~ 七ノ刻 写身 ~
薄暗い、かつては病室だった場所で、総司郎は無数の茨と格闘していた。
身体が痛い。そして重い。茨が巻き付き、その身を鞭のように打ち据える度に、それだけで気力をごっそりと持って行かれそうになる。
「……っ!? ま、負けないっすよ! 凍呼ちゃんを……助けるまでは……」
首に巻き付いた茨を振り解き、総司郎の腕に刻まれた梵字が赤く輝く。師匠である、御鶴木魁より与えられし力。本来であれば幽霊を殴るために使うそれを、敢えて防御に用いようと。
裂帛の気合と共に、総司郎は身体に巻き付いた茨を一度に振り解いた。途端に茨がぐったりと萎えたが、しかし彼は追い討ちを仕掛けるようなことはしない。
「ゆ、弓削さん!?」
「来たら駄目っすよ、まゆちゃん! 心配ないっす……。凍呼ちゃんは……俺が……」
そう言う声が、既に震えていた。
総司郎の消耗が激しい。それは、素人であるまゆから見ても明らかだった。全身から酷く発汗していることもそうだが、何よりも、あの茨が普通の茨などでないということ。そして、それが自分の目にも見えるということが、まゆには不安でたまらなかった。
通常、幽霊のような向こう側の世界の住人達は、一般の人間の目に見えることはない。極稀に霊感の強い人間が姿を見ることはあっても、誰も彼も幽霊や妖怪の姿を視認できるかと訊かれれば、答えは否だ。
ところが、あの茨はそんな霊感の低い自分にも、はっきりと目に見える形で存在している。それは即ち、あれが極めて強い力を持った存在だということだ。それこそ、鏡の中に現れた斑模様の怪物と同様に、その辺の浮遊霊など軽くあしらってしまうほどに。
「もう、止めてください! 弓削さん……死んじゃいますよ!!」
気がつくと、涙が頬を伝っていた。凍呼は助けたいが、総司郎にも死んで欲しくない。それは紛れもないまゆの本心。だが、それでも……。
「悪いけど……そういう訳にもいかないんっすよ!!」
茨の動きが鈍くなった一瞬の隙を突き、総司郎は一気に凍呼の元へと駆け寄った。およそ、視力を失った人間のものとは思えない、しっかりとした足取りで。
「しっかりするっす、凍呼ちゃん! 今すぐ助けるから、落ち着くっす!!」
そう叫びながらも、総司郎は凍呼の目元を覆う包帯に手を掛けた。
凍呼がどのような姿をしているか。視力を失った今では、遠巻きに見てもそれは判らない。が、相手に直接触れることができれば話は別だ。
両手を通じて、凍呼の姿がより鮮明に頭の中に浮かんでくる。彼女を縛り付ける包帯も、彼女の助けを求める強い意思でさえも、同時に彼の身体の中に、一種のイメージとして伝わって来る。
(こいつは……。いったい、誰がこんな酷いことを……)
思わず怒りに顔が歪むが、しかし今はそれどころではない。恐怖で自分を見失った凍呼を助けるには、まずは見知った者の顔を見せることで、少しでも落ち着かせてやらなければ。
だが、そんな総司郎の行動を嘲笑うかのようにして、茨は再び彼の身体に絡み付いた。
「んっ……!? んんぅっ!! んぅっ!?」
叩き、締め付け、棘が肉に食らい付く。凍呼が暴れれば暴れる程に、茨は彼女の心を代弁するかのようにして荒れ狂う。
もう、これ以上は時間がなかった。このまま凍呼を放っておけば、今に彼女は力尽きてしまうだろう。首下に巻かれた包帯によって命を断たれるだけでなく、この茨達に全身の力を吸い取られて。
「……っ! まずは……一つ……!!」
凍呼の両手と両足に巻き付けられた包帯を、茨に組み付かれたまま総司郎は引き千切った。目が見えないので、結び目を解くような器用な真似はできない。布の裂ける音がして、その度に凍呼が戒めから解かれて行く。
「三つ……四つ……」
額に脂汗を浮かべながらも、総司郎は更に包帯を千切って捨てた。これでもう、凍呼を縛るものは何もない。首下には未だ包帯が巻き付いたままだったが、それを外すよりも先に、総司郎は目元と口を縛り上げている戒めを解き放った。
「あ……」
瞬間、視界が開けたことで、凍呼の口から安堵にも似た言葉が零れた。同時に、彼女の身体から生えていた茨が、一斉に力を失って総司郎の身体から剥がれ落ちた。
「怖い思いをしたっすね……。でも、もう大丈夫っすよ」
本当は、自分も辛い思いをしたというのに。それなのに、総司郎は普段と何ら変わらぬ様子で、そっと凍呼を抱き起こす。
疲労は敢えて見せようとしない。ようやく恐怖から解放された彼女に、余計な不安を抱かせてはいけないと。それが解っているからこそ、多少の無茶もできるのだ。
「弓削……さん……? どう……して……?」
「理由なんてないっす。ただ……俺は……」
それから先は、何も言うことができなかった。ただ、凍呼を怯えさせてはいけないと。それだけを考え、優しく頭を撫でて微笑んだ。恐らく、とても不器用で、笑顔などと呼べるものではなかったかもしれないが。
「よかっ……た。私……」
消耗しているのは凍呼も同じ。見知った者の顔を見て安心したのだろう。
総司郎の腕の中で、凍呼はぐったりと力尽きた。それと同時に、彼女の身体から生えていた茨もまた、ずるずると身体の中に引きずり込まれ消えて行く。
