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~ 伍ノ刻   魔獣 ~

 まゆが総司郎と合流できたのは、それから程なくしてのことだった。


「とりあえず、無事でよかったっすよ」


 廊下に置かれた長椅子に腰かけ、総司郎は普段以上に優しい口調でまゆに告げた。とにかく今は、彼女を安心させることが先決だ。そう思っての行動だったが、それでもまゆは軽く頷き、小さく震えているだけだった。


「弓削さん……。あれ、いったい何だったんでしょうか……」


 洗面所で見た謎の怪物。斑模様をした犬とも狸ともつかない奇妙な生き物のことが、未だ頭から離れない。鏡の中からこちらを見つめる二つの目。あれに睨まれたら最後、絶対に逃げられないような気がしてくる。


「それで……凍呼ちゃんは見つかったっすか?」


 総司郎の言葉に、まゆは力なく首を横に振って答えた。もしや、彼女はあの化け物に食われてしまったのではあるまいか。考えてはいけない、考えたくないと思っても、不安が滝のように降って湧いて来るのを止められない。


「それにしても、妙なのは奈津美ちゃんの話っすよね。凍呼ちゃんと奈津美ちゃんは、トイレに行くって言って部屋を出たんで間違いないっすか?」


「え? あ……はい……」


 唐突に尋ねられ、まゆは慌てて顔を上げて返事をした。いったい、何が妙なのか。残念ながら、今のまゆには総司郎の言葉の意味を、直ぐには理解することができなかった。


「奈津美ちゃん、確か腎臓が悪いって話だったっす。俺も医者じゃねぇっすから、詳しいことは知らないっすけど……透析してる人間って、トイレに行きたくても行けないって聞いたことがあるっす」


「行きたくても……行けない?」


「そうっすよ。俺も昔、馬鹿やって入院してた時期があったっすけど……そのときに、腎臓を悪くした患者さんと知り合ったことがあるっす。その人の話だと、身体がおかしくなって小便が出ないから、代わりに透析で体内の毒物を取り除いて、綺麗にしないといけないって聞いたっす」


 だから、そもそも奈津美が用足しに洗面所に行くこと事態、おかしなことなのだと。そう語る総司郎の顔には、明らかな疑念が見て取れる。


 まさか、一連の幽霊騒ぎの犯人は、あの奈津美なのだろうか。こちらが色々と嗅ぎ回っているのを察し、事が大きくなる前に、刺客を差し向けて来たというのだろうか。


 今はまだ、なんとも言えない部分もある。あの奇妙な怪物にしても、そもそも病院に現れるのは少女の霊という話だったはず。それらの関係も解らないまま、あれこれ推測で物事を考えても仕方がない。が、それでも一つだけ言えることがあると、まゆは薄々だが気付いていた。


「ねえ、弓削さん……。凍呼がいなくなったの……私のせいなのかな……」


「な、なに言ってるっすか!? そんなこと……」


「いいです、別に気を使ってもらわなくても。あの子が怖いの嫌いなのに、無理して誘ったのは私だし。それに……」


 自分もまた、洗面所で謎の怪物に襲われた。そして、そのときは何もすることができず、ただ怯えて腰を抜かしていただけだった。


 あの日、東京で初めて心霊事件に巻き込まれたときの記憶が、まゆの脳裏を掠めていた。人間の深層意識に潜み、その肉体をも破壊する恐ろしい呪い。現に、事件の犠牲者は一人や二人ではなく、まゆの知る多くの人間が亡くなった。


 だが、そんな事件を経ても、自分は霊を甘くみていた。いや、もしかすると、なまじ妙な経験をしたことで、感覚が麻痺していたのかもしれない。


 自分に力がなくとも、総司郎がいれば大丈夫だ。そんな油断が、心のどこかにあったことは否めない。所詮、相手は少女の霊。あの御鶴木魁の力など借りずとも、いざという時は総司郎が護ってくれると。そんな淡い期待に気を良くして、完全に相手の力を侮っていた。


 どんなに力が弱くとも、どんなに小さな相手でも、何の力も持たない一般人からすれば、向こう側の世界・・・・・・・の住人は危険な存在だ。もし、彼らの期限を損ねて怒らせでもしたら、こちらには抗う術がない。そんなことさえ頭の隅から消えて、自分は完全に霊を舐めていた。


