
逃げ場はない。たとえ、自分を囮にしたところで無理だろう。それは総司郎にも判っていた。
「下がってるっすよ、まゆちゃん……」
それだけ言って、凍呼の身体をまゆに押しつけ拳を構える。自分に残された力は僅かだ。それでも、ここで背中を向けて逃げ出したところで、事態が何ら好転しないこともまた事実。
「おやおや、この期に及んで抵抗するつもりかい? 最後の最後まで、まったく楽しませてくれるね、君達は」
そう言って、瀬川が不快な笑みをこちらに向けて来る。それでも総司郎は気持ちを押し殺し、敢えて彼に問い掛けた。
「瀬川先生……。なんで、こんなことをしたっすか! 先生は、奈津美ちゃんの主治医じゃなかったんっすか!? それを……」
正直、勝てるとは思っていない。理由を聞いたところで、気分を害するような答えしか返って来ないことも予測済みだ。それでも、少しでも時間を稼いでやろうと。そんな総司郎の試みさえ、果たして瀬川は感づいていたのだろうか。
「悪いけど、モルモットの質問に答えてやる義理はないんだよね。無駄な抵抗はやめて、大人しく僕の実験材料になりたまえ」
総司郎の問いを、瀬川はバッサリと切り捨てた。説明する義理など最初からない。以前に合ったときのような優しく穏やかな微笑みは消え去って、冬の氷を思わせるような冷たく鋭い瞳だけが輝いている。
これは、いよいよ覚悟を決めねばならないか。本当は瀬川の目的が気になるが、今はそんなことを言っている場合でもない。
「問答無用ってわけっすか……。だったら、俺も大人しく駆られるつもりはないっすよ」
荒ぶる呼吸を整えて、総司郎はスッと瞳を覆うサングラスを外した。もう、これに用はない。正真正銘、全身全霊の力を叩きこんでやる。暗い、穴だけの瞳の奥に、微かな闘士の輝きを滾らせて。
こうなったら、相討ち上等で殴りかかってやろう。どうせ、一度は捨てた命だ。ここで失っても惜しくはない。ただ、唯一の心残りがあるとすれば……。
(先生に、直接お別れ言えないことが、少しだけ残念っすけどね……)
自分を死の淵から救い、新たな人生を与えてくれた者。御鶴木魁との思い出が、総司郎の頭を少しだけ掠めた。
「覚悟は決まったかい? それじゃ、まずは君からだ」
相変わらず、瀬川は余裕の態度を崩してはいない。こちらの消耗に気付いているのだろうか。拳を構えて霊気を練る総司郎を見ても何ら怯まずに、傍らに従えた獣をけしかけようと隙を窺っている。
「……やれ」
その言葉と共に、斑模様の獣が地を蹴った。足音もなく、しかし風よりも速く、真一文字にこちらへ切り込んで来る。ぎょろりとした二つの目が獲物を捕らえ、鋭い牙が無数に生えた口を大きく開けて。
「……っ!?」
気が付いた時には遅かった。
こちらに突っ込んで来るところを狙って、起死回生のカウンターを叩き込む。暴走族をやっていた頃から、喧嘩の決め技として総司郎が得意としていた戦法だ。が、それは、あくまで敵の狙いがこちらに向いていればの話。瀬川の狙いは最初から総司郎などではなく、その後ろにいるまゆの方だった。
「まゆちゃん!!」
叫んだときには、既に怪物はまゆの目と鼻の先にまで迫っていた。視力を失っても気配は感じる。そして、周りの人間の感情もまた、気を探ることで薄らと感じ取れる。
まゆは動こうとしなかった。いや、動けなかったといった方がいい。それは、あまりに突然のことで呆気に取られていたからかもしれず、また自分の目の前に迫る脅威に恐れを成して固まっていたのかもしれなかった。
このままではまゆが食われる。しかし、今の自分の速さでは、怪物の凶行を止めるには至らない。
総司郎の頭の中に、まるでスローモーション映画のようなビジョンが浮かんできた。それは、調度金縛りにでも遭った際の感覚に似ていたかもしれない。見えているのに、動きたくとも動けない。全身を油のような粘性の高い液体の中に置いたような感覚。身体に何かが纏わりつき、こちらの動きを酷く阻害されているように感じるあれだ。
「悪いけど、君は実験の対象外だ。だから、早々に消えてもらおうか」
瀬川の言葉が、無機的な機械音のように響くのが聞こえた。
自分や凍呼、それに奈津美とは違い、なぜ彼女だけが対象から外されるのか。その答えを知る由もなしに、無情にもまゆの喉笛に迫る怪物の牙。
瞬間、閃光が辺りに走った。眩く青白い光が脳に直接走り、総司郎は思わずあるはずのない目を片手で覆うような仕草を見せた。
稲妻の類ではない。光を失った自分にも見えるということは、これは霊的な波動が形を変えたもの。そして、この波動の感覚を、この稲妻の色を、総司郎は誰よりも良く知っている。