「とりあえず、終わったっすね……」
気が付くと、総司郎もまた全身にびっしょりと汗をかいている。肉体的な傷はなくとも、霊的な消耗は大きかった。ほとんど捨て身で茨の群れの中に飛び込んでいったのだから、無理もない。
「それにしても……さっきのアレ、いったい何だったんですか?」
その腕の中に凍呼を抱いたままの総司郎に、まゆは改めて今しがた目の前で起こったことについて尋ねた。
凍呼の身体から生えていた無数の茨。あれが普通の茨ではないことは明白である。では、そもそもなぜ、あんなものが凍呼の身体から生えていたのか。いったい凍呼の身に何が起こったというのか、疑問に思うことは数多い。
「あれは……あの茨は、凍呼ちゃんっすよ……」
唐突に告げられ、最初は何を言われているのか解らなかった。
総司郎は言った。あの茨が凍呼だと。では、今、彼の腕の中で抱かれている凍呼は何なのだ。それ以前に、凍呼の身に何が起きてしまったのか、色々と解らないことが多過ぎる。
「あの茨が凍呼って……どういうことよ、それ!?」
「そのままの意味っすよ。あれは、凍呼ちゃんの生霊みたいなもんっすね。魂の一部とか……そういう言い方した方がいいのかも知れないっすけど」
「魂の……一部?」
ますます訳が解らない。怪訝そうな顔をして、まゆは思わず首を傾げた。
あの茨が霊的な存在であるということは、なんとなくだが彼女にも解っていた。問題は、それが妖怪の類などではなく、立派な凍呼の一部であるということだけで。
「俺も先生から軽く聞いたことがある程度っすから、詳しいことは知らないっす。ただ、人間の魂にも色々あって、中には本体から分離して勝手に動くことがあるっすよ」
そっと凍呼の身体を降ろしながら、総司郎はできるだけ言葉を選んで語り出した。人の魂が分離する。向こう側の世界に通じる人間達にとっては当たり前のことでも、まゆのような一般人にとっては原理を理解するだけでも難しい話だ。
本当は、今すぐにでも部屋を出て凍呼を介抱してやりたい。しかし、さすがに体力の限界もある。それに、謎の機械に捕縛されたままの奈津美を放って逃げることも、また許されないとは思っていた。
「まゆちゃんは、幽体離脱ってやつを聞いたことあるっすか? 寝ている間に人間の身体から魂が抜け出して、あちこち彷徨うっていう話っすけど……」
「ああ、それなら聞いたことあるわね。でも……それと、さっきの凍呼の身体から生えてた茨と、いったい何の関係があるんですか?」
「関係あるんっすよ、それが……。俺の霊感で感じ取った瞬間に解ったっす。あの茨は……凍呼ちゃんの魂が姿を変えたものっすから……」
「魂が姿をって……。それじゃ、まるで……」
凍呼も魁や総司郎のように、霊的な力に目覚めてしまったとでもいうのだろうか。
残念ながら、そんなまゆの問いに答えが与えられることは叶わなかった。
彼女の問いに答えるよりも早く、総司郎は静かに凍呼の身体をまゆに預けて立ち上がった。瞬間、部屋の空気が重く暗いそれに代わり、どこからか不気味な音が鳴り響き始めた。
「なによ! 今度はいったい、何だってのよ!?」
もう、これ以上は勘弁して欲しい。半ば涙目になりつつも、まゆは凍呼をしっかりと抱き締めて部屋の後ろに下がって行った。
――――キシ……キシ……キシ……。
耳の奥に響く不愉快な音。あの斑の怪物が現れる際に聞こえる音が、微かに、だが確実に近づいて来る。そして、それに呼応するようにして、浴槽に沈められた奈津美の身体も、徐々に痙攣を始めていた。
「何!? 何が起きてるのよ、ねぇ!!」
問いにさえならないまゆの叫びが、薄暗い病室の中に響き渡る。茨は消えて、凍呼は助かったはずではなかったのか。それなのに、この不安は、奇妙な空気は何なのか。
「じっとしてるっすよ、まゆちゃん……。どうやら、噂の幽霊が現れたみたいっすからね……」
部屋の隅で震えるまゆを守るように、総司郎がスッと前に出た。気力も体力も、先程の救出劇で既に限界だ。しかし、ここで退いては全てが終わる。それが解っているからこそ、総司郎もまた両拳に力を送ることを止めはしない。
果たして、そんな二人の前に現れたのは、あの斑模様をした奇妙な獣などではなかった。
「えっ!? あれ……」
一瞬、まゆは自分の目を疑った。
浴槽に沈められた奈津美の身体。そこから剥がれるようにして、白く不定形な何かが起き上がった。それは直ぐにぐにゃりと揺れて、人の形を成して行く。まるで、この時を待ち侘びていたかのように、微かな笑い声と共に人型となり。
「女……の子?」
そこにいたのは、紛れもない小学生くらいの女の子。だが、彼女の顔には二つの瞳が在るべき場所に、真っ黒な穴が開いているだけだ。サングラスを外した総司郎と同じように、瞳の代わりに虚空だけがそこに在る。
いや、総司郎と同じというのは、いささか語弊があるだろう。確かに彼の瞳は失われてしまっていたが、その奥には確かな温かさがあった。誰かを助けるためならば、自分が傷つくことも厭わない。そんな優しさを持っていた。
だが、それに比べ、あの少女の形をした存在はどうだろうか。
