~ 六ノ刻 廃棟 ~
警視庁の地下に置かれた一室で、氷川は携帯電話のコール音で目を覚ました。
眠たい目を擦りつつ、毛布から這い出て眼鏡をかける。ここのところ、調べ物続きでまともに寝ていない。
だが、それも仕方のないことだ。自分達の仕事を、『死霊管理室』と呼ばれる影の職務のことを考えれば、人知れず何かを調べられるこの場所は都合がよい。
電話の画面に目をやると、相手は香取だった。彼は今、北海道で起きた変死事件を追っているはず。ならば、その事件で何か進展があったか、それとも拙い事態でも発生したのだろうか。
まあ、そのどちらでも構わない。こちらも調度、香取に頼まれていた調べ物が終わったところだ。報告ついでに話を聞こうと、氷川は直ぐに頭を切り替えて電話に出た。
「はい、こちら氷川です」
≪香取だ。例の北海道での事件だが……少々、拙い事態が発生した≫
「拙い事態……ですか?」
≪そうだ。本日の午前五時頃に、埠頭で謎の変死体が多数発見された。現在は使われていない倉庫の近くだったが、そこに不審な車が止まっているのを見かけた者が通報したらしい≫
電話越しに語る香取の声は、いつになく焦りが感じられる。それだけ大きな事が起きてしまったのかと、氷川の顔にも緊張が走った。
≪亡くなっていた連中は、日本人が一人とロシア人が数名だ。日本人の方は、堂島悟。北海道で幅を利かせている広域暴力団、北総連合会の人間だ≫
「広域暴力団ですか……。と、いうことは、さしずめ残りのロシア人は、密売目的で入国したロシアンマフィアってところですかね?」
≪察しがいいな。だが、どうしてか連中の全員が、埠頭で変死体になって発見された。争った形跡はいくつかあったが、遺体からは外傷の類は発見されていない≫
遺体に外傷がない。その言葉を香取から聞いた瞬間、氷川の瞳が眼鏡の奥で光った。
「それは……例の国道で医師が変死した事件と、同じ現象ということですか?」
≪その通りだ。ご丁寧に、現場には『奇妙な亀裂の入ったガラス』まで残されていた。ロシア人の物と思しき車からも、堂島の遺体が発見された車からもな≫
電話の向こうの声が、幾分か荒くなったような気がした。事件の真相を暴く前に、より大きな騒ぎを起こされたことへの苛立ちだろうか。
あの香取が、珍しく焦っている。これはいよいよ、厄介な事態になったということが氷川にも解った。広域暴力団の一員にロシアンマフィア。裏社会に生きる人間が犠牲となったのであれば、その影響もまた計り知れない。その辺で一般市民が交通事故に遭うように亡くなるのとは訳が違う。下手をすれば、大規模な抗争に発展することもあり得るのだ。
「しかし……そいつはまた、随分と判り易い証拠を残してくれたもんですね。でも……二つの事件、いったいどんな関係が?」
≪そちらの方は、目下調査中だな。俺は今から、あの陰陽師の若造と一緒に現場に向かう。お前はお前で、こちらの頼んでいた被害者周りの調査を続けてくれ≫
「了解しました。まあ、実はそっちの方は、ほとんど終わっているんですけどね。今から結果をご報告しようと思ってたところですけど……そっちは大丈夫ですか?」
≪問題ない。だが、なるべく簡潔に頼むぞ≫
互いに話している内に、だんだんと落ち着いてきたのだろうか。電話の向こうにいる香取の声は、いつの間にか普段のものに戻っていた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
夏の朝でも蒸し暑い。そう決まっていると思っていたが、北の夏はなかなかどうして涼しい風が吹いていた。
この時間、ホテルを出る人影は少ない。そっと足音を忍ばせるようにして、まゆは一人裏口から外に出た。
別に、何かやましいことをしようというわけではない。ただ、このままじっと何かを待つのが、自分だけ何もしないのが嫌だっただけだ。
「どこ行くつもりっすか?」
突然、後ろから声がした。ハッとして振りかえると、果たしてそこには見知った者の顔があった。
「弓削さん……」
「あの病院に行くつもりっすね? 凍呼ちゃんを助けるために……」
総司郎の言葉に、まゆは静かに頷いた。ここで隠しても仕方がない。それに、たとえ何を言われようとも、自分の中の気持ちは既に決まっていたから。
「止めても無駄ですよ。自分だけ安全なところで泣いてるだけなんて、凍呼を見捨てたようで嫌だから。それに、あなたの先生と違って、のんびり後ろで構えていられるほど自信家でもないし」
凛とした口調で、それだけ言って後は聞かない。理屈だけで全てを納得できるほど、人間の心は単純ではない。
昨晩、凍呼の一件を総司郎に告げた際、彼は言ったのだ。御鶴木魁ならば、きっとなんとかしてくれる。だから今は、彼を信じてひたすら待てと。その時は、少しだけまゆも魁を信じてみようかという気にはなっていた。