「……あ」
呆然と佇むまゆの前で、怪物の身体を無数の折り紙細工が受け止めていた。一枚だけであれば、怯ませるのが精一杯であっただろう。だが、以前に洗面所で彼女を救ったときとは異なり、今回は細工そのものが幾重にも重なりあって、盾のような役割を果たしていた。
「ゆ、弓削さん。これって……」
「ああ、間違いないっす! これは……」
そう、間違いない。この光は、霊気の波動は、折り紙細工をここまで自由自在に操り、悪鬼と化した向こう側の世界の住人と戦える者は、総司郎の知る限り一人しかいない。
「とりあえず、ギリギリセーフってところかな?」
廊下の向こう側から声がした。薄汚れたタイル張りの床を、革靴が規則正しく叩く音が近づいてくる。同時に再び眩い閃光が走り、折り紙細工の壁から怪物が弾き飛ばされ。
「せ、先生……」
「お待たせだね、総ちゃん。まゆゆんも、元気してた?」
そこにいたのは魁だった。相変わらずの飄々とした態度と、瀬川とはまた違った余裕の表情。見れば、後ろには何やら見慣れない男を連れている。
いや、実際にはまゆも総司郎も、その男の姿を見たことが一度だけあるのだ。ただ、今の状況があまりに切迫していたことで、それを思い出せなかっただけで。
「まったく……遅いじゃない! 普段は格好付けてる癖に、肝心な時にこれなんだから!!」
「仕方ないだろう、それは。まあ、それでもまゆゆん達が病院の中であれこれやってくれたことで、こいつ達が思わぬ物をひっかけてくれたからね。その点は、俺も感謝してるんだぜ」
そう言って、憤るまゆを流すように宥める。そんな魁の指差す先には、まゆを怪物の攻撃から守ってくれた折り紙細工の群れがある。
唐突に現れた貝の式神。無論、虚空から湧いて出たわけでもなければ、今しがた魁が新たに放ったわけでもない。
昨晩、凍呼を探す目的で病院目掛けて放ったもの。それらを一点にまとめ、束ねることで、魁は即席の盾とした。数にして、およそ百体は下らない。素人目には判らないが、これだけの数の式神を操るのは、相当な力を持った者でなければ不可能である。
「こいつらが、その怪物の気配を感じ取ってくれたことで……俺の中でも、ちょっとした確信が生まれたんだよ。まあ、さすがにそっちの先生が犯人だなんて、そこまでは俺も読めなかったけどさ」
「君は……ああ、あの時の霊能力者か。テレビに出るくらいだからイカサマ氏だろうと思っていたが、まさか本物だったとはね」
「言ってくれるじゃないか。でも、残念だけど、三流なのは御宅の方だよ。俺はおろか、俺の式神や総ちゃんの持っている力さえ感じ取ることができないんだからさ。普通、こっちの世界に通じている人間なら、その程度は感じ取れるはずなんだけどな?」
盾を作っていた式神を散開させつつ、魁は蔑むような視線で瀬川を見る。挑発しているのではない。本心から、今の瀬川に対して疑問を抱いていると言った方が正しいか。
霊能力者の力量は、その能力者の力に比例する。潜在的に強い霊感を持っている人間ならば、魁や総司郎の持っている力に何らかの反応を見せても良いはずだ。それこそ、瀬川のように強力な怪物を従えた存在であれば、魁の式神程度なら感知されてもおかしくない。
いったい、彼は何者なのか。何故、身の丈に合わぬ存在を、こうも従えることができるのか。思い当たる節がないわけではなかったが、残念ながらその答えを本人に訊くことはできそうになかった。
「僕が三流だと? だったら、その三流ってやつの力を、君にも味わってもらおうか?」
先程まで余裕の笑みを浮かべていた瀬川の顔に、僅かばかりの嫌悪の感情が浮かび上がる。それは彼の従えた怪物にも同じように反映され、どろりと揺れる身体が全身から不快な気を放っている。
「どうする、大先生? なんだったら、あっちの男は俺が取り押さえてやってもいいが……」
魁の後ろにいた男、公安の香取が低い声で訊ねて来た。何の力も持たないまゆにさえ見えているくらいだ。今、彼らの前にいる怪物の姿は、香取にもまた見えているのだろう。
「いや、結構だね。自分でも趣味悪いとは思うけど……俺、『強い者虐め』が大好きなんだよねぇ……」
最後の方は、ほんの少しだけ嗜虐的に。口元を軽く歪め、鉄製の扇を引き抜く魁。扇の先を指揮棒に見立てて振るえば、それは鶴の形をした折り紙細工に流れるような動きを与え。
「なんだか知らないけど、俺の目の前で好き勝手やってくれた罪だ。陰陽師、御鶴木魁の名に掛けて、きっちり落とし前つけてやるから覚悟しな」