暗く、底知れぬ闇を湛えた二つの穴には、およそ人間らしい感情が感じられない。一度、その奥を覗き込んでしまったなら、二度と再び戻れぬような深い闇。痛みや苦しみ、様々な恐怖の色だけが、ゾッとするような冷たさを湛えてそこに在る。
あれは奈津美だ。何の根拠もなかったが、何故だかまゆにはそう思えた。総司郎の言葉を借りるなら、それこそ生霊と言ったところか。少なくとも、茨の形をした存在よりは、幽体離脱した霊という実感が持てる。
「あ……あぁ……」
ぽっかりと開いた少女の口から、嗚咽とも叫びとも取れぬ声が漏れた。埴輪のような顔をしたまま、少女はゆっくりと前に手を伸ばす。
それはまるで、何かから逃げようともがくように。もしくは、何かから逃げるように、ふらふらと宙を彷徨って。しかし、あれがこの世の存在ではない以上、油断することなどできはしない。
(さすがに、体力的にも連戦はキツイっすね……。それでも……)
ちらりと後ろを見やり、総司郎は静かに息を吐いて覚悟を決めた。
今、この場であれとまともに関われる者は自分しかいない。ならば、最後までやれるだけのことをやるだけだ。その結果、自分の身体がどうなろうと構わない。あの日、自分を暗闇の淵から救いだしてくれた魁のように、今度はその力で自分が誰かを救う番だと。
ここから先は行かせない。自分に残された最後の力を振り絞り、総司郎はじりじりと間合いを詰めて来る少女の霊と対峙した。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
街中を走り抜ける車の中で、魁は無言のまま折紙で作られた鶴を弄んでいた。
羽を摘まみ、時折、首を傾げるような動作をしながら眉間に皺を寄せて見せる。それ以外には、何の言葉も紡がない。普段の饒舌な姿が成りを潜めていることに、車を運転する香取は少しだけ苛立ちを隠せない様子だった。
「おい、陰陽師! お前の言う通り、例の病院に向かってやってるが……その前に、一つだけ教えろ」
「なんだい、刑事さん? 悪いけど、今はちょっと忙しいんだよね。質問だったら、もうちょっと後にしてくれない?」
「俺にはどう見ても、お前が忙しいようには見えんがな」
実際、折り鶴を弄っているだけの魁を見れば、誰しもがそう思うところだろう。もっとも、彼にとってはこれも十分な理由があったのだが、こうなっては仕方がない。どうせ説明せねばならないのであれば、まとめて話してしまった方が、後々の面倒がないというものだ。
「それじゃ、とりあえず何が聞きたいの? 先に言っておくけど……俺だって、別に神様じゃない。いきなり犯人の名前を訊かれても、さすがにそこまでは判らないぜ」
先手を打たれたことで、香取がしばし押し黙った。だが、それでも納得したのかと訊かれれば、そうではない。
「では、質問を変えさせてもらおう。今回の事件……お前はどう考えている? やはり、何者かが何らかの明確な目的を持って、殺戮を繰り返していると思うか?」
「そうだねぇ……。俺も、最初は土地神か何かの仕業だと思ってたけど、今じゃちょっと考えが違うかな。こいつは間違いなく、生きた人間の仕業さ。それも、ただの人間じゃない。向こう側の世界に通じる力を、ある程度自分の意思で操ることのできる力を持った人間のね」
それこそ、自分と同じように。そう、魁が言ったところで、目の前の赤信号が青に変わった。
「人間の仕業だと? だが、殺された栗木と堂島達に何らかの関係があったとして、連中を殺して得をするような人間が果たしているのか?」
「それが……いるんだよねぇ、たぶん。病院っていう、神聖な場所であるならね」
神聖。その部分を殊更強調するようにして、魁は少しばかり皮肉を込めた口調で告げた。
そう、病院は神聖な場所なのだ。決して穢れることのない、聖職とも受け取られる崇高な職務に勤しむ者達が集まる場所。それはそこで働く医師達だけに留まらず、世間一般から見てもそうである。誇張された面もあるとはいえ、少なくとも一般における病院のイメージは、清く穢れなき印象が強い。
だが、そんな病院に勤める医師に、黒い噂が立っていたらどうだろう。ましてや、病院に勤める医師の一人が、裏社会の人間と関わりを持っていたとすれば。
「栗木が消されたのは……その、病院のイメージを保つため、ということか?」
ハンドルを握りながら、それでも香取は訝しげな表情で魁に尋ねた。
確かに、病院のイメージを守るために栗木を殺し、果ては関係のあったヤクザ者達をも殺したのだとすれば、話の筋が解らないでもない。が、実際にそれだけの理由で、ここまで大それた殺人を犯そうとする者がいるだろうか。それこそ、霊的な能力まで駆使した上で、ほとんど暗殺に等しい方法で。
この事件には、まだ裏がある。それは香取も解っていたし、何よりも魁の顔がそう物語っていた。
「まあ、確かに病院を守るためってのもあるのかもしれないけど……」
少しだけ遠くを見つめるようにして、魁が呟くように口を開いた。
「それ以外にも、殺しの理由はあるだろうね。それこそ、病院なんて場所だから、外に出たら拙いような情報がさ」
「どういうことだ? まさか、あの病院で医療ミスの類でもあったと……そう、言いたいのか?」