だが、それでも現実はどうだろう。夜が明けても凍呼の行方にはまるで進展が見られない。マネージャーは事態の収拾に追われて動きが取れず、手掛かりの欠片すら掴めていないのが現状だ。しまいには、今朝になって彼の部屋を訪れたところ、既に別件でホテルを出たと総司郎の口から告げられてしまった。
あの陰陽師は、結局口先だけの男だったのだろうか。いや、それは違う。病院で謎の怪物に襲われた際の一件を考えれば、確かに彼は本物の力を持っている。
自分と魁とでは、考え方が根本から違うのだ。そう割り切った上で、まゆはそれでも自ら病院へ出向こうと決意した。どれだけ笑われようと、ナンセンスだと罵られようと、凍呼を見捨てるようなことはしたくないと。その想いだけは変わらなかったから。
「解ったっすよ。でも……それなら、俺も付いて行くっす。凍呼ちゃんがいなくなったのは、俺の責任でもあるっすからね」
「えっ!? で、でも……」
突然の申し出に、まゆはしばし言葉に詰まって総司郎の顔を見た。強引に引き止められると思っていたのに、同行してくれるとは意外だった。
「本当は、まゆちゃんにはホテルで待ってて欲しいっす。先生のこと、やっぱり信じて欲しいってのもあるっすけど……」
それ以上に、どのみちここで止めても勝手に病院へ行くつもりだろう。そして、自分もまた凍呼のことを助けたいという気持ちは同じである。その言葉が総司郎の口から出たことで、まゆの周りの張りつめていた空気も幾分か和らいだ。
「ありがとう、弓削さん。だけど、勘違いしないでね。私、別に御鶴木先生のことを信じてないわけじゃないから。ただ、凍呼から見て薄情な人に思われたくないって……それだけよ」
要するに、これは自分の勝手な我儘だ。それでも同行してくれるのかと尋ねるまゆだったが、総司郎もまた彼女の言葉を否定はしない。
「我儘っすか……。だったら、俺もその我儘に乗らせてもらうっすよ。凍呼ちゃんを攫ったやつをぶっ飛ばして、これ以上、先生に苦労掛けさせないようにしてやるっす」
サングラスの奥に隠された空っぽの瞳。それがにやりと笑った気がして、まゆは少しだけ苦笑して返した。
自分に何ができるとか、何ができないとかではない。今、自分が何をしたいか。結局のところ、それを一番に考えて動いている。
笑われても構わない。馬鹿にされてもいい。しかし、時として退けないこともある。
芸能界に身を置きながら、何の取り柄もない自分。そんな自分と一緒に組んで、凍呼今まで仕事をしてくれた。言葉には出さなかったが、それでもまゆは嬉しかった。だからこそ、その気持ちに報いたい。友達として、仲間として、彼女を見捨てることはしたくない。
「行きましょう、弓削さん。あの病院に何がいるのか知らないけど……今度こそ、正体突き止めてやるんだから!」
「そうっすね。それに、先生は言ってたっす。凍呼ちゃんは、絶対に生きてるって。だから俺も、まだ希望を捨てちゃいないっすよ」
拳を掌に叩きつけ、乾いた音が響き渡る。涼しげな風が頬を撫でたところで、二人は北領総合病院に向けて歩き出した。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
車を降りて外に出ると、埠頭を吹き抜ける風が潮の香りを運んで来た。
ここは北の海。冬になれば流氷が訪れる場所だが、しかし今は見た目だけなら本土の海と変わらない。それでも微かに香りが異なって感じられるのは、やはり潮の流れと風の流れが違うからだろうか。
「それで……御宅の言ってた現場ってやつは、この近くなわけ?」
敢えて気だるく両腕を伸ばしながら、魁は大きな欠伸を一つだけして香取に尋ねた。
正直、昨日はあまりよく眠れていない。持てる全ての式神を放った挙句、それらと霊的な繋がりを絶やさずにい続けようとしたことで、どうしても眠りが浅くなってしまった。
そんな折、明け方近くになって急に香取からの呼び出しである。応じたくないというのが本音だったが、しかし依頼ともなればそうもいかない。
「こっちだ。今回は、現場は可能な限り保存してある」
ただし、遺体は既に運び出された後だが。そう付け加え、さっさと倉庫へ向かって歩き出す。相変わらず愛想のない男だと、魁は大袈裟に肩をすくめて後を追う。
事件の起きた場所がどこなのかは、それからすぐに魁にも解った。倉庫の建ち並ぶ埠頭の一角。そこに止められた車のフロントガラスに、奇妙な亀裂が走っている。
直感的に、魁はそれが例の変死事件の現場に残されたものと同じものだと理解した。外から一切の衝撃を加えずに、中から放射状に亀裂を走らせる。まるで何かがガラスの中から食い破るように、この世界に強引に割り込んで来たかのようにして。
「ふうん……。今回は、少しだけこっちに気を回してくれた感じだね。まあ、できれば死体の方も、現場に転がしておいてくれた方が助かったんだけどさ」