襲い掛かって来た怪物めがけ、青白い閃光を纏った折り紙細工の群れを解き放った。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
それは、正に一瞬の出来事だった。
気が付くと、魁の号令と共に折り紙細工達が列を成して怪物に襲い掛かっていた。目を瞑っていたら、もしかすると見逃してしまっていたかもしれない。そう思える程に手早く、かつ統率の取れた無駄のない動きだった。
「なんだよ、もう終わりか? まあ、御宅と俺とじゃ格が数段違うから仕方ないだろうけどね」
数珠繋ぎになった式神を縄のように操り、魁は瀬川の操る怪物を捕縛していた。その顔には、一欠けらの苦労の色さえ見せない。まるで、これは定められた結果だと言わんばかりに、余裕の表情を浮かべている。
「す、凄……。こんなに強かったんだ、あの人……」
呆然と成り行きを見つめ、まゆの口から思わずそんな言葉が零れる。今までも話には聞いていたが、こうして直に魁の戦う姿を見るのは初めてだった。
「悔しいかい? でも、さっきも言ったけど、御宅は三流なんだよ。ただ、だからこそ解らないんだよねぇ。こんなに強そうな化け物連れてながら、俺や総ちゃんの力には何ら気付けない。っていうか、そのゲテモノなんなの? まさか……御宅が自分で作ったとか、そんな馬鹿なこと言わないよねぇ?」
完全に捕縛された怪物を横目に、魁はともすれば挑発するような仕草を交えて瀬川に問う。無論、単に嫌味を言っているだけでないことは、その場にいた者達もなんとなくだが気付いていた。
魁の言うように、瀬川の力はあまりにも不自然な点が多過ぎる。片や、鏡の中を移動できるような常識外れの化け物を従えながら、片や魁や総司郎の高い霊能力にも何ら気付かない。本体が未熟で使い魔が優秀。そんなアンバランスさを感じさせるのだ。
現世の理を超えた向こう側の世界の存在。そんな彼らにも、ある一定のルールは存在する。それを真っ向から破っている時点で、どうにも解せない点が残るもまた事実。
いったい、瀬川はどのようにして、あんな力を手に入れたのか。それ以前に、彼が凍呼や奈津美を攫い、果てはまゆや総司郎達を襲った目的とは何なのか。
解らない。あまりにも解らないことが多過ぎる。そう、無言で訴える面々を余所に、瀬川だけが未だ不敵な笑みを浮かべていた。
「三流か……。まあ、そっちの世界のルールとか常識なんて、僕には関係のない話だ。僕はただ、ヒトの限界を超えるために力を欲した。そのためには、どうしても実際の人間を使った実験が必要だった……。それだけだよ」
「実験? それじゃ、凍呼や奈津美ちゃんを攫ったのも……!?」
まゆの口から思わず言葉が飛び出した。なんということだろう。薄々は感付いてはいたが、やはり瀬川は人体実験を目的に二人を攫っていたのだ。
あからさまな嫌悪の色が、まゆの顔に浮かんで見えた。酷い。あまりにも酷過ぎる。瀬川の言っていることが何なのか、未だ全ては理解できないが……こんな暴挙が許されてよいはずがない。
「あなた……最低だわ」
脅えは既に消えていた。普段の強気な口調に戻り、まゆは瀬川を睨みつける。が、それでも瀬川は何ら動じず、彼女の言葉を軽く鼻で笑い飛ばすだけだったが。
「最低? モルモットから言われたところで、僕は痛くも痒くもないよ」
「違う! 私達は、モルモットなんかじゃない!!」
「だったら、『検体』とでも呼んだ方がお気に召すかい? どっちにしろ、僕は君達の持っている素養……君達の中に眠る『無意識』の力にしか興味ないんだよ」
だから、これ以上はそちらの低俗な常識を押し付けないで欲しい。なぜなら、自分は神になる存在なのだから。
この期に及んで、瀬川の高慢で存在な態度は変わることがなかった。あまりに身勝手な理屈を聞かされ、たまらず総司郎が前に出た。
「先生、もういいっすよね? あいつ、俺がぶん殴っても……」
「いや、待ちなよ、総ちゃん。あの藪医者、さっき無意識がどうたらって言ってたでしょ。俺としては、ちょっとそっちにも興味があるかな?」
拘束された怪物を見やり、魁は探るような口調で瀬川に訊ねた。もっとも、今までの問答から考えて、既にある程度の答えは見えていた。
「御宅のその怪物だけどさ……たぶん、自分の無意識を切り取って作ったやつなんでしょ? 幽体離脱とか幽体剥離とか、後はドッペルゲンガーとか……呼び方は色々あるけど、この際どうでもいいや。どんな手品を使ったか知らないけど、御宅は自分の魂の一部を切り取って、コントロールする力を手に入れた。大方、そんなところだろうね」
