~ 四ノ刻 忌間 ~
病院の入口へ足を踏み入れると、聞こえて来たのは幼い少女の叫び声だった。
「嘘つき! 助けに来てくれるって言ったのに!!」
両目に涙を溜めたまま、パジャマ姿の少女が泣きながら叫んでいる。近くにいた看護師が必死に止めようとしているが、しかし少女は泣き止まない。どれだけ周りの人間が優しく諭そうと、その言葉さえ耳に届いていないようだった。
「な……なに、あれ?」
「さ、さぁ……」
あまりのことに、まゆも凍呼も呆気に取られてしまっていた。総司郎に至っては、なにやら無言のままじっと動かずに少女のことを見つめているだけだ。
「奈津美ちゃん、あまり我侭言わないで。今、病院から逃げ出したら、余計に病気が悪くなっちゃうわよ」
「そんなの関係ないもん! 約束は絶対守らなくちゃいけないんだって……パパもママも言ってたもん!!」
だから、約束を守れない人の話など聞くつもりはない。それだけ言うと、少女は看護師の腕からするりと抜けて、そのまま出口へ向かって走り出した。
「あっ! な、奈津美ちゃん!?」
止めようと思ったが、時既に遅し。女の看護師がなにやら叫んでいたが、伸ばされた手は届かない。
「誰か、あの子を……奈津美ちゃんを止めてください!!」
そう言って、周りに頼むのが精一杯だった。幸い、近くを通りかかっていた男の看護師が、直ぐに気付いて少女を追い掛けた。
「おいおい、何をやっているんだい? あまり、看護師さんを困らせたら……!?」
瞬間、激しい痛みが走り、少女を捕まえた男の看護師は言葉を飲み込んだ。
「離して! 離してよ!」
暴れる少女が男の手を引っ掻き、足を踏み付けて、果てはその腕に激しく噛み付いている。あまりに酷い光景に、凍呼もまゆも、ますます開いた口が塞がらなかった。
世の中には病院が苦手な子もいるだろうし、注射や検診で泣き叫ぶような子もいるだろう。だが、あれはいくらなんでも酷過ぎる。
見たところ、少女は既に小学校にも通っていそうな年齢だ。病気の治療ともあれば、多少は我慢のできる年頃だろうに……あれでは、親の顔が見てみたいと、本気で言葉を失ってしまった。
「あの……ちょっと、いいっすか?」
見兼ねて声を掛けようとしたが、そんな二人よりも先に動いたのは総司郎だった。
一瞬、病院の中が静まり返る。なにしろ、見た目だけであれば総司郎のそれは典型的なヤクザかチンピラだ。アロハシャツとサングラスを身に付けた男がいきなり割って入ってくれば、否応なしに出方を気にしてしまうわけで。
「えっと……。どなたですか?」
怪訝そうな顔で、看護師の男が総司郎に尋ねた。腕を噛みつかれたことも忘れ、警戒の色を崩さない。患者や看護師達の視線が一点に集中していたが、それでも総司郎は引かなかった。
用があるのはそちらではない。そう告げて、そっと腰を落として少女を見る。そして、未だ暴れてやまない彼女の腕を優しく取ると、すかさず開かれた掌から何かを引き抜いた。
「……終わったっす」
目線を合わせ、総司郎は優しく告げる。サングラスの奥に少女を見つめる瞳はなかったが、それでも彼の心は真っ直ぐに、目の前の相手に向けられている。
「あ……ありが……とう……」
いったい、何が起きたのか、少女も直ぐには理解できなかったようだった。ただ、まるで憑き物が落ちたかのように、先程とは打って変わって静かになっていた。
「悪い物に唆されていたっすね。でも、もう大丈夫っすよ。悪い虫は、俺がちゃんと抜いておいたっすからね」
総司郎の大きな手が、少女の頭に重ねられた。全員、その場で起きたことを理解できず、ただ茫然と立ち尽くしている。ただ、当事者である少女と総司郎だけが、お互いに微笑んでいることを除いては。
「ちょっと……。いったい、どんな魔法を使ったのよ」
たまらず、まゆが後ろから声をかけた。そんな彼女の言葉に、総司郎はさも当たり前のようにして軽く返す。
「魔法っすか? いや、別に大したことないっすよ。ちょいと、悪い虫を取ってあげただけっすから」
「悪い虫って……それ、説明になってないわよ」
「そう言われてもっすね……。本当に、虫を取っただけなんっすよ?」
何やら面倒臭そうにして立ち上がり、総司郎は片手で何かを摘まんで見せた。
蛍光灯の灯りに照らされて、なにやら細い紐のようなものが動いているのが見える。透明の、小指くらいの長さがある小さな糸くずだ。
いや、よくよく見ると、果たしてそれは糸くずなどではなかった。青白く、ぼんやりと光ながらも、それは確かに生き物のように身体を左右にくねらせていたのだから。