あくまで皮肉を込めて告げる魁だったが、さすがにそれはできないと香取も告げた。しかし、それにしてもなんということだろう。いくら使われていない埠頭の倉庫とはいえ、そんな場所で大量の人間が、しかも裏社会の人間が多数殺害されるとは。
(ヤクザを殺したってことは、そっち系の仕事を生業としてる人間か? でも、それにしては……)
随分と雑な仕事ぶりだ。現場を油断なく歩いて回りながら、魁は車の中で香取から受けた説明を思い出しつつ、今回の事件を引き起こした者について考えた。
呪殺師の仕業にしては、今回の一件はあまりにも目立ち過ぎるきらいがある。しかし、それではズブの素人が禁忌に触れて祟りでも呼んだのかと訊かれれば、必ずしもそうだとは言い切れない。それに、先に起こった医師の変死事件と同様の傾向がある以上、それと切り離して考えることも却って不自然に感じられる。
相手の力は強大で、しかし同時に霊的な力を統べる者の仕業としては、素人さも感じさせる殺し方。なんとも奇妙な違和感を覚えつつ、魁はふと思い出したように香取に尋ねた。
「そういえば、最初に殺された医者の先生なんだけど……何か、そっちで他に掴んだことってあるのかい?」
「栗木のことか? 俺も部下に調べさせてはおいたんだが、少しだけ気になる情報を送って来たな」
「気になる情報?」
「そうだ。栗木彰人は表の顔こそ真面目な医師だったが、裏では随分と借金を抱えていたらしい。それこそ、公には口に出せないような、かなりヤバい筋からの借り入れも含めてな」
「なるほど、ヤバい筋ね……」
香取の言葉に、魁もにやりと笑って見せた。
言いたいことは、皆まで言わずともそれなりに解る。要するに、最初の被害者である栗木彰人が、今回の事件で殺されたヤクザ者やロシアンマフィアと何らかの繋がりがあった可能性があると。
だが、そうは言っても、それだけで二つの事件が完全に繋がるわけではない。仮に栗木が裏社会の人間達と接点があったとして、それならば彼らが超常的な力を持った存在に殺された理由が解らない。
栗木が借金を踏み倒そうとして、ヤクザ者とトラブルになった果てに殺されたのであれば話は解る。もしくは反対に、借金取りから逃れるために、栗木がヤクザ者達の殺害を呪殺師に依頼したという可能性も否定はできない。
しかし、実際は彼らの内の片方だけでなく、双方共に同じ方法で、同じ相手と思しき存在に殺された。しかも、裏社会の人間達に至っては、彼らに恨みを抱きそうな者が既に殺害された後にである。それこそ、『栗木彰人の怨念が彼らを呪い殺した』とでも言わなければ、説明がつかないような不可解な事件だ。
事件の犯人はヤクザ者でも、ましてや栗木の怨念でもない。確たる証拠はなかったが、魁はそう確信していた。霊的な存在の介入を含めたとしても、今回の事件はそう簡単な話ではないと。
「ねえ、刑事さん。殺された栗木彰人なんだけど……他に親しかった人間っていないのかい?」
「親しかった人間?」
「そうだよ。あの男、病院の医者だったんだろ? 担当していた患者の中に、妙な噂のあるやつがいたとかさ。そういう話があったなら、先に言っておいて欲しいんだけど」
巧みに本心を隠しつつ、魁は香取に探るような問い掛けをした。栗木の勤め先である北領総合病院。そこでもまた奇妙な怪異が起きていることは、今は敢えて伏せておいた。
「そこまでは知らん。ただ、副院長の瀬川とは、学生時代からの知り合いだそうだが……」
「学生時代からの? ってことは、もしかして栗木って男、コネで医者になれたってクチかい?」
「そういうことになる。表の顔は勤勉な医師を装っていたようだが、裏では色々と手段を選ばない男でもあったようだな」
だからこそ、公には口にできない連中とも繋がりがあったのだろう。もっとも、魁はそれ以上に、香取の口から出た瀬川という名前が気に入らなくて仕方なかったが。
あの病院の副院長には、正直なところあまり良い印象がない。こちらを一方的に偽物呼ばわりした挙句、病院から追い出したことは記憶に新しい。
ヤクザ者だけでなく、そんなやつとも繋がっている。おまけに栗木自身もまた、瀬川か彼の父親――――北領総合病院の病院長である――――の力に頼っていたとなれば、これはいよいよキナ臭い。
事件の鍵は、どうやらあの病院にありそうだ。何やら確信めいたものを感じ取り、魁が埠頭から微かに見える対岸の建物に目をやったときだった。
「おっと……。このタイミングで戻って来るなんて、随分とまた間の悪い……」
目の前に飛来した一羽の折り鶴。誘導するようにして指先に止まらせ、魁はスッと目を閉じる。
瞬間、小さな鶴の形をした式神を通して、彼の中に様々な光景が流れ込んで来た。その一つ一つは断片的なものでしかなかったが、しかし魁はそれらを徐々に己の頭の中で繋ぎ合わせ纏めて行く。余計なものを受け流し、洪水のように溢れ出る情報の中から本当に大切なものを拾い出す。己の持つ霊的な感性をフルに使い、頭の中に浮かんでは消えるビジョンを高速で整理する。
