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~ 参ノ刻   密会 ~

 夜の深まった時刻になると、ホテルのロビーは恐ろしいほどに静かだった。


「えっと……。コーヒーでいいですか?」


 多少、遠慮がちになりながらも、凍呼は備え付けの自販機にあるボタンに指を伸ばして総司郎に尋ねていた。まゆは一足先に部屋へ帰り、今は総司郎と二人だけだ。


「あっ、気ぃ使わなくって構わないっす。ジュースでも、お茶でも、適当に……」


 近くの椅子に腰掛けたまま、総司郎が軽く頭をかいた。見かけによらず、妙に下手に出るのは相変わらずだ。一見してチンピラにしか見えないような風体だが、中身は驚くほどに馬鹿丁寧。いや、下っ端気質とでもいうべきか。凍呼のような少女相手でも、それは何ら変わらない。


 取り出し口からコーヒーの缶を二つ取り出して、凍呼はその一方を総司郎に手渡した。目が見えないはずだが、そこは手慣れているからだろうか。彼は実に自然な動作で受け取ると、簡単にプルトップを開けて缶の中身を口にした。


「あのぉ……さっきは、すいませんでした。まゆさん、なんだか随分と熱くなっちゃったみたいで……」


「ああ、あれっすか? いや、別に気にしなくっていいっすよ。俺の先生は、色々と誤解されやすい人っすから」


 コーヒーを飲む手を軽く休め、総司郎はさも当然のように言ってのける。自分の恩師が罵倒された後だというのに、随分と平然としたものだと凍呼は思った。


 大人の対応というやつだろうか。いや、違う。我慢しているというよりも、まったく気にしていないという方が正しいのだろう。総司郎にとって、魁はこの世でたった一人の尊敬する恩師。だからこそ、あの程度のことを言われたぐらいでは、何ら揺るがないといったところか。


「弓削さんは……御鶴木先生のことを、信頼されているんですね」


「ん……まあ、そうっすね。それに……」


 再びコーヒーを口にし、総司郎は言葉を切る。テーブルの上に缶を置くと、既に缶は空だった。


「先生、ああ見えても優しい人っすから」


「優しい、ですかぁ? なんだか、ちょっと意外な感じもしますけどぉ……」


「まあ、普通はそうっすよね。」


 そう言って、柄にもなく軽く微笑んで見せた。不器用な笑顔だったが、不思議と凍呼は違和感を覚えることをしなかった。


 総司郎は魁に絶対の信頼を置いている。そんな彼が言うのだから、その言葉もまた嘘偽りでないのだろう。いくら総司郎が魁の弟子とはいえ、彼は器用に嘘やお世辞を言えるような人間ではない。今までの付き合いの中で、凍呼もそれは知っていた。


 以前、東京で起きた恐るべき心霊事件。怪奇番組のレギュラーを務めた結果として、巨大な蛇の霊に祟られてしまった際、それを祓ってくれたのが、他でもない魁と総司郎だったのだから。


 自分は怖い話が嫌いだ。それは今でも変わらない。が、しかし、以前は霊能力者のような存在そのものを避けていたが、今では少し考えも変わった。少なくとも、総司郎を避けようとは思わない。彼の中にある力が妖怪や幽霊の類に関係するものであったとしても、それが彼を避ける理由にはならないと。そう、考えるようになっていた。


「先生は……」


 突然、思い出したようにして総司郎が口を開いた。


「先生は……俺の恩人なんっすよ。先生がいなかったら……俺なんて、きっとその辺で野垂れ死んでたんだろうなって思うっす」


 そう言って、総司郎はスッとサングラスを外して見せた。その奥から覗いた二つの穴。瞳があるべき場所にあったのは、吸い込まれそうなほどに真っ黒な深い闇。


 総司郎は目が見えない。いや、見えないというよりは、見るための器官を持っていない。


 凍呼も話には聞いていたが、こうして実物を見せられると、やはりショックを隠せなかった。が、それでも、ここで憐れみの情を見せては、それは即ち彼への非礼に値すると。だからこそ、敢えて何も言わずに言葉を飲み込んだ。


「俺、元は田舎で族やってたっす。毎日、毎日、意味もなくバイクをかっ飛ばしたり、気に入らねぇやつがいたらボコボコにしたり……」


 それこそ、場合によっては病院送りにすることも当たり前。傷害事件で少年院に放り込まれ、あわや殺人事件を引き起こす一歩手前まで行ったこともある。警察とも何度もやり合ったし、仲間の何人かは地元のヤクザ者に誘われる形で、裏の世界へと消えて行った。


 自分は最低の人間だ。唖然とした顔で聞いている凍呼に、総司郎は構わず話を続けた。何故、こんなことを懺悔しようと思ったのか。その理由を教えるよりも先に、気が付くと別の言葉が口から零れていた。


「あの頃の俺は、本当に人間の屑みたいなやつだったっすね。だから、たぶんバチが当たったっす。肝試しとかいって、仲間と一緒に幽霊の出るトンネルに行って……そこで、盛大に事故ったんっすよ」