「残念だけど、それは違うね。医療ミスの記録なんかは、むしろヤクザ者の方が強請に使うネタだろう? 確かに、それもヤクザ者を喜ばせるネタではあるんだろうけど……俺が言ってるのは、病院の人間が主導権を握れるようなネタの存在さ」
「病院側が主導権を? まさか……」
一瞬、香取が眉根を曇らせた。
ヤクザ者が病院を強請るのではなく、病院側が主導権を握る。それは即ち、病院と堂島達が裏で黒い繋がりを持っていたということに他ならない。医師の一人が借金を抱えていたのとは訳が違う。それこそ、病院の存亡をも左右しかねない大事件だ。
「ここからは、俺の推測になるけど……たぶん、栗木って医者は、病院の中にあるネタを使って、堂島と取引しようとしてたんじゃないかと思うんだよね。借金を返す代わりとして、何かヤバい物を流す約束でもしてさ」
「なるほど、面白い話だ。だが、証拠はあるのか? こちらの調べでは、栗木という男は普段の素行にも問題なく、とても借金を抱えているような男には見えなかったようだが……」
「だからこそ、だよ。普通、借金取りのヤクザに追われて生活なんてしていたら、もっと焦りが出てもおかしくないんじゃない? それなのに、御宅が部下に調べさせるまで、栗木からは借金なんてものの影も見えなかった。それだけ冷静になれるほどの何かが、栗木にあったと考えるのが自然だと思うけど?」
あくまで推測に過ぎない話でありながら、魁は実に雄弁に語ってみせた。何も知らぬ者が聞いたならば、どちらが警察の人間なのか判らない。
こいつはただの霊能者ではない。目の前にいる男の頭に、香取は改めて畏怖の念を覚えた。味方につければ頼もしいが、敵に回せば間違いなく厄介な存在だ。成り行きから白羽の矢を立てて共闘を持ちかけたが、その考えが誤りでなかったと改めて自分の中で納得し。
「それで……その、ヤクザ者が喜びそうなネタってやつは、目星がついているのか?」
「いや、まだだね。ただ、ある程度の予測は立つんじゃないの? 病院が絡んだ、非合法な商売なんてやつはさ」
「非合法、か……。まさかとは思うが……臓器の違法売買等が行われていたんじゃあるまいな?」
「可能性としては、それもありだね。後は、もっとシンプルに、麻酔用のモルヒネなんかを麻薬として横流しするとかね。どっちにしても、バレたら病院そのものが潰される事態になり兼ねないってのは確かだけど」
まあ、それでも実際には、全て予測の範疇を出ない話である。それでも、仮にこれらのことが事実だとすれば、栗木と堂島といった相反する存在が同じ者によって始末された辻褄は合う。
栗木が堂島に何を流していたかは知らないが、病院にとっての重大な背信行為を行っていた可能性は極めて高い。そして、それを受け取ってロシアンマフィアに流そうとしていた堂島も、やはり病院側からすれば敵ということになる。
病院側が法に訴えて始末をすれば、風評被害から己の自滅をも招いてしまう。だからこそ非合法に、しかし決して裏からも表からも裁かれぬ方法で始末をつけねばならなかった。そのために、敵は強力な霊的存在の力を借りて、邪魔な者達を次々と闇の中へ葬ったのではなかろうか。
「もしも、俺の予想が当たっているとしたら……」
今まで軽口を叩く様にして語っていた魁の口調が、急に真剣身を帯びたものに変化した。
「敵さんは、当面の目的を全て終えてしまったってことになる。あいつを捕まえるなら、このチャンスを逃すって話はないぜ?」
「このチャンスだと? これだけの事をしでかして、まだ何か事件を起こすつもりなのか、そいつは?」
「さてね……。その辺は、当のご本人に訊いてみないと解らないだろうさ。ただ、やつが既に次の行動に出始めているのは間違いないよ。偶然とはいえ、敵に動きがあったことを、コイツが教えてくれたからね」
先程、両手で弄っていた折り鶴を、ちらりと見せて苦笑する。一見してただの折紙細工にしか見えないが、香取にもそれが、魁の操る霊的な何かであることは理解できていた。
「なるほど……。それが、お前の端末というわけか。陰陽師だけに、さしずめ式神とでも言ったところか?」
「そういうこと。こっちもちょっと事情があって、例の病院を探らせていてね。単なる人探しのつもりだったんだけど……目的の人物を見つける前に、とんでもないやつを引っ掻けたってわけさ」
「まったく……。そんな便利な物があるなら、何故最初から使わない? お陰でこちとら、随分と遠回りをさせられたぞ」
車が角を曲がったところで、忌々しそうに毒吐く香取。もっとも、魁はそれでも何ら気にせぬ様子で、先程と同じく折り鶴の羽を伸ばしたり縮めたりしているだけだったが。
「そりゃ、お気の毒様なことで。でも、悪いけど俺だって、そうそう簡単に多数の式神を操れるわけじゃないんだよ。離れた場所から百体近い端末に常時指示を出し続けるのって、意外と難しいんだぜ?」
再び、魁がにやりと笑う。なるほど、先程からの無意味に見える手遊びは、ここから遠く離れた場所にいる式神に指令を出すためのものだったか。