答えは瀬川に言わせない。あくまで優位を保つためか、魁は余裕たっぷりに持論を述べて見せる。もっとも、多少は思い当たる節もあったのか、これには瀬川も少しばかり驚いた表情を見せていた。
「どうやら、僕も君達のことを見くびっていたようだね。モルモットと言ったことは訂正しよう。ただ……」
それでも、相変わらず動じることはない。自分こそが頂点である。そんな神の如き振る舞いを、何ら変えることはせずに不敵に笑い。
「残念ながら、時間切れだ。僕が三流かどうか……改めて、こいつの力を持って教えてやるよ、陰陽師!」
そう、瀬川が叫んだ時だった。
怪物を拘束していた魁の式神。数珠繋ぎになった折り紙細工を、怪物が雄叫びと共に引き千切ったのだ。
「ちょっ……!? なによそれ! まだ、そんな力を残していたの!?」
黒ずみ、力なく落ちる式神達を前に、まゆが両目を見開いて叫んでいた。
信じられない。ようやく助かったと思ったのに、これでは振り出しに戻っただけだ。いや、目の前の怪物が先程にも増して膨らんでいることを考えれば、むしろ状況は確実に悪化している。
「こいつの正体を見破ったことは誉めてあげるよ。でも、所詮はそこまでだ。君達に、僕の崇高な考えなど理解できるはずもない」
薄暗い旧病棟の廊下に、瀬川の高笑いが響き渡った。その目に宿るは、今までにない狂気の色。間違いない。彼はここにいる全員を、一人残らず殺すつもりだ。
「ふふ……。そっちのお嬢さんは、脅えているようだね。いいぞ……その顔、その感情……。それだけ恐怖を表に出すことができるなら、君も少しは『検体』として役に立ってくれるかな?」
「な、なによそれ! 私達が『検体』って……いったい、さっきからなんなのよ!」
「だから、さっきも言っただろう。僕は、君達の中に眠る無意識にしか興味がない。そして、その力が最大に発揮される瞬間は、人が恐怖の感情に支配された時なんだ。そういう意味では……怖がりのお嬢さん二人からは、なかなか良いデータを取ることができたよ」
何ら悪びれた素振りも見せず、瀬川は淡々と語っている。物事の進歩に犠牲は付き物。そんな乱暴な理屈でさえも、自分ならば罷り通ると信じて疑わない顔で。
「特に二人目のお嬢さんは、奈津美ちゃんと違って酷く不安定な精神状態にあったからね。治療の合間に催眠術を用いる必要があった奈津美ちゃんと違って、ちょっと薬の量を増やして、それから怖い目に遭わせるだけで済んだのは幸運だったよ」
「なっ……!? そ、それじゃ、あなた……自分の実験のために、わざと凍呼や奈津美ちゃんに、あんな酷いことをしたっていうの!?」
瀬川の口から出た言葉。その全てを理解したとき、さすがのまゆにも怖気が走った。
この男は、自分の欲望のために他人を犠牲にすることを何とも思っていないのだ。凍呼や奈津美に、あんな拷問紛いの仕打ちをしたこと。それでさえも、単なる実験の一環に過ぎないのだろう。全ては自分の力をより高めるべく、有用なデータを得るための行動。たったそれだけのために、人を攫い、恐怖のどん底に叩き込む。
「あなた……狂ってるわ!!」
震える声で、それだけ言うのが精一杯だった。それ以外に、何の言葉も思い付かない。目の前の男の頭の中など、解りたいとも思わない。
「先生、やっぱりあいつ……」
「心配しなくてもいいよ、総ちゃん。こいつは俺が始末する。色々興味はあったけど、さすがにこれ以上は遊んでられないし……それに、やっぱなんかムカつくしね」
憤る総司郎を宥め、魁がスッと前に出る。他の者達とは違い、彼の顔に怒りはなかった。ただ、なんとも言えぬ哀れみを両目に湛え、懐から鉄の扇を取り出して。
「さあ、来いよ。それとも、こっちから仕掛けないと戦えないってやつか?」
先端を瀬川に向け、再び誘うような仕草を見せる。もっとも、対する瀬川も退きはしない。お互いに相手の出方を窺っている。そんなやり取りが数秒の間続く。
「その言葉、そっくり返してあげるよ。そして、逝く前に君達にも見せてあげよう。ヒトの限界を超えて……最も神に近くなった者の力というやつを」
再び響く瀬川の狂笑い。気が付けば、彼の中からは完全に普段の色が消えている。そして、不快な笑い声が大きくなってゆくに連れ、怪物の姿もますます膨らみ四足の獣の形を崩して行く。
「生物である限り、人間が決して乗り越えられないもの。それは恐怖という感情だ。どんなに頭では解っていても、己の中に巣食う無意識には勝てないからね」