それはさながら、一種のコンピュータのようでもあった。式神を彼の端末とするなら、彼はその本体、即ちマザーコンピュータのようなものである。
「おい、どうした? 何を考えてるんだ、陰陽師?」
「悪いね、刑事さん。ちょっと静かにしていてくれないか?」
普段の飄々とした様子から一転し、魁がいつになく苛立った口調で香取に返した。仕方なく押し黙る香取だったが、直ぐに魁は気を落ちつけて、そっと指先に止まった式神を撫でた。
「さっきの言葉は訂正だね。むしろ、このタイミングで戻って来てくれたことは、賞賛に値するよ」
半分は自動操縦のようなものとはいえ、さすがは自分の力を分け与えた存在である。軽い自賛の言葉を述べながら、魁は静かに香取の方へと向き直る。
「どうやら、遊んでいる暇はなさそうだね。こっちから仕掛けるより先に、向こうから動いてくれたか……」
折り鶴の翼を指先で挟んだまま、それだけ言って魁は独り先に埠頭から立ち去ろうと歩き出した。慌てて後を追う香取に向けて、直ぐに車を出して欲しいと付け加え。
「おい! どういうことか説明しろ、陰陽師! 向こうから動いたとは……お前は今回の事件の犯人が、いったい誰なのか解ったのか?」
「まあ、そんなところだね。とりあえず、北領総合病院に向けて出してくれないか? どうやら今回の事件を引き起こしたやつに、俺も落とし前を付けさせてもらわないといけなそうだからね」
魁の瞳が、一瞬だけくすんだ金色に輝いたような気がした。絶対勝利。それを確信した時にしか見せない顔だと感じ、香取もそれ以上は何も言わずに車のドアへと手を掛けた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
病院の自動ドアをくぐると、すぐにツンとした消毒薬のような臭いが鼻を付いた。
この臭いだけは、どうにも嗅ぎ慣れるものではない。だが、それ以上に重く暗い何かが潜んでいることを、総司郎は最初に病院の敷地を踏んだ瞬間から感じていた。
思えば、最初にこの病院を訪れた時からして、どうにも妙な感じがしていたのだ。確かに病院は人の生死を隔てる場所であり、故に不浄の霊が何体も浮遊していたとて不思議ではない。
だが、それを抜きにしても、今の北領総合病院を覆う空気はあまりに異常としか言えなかった。今までは奇妙な違和感程度だったものが、今日に限ってはっきりと感じられる。
それは一重に、院内を蠢く魔の存在があるからだろうか。それとも、あの旧病棟から発せられる、灰色に淀んだ空気が敷地全体に広がってしまったからなのだろうか。
考えていても仕方がない。総司郎が軽く頷いたのを見て、まゆもまた無言のまま頷き返事をした。総司郎が光を失って久しいという事実は、既に彼女の頭の中から消えていた。
白昼の病院で消えた凍呼。あれから院内の考えられる場所全てを探して回ったが、結局彼女が見つかることはなかった。だが、あのときは全てを探した気でいたが、実は探していない場所が一つだけあったのだ。
――――旧病棟。
まゆと総司郎、二人の頭に浮かんだ場所はそこである。荒唐無稽な話と思われるかもしれないが、しかし探していない場所といえばそこしかない。
問題なのは、果たして閉ざされた旧病棟へ、どのようにして入るのかということだった。本来であれば、この病院を管理する瀬川父子に事情を説明するのが筋ではある。が、魁と初めてここを訪れた際のことを思い出すと、総司郎はどうにも気が引けてならなかった。
奈津美の一件で瀬川に対するわだかまりは少しだけ溶けていたが、それでも彼は総司郎のような者からすれば、向こう側の世界の存在を信じない現実主義者に等しい。そんな彼に相談したところで、旧病棟の鍵を開けてくれるかどうかは解らない。いや、下手をすれば今までに築いた信頼さえも失って、再び厄介者として摘まみ出されてしまうかもしれない。
凍呼を探すことを第一に考えた場合、それだけは避けねばならないことだった。ここで病院に入る術を失ってしまえば、そこから先は自分達の力だけではどうにもならない。
やはりここは、より信頼のおける人物を頼るべきだろう。もしくは、自分達のことを好意的な目で見てくれる者へ協力を仰ぐべきか。
「とりあえず、俺はもう一度綾子さんに会えるかどうか聞いてみるっす。まゆちゃんは、奈津美ちゃんのお見舞いに来たとか、適当に理由付けて先に行って欲しいっす」
ただし、くれぐれも独断専行はしないで欲しい。周りが明るくとも、人気のない場所に向かうのも危険だと。凍呼が消えた時のことを思い出し、総司郎が付け加えたときだった。
――――キチ……。
一瞬だが、確かに音がした。ガラスを引っ掻くような、神経を逆撫でされる不快な響き。忘れもしない、凍呼が消えた日に洗面所でまゆが聞いた音。