まったくもって、本当に食えない男だと香取は思った。口では文句を言いながらも、しかし余裕の態度は崩さない。果たして、この男の底力はどれほどの物なのかと、味方ながらに恐ろしくなる。
大型のトラックと擦れ違ったところで、いよいよ目の前に白い建物が見えて来た。純白の聖域。そう呼ぶに相応しい印象を与える施設だが、しかし魁の瞳は既にそちらに向いていない。
白き巨頭の影に潜む、灰色に濁った深い闇。新病棟の裏に佇む、無機的なコンクリート造りの旧病棟。それはさながら、淀んだ気を蓄えて膨れ上がった現代の怪物を思わせる。
(さぁて……。本当なら真打らしく仲間のピンチに駆けつけたいところだけど、さすがに間に合わなそうだねぇ……。ここは一つ、コイツらに最後の無理をさせるとしますか)
指先の式神から送られる霊的な波動を受けて、魁の顔から先程の余裕が消え去った。このままでは、凍呼が、まゆが、そして総司郎が危険に晒される。あれほど無茶はするなと言っておいたのに、まったくもって仕方のない連中だと苦笑して。
現代を生きる陰陽師、御鶴木魁の本気を見せてやろう。普段、テレビカメラの前では決して見せることのない、鋭く刺す様な視線がそこにあった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
迫り来る少女の霊を前に、総司郎はまゆと凍呼を庇いつつも、徐々に追い詰められていた。
(参ったっすね……。ああは言ってみたものの、対話ってやつはどうにも苦手なんっすよね)
冷や汗が頬を伝わる。自分のような不器用な男は、霊と対話し事態を収めるには向いていない。仮に、自分にもできる対話の形式があるとすれば、それはやはり漢らしく、拳と拳で語り合うようなものしかない。
だが、そうは言っても、今となっては自分以外に目の前の霊と対話することができる者がいないのも確かだった。
あれは、ただの幽霊ではない。奈津美の身体から剥がれ落ちた魂の欠片。世間一般では、生霊とも呼ばれ畏怖される存在。向こう側の世界に通じる力を持った人間として、その程度のことであれば総司郎にも直感で判る。だからこそ、殴って始末をつける訳にもいかないのだ。
生霊は、書いて字の如く『生きた幽霊』だ。霊的な存在でありながら、しかし本体は未だ死んではいない。幽体離脱、あるいは幽体剥離などと呼ばれるような現象で、一時的に魂が肉体から離れている状態だといえば話が早いだろうか。
そんな者を、仮に力技で消滅させたらどうなるか。答えは火を見るより明らかだ。
肉体より魂が先に消滅するか、もしくは深い傷を受けることになる。悪霊に憑かれ、霊傷を受けるなどという生易しいものではない。精神の一部を完全に破壊されて廃人となるか、下手をすれば本体である肉体までが、生命活動を停止してしまう。
「あ……あぁ……」
ゆっくりと、だがしかし確実に、少女の霊は総司郎との距離を詰めつつあった。その瞳は未だ深い闇を湛えた穴のままだが、それでも総司郎には判っていた。
間違いない。彼女は助けを求めている。感情というよりも、どちらかといえば本能に近い。自らの命の危険を感じ、藁をも縋るような気持ちで近くにいる者へと手を伸ばす。その結果、それが却って事態を悪化させることになることなど知る由もなしに。触れた者の魂を、同じ危険の渦中に巻き込んでしまうことなど考えもせず。
もう、これ以上は限界だった。このままでは、やがてこちらも追い詰められる。ならば、と覚悟を決めて、総司郎は右手を広げて少女の霊の頭にそっとかざした。
「……っ!?」
瞬間、全身の力を吸い取られるような感覚に襲われて、総司郎は思わず顔をしかめた。が、それでも退くことだけは絶対にしない。ここで退けば、それは奈津美の生霊に拒絶の意思を示すことになる。対話はおろか、彼女に余計な不安を与え、感情を暴走させることにも繋がり兼ねない。
(こいつは……結構キツイっすね……。それでも……!!)
呼吸を整え、気の流れを瞬時にニュートラルな状態へと引き戻す。元より、自分が得意とするのは接近戦。悪霊や妖怪の類と殴り合いをするために、常に体内の霊的な気の流れを操る術は会得している。
正面からぶつかって受け止めれば、それは即ち自分の魂が相手の深淵に引きずり込まれることを意味するだろう。だからこそ、敢えて相手の感情を受け流す。悪霊が放つ呪いの波動を受け流すように、伸ばされた手を拒絶するのではなく、そこに込められた負の感情だけをかわすように。
「あ……あぁ……ぁ……」
掠れるような声で手を伸ばし、奈津美の生霊が総司郎に縋った。穴だけの瞳から、血のように赤い涙が零れる。ぞっとするような冷たい手。およそ、人間らしい温かみなど感じられない、血の通わぬ真冬の氷のような凍てつく気。
残念ながら、そう長くは持たないだろう。押し寄せる奈津美の感情を受け流しながらも、総司郎は早くも自分の限界を悟っていた。
凍呼を救うことで消耗した今の自分では、奈津美を抑えることで精一杯だ。しかし、ここで彼女を抑え続けたところで、真の救済には繋がらない。
ならば、どうすれば彼女を救えるのか。己の魂を確実に蝕まれそうになりつつも、総司郎はふと部屋の壁に目をやった。
(あれは……!?)