そう言って、瀬川は白衣のポケットから小さな注射器を取り出した。一瞬、何をするのかと、その場にいた者達の目が釘付けになる。それでも瀬川はお構いなしに、腕をまくって注射器の針を突き立てた。
「だけど、もしもその感情を克服して……更には無意識でさえも自在に分離し、操ることができるようになったらどうだろうね? それはもう、人間じゃない。神に等しい存在なんだよ。幽霊退治なんてやってるなら、君にも解るはずだろう?」
どろりと濁ったような目で、瀬川が魁に問い掛ける。見れば、その瞳の色はいつしか金色に染まり、人間の持つ輝きを失っている。
「今の薬は、人が恐怖の感情を抱いた時に出す脳内物質と同じものに、ちょっとしたオマケを入れたものさ。これで僕は、恐怖に囚われることなく無意識の力を最大に引き出せる。ヒトの限界を……越えた存在になるんだぁぁぁぁっ!!」
そう、瀬川が叫ぶと同時に、廊下の窓ガラスが音を立てて砕け散った。
典型的なポルターガイスト現象だ。瀬川の操る無意識の怪物。その力の肥大化に合わせ、霊的な力が物理的に作用するまでになったのだ。
「あははははっ! どうだ、見たか! もう、君達に逃げ場はないぞ。大人しくここで狩られて、僕の貴重な実験材料になるがいい!!」
狂笑に合わせ、怪物も吠えた。風船のように膨れ上がった身体から、多数の突起物が現れる。それは鋭利な棘と化し、その一本一本が獲物を求めて宙を舞う。
触手が同時に振って来た。この距離では避けることも不可能だ。まるでスローモーション映画のように、目の前の光景がゆっくりと見える。
「ちっ……! この、下種が!!」
もう、これ以上は黙って見ていられなかったのだろう。咄嗟に香取が拳銃を引き抜いて怪物を撃つが、しかし何の効果もない。一瞬、怪物の身体に穴が開くも、それはすぐに何事もなかったかのように塞がった。
このままでは拙い。触手の動きは止められず、しかし魁は微動だにしない。その場にいる誰もが敗北を考えた。が、次の瞬間、魁はなんら造作もなく、手にした扇を広げて多数の触手を受け止めていた。
「駄目だぜ、刑事さん。そんなもん、あの手の化け物には効果ないって知ってるだろ?」
軽く後ろに目配せし、にやりと余裕の笑みを浮かべる魁。さすがにこれは香取だけでなく、仕掛けた瀬川にとっても驚愕だった。
「やれやれ……。この程度の力で、神様なんか気取っちゃうわけ? 御宅、やっぱり三流だわ」
扇の切っ先から青白い光を迸らせつつ、魁は溜息混じりに口にする。しかし、直ぐに意地悪そうに目を細め、さも面倒臭そうに触手達を払い除け。
「そっちの理論、なかなか面白く聞かせてもらったよ。でも……いくら自分が見つけた力だからって、自分だけの物だと思うのは考えが浅いぜ」
「な、なんだと……」
「だから、俺が最後に見せてやるよ。神様気取った藪医者に、『本当の無意識の使い方』ってやつをさ」
割れた窓から、風がゴォッと吹き込んで来た。強大な霊気の奔流を感じ取り、総司郎が思わずたじろいだ。
(あれは……)
魁の一番弟子として、常に共にいたからこそ解る。今の魁は正真正銘の本気だ。自分など足下にも及ばない、恐るべき天才陰陽師としての力。それを余すところなく開放しているということは、即ち目の前の敵に何の情けもかけないという証。
「御宅、幽霊とかには詳しくないんだよね。だったら、特別に教えてやるよ」
風が、空気が、魁の身体を中心に渦を巻く。それと同時に、彼の瞳もまた瀬川のように金色の輝きを持つ色へと変わって行く。唯一の違いは、その輝きが決して淀んだ気を発していないこと。
「陰陽師ってのは、式神を使うのが定番なんだ。俺がさっき使ってた折り紙細工なんかがいい例だね。だけど……伝説にある式神ってのは、あんなちっぽけなもんじゃない。本来は、もっと強大で凶暴な力を持った神……いや、鬼と言った方が正しいのかな?」
そう、鬼だ。事実、修験道の開祖である役小角は、前鬼と後鬼という夫婦の鬼を従えていたと言われている。そして、それらの流れを組む陰陽師もまた、時に強大な妖の力を使役して古来より向こう側の世界の住人と戦って来た。
鬼は人の心に住まう。そして、その鬼を統べることこそが、真に式神を操るということでもある。
そんな鬼を操る術を、魁はひたすら模索していた。東京で起きた謎の変死事件を発端に、自らも巻き込まれた恐るべき事件。地図から消えた村を舞台に繰り広げられた、邪神との戦いを機に自らを鍛え直す修行をすることで。
式神でありながら、人の作りし者とは異なるもの。神の名を冠していながらも、その本質は人の魂、無意識の一部を具現化した存在。ひたすら荒々しく、時に本能のままに敵対する者を討ち滅ぼす。神の中でも、最も妖怪に近い神。その名は……。