「ごめんね、凍呼……。私の……せいで……」


 気が付くと、自然と涙が溢れていた。もしも凍呼が、今もどこかで危険な目に遭っているのだとしたら。そう考えると、もう駄目だった。


「お、落ち着くっすよ、まゆちゃん! まだ、凍呼ちゃんに何かあったって決まったわけじゃないっす!」


 泣いている声に気付き、総司郎が慌てて叫んでいた。それでも、一度泣き出すと自分の意思では止めることができなかった。


 今であれば、なぜ魁がこちらの荷物に式神を潜ませていたのかも解る。彼はきっと知っていたのだ。何の力も持たない者が、下手に霊的な存在に関わればどうなるかを。それなのに、自分は最初から彼の考えなど聞こうともせずに、最悪の事態を引き起こした。


 もし、あのとき魁の式神が助けてくれなかったらどうなっていたか。今更ながら、考えただけでも恐ろしい。あの奇妙な化け物に頭から食われてしまったか、はたまた鏡の中に引きずり込まれてしまったか。もしくはそのまま取り憑かれ、完全に身体を乗っ取られてしまった可能性もある。


「私……馬鹿だ……。お化けや幽霊が危ない存在だって、前の事件で知ってたはずなのに……つまらないプライドにこだわって、御鶴木先生のことも馬鹿にして……」


 そう、下らないプライドだ。ただ、あの男を見返してやりたい。それだけの浅い考えで、自分は取り返しのつかないことをしてしまった。


 自責の念が、重たくまゆの胸に圧し掛かる。だが、それでも泣いている場合ではないと、総司郎は優しくまゆに告げた。


「行くっすよ、まゆちゃん。まだ、凍呼ちゃんが怪物に襲われたって決まったわけじゃないっす。それに、奈津美ちゃんだって一緒っすから、もしかすると病院の先生と一緒にいるかもしれないっすよ?」


「でも……奈津美ちゃんは……」


「ここで考えているだけじゃ仕方ないっすよ。奈津美ちゃんのことだって、まだ彼女が事件に関わっているかどうか、その証拠もないっすからね」


 サングラスの奥、瞳のない二つの穴を向けたまま、総司郎はまゆに笑って言った。不器用ながらも、浅黒い肌に映える健康的な笑みだ。ヤクザ者のような格好をしていても、彼の中身は決して粗暴な喧嘩好きでないことを窺わせる。


「うん……解った……」


 そっと涙を吹いて、まゆもまた椅子から立ち上がった。


 自分が見た怪物は何なのか。この病院で囁かれる、少女の霊の正体とは何か。気になることは山ほどあったが、今は消えてしまった凍呼を見つける方が先決だと。


 そう、自分に言い聞かせて、まゆは込み上げる想いをぐっと胸の中にしまい込んだ。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 夜の埠頭は、夏にしては冷たい風が吹いていた。


 この時間、この場を訪れる人間はいない。多くの貨物を積んだ船やトラックが行き来する昼間とは違い、今は少しばかり寂しげな空気に包まれている。


 遠く、海の向こう側で、赤や黄色の光が時折点滅を繰り返していた。埠頭へ出入りしている貨物船か、それともこれから夜の漁に出る漁船だろうか。明滅する光はゆらゆらと揺れながら、少しずつだがその位置を横へとずらして行く。


 潮の匂いのする風が吹き抜けると共に、埠頭に一台の車が姿を見せた。札幌ナンバーの黒塗りの車だ。倉庫の影に隠れるようにして止まると、車の中からスーツ姿の男が姿を現した。


「ここが指定の場所か……。なるほど、在り来りの場所だが隠れて動くには調度いいな」


 そう言って、男は車のドアを閉じながら埠頭に並んだ倉庫を見上げて呟いた。


 倉庫の壁は赤錆びて、長らく使われた形跡がない。廃工場ならぬ、廃倉庫とでも呼べばいいのだろうか。不況による相次ぐ会社の倒産や規模縮小で、持ち主が手放したか持て余しているかのどちらかだろう。


「ドウジマさん、コッチです……」


 助手席から降りた女性が、片言の日本語で男に告げた。青い瞳と金色の髪が美しいが、しかしどこか冷たい印象を受ける。モデルのように均整の取れた身体つきをしているが、髪は短くまとめ、男装の麗人を思わせる。