そこにあったのは、鈍い唸り声を上げて起動している武骨な機械の塊だった。浴槽に沈められた奈津美の後ろ、古びた壁際に一列に並べられた、得体の知れない箱のような機械達。
あれだ。どのような原理かは判らないが、あれが奈津美に悪夢を見せて、彼女の生霊を生み出している根源に違いない。
証拠はなかったが、それでも総司郎は確信していた。ならば、奈津美を救うために、成すべきことはただ一つ。
「今の内っす、まゆちゃん! 奈津美ちゃんを……あの、変な機械を止めるっす……」
奈津美の生霊を抱いたまま、総司郎は後ろにいるであろうまゆに叫んだ。
自分は目の前の存在と、対話するだけの術を持たない。しかし、だからといって消滅させてしまっては、それは奈津美の命に関わる。
「ちょっ……! そんなこと言われても、私には弓削さんみたいな力は……」
「だ……大丈夫っす……。機械を止めるだけだったら……まゆちゃんにだって、できるはずっすから……」
それこそ、場合によっては破壊してしまっても構わない。そう告げる総司朗の額には、しかし既に無数の脂汗が浮かんでいる。
正直、これは賭けだった。機械を破壊したところで、奈津美の生霊が肉体に戻るという保証はない。が、それでも、このまま何もしなければ、ここにいる全員がおしまいだ。
「わ、わかったわ! あれを……止めればいいんでしょ!!」
傍らに寝かされている凍呼を少しだけ見やり、まゆもとうとう立ち上がった。とはいえ、あの機械を止める術など彼女は知らない。色々と奇妙なランプが点灯しているが、果たしてどこがスイッチで、どこがどう繋がっているのかも。
複雑に入り組んだ配線の中から、まゆはまず、電源コードを探してみた。どんな機械であろうと、基本は電気で動いているはず。ならば、電源を引き抜いてしまえばよいと考えたが、残念ながらどこが主電源のコードなのかさえも一見しただけでは判らなかった。
(えっと……。ここが、あそこに繋がってて、あれがあそこに……)
逸る気持ちを抑えながら、それでも懸命にコードを探してみる。しかし、いくら探して回っても、それらしき物は見当たらない。
「まさか……内蔵電源!?」
思わず頭に浮かんだ言葉が口から零れた。
そういえば、最近はパソコンなどでも主電源とは別にバッテリーを内蔵しているのが普通である。それに、よくよく考えれば、ここは撃ち棄てられた旧病棟。電気など既に通っていない可能性が高く、そんな場所で電源コードを探すことは、極めて馬鹿らしいことに他ならなかった。
「コードを探しても駄目か……。だったら……!!」
もう、残された方法はこれしかない。
咄嗟に、その辺に転がっていた古びたパイプ椅子を見つけ、まゆはそれを力任せに目の前の機械へと叩き付けた。が、激しい金属音がしたものの、それだけだ。非力な彼女の力では、巨大な鉄製の箱を止めるには至らなかった。
「このっ……このっ!!」
薄暗い室内に、まゆの叫びが響き渡る。しかし、返って来るのは鉄製の箱が震える無情な音。衝撃にランプが割れたところで、機械は未だ止まる様子を見せようとはしない。
このままでは駄目だ。力に任せて暴れたところで、機械が壊れる前に総司郎の方が参ってしまう。
肩で激しく息をしながら、まゆはふと、足下に伸びている奇妙な管とコードに気が付いた。それが浴槽の中に置かれた奈津美の身体に伸びているのを見たところで、頭の中に稲妻が走ったような感覚に襲われた。
(そうだ……! もしかして、これを抜けば……!!)