「――――妖式神!!」
両目をカッと見開いて、今までに見せたこともなかったような複雑な印を結ぶ魁。刹那、その身体が激しく輝いたかと思うと、彼の前にはこれまた見たこともない屈強な異形の者が立っていた。
「さあて……。それじゃ、お楽しみはこれからだ。俺の無意識と御宅の無意識……どっちが本物の神になるか、ひとつ対決と行こうじゃないか」
扇を軽く振ってから閉じ、魁は実に楽しげに笑って言った。流動的な不定形の怪物。それとは対照的な鎧武者のような姿の鬼。背中に幾本もの刀を携えた異形の鬼神が、静かに拳を握り締め前に出た。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
唐突に現れた屈強なる鬼に、まゆは目を丸くしたまま言葉を失うだけだった。
御鶴木魁は言った。あの頭のイカれた医者に、本当の無意識の使い方を教えてやると。ならば、あの鬼もまた、瀬川の操る化け物と同質の存在ということか。
霊的な世界の詳しい話はまゆも知らない。ただ、何の力も持っていない自分にも、これだけは解る。あの鬼が、魁の呼び出した存在が、恐るべき力を持っているということを。それこそ、瀬川の操る不気味な獣と同じか、下手をすればそれ以上の力を秘めているということを。
「ねえ、弓削さん……。あれ、なんなの?」
それでもまゆは、気が付けば総司郎に訊ねていた。そうしなければ、頭の中がまとまらない。心が現実を受け止めることができそうにない。
「さっき、凍呼ちゃんを助けたときにも言ったっすよね……。あれは、人間の『無意識』の部分を力に変えたものっす」
「無意識って……それじゃ、やっぱり御鶴木先生のアレも!?」
「それだけじゃないっす。凍呼ちゃんの身体から生えてた茨も、それから奈津美ちゃんの身体から出て来た女の子も……全部……全部、その人間の中にあった無意識が形になったものなんっすよ。自分を助けて欲しいとか、気に入らないやつを殺したいとか……人によって理由は色々っすけど、魂の一部が切り離されて、生きた幽霊になったやつってのは変わりないっす」
「そっか……。それで弓削さんは、あの茨や女の子の幽霊を、攻撃することができなかったのね……」
総司郎の話を聞いて、まゆが独り頷いた。記憶の中に残る靄が、徐々にだが確実に晴れて行く。もとより、そこまで頭の回転が早い方ではなかったが、それでもまゆは自分の中で、今までの奇妙な出来事が一本の線で繋がって行くのを感じていた。
あの医師が、瀬川がどうやって無意識を操る力を得たのかは解らない。だが、その実験台として、奈津美や凍呼の身体をいじくり回し、無理やりに力を解放させたに違いない。
瀬川は言っていた。無意識の力は恐怖と関係があると。だからこそ、時に催眠術で悪夢を見せ、時には拷問まがいの処置をしてまでも、凍呼や奈津美の奥底に眠る無意識の力を刺激しようとしたのだろう。その結果、恐怖の感情が爆発したところで、彼女達の身体から生霊が分離することになったのだ。
瀬川がいったいどんな処置を施して、恐怖を引金に生霊が分離するようにしたのか。さすがにそこまでは、まゆには考えも及ばなかった。ただ、彼のしたことだけは、絶対に許せない。人の命を預かる医者として、なによりも人間として、絶対にやってはならないことだと思えたから。
(許せない……)
両手を握り、まゆは目の前で激突する二体の異形へと目をやった。あんな男、あのまま魁の操る鬼に食われてしまえばよい。
冗談ではなく、本気でそう思った。自分勝手な理由で他人を犠牲にする瀬川のことが、本当におぞましい化け物に思えた。
「弓削さん……。御鶴木先生、負けたりしないわよね?」
「大丈夫っすよ。先生は、その辺の悪霊はおろか、邪神級の相手ともやり合ったことがあるっすからね。本気を出した先生だったら、あんなやつは……」
誇張でなく、総司郎の言葉は事実だった。まゆは知らないが、以前に魁は本当に邪神とも呼べる相手と対峙した上で、その動きを見事封じてせしめたのだ。
見れば、魁の操る鬼神は、確実に瀬川の使役する獣を追い詰めていた。いや、追い詰めているのではない。ただ、獣の攻撃が鬼神に通用していないだけだ。現に、魁の鬼神はまったく手出しをしていないのに、じりじりと獣との距離を詰めつつあるのだから。
ぶよぶよに膨れた身体から放たれる触手の先は、鬼神の強固な身体を貫けない。黒曜石にも似た色の、鎧のような肉体に弾かれる。