「ここからは歩きか。お前のボスは、外見に似合わず用心深いようだな、ナターシャ」


 残念ながら、彼女からの返事はなかった。与えられた仕事を、ただ完遂することだけを考えているからだろうか。これで少しは色気の効いた冗談でも言えれば完璧なのに、これは少々勿体ない。


 埠頭の角を曲がり、堂島は案内されるままに倉庫の裏へ出た。正面には一台の車が止まっており、見覚えのある巨漢の男の姿もあった。


「来たか。約束の物は、持って来ただろうな?」


「ああ、問題ない。正真正銘の、本物だ」


 そう言って、堂島は巨漢の男、ボルチェノフの前にアタッシュケースを突き出した。周りにいた数人のロシア人がそれを受け取り、すぐさま中身を確かめる。


 鍵の外れる音がして、銀色のケースが口を開けた。中から顔を覗かせたのは、これは何かの薬品だろうか。黄色い半透明の液体が試験管の様な容器に入れられた状態で並んでおり、更には注射器まで付いている。どうやら、これらの薬品の入った容器をセットすることで、そのまま注射することができる仕組みになっているようだった。


「これが……例のブツか……」


 容器の内の一本を取り出し、ボルチェノフがサングラスの奥で目を凝らした。この状態では、本物か偽物かは判らない。どうにも判断に困っている様子だったが、堂島は自信を崩すことなしに話を続けた。


「サンプルの一本は、既にそちらに渡してあっただろう? こいつは大麻と同じでね。中毒性はないから、使っても証拠は残らない。そう、俺に薬を譲ったやつが言ってたぜ」


 なんだったら、今ここで試し打ちでもしてみるか。そこまで言われてしまっては、さすがのボルチェノフも認めざるを得なかった。


「解った。ナターシャ、例の物を持って来い」


 ボルチェノフの言葉に案内役のナターシャが頷いた。彼女が車のトランクから取り出したのは、これまた堂島が持って来たものと同じような、銀色の頑丈なアタッシュケースだった。


「約束の金だ。受け取れ」


 堂島の前で、ボルチェノフは部下の男達にケースの中身を開けさせる。ぎっしりと敷き詰められた札束は、しかし日本の壱万円札などではない。


「米ドルか。さすがは解っているな」


「当然だ。本国のルーブルなど、取引では紙屑だからな。舐めてもらっては困る」


 札束を数える堂島の手を押さえ、ボルチェノフはケースの蓋を閉じた。やはり、こいつはできる。紙幣の種類を見た瞬間、堂島は改めてボルチェノフに感心した。


 彼の祖国で使われる紙幣は、彼らにとっては海外での取引において使い難い。特に旧紙幣に至っては、マネーロンダリングを防ぐ目的で諸々の手段が打たれている。


「それじゃ、取引は成立だな。そちらとは、今後も末永くお付き合いさせてもらいたいね」


「ああ、いいだろう。では、早速だが……」



――キチ……。



 瞬間、ボルチェノフの言葉を遮るようにして、何やらガラスを引っ掻くような音がした。


「何だ?」


「汽笛……ではないようだな」


 この時間、こんな場所を訪れる者はいないはず。だが、万が一ということもある。



――キチ……キチ……。



 また、音がした。今度はより大きく、よりはっきりと。あまりに近くで聞こえたのか、ボルチェノフの部下達やナターシャまでもが、一斉に辺りを見回している。


(なんだ、この音は……?)


 最新の注意を払ったつもりだったが、まさか麻取に尾行されていたのか。それとも、ボルチェノフのグループと敵対する、別のマフィアにでも嗅ぎつけられたか。


 どちらにせよ、ここには長いしない方がよさそうだ。油断なく辺りの様子に目を凝らしながら、堂島はそっと金の入ったアタッシュケースに手を伸ばした。


 最悪の場合、この場はボルチェノフに任せて自分は逃げよう。密会の証拠は残したくはなかったが、こんな場所で捕まるよりはマシだと。そう、彼が思った時だった。



――キィィィン!!