「げっ、なにこれ!? もしかして、寄生虫とかそういうやつ!?」
「疳の虫っす。人間に取り憑いて、心を乱す低級な妖怪の一種っすけど……まあ、そういう言い方もできるっすね」
「よ、妖怪!?」
「そうっすよ。俺が掴んでるから、今はまゆちゃんにも見えるっすね」
まゆの問いに、総司郎はさらりと流すようにして答えていた。もっとも、話している本人にとっては当たり前のことでも、まゆ達にとっては未知の世界の話である。凍呼に至っては『妖怪』の一言で完全に震え上がり、早くもまゆの後ろに隠れている始末だ。
「こいつに憑かれると、訳もなく気が立って周りに辺り散らすような行動に出るっす。心の中に不安とか不満を抱えてる人で、霊感が強いと憑かれ易いっすね」
「不安や不満……。それじゃ、その子が暴れてたのも、全部その虫のせいだっていうの?」
「まあ、簡単に言えばそういうことっす。ただ、力は大したことねぇっすから……俺みたいなのがこうやって握れば、それで終わりっすけどね」
だから、こうしてしまえば後腐れない。最後にそう紡いで、総司郎は指で摘まんでいた虫をひと思いに握り潰した。
瞬間、総司郎の腕の刺青が薄く輝いたような気がしたが、それは本当に一瞬のことだった。
開かれた大きな手。日焼けした色の黒いそれの中身が開けられると、中にいたはずの虫は綺麗な光の粒となって消えていた。
「これで終わりっすね。まあ、疳の虫なんてやつは、子どもの頃は誰の心にも大なり小なり巣食ってるもんっすから。大人になると、次第に自分で自分をコントロールできるようになって、虫も自然に居心地悪くなって消えてくんっすけど……」
そこまで言って、総司郎は少しばかり言葉を切った。
今の世の中、疳の虫を制御できないのは子どもばかりではない。大人の中にも未だに己の虫を制御する術を知らず、辺り構わず自分勝手な怒りを振り撒く者は後を絶たない。そしてそれは、かつての自分もまた同じことだ。
今でこそ自分は魁の弟子として新たな生き方を見つけているが、それまでは本能の赴くままに、非道な行いに手を出す下衆だった。神仏への尊敬など欠片もなく、当然、他人の尊厳ですら平気で踏み躙って生きて来た。
あの頃の自分は、きっと疳の虫を抑える力を持っていなかったのだろう。霊能者としての才能を持っていたから、知らずの内に巨大な虫を身体に巣食わせてしまっていたのかもしれない。
だが、それでも総司郎は、かつての行いを全て虫のせいにしようとは思わなかった。虫はあくまで、心の中に溜まった不安や不満を怒りに変えて爆発させるだけなのだ。本当に慎まねばならないのは、己の内に秘めた灰色の感情であると。そのことを、今は十分に理解していたのだから。
「あのぅ……弓削さん?」
突然、後ろから声をかけられて、総司郎はハッと我に返り振り向いた。
「あ……すまねぇっす、凍呼ちゃん。ちょっと、ぼうっとしてたっす」
そう言って、申し訳なさそうに頭をかく。昔のことを思い出して、少々感傷的になっていたようだ。
「えっと……そっちの看護師さん、前にも会いましたよね?」
サングラスの位置を直し、総司郎は少女と言い合っていた女の看護師に向かって尋ねた。瞳のない彼には見えなかったが、看護師の胸元にある名札には、黒い文字で『水島』とだけ刻まれていた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
総司郎達が奥の部屋に通されたのは、それから程なくしてのことだった。
病院で幽霊を見たといって、魁に助けを求めて来た水島綾子。先程、少女と言い争っていた看護師は、他でもない彼女だったのだから。
「すいません……。私が頼りないばっかりに、なんだがご迷惑をお掛けしてしまって……」
そういう綾子の表情は、どこか影が射していた。幽霊を見たからではない。もっと他に、彼女の心を縛る何かがある。言葉に出しては言わなかったが、そんな気持ちが見て取れた。
「あ、お構いなく。当然のこと、しただけっすから」
出されたお茶を前に軽く頭を下げ、総司郎は申し訳なさそうにして頭をかいた。
病院の幽霊を探す以上、依頼主であった綾子に接触できたのは大きな収穫だ。もっとも、それで全てが解決すれば、こんなに簡単なことはない。昨日に比べて彼女の気は幾許か回復していたが、代わりに精神的な苦痛が広がっているようにも感じられた。