動きを封じ込めようと触手で捉えれば、それは鬼神が腕をひと振りしただけで払われる。首を絞めようと絡み付かせても、敢え無く引き千切られ捨てられる。
「おいおい、どうしたんだよ? さっきまでの威勢はどこ行ったんだ?」
圧倒的な力の差。それを見せつけ、魁もまた瀬川との距離を詰める。そちらが弱いのではない。こちらが強過ぎるのだ。そう言わんばかりの表情で、歯を食いしばる瀬川に憐れむような視線を向けて。
「止めろ……。僕を……僕を、そんな目で見るんじゃない! 僕は神になるべき存在なんだぞ! それを……それが……お前みたいな、訳の解らないやつに!!」
「神、ねぇ……。だったら、最後まで神様らしく、大きく構えて見せることはできないのか? そんなんだから、三流だって言ってるんだよ」
「き、貴様! 言わせておけばぁぁぁっ!!」
激高するする瀬川が叫ぶのと、彼の操る獣が鬼神の腕に噛み付くのが同時だった。が、それでも魁は一瞬だけ顔をしかめただけで、やはり動じる素振りを見せない。それは鬼神も同じことで、難なく敵の牙を振り払ってみせた。
「図星を突かれて逆ギレか? ったく……まともに相手するのも面倒になってきたな」
だから、もう一気に終わらせてやろう。そう結んで、魁は胸元で印を結び、己の意識を集中させる。膨大な霊気の奔流が鬼神へと流れ込み、その背にある多数の刀がガタガタと震えた。
「臨、兵、闘、者……」
両手の作り出す複雑な形に合わせ、魁は呪文を紡いで行く。陰陽師や、古くは修験道の行者が用いる九字だ。印が結ばれ、呪文が紡がれる度に、鬼神の背にある刃に青白い炎が灯って行く。
「皆、陣、列、前……」
呪文を唱えている間は丸腰に近いというのに、瀬川は獣をけしかけることをしなかった。魁の全身から放たれる圧倒的な力。それを前にして、完全に気圧されしてしまっていたのだ。
「……行!!」
最後の印が結ばれると同時に、全ての刃に炎が灯る。臨む兵、闘う者、皆、陣列べて前を行く。数ある九字の中でも最も強力とされる、元祖と呼べる呪文だ。
「さあ、見せてやるよ! 御宅みたいな紛い物じゃなく、正真正銘、本物の力ってやつをな!!」
金色の瞳を輝かせ、魁が薄笑いを浮かべて瀬川に叫んだ。瞬間、鬼神の背にあった九本の刀が全て外れ、次々に宙を舞って目の前の怪物に突き刺さった。
「あっ……!? がぁぁぁぁっ!!」
怪物がのたうち、瀬川が胸元を抑えて激しく苦しんだ。魂の一部とも言える、己の無意識が変貌した存在。それを傷つけられたことで、自身の身体に直接苦痛が伝わっているのだ。
「ほら、どうしたよ? 避けてみろよ? 防いでみろよ? ま、できるものならって話だけどさぁ!!」
一本、また一本と刃が突き刺さる度に、魁は実に楽しそうに笑って言った。後ろからその光景を見せられているまゆ達は、あまりのことに何も言葉が出なかった。
あれは、本当に自分達の知る魁なのだろうか。軽薄で金に汚いだけの快楽主義者。そんな一面は成りを潜め、完全に別人と化している。圧倒的な力で敵をねじ伏せる様は、まるで小さな子どもが無抵抗の昆虫を弄り殺すかのようだ。
「わ、わかった……。ぼ、僕が……悪かった……。だから……やめ……」
既に瀬川からは、戦う意思は消えていた。出来そこないのハリネズミのような姿にされた彼の獣もまた、戦うだけの力を残してはいなかった。
「なんだよ、それ。御宅、さっき言ったよね。自分は恐怖を克服した、神に匹敵する存在だってさ?」
「そ、それは……」
「無理しなくっていいんだよ。どうせ、妙な薬の力使って、自分の無意識をコントロールできるとか思ってたんだろ? だったら、お門違いもいいところだな」
そう、侮蔑した口調で魁が告げたところで、最後の一本、九本目の刀を鬼神が獣の額に突き刺した。瞬間、猛烈な激痛が身体全身を襲い、瀬川は今度こそ本当に倒れて辺りを転げ回った。
「情っけないねぇ……。この程度の力で神様になる? 冗談も休み休み言えよ、雑魚が」
冷たく突き放すような言い方で、魁は身をよじって苦しむ瀬川を見降ろして言った。普段の軽薄な様子からは、決して想像もできないような声だ。
「まあ、それでも最後に一つだけ訊いてやるよ。御宅……この病院の医者と、それからヤクザやロシアンマフィアの人間まで殺したでしょ。あれ、いったい何のパフォーマンス? もしかして、自分が神様になったから、悪人を裁いたとでも言うつもり?」
ようやく顔を上げた瀬川の頭を魁の靴の先が蹴り飛ばした。が、それでも誰も止めはしない。あまりに強烈な魁の気迫に、瀬川だけでなくその場の全員が飲み込まれていた。