「あれは……!?」
音のした方へと顔を向けた矢先、総司郎の顔に緊張が走った。慌てて同じ方へと目をやると、まゆもまた目の前に現れた者を見て身体を強張らせた。
そこにいたのは、他でもないあの怪物だった。鏡ではなくガラスの中、映し出された景色の向こう側から、こちらを探るように睨みつけ。
「う、嘘……。なんで、こんな場所で……他の人だっているのに!!」
そう、まゆが口にした途端、ガラスの中にいる怪物の顔がにやりと笑ったような気がした。いや、間違いない。気のせいなどではなく、怪物は確かに笑ったのだ。不気味な斑模様の身体を脈打たせながら、病院の受付で待つ親子連れにしっかりと狙いを定め。
「あいつ……人を襲う気!?」
このままでは危ない。咄嗟にまゆが叫び、総司郎が拳を構えて怪物と親子連れの間に割って入る。幸か不幸か、まだ院内にいる他の人間達は、窓ガラスに映り込んだ怪物の姿に気づいてはいない。
ここで人を襲わせてなるものか。大きな騒ぎになることも避けたかったが、それ以上に何の関係もない人を犠牲にするわけにはいかないと。
だが、そんな彼らの想いを嘲笑うようにして、怪物はヒラリと身を翻し、ガラスの向こう側の世界を走り出した。こちらか逃げるというよりも、誘っていると言った方が正しいのだろうか。
「あいつを追うっす!」
周りの視線さえ気にすることなしに、総司郎もまた走り出す。近くにいた看護師の一人とぶつかりそうになって咎められたが、そんな言葉は今の総司郎の耳には届かない。
「弓削さん! あなた……あいつの姿が見えるんですか!?」
走る総司郎の後を追い掛けながら、まゆは息を切らせつつ懸命に叫んだ。それでも総司郎は後ろを振り向くことなしに、やはり走りながらまゆに返した。
「目では見えないっすけど、頭で感じることはできるっす! ちょっと霊感が強い人だったら……たぶん、さっきの待合室にいた人達の中にも、もしかすると見えた人かもしれないっす!」
「えぇっ!? でも、なんで今になって、姿を隠そうともしないで堂々と……」
「そんなの、こっちが聞きたいっすよ! ただ、ここでアレを止めないと、ヤバいってことだけは確かっす!!」
光を失った不自由さを何ら感じさせず、総司郎は怪物の後を追って走る。敵の位置を霊感で捉えているからだろうか。既に相手はぼやけた影のような姿になっていたが、それでも決して逃すことなく食らいつく。
あのまま放っておけば、今に病院にいる他の医師や患者にまで手を出すかもしれない。それだけ危険でどす黒い負のオーラのようなものが、あの怪物から感じられたから。
「はぁ……はぁ……。ちょ、ちょっと……休ませ……て……」
人気のない廊下の角を曲がったところで、とうとうまゆが力尽きて立ち止まった。呼吸が苦しい。こんなに全力で走ったことなど、小学校の徒競争以来ではないだろうか。
ふと顔を上げると、同じく総司郎もまた足を止めていた。もっとも、まゆとは違い、彼の方は何ら呼吸を乱している様子がない。ただ、目の前にある鉄の扉、立入禁止と書かれたそれを、じっと睨みつけていた。
「弓削さん?」
呼吸を整えてまゆが問うが、総司郎は答えない。代わりに扉がギィッと音を立てて開き、外の風がドッと廊下に流れ込んで来た。
「なるほど……。こっちを誘っているってわけっすね」
穴だけの瞳を隠すためのサングラス。スッと指先で位置を直し、総司郎は前に出る。扉の向こうに続いているのは、細く短い渡り廊下。その先にあるのは鈍い灰色をした不気味な建物。他でもない、あの旧病棟の建物だった。
「まゆちゃん。悪いけど、一緒にいられるのはここまでっす。ここから先は、俺だけで行かないと危ないっすから」
「ちょ……なによそれ!? そりゃ、私は弓削さんに比べれば足手まといかもしれないけど……」
「そういう意味じゃないっす。ただ、あの化け物は、明らかにこっちを誘っている感じだったっすからね。迂闊に飛び込めばどうなるか……正直、俺にも判らないんっすよ」
気が付くと、まゆに告げる声が震えていた。相手はこちらを旧病棟に誘っている。病院の受付に、騒ぎになることを承知で現れたのもそのためか。敵はこちらが普通の人間ではないことを、霊的な力を持った相手だと判った上で、敢えてあのような行動に出たと考えた方が自然だろう。
旧病棟へ続く渡り廊下が、恐ろしく長く感じられた。この先にまゆを連れて行けば、万が一の時に護ってやれる自信はない。しかし、本来であれば魁に連絡を取り次の一手を考えるべきなのだが、こちらには余裕も残されてはいない。
あの怪物は、病院に入るなり姿を見せた。こちらの調査の隙を付いて奇襲することもできたというのに、敢えてそれをせず、旧病棟まで誘った。すなわち、最初からこちらの狙いにまで気づき、先手を打って自分の土俵に引きずり込もうというわけだ。
モシリシンナイサム。昨晩、魁の口から語られた、アイヌの伝説にある怪物の名が総司郎の頭をよぎった。