こんなとき、人の心の状態が判ってしまう力を持っていると、随分と居心地が悪く感じてしまう。心の中を読むことまではできないが、それに近い力なのは変わりない。相手の存在を感じ取ろうと気を読めば、そこから漏れなく相手の放つ様々な空気までが伝わって来てしまうのだ。
「それにしても、驚いたよ。まさか、君みたいな人が奈津美ちゃんの癇癪を止めてくれるなんてね」
男の医師が、なにやら感心した表情を浮かべて総司郎の正面に座った。光を失った総司郎には、男の顔までは判らない。だが、その全身から放たれる気を感じ取ったところで、彼が昨日、病院を訪れた魁を追い払った副院長であることを思い出した。
名前は、確か瀬川とかいったか。あの時は、随分と高圧的な言い草で、こちらを一方的に追い出したものだ。それが今は、まるで昨日のことが嘘のように、しゃあしゃあとこちらに話しかけて来る。
気に入らないな、と総司郎は思った。しかし、昨日のような攻撃的な気は感じられない。ならばここは、しばらく相手の出方を見てやろうかと考えた。
「別に、そこまで凄いことしたわけじゃないっすよ」
とりあえず、謙遜するような態度を取ってみせる。それに気を許したのか、男の発する気が少しだけ柔らかくなった感じがした。
「いや、それでも助かった。実は、僕は彼女の主治医でね。最近、彼女は随分とナーバスになってから……正直、大事に至らなくて本当によかったと思ってる」
「大事って……あの子、そんなに悪いんっすか?」
「そうだね……。癌のように悪性のものじゃないけど、彼女は腎臓が悪くてね。今は移植の順番待ちなんだけど、それまでは透析で我慢してもらうしかないんだよ」
「そうっすか……。辛いっすね、それ」
目の前に綾子からお茶を差し出されたことで、総司郎はしばし言葉を切って湯呑の中のものを口にした。
人工透析の辛さは、総司郎も噂に聞いたことはある。その痛みは体験した者にしか解らないらしく、幼い子どもにとっては地獄のような苦痛だろう。
だが、あの少女、奈津美が疸の虫に憑かれた理由は、果たして透析から来るストレスからだけだろうか。確かに彼女からは霊的な素養を感じたが、それだけではないと総司郎は思っていた。
あのとき、彼女は綾子に向かって「嘘つき!」と叫んでいた。要するに、綾子が奈津美を裏切る何かをしたということだ。
信頼している相手でなければ、あんな言葉はぶつけない。自分の想いを裏切られたからこと、奈津美は綾子に「嘘つき!」と言った。そして、それらのストレスが彼女の持つ霊的な感性と共鳴して、内に潜む疸の虫の力を爆発させてしまったのではあるまいか。
「すいません。ちょっと、訊いてもいいっすか?」
湯呑を置いて、総司郎は綾子に尋ねた。自分に話が振られると思っていなかったのだろう。綾子はしばし目を丸くしていたが、直ぐに怪訝そうな顔をして訊き返して来た。
「はい……。なんでしょうか?」
「あの女の子、奈津美ちゃんとか言ったっすよね? 彼女、なんで綾子さんに『嘘つき』なんて言ったんっすか? 差支えなければ、教えて欲しいっすけど……」
「ああ、あれですか。実は……」
多少、決まりが悪そうにして、綾子はちらりと瀬川の方へ視線を送った。このまま話してよいものか。そんな彼女の心情を悟ってか、瀬川は無言のまま軽く頷いた。
「実は……私が、あの子との約束を破ってしまったからなんです。例の……陰陽師の先生にお願いした、幽霊騒ぎの一件で……」
「幽霊騒ぎっすか? まさか、あの子も綾子さんが俺の先生に言ってた幽霊を見たとか……」
「いえ、そういうわけではないんです。ただ……」
そこから先は、綾子は少しだけ言葉を濁らせて語り出した。
あの日、当直で病院に残っていた自分は、ナースコールを受けて当直室へ帰る途中だった。そして、そこで幽霊と思しき少女に出会い、最後は背中に圧し掛かられる形で気を失った。
思い出すだけでも恐ろしい、深夜の病院での心霊体験。気が付いた時には既に翌朝になっていたが、それが更なる悲劇の引鉄だった。
「私は、奈津美ちゃんと約束していたんです。彼女が怖い夢を見たら、その時は直ぐに駆けつけるって。それなのに……」
実際は、自分の方が酷く恐ろしい体験をして、朝まで廊下で失神することになってしまった。当然、その間はナースコールに出ることさえできず、その日の深夜に彼女を呼んだ、奈津美の声にも応えることができなかったのだ。
「なるほど。それで、奈津美ちゃんは綾子さんのことを嘘つきって言ったっすね」