ああ、なぜ自分は最初から気が付かなかったのだろう。この機械が奈津美に何らかの悪い影響を与えているならば、その繋がりを断ってしまえば全ては終わる。総司郎が足止めをしてくれている間に、彼女を機械から切り離してしまうだけでよかったのだから。
自分の浅はかな考えが、動転して見当違いのことをしていたのが恨めしかった。もっとも、今はそんなことを悔いている時間さえ惜しい。早くしなければ総司郎だけでなく、場合によっては自分や凍呼の命にも関わるのだ。
「待ってて、奈津美ちゃん! 今、その変な管を抜いてあげるから!!」
既に目の前の機械には目もくれず、まゆは浴槽に沈められた奈津美の方へ駆け寄った。相変わらず、生きているのか死んでいるのかさえ判らない状態。だが、それでも彼女の小さな胸が、微かに動いているのをまゆは見逃さなかった。
「ごめんね。ちょっと、痛いかもしれないけど……!!」
返事が返ってこないことは解っている。それでも、敢えて奈津美を安心させるようにして、まゆはまず彼女の頭に取り付けられた奇妙な配線を引き剥がした。吸盤によって取り付けられていたそれは、一種の電極のようなものだろうか。幸い、引き抜いたところで問題はなく、額に薄く赤い痕が残っているだけだった。
「これでよし。次は……」
腕に打ち込まれた二本の管。問題は、そちらの方だった。
見たところ、点滴の管と同じような透明のチューブ。力任せに引き抜いてよいものかと、一瞬だけ迷いが頭を掠める。
だが、それでもやらねばならないのだ。ここまで来た以上、奈津美の身体と機械を完全に切り離さねば、却って事態を悪化させることにも成り兼ねない。
もう、迷ったり悩んだりしている暇さえなかった。奈津美の腕を軽く抑え、まゆは打ち込まれている注射針を引き抜いた。
瞬間、奈津美の身体が小刻みに震えたような気がして、まゆは思わずギクリとした。まさか、余計な痛みを与えてしまったか。そう思って腕を見たが、血が出ているような様子は見受けられなかった。
「よかった……。これで……」
奈津美を機械と完全に切り離すことに成功した。そう、安堵の溜息を吐きつつ、まゆは総司郎の方を振り返る。しかし……。
「えっ! な、なんで!?」
残念ながら、奈津美の生霊は未だ消えてなどいなかった。いや、そればかりか、先ほどよりもさらに激しく血の涙を流しながら、総司郎の全てを貪らんと迫っている。長く伸びた髪を絡み付かせ、そのまま全てを深淵の奥底に引きずり込むかのようにして。
やはり、機械を止めねば駄目だったのか。それとも、機械から切り離したところで、既に手遅れだったということなのだろうか。
絶望の二文字が頭に浮かび、まゆは自分の無力さに心が折れそうになっていた。
自分には、総司郎のような力もない。奈津美を助けようと可能な限りのことをしてみたが、それさえも無駄な努力に終わってしまった。
逃れようのない運命。厳しく過酷な現実を前に、心が音を立てて壊れそうだった。それでも、なんとか最後の力を振り絞り、まゆは涙を飲み込んで顔を上げた。
泣いている場合ではない。ホテルを出るとき、自分は心に決めたはずだ。友達として、なんとしても凍呼を助けると。ここで自分が諦めたら、それが全て嘘になってしまう。暴走する奈津美の生霊に襲われて、全てが無駄になってしまう。
まだ、諦めたくない。ただ、その想いだけを胸に、まゆは浴槽の中に沈められた奈津美の身体を引き上げた。
乳白色の液体に手が触れた瞬間、そのぬめりと生温かさになんとも言えぬ不快感を覚える。それに、いざ、抱きかかえてみると、奈津美の身体は思った以上に重たかった。
「もう大丈夫よ! 怖いものは、全部弓削さんが追い払ってくれるから! 私も、奈津美ちゃんと一緒にいてあげるから! だから……お願い! 弓削さんを……皆を連れて行かないで!!」
考えられる限り、最良の言葉だった。こんなことをして、果たして何の役に立つかも判らない。意識を失った少女に説得を試みるなど、端から見れば十分にナンセンスなことだ。
奇跡を信じている訳ではない。ただ、自分のやれるだけのことを、最後までやり通してから諦めたかった。そんな想いが、果たして奈津美の心にも届いたのだろうか。
まゆの叫びに応えるようにして、総司郎に絡み付いていた奈津美の生霊が姿を消した。その身体を薄く、透き通る姿に変えながら、狂気に満ちた顔もまた変わって行く。
暗く、深い闇を湛えた、はにわの顔はそこになかった。最後の最後、自らの肉体に戻る瞬間、奈津美の生霊の顔は穏やかな寝顔に変わっていた。
「……はぁ。今度こそ……本当に終わったの……?」
奈津美を両腕で抱えたまま、まゆが力なくその場にへたり込んだ。
「どうやら……そうみたいっすね……」
同じく満身創痍の状態で、総司郎も返事をする。正面から殴り合いの勝負をしたわけではなかったが、かなり消耗しているのは疑いようのない事実だ。
水に濡れた奈津美の身体を総司郎に預け、まゆは凍呼の寝かされていたベッドに敷かれていたシーツを剥ぎ取った。それで奈津美の身体を優しく包むと、再び総司郎から彼女の身体を受け取った。
とりあえず、これで全ては終わったのだろうか。ほっと息を吐きながらも、まゆと総司郎はそれぞれ奈津美と凍呼の身体を抱えて立ち上がる。
本当は、気になることは残っていた。あの、斑模様の怪物が、果たしてどこへ消えてしまったのか。こちらを誘導するような素振りを見せていたにも関わらず、最後まで自分達のどころへ現れなかったのはなぜだろう。