世界の乱入者の異名を持つ、全身斑の奇妙な獣。先程の怪物の姿は、確かに伝説にある姿に似ていなくもない。
だが、仮にそうであったとしても、ここで退くわけにはいかないのだ。敵は決して粗暴なだけの獣ではない。その辺にいる、低級な動物霊とは訳が違う。高度な知性と恐るべき霊力を併せ持った、紛れもない魔獣に他ならない。
「ねえ、弓削さん」
突然、後ろからまゆが総司郎の名を呼んだ。気が付くと、彼女の手はしっかりと総司朗の服の袖を掴んでいた。
「私……やっぱり一緒に行く。ここまで来て逃げ出したら、凍呼を助けにわざわざ出向いた意味がないもの」
「そ、そんなこと言っても、まゆちゃんは何の力も持たない人っすよ!? それに、ここから先は、あの怪物が待ち構えている可能性が高いっす! それこそ、どんな罠があるかだって……」
「だったら、なおさら危険じゃない! それに、弓削さんはお化けの存在を感じ取れても、他の物を見ることはできないんでしょ? 目が見えないのに、何があるか判らない場所に一人で行くなんて……そっちの方が、むしろ危ないんじゃない?」
だから、それこそ自分を連れて行った方が役に立つ。半ば屁理屈のような感じもしたが、確かに一部は正しくもある。
まゆの言う通り、総司郎は自分の目で物を見ることができない。ただ、霊的な感性に任せて他者の存在を、生者も死者も問わずに感じ取ることができるだけだ。
それ以外の物は、残念ながら具体的なビジョンを見ることは不可能である。空間の間取りをなんとなく把握することはできても、細かい部分までは解らない。日常生活を送る分には支障はないが、未知の領域を探索するともなれば、魁の助けなしには動けない。
ここに来て、総司郎は改めて己の無力さを痛感させられた。確かに自分には力がある。魁より授かった向こう側の世界に通じる力を解放すれば、幽霊を素手で殴り飛ばすことさえも可能となる。
しかし、それ以外にことになると、光を失っているという現実が否応なしに自分の行動を阻害する。禁忌に触れて闇へと堕ちた。その代償がこうも大きいものなのかと、判ってはいてもやるせない気持ちにさせられる。
「私が弓削さんの目になる。だから、弓削さんは私を守って。そうやって、二人で力を合わせれば……きっと、凍呼だって助けられるわよ」
希望は捨てない。あの凍呼が死んだなど、間違っても考えたくもない。そんな真っ直ぐな眼差しを向けられ、総司郎も折れざるを得なかった。二つの瞳で見ることは叶わずとも、まゆの純粋な淀みない気持ちだけは、はっきりと感じ取ることができたから。
「仕方ないっすね。それじゃ、まゆちゃんには『目に見える』警戒をお願いするっす。まゆちゃんが見えない連中の相手は、俺の方で引き受けるっすから」
「任せてよ。私だって、少しは役に立つってところを見せてあげるんだから!」
互いに見える世界が違うからこそ、それぞれの弱みを補うことで助け合う。いつしか二人の間には、奇妙な信頼の糸が結ばれていた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
渡り廊下を抜けた先の建物は、昼間だというのに随分と冷え切った空気が漂っていた。
ここが北の大地であること。それを抜きにしても、この冷たさは少し異常だ。埃の臭いに顔をしかめつつも、まゆは自分が既に日常の世界から足を踏み外してしまったことを感じていた。
病院は、人の生と死が行き交う場所だ。いわば、生死の境目となる場所と言っても過言ではなく、それだけに奇妙な噂にも事欠かない。総司郎のような人間の言葉を借りていうなら、正に向こう側の世界とこちら側の世界の狭間に位置する場所である。
そういえば、初めにこの病院を訪れた際には、夜中に女の子の幽霊が出るという話だった。凍呼が消えたことや謎の怪物に襲われたことですっかり忘れていたが、あの話にあった幽霊もまた、この旧病棟をうろついているのだろうか。
「大丈夫っすか、まゆちゃん? ヤバそうだったら、直ぐに引き返してもいいっすよ」
「えっ!? へ、平気です!!」
突然、総司郎に声を掛けられて、まゆは焦って否定するような素振りを見せた。
さすがは、失った光の代わりに霊感だけで周りの状況を把握できるだけのことはある。こちらの表情など見えなくとも、呼吸の乱れや雰囲気一つから、相手の感情を汲み取るのは得意ということか。
「あっ! そこ、変な台が置いてあるから気をつけて!」
そう言って指差した後で、総司郎の目が見えないことに気付きハッとした。彼が立ち止まったのをいいことに、慌てて側にあった台を脇へと退ける。
いったい、自分は何をやっているのだろう。総司郎の目になると約束したばかりなのに、これでは本当の足手まといではないか。
(ったく、なにやってるのよ! こんなことじゃ、本当にただの役立たずじゃない!)