「はい。それから、ずっとあんな感じで……。今日も、私が検温に行った途端、枕やお見舞いの品や、とにかく辺りにあるものを投げつけて来て酷いんです」
そして、最後はそのままベッドを抜け出し、先程の騒ぎに繋がったらしい。あまり無茶して暴れると身体に障るのだろうが、それだけ奈津美がこの病院にいるのを嫌がっているということか。
治療のためとはいえ、透析は痛い。だが、果たしてそれだけで、奈津美が病院から逃げ出そうとするだろうか。もしかすると、彼女はもっと恐ろしい何かを見て、もしくは直感的に感じ取って、危機から逃げようとしていたのではあるまいか。
(俺の考え過ぎならいいんすけどね。まあ、それにしても……)
再び湯呑に口を付け、残りのお茶を一気に飲み干す。喉下を熱さが過ぎたところで、総司郎は改めて病院の中に漂う奇妙に淀んだ気に神経を集中させた。
この病院は何か変だ。初めて来たときもそうだったが、今日、あの灰色の建物を見て、更に疑念が膨らんでいた。
白い聖域の影に隠れるようにして佇む、墓標のような古びたコンクリートの塊。あれはいったい何なのか。ここはやはり、綾子に訊いてみるしかないだろうか。
「なんか、大変なことになってるっすね、綾子さん。それはそうと、この病院って、裏に何か変なもの建ってるんっすか?」
「変な物? もしかして、旧病棟のことですか?」
「旧病棟?」
「ええ、そうですよ。今、私達がいるのは新病棟。この建物の裏にあるのが旧病棟で、今は使用されていない場所です」
ただし、渡り廊下を伝うことで、こちらから旧病棟に向かうことも可能だ。もっとも、扉は固く封印されてしまっているので、中に入ることはできないが。
そこまで言って、綾子は怪訝そうな視線を総司郎へ向けた。彼女だけでなく、瀬川もまた警戒するような視線を送って来る。瞳で見ることは叶わなかったが、彼らの変化を総司郎は敏感に察知した。
「あ、すまねぇっす。なんか、変なこと聞いてしまったっすね」
とりあえず、適当に頭をかいてごまかしてみせる。幸い、それ以上は何も訊かなかったことで、不要な追及をされることは避けられた。
旧病棟。今は使われなくなった開かずの間。病院に現れる少女の霊との関係は不明だったが、何もないと考えるには、あまりにも不自然過ぎる建物だ。病院から何かに怯えるようにして逃げ出そうとした奈津美といい、幽霊に襲われる体験をした綾子といい、やはりこの病院には何かがある。もっとも、それを口に出せば瀬川から再び疑念の目を向けられ兼ねないので、ここは敢えて黙っておくが。
「それじゃ、俺はこの辺で失礼するっす。先生達もお忙しいでしょうから、邪魔にならないうちに帰らせてもらうっす」
最後に軽く頭を下げて、総司郎はそそくさと部屋を出て行った。本当は綾子に色々と訊きたいこともあったのだが、なにしろ瀬川の手前、あまり妙なことを聞くわけにもいかない。こちらに多少の恩義を感じてはいるのだろうが、それでも未だ警戒しているのも事実なのだから。
藪蛇を突き、調査が難航するのはごめんだ。廊下に響く自分の靴音を聞きながら、総司郎の足は自然と旧病棟へ続く渡り廊下へと伸びていた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
昼の近くなった病室に、無邪気な声が響いていた。
「それでね、それでね……」
声の主は奈津美だった。先ほど、受付で騒いでいたときの空気はどこ吹く風で、今は凍呼やまゆと他愛もない話をして盛り上がっている。
総司郎に、疸の虫を抜かれたからだろうか。いや、恐らくはそれだけが理由ではない。
彼女の寝ているベッドの脇を見ると、そこには色とりどりの千羽鶴が飾られていた。他にも、これは学校の友人から送られた手紙だろうか。可愛らしい封筒や便箋の山が、綺麗に輪ゴムで止められている。
きっと、彼女は寂しかったのだろう。本当は学校で友達と楽しく遊んだり、勉強したり、色々な行事に参加したい年頃のはず。そんな彼女にとって、長きに渡る入院生活は、きっと拷問に近いものだったに違いない。
「ねえ、奈津美ちゃん。ところで……」
適当に話を合わせつつ、まゆは頃合いを見て切り出した。騒ぎが収まったあと、あのまま病室に戻る奈津美に付き添えたのは幸いだった。利用するような形になって申し訳ないとも思ったが、とりあえず病院への潜入には成功したのだから。
「あなた、怖い夢を見たって言ってたわよね? それについて、ちょっと私達にも教えてくれるかしら?」
「えっ!? う、うん……」