 突然、耳の奥をつんざくような音がして、堂島は思わず両手で耳を抑えた。


 いったい、何が起きたのか。その答えを彼が知るよりも早く、ナターシャ悲鳴を上げて倒れていた。


「……っ!? 何が起きた!!」


 道端に転がったナターシャの身体を慌てて抱き起こすボルチェノフ。だが、両目をカッと見開いたまま、彼女はピクリとも動かない。身体のどこにも外傷がないにも関わらず、ナターシャは既に事切れた後だった。


「同業者か!? 気を付けろ、お前達!!」


 ボルチェノフの怒鳴る声と、部下の男達が銃を引き抜くのが一緒だった。だが、敵の姿が見えないことで、動揺は隠しきれないようだった。


「こいつはどういうことだ、ボルチェノフさんよ?」


「解らん。そちらこそ、誰かにつけられていたんじゃないのか?」


「冗談言わないでもらいたいね。この北の地で、北総連合会に立て突こうなんて連中はいやしないさ。麻取にしても、まさかいきなり殺すなんてことは考えられない」


「では、何故ナターシャは死んだ!? 答えろ、ドウジマ!!」


 完全に頭に血を昇らせて、ボルチェノフは堂島の襟首を掴み叫んでいた。そんなことを言われたところで、こちらにだって解るものか。とりあえずは落ち付けと堂島がボルチェノフの手を振り払ったところで、今度はすぐ近くで数発の銃声が響いた


「どうした!?」


 堂島の襟から手を離し、ボルチェノフが銃声の聞こえた方に顔を向けた。すかさず自分も懐から拳銃を引き抜くが、その顔は瞬く間に恐怖の色に染まって行った。


「な、なんだ、ありゃ!?」


 襟元を直しつつも、堂島が信じられないと言った口調で口にした。彼らの目に飛び込んで来た光景。それは他でもない、見たこともない怪物と戦うロシアンマフィア達の姿だったのだから。


 黒服に身を包んだマフィア達が、次々と見たこともない怪物に襲われ倒れて行く。全身に斑の模様を持った、ドロドロと流動するような肉体を持った獣。その顔は犬か、もしくは狸にも似ていたが、しかし身体の方はまるで馬のようだ。


「た、助けてくれぇっ!!」


 拳銃を乱射しながら、ボルチェノフの部下達がロシア語で叫んでいた。混乱する頭では狙いさえ付けられないのか、放たれた銃弾は全て明後日の方角へ飛んで行く。


「……化け物め!!」


 業を煮やして、ボルチェノフもまた手にした拳銃の引金に指を当て絞った。衝撃が鈍い反動となって伝わり、撃ち出された銃弾は真っ直ぐに怪物へと向かって行く。並の防弾チョッキであれば容易く貫通せしめるトカレフ弾だったが、果たして渾身の一撃は、怪物の動きを止めるには至らなかった。


 部下の一人に圧し掛かったまま、怪物は何事もなかったかのように首を上げた。再び狙いを定めて引金を引くが、やはり無駄な抵抗だった。


 銃声が轟き、鉛の弾が発射される度に、怪物の身体に穴が開く。が、それだけだ。穴は直ぐに塞がって、弾は怪物の身体を通り抜けて近くの壁に当たり火花を散らした。元より、トカレフは貫通力に優れる銃だが、それでもこれは異常だった。


 あの怪物の身体は、いうなれば一種の液体だ。銃弾がまったく効果を示さず、吸い込まれるようにして身体の中を通り抜けてしまう。それでいて、肉体を貫通されたにも関わらず、相手は何ら動ずる様子を見せようとはしない。


 怪物のぎょろりとした目玉が、正面からボルチェノフを睨んでいた。次の獲物を見定めて、新たに襲い掛からんと間合いを測り。


「ぬぉぉぉっ!!」


 撃鉄が銃弾を叩き出す度に、怪物の身体に波紋のような穴が開く。しかし、それでも相手はまったく怯むことなしに、真正面から向かってくる。


 長身の巨体が組み伏せられ、ボルチェノフの身体が地に沈んだ。その外見からは想像もできなかったが、あれだけの巨漢を容易く倒すだけの力を持っているのだ。


 もう、ここは逃げるしかない。慌てて金の入ったケースに手を伸ばし、堂島は足早にその場を去った。


 戦おう、などとは思わなかった。あれの正体が何なのか、それは自分にも解らない。だが、何か物凄く危険な、それでいて常識では語れない存在に出会ってしまったと。それだけは確かなことだと思いながら、ひたすらに埠頭を駆け抜けた。