こんなことでは凍呼を探すどころではない。自分を叱咤するようにして顔を叩き、まゆがふと顔を上げたときだった。
――――カラン……。
廊下の向こうで、なにやら乾いた音がした。ガラスや鏡の中を、斑の怪物が走るときのそれとは違う。もっと物理的で、誰の耳でも聞き取れるような音だ。
――――チリン、チリン……。
また、音がした。今度は空耳などではない。小さな鈴が風に揺れて鳴るような、更にはっきりした音だった。
「弓削さん……」
「解ってるっす。俺にも聞こえたっすよ」
口調が固い。気のせいか、総司郎の顔にも幾分かの緊張が現れているように感じられた。
そっと油断なく足音を潜め、二人は音のした方へと歩を進めた。途中、なにやら得体の知れない器具が転がっているのを慎重に退かし、薄暗い廊下の先へと向かう。
こんな場所で、鈴の鳴る音がした。あの怪物が発した音なのかどうかは定かではないが、少なくとも普通の音ではあるまい。
自分の息をする音が、廊下を擦れる足の音が、いつもより随分と大きく聞こえた。いつ、何がどこから現れるか解らない以上、まゆも総司郎も互いの『見える物』を少しでも逃さないように意識を集中させて。
果たして、そんな二人を廊下の角で待ち構えていたのは、煌々と光る二つの金色の目玉だった。
「……ニャオ」
べったりと貼り付くような声で、目玉の持ち主が一声だけ鳴いた。闇に溶け込むような漆黒の毛並み。旧病棟の廊下には、およそ不釣り合いな一匹の黒猫だった。
「ね、猫?」
一瞬、自分の目を疑って、まゆは思わず両手で目を擦った。その瞬間、黒猫はサッと身を翻すと、近くにあった扉の隙間からスルリと中へ滑り込んだ。
「な、なんなの……あれ」
目の前の光景が未だ信じられず、呆然と立ち尽くして呟くまゆ。自分達は、凍呼を探して病院まで来た。そして、ガラスの中の怪物を追って、旧病棟へと侵入した。
それでは、あの猫はいったい何なのか。こんな場所にいるのであれば、あれもまた魔性の存在だとでもいうのだろうか。
「行くっすよ……まゆちゃん」
呆気にとられるまゆを余所に、総司郎が前に出た。瞳を失った顔からは視線を探ることはできなかったが、それでも彼の意識が一点に、先程の猫が消えた部屋の中に集中していることは明白だった。
「行くって……弓削さん、さっきの猫も、もしかして何か関係が?」
「まだ、それは解らないっす。ただ、あの猫が普通じゃないってことは、俺にも感じ取れたっす」
「普通じゃないって……。そりゃ、こんな場所に猫がいるなんて、私も妙だとは思うけど……」
「そうじゃないっすよ。ただ……」
あいつからは、強い魔性の臭いがした。それだけ言って、総司郎はまゆを庇うようにして部屋の扉に手を掛けた。
あの猫の正体も気になるが、それ以上に気になるのは、扉の部屋から漏れる奇妙な気配だ。悪意でも憎悪でもない、しかしどこか人間の持つ根源的な部分に対し、嫌悪感を抱かせる何かが溢れ出ている。
全ての答えは、きっとこの先にあるのかもしれない。気がかりなことは山のようにあり、未だ真実へ辿り着くための術も見えていない。
だが、それだからこそ、総司郎は敢えて扉を開けて歩を進めた。いつ、あの怪物に襲われてもいいように油断なく身構えて、迷いを振り切るようにして部屋に飛び込んだ。
「……っ!? これは……」
瞬間、背中に鳥肌が立ち、部屋の中に充満した空気が一斉にこちらを覆って来た。憎しみでも怒りでもない、しかし強烈な負の感情が、総司郎の第六感を刺激した。
部屋の外からは解らなかったが、中に入った今ならば解る。これは恐怖だ。それも、並の恐怖ではない。完全に理性を失い暴走する感情が、目の前でうねりを上げてのたうち回っているのが手に取るように感じられる。
「ちょっ! なんなのよ、これ!?」
遅れて部屋に入って来たまゆも、思わず言葉を失って立ち尽くした。
総司郎とは違い、彼女は当然ながら自分の瞳で目の前にある光景を見ている。そんな彼女を驚愕させるに十分なものが、この打ち棄てられた病室に広がっていたのだ。
部屋の中央に置かれた浴槽のような物体。その中に満たされた乳白色の液体の中に、一人の少女が生まれたままの姿で寝かされている。
「奈津美ちゃん……なの?」
それ以上は、何も言葉が出なかった。浴槽の中に沈められた少女は、他でもないあの奈津美だったのだから。