「思い出したくなかったら、別に無理して話さなくてもいいわよ。でも、もしかしたら、ちょっとは力になれるかもしれないわ」
そう、口では言ってみるものの、まゆの本心は別のところにあった。
総司郎は言っていた。この子は霊的な感性に優れているから、疸の虫に憑かれたのだと。
霊能力者の世界の常識は、まゆにとっては解らない。ただ、幽霊騒ぎの起きている病院で、霊感がある少女が怖い夢を見たと泣いて騒ぐ。それが単なる偶然ではないと、直感的に思っていた。
「お姉ちゃん達は……」
重たい口を開き、奈津美が恐る恐る語り出した。幼い子どもながらに相手の反応を窺っている。そんな口調だった。
「お姉ちゃん達は、お化けって信じる?」
唐突に話を振られ、まゆは思わずドキリとして息を飲み込んだ。まさか、この子もまた病院に現れる幽霊を見たのだろうか。
「お化け? まあ、一応はね」
とりあえず、話を合わせつつも凍呼の方へと目をやった。やはりというか、お化けという単語が飛び出した時点で、凍呼の顔は青くなっていた。
予想はしていたが、やはり溜息が出てしまう。だが、それが却ってよかったのか、奈津美は自分から進んで色々と話をしてくれた。
夜中になると、自分の部屋を誰かが歩き回っているような感じがするということ。身体を動かそうと思っても動かせず、最後は夢とも現実ともつかない空間の中で、色々な怪物が現れては消えるを繰り返すのだということを。
中でも特に酷いのは、犬とも馬ともつかない奇妙な姿の怪物の話だった。全身はまだら模様で、目ばかりギョロギョロしていて可愛げなどない。足はスラリと細いのに、その頭はタヌキなどを思わせる形をしている。怪物の夢を見るときには、決まってそれが現れる。
「なるほどね……。まあ、確かにそんな夢を毎晩見たら、私だって睡眠不足に……って、ちょっと凍呼! なに、そんなところで一人で丸くなってるのよ!!」
「だ、だってぇ……。奈津美ちゃんの話、怖過ぎですよぉ……。そんな夢みたら、もう一人じゃ寝れないですぅ!!」
「はぁ……。あなたねぇ……奈津美ちゃんは小学生だけど、私達はもう高校生なのよ? 聞いてるこっちが怖がり過ぎたら、それこそ奈津美ちゃんを余計に怖がらせることになるじゃない」
「で、でもぉ……」
そう言いながら、凍呼は涙を浮かべたまま奈津美の方へと目をやった。自分のせいで、必要以上に彼女を怖がらせてしまったか。そう思った凍呼だったが、意外にも奈津美は口元に手を当てて小さく笑っていた。
「奈津美ちゃん?」
「あっ、ごめんなさい。奈津美よりもお姉ちゃんが怖がってるの見たら、なんだか可笑しくなっちゃって……」
だから、もう怖くない。もしかすると、今日はお化けの夢を見ても平気かもしれないと、そう奈津美が告げたところで、凍呼がおずおずとまゆに尋ねた。
「あのぅ……」
なにやら腹の下辺りを押さえ、申し訳なさそうに小声で切り出す。見れば、顔を真っ赤にしつつ、どこか恥じらいを堪えるような視線をこちらに送り。
「ちょっと悪いんですけどぉ……。まゆさん、一緒にお手洗いまで付き合ってくれませんか?」
「はぁ? 一緒にお手洗いって……まさか、さっきの奈津美ちゃんの話が怖過ぎて、一人でトイレにも行けないとか?」
言葉で返す代わりに、凍呼は無言で頷いて答えた。なんというか、臆病者ここに極まれりである。また日の明るい時間だというのに、大の高校生が怪談話を聞いただけで用も一人で足せないとは。
これは、いよいよ重傷だ。本当は奈津美にも色々と聞きたいことがあったし、病院の中を探りたいという思いもあった。が、肝心の相方がこんな状態では、思うように動き回ることさえできやしない。
やはり、荒療治はすべきではなかったか。今更ながら後悔の念が襲って来た。
こうなったら、自分一人でも何か証拠を掴んでやる。その上で、総司郎に病院内を徘徊する幽霊を叩き潰させれば解決だ。そんなことを考えたところで、奈津美が凍呼に優しく告げた。
「いいよ、お姉ちゃん。それじゃ、奈津美が一緒に行ってあげる」
「えっ? ほ、本当ですかぁ!?」
「うん。奈津美も、ちょっとトイレに行きたかったし。案内してあげるから、一緒に行こ?」
ベッドから起き上がり、スリッパを履いた奈津美が凍呼の手を引いた。なんというか、これは本当に情けない。自分より年下の、それも怪談話の当事者に付き添ってもらわねば、一人で化粧室にも行けないとは。
「あぁ、はいはい。それじゃ、二人で行って来なさい。ホント……これじゃ、どっちが助けに来たんだかわかりゃしない」