考えていても仕方ないことだ。そう割り切って、総司郎はまゆに急ぐよう促した。奈津美と凍呼の身の安全を考えるなら、一刻も早くこの旧病棟を離れることが先だった。
「ねえ、弓削さん……」
シーツにくるまれた奈津美を背負い、まゆが歩きながら総司郎に訊ねた。
「結局、奈津美ちゃんは何で生霊なんかになっちゃったわけ? それに、凍呼の身体から生えてた茨……あれ、何だったのよ?」
「ああ、あれっすか……。あれも、奈津美ちゃんの生霊と同じものっすよ。どっちかっていうと、無意識が実体化したものって言った方が正しいっすけど」
「なんか、余計にわけ解らないんだけど……。なによ、その『無意識が実体化したもの』って?」
「要するに、自分の心の中にある、もう一人の自分ってやつっすかね? それが肉体から切り離されると、ああいう形を取ることもあるっす。幽霊と違って、その形は人それぞれっすから……人間の身体から、動物や植物みたいな形をしたものが現れることだってあるっすよ」
病室を抜けて、長い廊下を歩きながら、総司郎はなるべく解りやすい言葉を選んで説明していた。だが、そんな彼の言葉を聞いても、まゆは訝しげな表情を変えようとはしなかった。
「なるほどね。でも……だったら、凍呼や奈津美ちゃんに、あんな酷いことをしたのは誰なのよ? それに、二人が行方不明になったことと、その無意識の実体化した生霊ってやつと、いったい何の関係があるってわけ?」
「それは……」
そこまで聞いて、総司郎も思わずハッとなり顔を上げた。
そうだ。二人を救うことで夢中になり忘れていたが、今回の件は、明らかに生きた人間の意思が見て取れる。それも、単なる意思ではなく、向こう側の世界に通じる力を持ち、それを操る術を持った者の意思が。
だとすれば、戦いはまだ終わっていない。いや、むしろこれからが本番だろう。
凍呼と奈津美。二人を取り返されたことで、事件を引き起こした者は必ず行動に出るはずだ。そう、彼が思った矢先、廊下の窓ガラスがカタカタ揺れて、頭の奥に耳鳴りのような音が鳴り響いた。
――――キシ……キシ……キシ……。
ガラスを擦るような不快な音。忘れようにも忘れられない、異形の怪物が現れる前兆。モシリシンナイサム。闇の淵より来たりし魔獣が、常世と現世の境界を破る音。
「来るっすよ、まゆちゃん! 気を付けて……」
その言葉が全て紡がれるよりも先に、ガラスを引き裂くような鋭い音が響き渡った。
一瞬、背負っていた者の身体を放り出して、そのまま耳を抑えたくなる。それでもなんとか堪えて目の前を見ると、そこにはいつの間にか、異形の怪物が姿を見せていた。
「あれは……」
まゆだけでなく、総司郎までもが同時に言葉を失っていた。
どろどろと流れるような、斑模様の不気味な身体。ぎょろりとした両目が真っ直ぐにこちらを睨みつけ、静かに間合いを測っている。犬とも馬ともつかない奇妙な身体をしていながら、しかし滑稽さよりも恐ろしさの方が前に出る。それだけ強大な力を持った存在だと、他でもない怪物自身が全身で語っている。
もっとも、そんな怪物を前にしたところで、本来であれば総司郎が怯むことはなかった。確かに力の大半を失ってはいたが、それで引き下がるほど彼も弱い男ではない。誰かを守るために、最後の最後まで死力を尽くして戦うこと。その程度の覚悟は既にできている。
では、そんな彼をも黙らせた、真の理由はなんだろうか。その答えは、彼の目の前に立っている者だった。光を失い、その姿を両目で捉えることはできずとも、心は時に肉体以上に正直だ。彼の身体に宿る強い霊感が、その者のイメージを実にはっきりとした姿で、頭の中に映し出していたのだから。
「やれやれ……。まさか、君達がここまでやるとはね」
聞き覚えのある声に、総司郎は確信する。目の前に立っている者は、かつては自分も互いに顔を合わせて話をしたことのある相手だ。その者の、その男の名は……。
「瀬川先生……。あんたが、今回の件を仕組んだ黒幕だったっすか……」
そこにいたのは、他でもない副院長の瀬川だった。奈津美の主治医であり、実質上、この病院を牛耳る最高権力者の一角でもある男。
いったい、彼は何を思って、こんな手の込んだことを仕掛けたのだろう。否、それ以前に、瀬川からは霊能者としての素養はおろか、彼の傍らにいる怪物の影さえも感じられなかったはずだ。
どこにでもいる、少々堅物だが善良な一般人。瀬川に対しては、総司郎もそんな認識でしかいなかった。が、しかしそれが誤りであったことは、今の瀬川を見れば明らかだ。その顔には、かつての誠実で気真面目そうな色はない。ただ、邪悪な欲望に歪んだ瞳を湛え、彼はにやりと笑って見せた。
「どうやら、僕の目に狂いはなかったようだな。さあ……それじゃあ、最後の仕上げと行かせてもらおうか。ちょっと計画とは違った終わり方だけど……そんなことは、今となっては些細な問題だしね」
どんよりと淀んだ瀬川の瞳が、にわかに怪しく輝き始めた。瞳孔が細く、鋭く変化して、まるでトカゲか蛇の目の如く見開かれる。
「ふふ……。君達も不思議な力を持っているようだけど、今の状態じゃ、僕の前では赤子同然だよね? 大人しくすれば、君達も苦しまずに素晴らしいものを見られるはずだよ。この僕が……ヒトがヒトの限界を超えて、神に近付く瞬間をね!!」
片手で自分の頭の半分を鷲掴みにするような格好のまま、瀬川は高々と笑って告げた。旧病棟の廊下に響き渡る狂った笑い。それに応えるようにして、斑の獣はゆらゆらと身体を揺らしながら、目の前にいる獲物達に狙いを定めた。