 ナターシャに案内された道を戻り、自分の車を見つけて扉を開ける。汗で手が滑りそうになったが、そんなことは関係なかった。


「畜生……! いったい、なんだってんだよ!!」


 悪態を吐きながら、堂島は大急ぎで車のエンジンをかけた。これで、ボルチェノフのグループとの取引はおしまいだ。金は手に入ったが、しかしそんなことは関係ない。


 得意先を失い、場合によっては組全体に何らかの形で迷惑を掛けてしまう。そうなれば、そこで自分もおしまいだ。北総連合会を仕切るなど夢のまた夢。場合によっては組を破門され、底の底まで堕とされる。


「あの化け物め……。覚えてやがれよ!!」


 エンジンがかかったところで、堂島は憎々しげな顔で口にした。だが、彼がふとバックミラーに目をやった瞬間、そこに映しだされたものを見て声を失った。


「あ……あぁ……」


 そこにいたのは、先程の薄気味悪い斑模様を持った怪物だった。慌てて後ろを振り返るが、しかし怪物の姿はない。こちらの背後ではなく真正面、鏡の中にだけ怪物が映り込んでいるのだから。



――キチ……キチ……キチ……。



 鏡の中の怪物が、徐々にこちらに近づいてくる。その度に耳障りな音が響き、鼓膜の奥を刺激する。


 このままでは拙い。急いで逃げねば危ないが、しかし身体が動かない。


 広域暴力団の一員として、自分は何度も修羅場をくぐって来た筈だ。それが、ここまで恐怖に支配されてしまうとは。自分でも自分が解らなくなり、堂島はますます混乱しながら拳銃を鏡に向けていた。


「この野郎ぉぉぉっ! 来るんじゃねぇぇぇっ!!」


 銃声が轟き、鏡が割れる。破片が顔に降り注ぎ、堂島の額を紅い滴が伝わって落ちる。


 これでやったか。一瞬、そう思った堂島だったが、しかし相手は未だ健在だった。


「な……馬鹿な!?」


 いつの間にか、怪物の姿がフロントガラスに移っていた。まさか、ガラスや鏡のようなものであれば、自由自在に行き来ができるのか。その答えを堂島が確かめるよりも早く、彼の耳に今までになく不快な高音が鳴り響いた。



――キィィィン!!



 次の瞬間、両耳を抑えた堂島の首元に、鏡の中から首だけを出した怪物が噛みついていた。


「あ……がぁ……」


 もがき苦しむ堂島の顔が、徐々に生気を失って行く。一滴の血も流していないにも関わらず、明らかに彼の命が吸われているのが見て取れた。


 やがて、堂島が完全に動かなくなってしまうと、怪物はぬるりとガラスの中から滑り出た。いつしかフロントガラスには大きな亀裂が放射状に走り、銃弾でも撃ち込まれたかのような姿に変わっていた。


 流動的な身体をゆらゆらと揺らしながら、怪物は車の外に飛び出した。堂島の遺体や、彼が持っていた金には興味を示さない。ただ、先程のロシアンマフィア達がいた場所まで風のように舞い戻ると、そこに置かれていたアタッシュケースだけを咥えて高々と跳んだ。


 夜の埠頭に、再び静寂が訪れる。打ち捨てられた倉庫の脇に、息をしている者は存在しない。男も女も、堂島やボルチェノフ、そしてナターシャや名も知れぬロシア人達の変わり果てた肉体が、文字通り抜け殻のように転がっているだけだった。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 午前中から降り続いていた雨は、夜にはすっかり止んでいた。


 ホテルの一室から見える眼下の街へ、魁はいつになく鋭い視線を向けている。待ちの灯りは夜の世界を静かに照らしてはいたものの、空を覆うどんよりとした雲は、未だなくなる気配を見せない。


 ふと、誰かが部屋に入って来た感じがして、魁は後ろへ振り返った。見ると、先程まで部屋を出ていた総司郎が、今しがた戻って来たところだった.