半ば呆れた様子で凍呼と奈津美を送り出すまゆ。後に、この判断が大きな誤りであったと気付かされようとは、このときは夢にも思っていなかった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
化粧室につくと、そこは静まり返っていた。
この時間、使用する患者もいないのだろうか。人がいないことは不安だったが、それでも奈津美がいると、凍呼は自分に言い聞かせて足を踏み入れた。
学校の化粧室とは違い、病院のそれは随分と綺麗に掃除されている。まあ、当然といえば当然なのだが、それでも怖いものは怖い。古く汚いトイレも不安を煽るが、あまりに綺麗に整い過ぎていると、それはそれで無機的な怖さを感じてしまう。
さすがに、個室の中にまで一緒に来てもらうわけにはいかないだろう。仕方なく近くの戸に手を掛けたところで、何やら奈津美が俯いているのに気が付いた。
「どうしたんですか、奈津美ちゃん? もしかして、どこか痛いんですか?」
「うん……実は……」
トイレに行きたいというのは嘘だった。それだけ言って、奈津美は口を噤んでしまった。
「嘘って……それじゃ、なんで?」
「だって、奈津美が怖い話したせいで、お姉ちゃんがトイレに行けなくなったら悪いなって……そう、思ったから……」
既に奈津美は泣きそうだった。よくよく考えてみれば、自分は看護師の綾子を嘘付き呼ばわりして罵倒したのだ。相手のことを思って嘘を吐いたが、それは果たして本当に正しいことだったのか。子どもながらに、色々と考えてしまったのだろう。
自分は咎められるのではないか。涙に濡れた奈津美の瞳が、何も言わずにそう語っていた。
「し、心配しなくても大丈夫ですよ。奈津美ちゃんが一緒に来てくれたから、私も平気です!」
自分でも信じられないくらい強気な声で、凍呼は奈津美の頭に手を置いて言った。
本当は、まだ少しだけ怖かった。それでも、奈津美の優しさが解ったからこそ、彼女にこれ以上の気を遣わせるわけにはいかないと。
弱気なところは顔に出さない。多少の罪悪感を覚えながらも、凍呼は一人で個室に入る。不安を押し殺して腰を降ろしながら、今の自分のことを改めて考えた。
(うぅ……。こんな小さい子に心配されるようじゃ、まゆさんの言う通り、本当に怖がりを克服しないと駄目かもですぅ……)
自分は怖がりだ。以前はそれをネタにされ、恐怖番組の突撃取材などをやらされていた。廃墟や墓場に何度も仕事で行かされたが、それでも怖がりが治ることはなく、むしろ悪化しているようにさえ感じていた。
だが、それでも、さすがにこのままでいるのは凍呼としても不本意だった。怖がりアイドルとして妙なレッテルを貼られるのも嫌だったが、それ以上に小学生よりも情けない自分の姿が、どうしても我慢できなかった。
自分だって、頑張れば恐怖も克服できるはず。いつまでもお子様気分ではいられない。せめて、お化け屋敷の作り物くらいは、平気になれるよう練習せねば。
そこまで考えたとき、凍呼はふと妙な気配に気が付いた。
「あれ? 奈津美ちゃん……いますかぁ?」
返事がない。扉の向こうには奈津美がいるはずなのに、いつのまにか人の気配が消えている。
「ちょ……奈津美ちゃん!?」
下着を穿き直し、慌てて水を流して個室を出る。化粧室の中を見渡すと、そこには誰の姿もない。
いったい、奈津美はどこに行ったのか。慌てて廊下に飛び出すと、果たしてその先をふらふらと歩く奈津美の姿が目に止まった。
自分の役目を果たしたことに安心して、先に病室へ戻ることにしたのだろうか。だが、それにしては少しおかしい。あの方角は、奈津美の病室とは正反対。それにも関らず、奈津美はどんどん廊下を反対側に進んで行く。
「ま、待って下さいよぉ!!」
次の瞬間には、凍呼は声を上げて奈津美を追い掛けていた。が、奈津美は聞こえていないのか、立ち止まろうとさえしてくれない。
このままでは拙いのではないか。なにが拙いのかと訊かれれば解らないが、とにかく何か嫌な予感がする。
一抹の不安を覚えながら、凍呼は奈津美の後を追った。普通に歩いているだけに思われたが、それにしては奈津美の足は随分と速い。それこそ、病気で苦しんでいる少女のものとは思えないほど、まるで滑るようして廊下の奥へ向かって進んで行く。
それから、どれくらい歩いただろうか。気が付くと、凍呼は病院の中でも随分と人気のない区画に入り込んでいた。
「ここは……」