さっさと喋れ。でなければ殺す。圧倒的な威圧感の前に、瀬川は口から血を流しながらも慌てて弁明の言葉を述べた。自分の配下が串刺しにされていることなど、既に頭の片隅から飛んでしまっている。そんな風にも受け取れた。
「あ、あれは……仕方のないことだったんだ! あいつは……栗木は僕の同志だった! それなのに、僕を裏切って、あんな低俗な連中に薬を横流ししやがって!!」
「薬?」
「そうさ! 俺の開発した薬……無意識を操るための薬を、あいつは事もあろうか新種の合成麻薬として暴力団に売り捌こうとしたんだ!」
「なるほどね。それで、その薬を回収するために、わざわざこの不細工な化け物使って襲わせたってわけか。おまけに、病院が暴力団と関わってた足跡も完全に消すことで、自分の身の安全を確保しようとしたってところか?」
「当然だろう、それは! これは僕が……僕の様な、選ばれた人間だけが手にすることのできる力なんだぞ! それを合成麻薬なんかと一緒にされて、あんな連中に売られてたまるか! 神になるための僕の力が、あんなふざけた連中に……」
だから殺した。文句はあるか。そう叫ぼうとした瀬川の言葉は、しかし最後まで紡がれることはなかった。
「ああ、もういいよ。俺が気になったことは、もう解決したからさ」
辟易したように手を振って、魁は瀬川の言葉を遮った。何の興味も感心も、果ては情の欠片さえもない、純粋な蔑みだけがそこにある。
「やっぱり御宅、神様気取るには器が小さすぎたんじゃないの? その程度で人を殺しちゃうなんて、所詮は俗人のやることだよ」
「だ、だったら何だって言うんだ! そういう君こそ、正義を気取って僕を始末するつもりなんだろう!? そっちこそ……全能の神にでもなったつもりなのか!?」
「はぁ……。これだから、三流の相手をするのは嫌なんだよな。ちょっとすれば、直ぐに神だの正義だのと……。思考も発想も、てんで幼稚だ。狭い世界で生きてるだけの、周りの見えないガキと変わりないんだからな」
苦し紛れの瀬川の反論。それでさえも一蹴し、魁は溜息と共に鬼神に命じた。
もう、これ以上の問答は必要ない。さっさと、あの薄汚い獣を始末しろ。それだけ言って、後は口を開かない。ただ、自分の分身でもある鬼神の手が、満身創痍の獣を掴み引き裂くのを眺めているだけだ。
「あぎぃっ……! ぎゃぁっ! が……あぁぁぁっ!!」
流動的な斑模様の怪物の身体。それが引き千切られる度に、瀬川が叫び、床を転がる。獣の身体が飛び散る度に、下水を流れる腐った水のような臭いが辺り一面に広がって行く。
(まったく、恐ろしい男だな……)
後ろで事の成り行きを見守っていた香取が、心の中で呟いた。暴力的な仕打ちに対してだけでなく、御鶴木魁という男の知られざる本質の部分を見た。そんな気がしてならなかった。
瀬川を奢り高ぶった外道とするならば、魁は正真正銘の鬼だ。彼の中には、正義や大義といった大それたものはない。ただ、自分の感情の赴くままに、独善的な粛清をしているだけなのだから。
この戦いに正義はない。そんなもの、香取自身も求めようとは思わない。
ただ、この御鶴木魁という男を敵に回してはならないと。それだけは肝に銘じるべきだと、今の魁を見て強く思った。
自分の仕事は心霊事件を表沙汰にしないよう、情報の管理をすることだ。場合によっては表の顔を持つ霊能者を社会的に粛清することも考えてはいたが……どうやらそれさえも、簡単に済む話ではないようだ。
上の連中は、ほとほと無理難題を押し付ける。こんな連中、まともな人間が束になってかかったところで、万に一つも勝ち目はない。
力を持つ者と持たざる者。情け容赦ない制裁を加える青年の姿を前に、香取はその格差を改めて見せつけられた。そんな気がしてならなかった。
「あぐっ……ぎぃ……。た、助け……」
口元からだらしなく涎を垂らし、瀬川が力無く手を伸ばす。いつしか、その髪の色は完全に抜け落ち、顔もまたやせ細ったミイラのようになっている。
「悪いけど、それはできない相談だね。どうせ、御宅をまともな人間に戻す方法もなければ、法的に裁く方法なんかもありはしないんだ。だから……」
今、この場所で、地獄の闇に堕ちるがいい。そう、魁が締め括ると同時に、鬼神の手が獣の両目を抉り出した。
「ぎゃぁぁぁっ!!」
斑模様をした獣の肉が飛び散ると共に、瀬川が両目を抑えて悲鳴を上げた。肉体にはなんら外傷がないにも関わらず、本当に死ぬほどの痛みを感じているようだ。
抉り出された二つの眼球。乳白色に濁ったガラス玉のようなそれを、鬼神は何の躊躇いもなく、瀬川の前で握って潰した。