「お疲れ様だね、総ちゃん。まゆゆんの様子はどうだった?」


「今は、なんとか落ち着いて寝てるみたいっす。後のことは、マネージャーさん達に任せてあるっすから……」


 そこまで言って、総司郎は重苦しい顔で言葉を切った。


 あの後、病院中を探して回ってみたものの、ついに凍呼の姿を発見することはできなかった。それこそ、副院長の瀬川や看護師の綾子にも頼んで探してもらったが、やはり彼女の姿は病院のどこにも見当たらなかった。


 もしや、彼女は一人で先にホテルまで帰ったのではあるまいか。そんな淡い期待を抱いて病院を後にしたものの、しかし彼女はホテルにもいなかった。結果、戻るや否や大騒ぎになり、警察に捜索願まで出される始末である。


 二流とはいえ、凍呼は腐ってもアイドルだ。そんな人間が、収録と収録の合間に行方不明になればどうなるか。週刊誌に好き勝手なことを書かれるならまだマシな方で、下手をすれば本当に危険な事件に巻き込まれているとも限らない。


「先生……。あの病院でまゆちゃんを助けてくれたのは、先生の式神だったんですよね?」


「まあね。総ちゃんはともかく、最近のまゆゆんは、俺のことを煙たく思ってたようだからさ。何か無茶なことしでかすとは思ってたから、念のため監視を付けさせてもらったんだ」


「やっぱり、先生は流石っす。もし、あそこで先生の式神がいなかったら、今頃はまゆちゃんも……」


 気がつくと、拳に爪が突き刺さっていた。


 凍呼が消えたのも、まゆが危険な目に遭ってしまったのも、全ては自分のせいだ。高い霊感を授かっていながら、自分は院内に潜む魔物の影にまったく気づくことができなかった。日本でも数少ない『幽霊を殴れる人間』でありながら、その力を発揮することなく凍呼を神隠しに遭わせてしまった。


 あの時、霊を舐めていたのは、まゆだけではなかったのだろう。恐らく、自分にもどこかで油断があった。病院に現れるのが少女の霊ということで、他愛もない相手だとばかり思っていた。


「ところで、総ちゃん。落ち込んでるとこ悪いんだけど、総ちゃん達を襲った相手の姿ってやつ、俺にも詳しく教えてくれない?」


「えっ……? は、はい……」


 唐突に尋ねられ、総司郎はしばし言葉に詰まってから返事をした。


 病院で襲われたのは自分ではない。実際に怪物と遭遇したのはまゆであり、彼女の証言しか相手の姿について語れるものはない。


「えっと……まゆちゃんの話だと、怪物は斑模様の犬だか狸みたいな頭をしていて、身体の方は馬みたいだったそうっす」


「なるほどねぇ……。こいつはもしかすると、『モシリシンナイサム』かもしれないな」


「モシリシンナイサム? なんっすか、それ?」


 聞き慣れない言葉に、総司郎は思わず首を傾げて魁に尋ねた。発音からして、明らかに本土の言葉ではない。いや、下手をすれば日本語なのかさえも疑わしい、独特の響きのある言葉だ。


「モシリシンナイサムってのは、ここ、北海道に伝わる怪物さ。古いアイヌの言葉で、モシリは『国』、シンナイは『別の』、サムは『側』って意味なんだよね。こいつらをひっくるめて、『他の世界から来る者』とか、『世界の乱入者』なんて意味で付けられた名前ってわけ。外見的な特徴は、まゆゆんの見たっていう怪物そのままだ。斑模様をした身体をしていて、馬くらいの大きさがあるらしい」


「別の世界から来る者っすか……。要するに、俺達風に言えば、向こう側の世界・・・・・・・の住人ってことっすよね?」


「まあ、そういうことだね。でも、まだ事件の犯人がモシリシンナイサムって決まったわけじゃないぜ。今回の事件……どうも、妙にきな臭い物が漂ってる気がしてならないんだよねぇ……」


 徐にソファーに腰掛けて、魁は口元を隠すように両手を組んでみた。普段の軽薄そうな様子からは考えられない、いつになく真剣な顔をして。


「総ちゃんには言ってなかったけど……実は、あの病院で既に医師の一人が変死してるんだ。身体に外傷の類はまったくなくて、警察もお手上げってところらしい」


「変死って……それじゃ、まさか先生の言ってた怪物が!?」


「おいおい、慌てるなって。そもそも、俺達は最初、『女の子の霊が出る』って話を受けてあの病院に行ったんだぜ? ところが、待っていたのはガキんちょの霊じゃなくて、俺の式神をも黒焦げにするような強力な怪物。おまけに医者の一人は変死してるわ、トーコちゃんは行方不明になるわ……どうにも、腑に落ちない点が多すぎるんだよ」