試しに辺りの病室を覗き込んで見るが、奈津美の姿は見当たらない。いや、奈津美だけでなく、そもそも患者が病室にはいない。
人気のない病院に一人で置かれたことで、途端に不安が増してきた。時刻は昼になろうとしたばかりだったが、夜の病院にも似た不気味さを覚え、凍呼は思わず身震いした。
こんなところまで、奈津美は何をしに来たのだろう。まさかとは思うが、病院内で道に迷い、そのまま見覚えのない場所へ迷い込んでしまったのだろうか。
しんと静まり返った廊下の真ん中で、凍呼は奈津美の姿を探して辺りを見回した。これだけ人がいないのであれば、逆に足音の一つでもすれば気付くはず。そう思って何気なく廊下の端に目をやった瞬間、そこに小さな少女の影が飛び込んで来た。
「な、奈津美ちゃん!?」
それ以上は、残念ながら何も言えなかった。ただ、込み上げる不安から、奈津美を追い掛けて廊下を走った。
誰もいない病室の角を曲がり、更に奥へと進んで行く。灯りの消えた廊下の端まで来たところで、凍呼の目の前に重たい鉄の扉が現れた。
「えっと……これって……」
扉に貼られた『立入禁止』の四文字に、凍呼の足が重たくなる。まさか、奈津美はこの先へ行ったのではあるまいか。逸る気持ちを抑えて扉に手をかけると、果たして軋んだ音を立てて、扉は容易く開け放たれた。
瞬間、外の湿った空気が肌を撫で、凍呼の腕に鳥肌が立った。目の前に広がっているのは、古びた細長い渡り廊下。その先に見えるのは、これまた古い鉄製の扉。
まさか、奈津美はこの先に行ったのだろうか。だとすれば、いったいなぜ。
(やっぱり、まゆさんや弓削さんを呼んだ方がよかったかなぁ……。でも……)
ここで自分が躊躇っている間にも、奈津美が危険な目に遭っているかもしれない。なにしろ、この先はご丁寧に立入禁止と書かれていた場所だ。小さな子どもが好奇心から足を踏み入れてしまったのではと、そう思い凍呼は勇気を振り絞って足を踏み出した。
外は雨が思ったより強く、渡り廊下の中にも平気で入り込んでくる。べったりと貼り付くような雨粒が腕や髪の毛に触れる度に、なんとも言えぬ不快な気持ちにさせられる。
時間にして、僅か一分と経ってはいない。しかし、それでも凍呼には、この渡り廊下を歩く時間が普段の何倍にも長く感じられていた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
病室を抜けた廊下の先で、まゆは凍呼と奈津美の帰りを待っていた。
「おっそいわねぇ……。いったい、どれだけ用足しに時間かけてんのよ!!」
苛立つ気持ちがつい口に出る。しかし、それを言ったところで二人が戻るわけでもない。
そうこうしている間に、なんだか自分も少し催して来た気がする。こうなったら迎えに行ってやるついでとばかり、まゆも部屋を後にした。
(まさか……トイレでビビって、そのまま失神してるんじゃないでしょうね……)
白い壁の続く廊下を歩きながら、まゆはふと、そんなことを考えた。奈津美がいるから大丈夫だとは思うが、しかしあの凍呼のことである。あれこれ下らないことで大騒ぎした挙句、奈津美に迷惑をかけているかもしれないのだから。
程なくして化粧室まで辿り着き、まゆはその中を覗いてみた。
「あれ? 二人とも、いないわね?」
おかしい。個室の扉は全て開け放たれ、中には人のいるような気配もない。場所を間違えたのかと思ったが、この階であの部屋から一番近い化粧室はここだ。わざわざ回り道をして、別の化粧室まで回る理由はない。
いや、もしかすると、彼女達が来たときは個室が全て埋まっていたのではあるまいか。それで、仕方なく別の化粧室に向かったのだと。そう、彼女が考えたときだった。
――――キチ……。
突然、ガラスを引っ掻いたような、耳鳴りにも近い音がした。あまりに一瞬なので空耳かとも思ったが、直ぐにそれが間違いであると気付かされた。
――――キチ……。
今度は、よりはっきりと聞こえた。まるで何かの足音のように、音は徐々にこちらに近づいて。
「えっ……!?」
次の瞬間、まゆは思わず言葉を失い、目の前の光景を茫然と見つめていた。
鏡の中にいる自分の隣、ちょうど肩の位置の辺りに、奇妙な生き物が映り込んでいたのだ。それはどろどろとした流動的な身体を持ち、全身に斑点のような模様が付いている。犬とも狸ともつかない頭を持ちながら、しかし脚は馬のように細い。ぎょろりとした目玉がこちらを睨むようにして、煌々と不気味な光を湛えている。
だが、それにも増して驚いたのは、その不気味な生き物に自分の鞄から飛び出した何かが一直線に向かって行ったことだった。