いったい、これはどういうことだろう。凍呼を探しに来たはずなのに、目の前には奈津美が奇妙な浴槽の中に沈められ、寝かされている。彼女の頭や身体には奇妙なコードが幾本も据え付けられ、それらは全て部屋の壁に沿うようにして置かれた計器のようなものに繋がっていた。
よくよく目を凝らして見ると、中には注射針のようなもので、そのまま腕に射し込まれている管もある。単に何かを測定するだけでなく、管を通して薬物か何かを体内に注入しているのだろうか。
腎臓を患い入院生活を続けていた奈津美。だが、今の彼女が治療を目的としてここに置かれている訳ではないということは、素人のまゆにもはっきりと解った。
とにかく、今は奈津美を助けねば。直感的にそう思い、慌てて浴槽へ駆け寄るまゆ。だが、総司郎を押しのけて部屋の中へ足を踏み出した途端、部屋の隅で何かが動く音がした。
「えっ!? と、凍……呼……?」
再び、まゆの目が丸くなる。部屋の隅に、無造作に置かれた古いベッド。そこに寝かされていたのは紛れもない凍呼だ。もっとも、その姿は随分と痛ましく、決して再開を喜べるようなものではなかったが。
その瞳から光を奪うために、彼女の目元には白い包帯が何重にも重ねて巻き付けてあった。その上、口も包帯で縛り上げられ、まともに声を上げることさえ叶わなくされている。
両手と両足にも包帯がきつく結び付けられて、その先はベッドの手すりに引っ掛かるようにして伸びていた。更に、そこから伸びた四本の包帯は、それぞれが凍呼の首に絡まるようにして結ばれている。
暗闇の中、視界を奪われ何処とも解らぬ場所に拘束される恐怖。怖がりの凍呼にとっては、筆舌に尽し難いものがあるだろう。その上、拘束を振り解こうと暴れれば、自身の首に絡まった包帯が引っ張られて首が締まるようにできているのだ。
「ひ……酷い……」
それ以外に、何も言えなかった。いったい、何の理由があって、凍呼がこんな酷い目に遭わされなければならないのか。いや、理由など関係ない。どんな理由があったとしても、彼女にこんな仕打ちをした者は許せない。
「ん……んぅっ……!?」
部屋に誰かが入って来たことに気付いたのだろう。懸命に戒めを振り解こうともがく凍呼だったが、その度に彼女の首が巻かれた包帯によって締め上げられる。助けを求めようにも声さえ出せず、自分が何をされているのかも解らない。そんな恐怖が、加速度的に凍呼の精神を壊して行く。
「待ってて! 今、助けるから!」
もう、一刻の猶予もない。とにかく今は、早く凍呼を戒めから解放してやらなければ。そう思って飛び出したまゆだったが、次の瞬間、何やら強い力で大きく後ろに引っ張られた。
「伏せるっす!!」
まゆの上から覆い被さるようにして、総司郎が叫んでいた。突然のことに何が起きたのか解らず、まゆは冷たい床に打ちつけた頭を庇いながら立ち上がった。
「ちょっ……いきなり、何するのよ!!」
「……そこまで叫ぶ元気があるなら、無事みたいっすね」
苦悶の表情を浮かべつつ、総司郎もまた立ち上がる。転げ落ちたサングラスを拾い穴だけの目を隠すと、痛みに耐えるようにしながら凍呼の寝かされているベッドを指差した。
「な、なによあれ!?」
浴槽に置かれた奈津美を見たとき以上の衝撃を受け、たちまちまゆの瞳が丸くなる。驚きというよりは、むしろ恐怖の方が大きい。総司郎が自分を何から庇ったのか。それを知ってしまったから。
先程、自分がいた空間には、無数の茨のようなものが蠢いていた。まるで、近づく全てのものから彼女を守らんとするかのように、幾重にも重なって凍呼の周りを囲い込んでいる。それらは全て他でもない、縛られた凍呼の身体から生えていた。
「話は後っす。俺が凍呼ちゃんを助けるっすから……まゆちゃんは、それまで部屋の隅にでも隠れてて欲しいっす」
「助けるって……いったい、凍呼に何があったのよ! あの茨みたいなの……あれ、何なんですか!?」
残念ながら、その答えが総司郎から告げられることはなかった。
荒れ狂う茨を前に、総司郎は呼吸を整え腕の封印を解放する。御鶴木魁より与えられし力、腕に刻まれた梵字の刺青が赤く発光し、魔を滅する輝きを持った武器と化す。
(待ってるっすよ、凍呼ちゃん! 今、助けてあげるっすからね!!)
だが、そんな総司郎の心の叫びとは反対に、凍呼の身体から生えた無数の茨は一斉に総司郎に向かって襲い掛かって来た。彼女の脅え、不安、恐怖。それらを全て代弁するかのようにして、荒れ狂う茨が総司郎の身体に巻き付いた。