 いったい、あの病院で何が起きているのか。それが解らないことが、殊更もどかしくて仕方がない。そんな様子で早口にまくし立て、魁はガラステーブルの上に置かれたチョコレートを摘まんで口に放り込んだ。


 北領総合病院の裏で、妙な力を持った存在が動いている。これは、紛れもない事実だろう。だが、それでは何者が事件を引き起こしているのかと聞かれれば、そこがどうにも解らない。


 医師の変死。少女の霊に襲われた看護師と、不可解な行動や言動を繰り返す少女の入院患者。院内をうろつく謎の怪物に、行方不明なった凍呼と、果ては明らかに不気味な影を湛える旧病棟。


 それぞれ、個々に取って考えれば、確かにどれも奇妙な事件、奇妙な存在である。が、しかし、それらがどう繋がるかと訊かれれば、そこで答えに詰まってしまう。それこそ、あの病院は呪われているから不吉なことが起きるのだと。そう言わねば説明が付かないほどに、全ての事件がバラバラだ。


「とりあえず、総ちゃんも今日は寝た方がいいんじゃない? 後は、俺の方でなんとかやっておくからさ」


「なんとかって……先生は、凍呼ちゃんの居場所が判るんっすか!?」


「それを、これから突き止めるところだよ。俺の勘だけど……トーコちゃんは、たぶんまだ死んでないね。本当に怪物に襲われて殺されたなら、もっと判り易く死体が残るはずだろうからさ」


 証拠はない。しかし、あくまで自信に満ちた口調で、魁は総司郎に言ってのける。無論、単なる気休めとしてではなく、ある程度の確証があったからこそだ。


 あの病院で亡くなったのは、今のところ変死した医師、栗木のみだ。彼の遺体が無造作に道端に転がされていたことからして、敵は殺した相手の遺体には興味がないと見て間違いない。遺体の発見現場は国道だったそうなので、わざわざ誰かを攫って暗殺のような真似をするとも考え難い。


 一方、少女の霊に襲われたとされる綾子だが、こちらは生気こそ減っていたものの、殺されるまでには至らなかった。そもそも人間を殺すほどの力を持った霊など一握りの大悪霊しかいないのだが、要は綾子が見たという少女の霊には、それだけの力がなかったと言える。


 凍呼は消えた。しかし、遺体は未だ見つかっていない。ならば、少しでも生きている可能性があるのではないかと。そう思わせてやらなければ、まゆや総司郎の気が滅入ってしまうだろうというのもある。


 だが、それ以上に、今の魁には敵が凍呼を神隠しに遭わせたという事実が許せなかった。


(この、御鶴木魁と繋がりのある女の子……しかもアイドルを攫ってくれるなんて、敵さんもなかなか味な真似をしてくれるね。まあ、いいさ。そっちがそうなら……こっちも本気で全面対決してやろうじゃないか)


 魁の顔が、にやりと歪む。後で泣きついても決して許さない。そう決めた際に見せる顔だ。


 現代を生きる陰陽師。その自分をコケにしたことを後悔させてやろう。心の中でそれだけ紡いで、魁はスッと立ち上がる。部屋の窓を軽く開けたところで、彼の服の袖口から無数の折り鶴が一斉に飛び出した。


「さあ、行きな。あの胡散臭い病院に何があるのか……こうなったら、遠慮なくその正体を暴いてやろうじゃないか」


 夜の風に乗って、窓の隙間から放たれた折り鶴が宙を舞う。それはまるで本当に生きているかのように、二つの翼をはためかせながら夜の街へと消えて行く。


 これでいい。これだけの式神を放って捜索させれば、敵も何らかの動きを見せるはずだ。そのときが、凍呼を神隠しに遭わせてくれた借りを返すときである。


 他人に貸しを作るのは好きではない。良い意味でも、悪い意味でも、それは同じことだった。


 曇天の空の下、北領総合病院へと消えて行く式神達を見送りながら、魁は静かな闘志を燃やしていた。


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