それは小さな紙で折られた、動物を模った折紙細工。まゆは知らなかったが、あの御鶴木魁の使用する式神の内の一体だった。
いつの間に鞄の中に潜り込んでいたのだろう。その答えを考える暇もなく、折紙細工は青白い光を放ちながら、真っ直ぐ鏡目掛けて飛んで行く。
紙で折られた小さな神が、鏡の中の獣とぶつかり合う。鏡面を通して互いに触れ合ったところで、物凄い閃光と爆発にも似た音がまゆを包み込んだ。
「う……」
気が付くと、辺りは再び静かになっていた。鏡からは、獣の姿は既に消えている。ただ、黒焦げになった紙人形が、力なく煙を上げて転がっているだけであり。
「弓削さんに……知らせないと……」
そう呟くも、目の前で起きたことが未だ整理できなかった。手よ動け、足よ立て。そんな彼女の命令に反し、身体は小刻みに震えて強張るばかりだった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
渡り廊下の向こう側にある扉を開けると、そこには薄暗い廊下が続いていた。
辺りに置かれた様々な道具は、どれも埃を被っている。透明のビニールを被せられた車椅子や、何やら得体の知れない機械。無造作に置かれたそれらの道具を横目に、凍呼は奈津美の姿を探して足を急がせた。
(うぅ……。なんか、物凄く不気味な感じですぅ……。でも、頑張らなくちゃ駄目ですよね。奈津美ちゃんだって、怖いのは一緒ですぅ……)
ぎゅっと手を握り締めて、凍呼は込み上げる恐怖と戦いながら足を進めた。
自分は怖がりだ。それこそ、ほんの少し恐怖譚を聞いただけで、小学生の付き添いがなければ昼のトイレにも一人で行けないほどに。
だが、そんな自分でも譲れないときはある。奈津美がなぜ、自分を置いて行ったのかは解らない。ただ、このまま彼女を放って逃げるのは、それこそ卑怯者のレッテルを貼られるようで嫌だった。
自分は確かに怖がりだが、他人を見捨ててまで逃げ出そうとは思わない。それをやったら、自分は本当に最低の人間に成り下がってしまう。幽霊に出会うのと同じくらい、今の凍呼にとって、それは酷く恐ろしいことに感じられていた。
埃の積もった廊下を進み、突き当たりのところを右に曲がる。窓から差し込む微かな光以外に、頼りになるものなど何もない。
さすがにこれ以上は、身体が震えて進めない。我ながら自分の怖がりが憎々しくなるが、そんな気持ちは目の前に転がっていたスリッパを見つけたことで消え失せた。
「あっ! あれ、もしかして……」
怖いのも忘れ、慌てて駆け出しスリッパを拾う。見ると、随分と新しいスリッパで、おまけに少しだけ温かい。
間違いない。これは奈津美が履いていたものだ。彼女はまだ、この薄暗く使われていない病棟のどこかにいる。
――――クス、クス、クス……。
瞬間、どこかで笑う声がしたと共に、凍呼の背中に戦慄が走った。
「ちょっ……! 奈津美ちゃん、やめて下さい! 変な悪戯すると、私も怒りますよぉ!!」
――――クス、クス、クス、クス……。
返事はない。代わりに聞こえてきたのは、先程と同じ笑い声。
「あ……あぁ……」
掠れた声が、凍呼の口から溢れ出た。奈津美を探そうと決意したときの勇気は、早くも音を立てて崩れ去っていた。
ここは来てはいけない場所だった。そう思っていた矢先、ズシリと背中が重くなった。
身体が重い。金縛りに遭ったようにまったく動かず、背中がどんどん冷たくなって行く。
「……ひっ!?」
いつの間にか、凍呼の首筋に青白い腕が伸びていた。これは何だ。解りたくない。解ってはいけない。そう思っているにも関わらず、視線は次第に後ろを向いて……。
「い、いやぁぁぁぁっ!!」
目の前に現れた埴輪の顔。総司郎と同じように、ぽっかりと黒い穴だけが開いている不気味な目をした少女の頭が、目と鼻の先に置かれていた。
一見して同じように見える顔でも、凍呼は目の前の顔に恐怖しか覚えなかった。総司郎の持っていた温かさは、少女の中には感じられない。ただ、ぞっとするほど冷たく重たい空間だけが、穴の中に広がっているだけだったのだから。
だんだんと目の前がぼやけてきた。意識が薄れ、世界が回る。今は使われなくなった薄暗い廊下の真ん中で、凍呼は力なく倒れ伏し。
(あ……誰……ですかぁ……?)
消え行く意識の中で、凍呼は最後に廊下を歩く誰かの足音を聞いていた。が、その主を確かめる術もなく、彼女の心は泥濘の闇の中に沈んで行った。