 フッと乾いた笑みを浮かべ、自嘲するようにして総司郎は告げた。普段の彼が見せることのない、どこか影を帯びた口調だった。


 あの日、仲間と一緒に肝試しに行ったトンネルで、総司郎達は例の如く好き勝手に暴れ回り、破壊した。それこそ、辺り構わずスプレー缶で落書きするのは当然のこと。最後はトンネルの脇にある慰霊碑のようなものを横倒しにし、供えられた花を踏み付けて高笑いしながら帰ったのだ。


 今の総司郎からすれば、考えられないような暴挙だった。そして、そんな行為が魔を招いたのだろうか。帰り道、峠のカーブを曲がるところで、彼らは盛大な事故に遭った。突然、バイクや車のブレーキが利かなくなり、最後はガードレールをブチ抜いて崖から豪快に転落した。


「酷ぇ事故だったっすよ、あれは……。車に乗ってた連中は、全員即死だったっす。俺の他にもバイクに乗ってた連中はいたっすけど……たぶん、打ち所が悪かったっすね。病院に運ばれる途中で、全員が命を落としたっす……」


 結局のところ、助かったのは総司郎だけだった。が、彼とて何の代償もなく、五体満足な身体で助かったわけではない。


 崖から転落した際、総司郎の目には鋭い木の枝が突き刺さっていた。眼球を真っ直ぐに貫いたそれは、もう少しで脳髄まで達する程に酷いものだったという。


 一命を取り留める代わりに永遠に光を失うこと。それが、総司郎に与えられた罰だった。仲間を全て失って、二度と再びバイクを走らせることさえできず、死ぬまで暗闇の世界で生き続けねばならない。


 はっきりいって、死んだ方がマシだった。いや、実際、何度死のうと思ったか判らない。そんな時に現れたのが、他でもない御鶴木魁だった。


「先生は、俺達が壊したトンネルの慰霊碑の供養をしに来たっす。ただ……俺の中にも拙いのが憑いてたっすね。だから、供養のためにはそいつも祓わないと駄目とかで……結局、俺のことを無料で除霊してくれたっす」


 最後の方は、随分と強調するような口調で話していた。そんな総司郎の言葉を聞いて、さすがの凍呼もこれには驚きを隠せなかった。


 あの、守銭奴の様な御鶴木魁が、無料で総司郎を除霊する。にわかには信じ難い話だが、しかし事実は事実なのだろう。総司郎の顔に瞳はなかったが、二つの黒い穴の奥を覗き込んでみると、彼が嘘を吐いているようには見えなかった。


「それから俺は、先生のところで修業させてもらったっす。先生も、俺には力があるとかで……今じゃ霊感使って、人とか物なんかの位置や場所くらいは、なんとなく感じ取れるようになったっす」


 ロビーに人が来たことで、総司郎は慌ててサングラスを掛け直して凍呼に言った。普段から人前でサングラスを外さないようにしているのは、彼なりに周囲に気を使ってのことだった。


 自分のこんな姿を見た者は、必ず二回ほど驚き叫ぶ。まずは、サングラスを外す前の姿。チンピラのような格好に恐れ慄き、次いで瞳のない顔を見て息を飲む。


 光を失った総司郎が、相手の顔色まで知ることはない。だが、代わりに彼の中に眠る霊的な感性は、他人の感情を人一倍敏感に感じ取る。相手がこちらをどう思っているか、それが空気のようなものを通して、些細な変化まで判ってしまう。


 魁による修業で人並の暮らしは手に入れたが、それでも己に課された罰は変わらない。苦しさの形が変わっただけだと思っていたが、総司郎は魁を逆恨みするようなことはしなかった。


「先生は、よく俺のことを兵隊って言うんすよ。お前が役に立ちそうだから、俺の側に置いているだけだって……。でも、本当は違うっす」


「違うって……何がですかぁ?」


「先生ぐらいの力があれば、俺なんて本当は要らないっすよ。戦うのが面倒臭いとか言ってるっすけど、本気になれば、扇一枚で悪霊を跳ね飛ばすだけの力はあるっす」


 だが、それにも関わらず、魁は総司郎を弟子として引き取った。そこに彼なりの優しさがあると、総司郎はそう信じて疑わなかった。


 きっかけは、単なる気まぐれだったのかもしれない。ただ、類稀なる霊感を持ったチンピラに、失った視力の代わりになる力を与えたらどうなるか。そんな興味本位から、総司郎を助けたのかもしれない。


 もっとも、仮にそうであったとしても、総司郎の考えは変わらない。


 魁の下で修業を積むことで、かつての腐った自分と別れを告げた。それができただけでも、魁は自分にとっての恩人だ。何の取り柄もなかったヤサグレに、新しい生き方を示してくれた。それだけで、総司郎にとっては十分過ぎる程のことだったのだから。


「これで、解ってくれたっすよね。先生は、本当は優しい人なんっすよ。だから、まゆちゃんに何を言われても、こっちは全然気にしないっす。凍呼ちゃんも、あまり気ぃ使わなくっていいっすよ」


「はい、解りました。でもぉ……最後に、一つだけ訊いていいいですかぁ?」


 今まで黙っていた口を開き、凍呼は軽くコーヒーを飲んで息を吐いた。完全にぬるくなっていたが、あまり気にはならなかった。


「弓削さんは、どうして私にそんなこと話す気になったんですかぁ? 御鶴木先生の誤解を解くためだったら、まゆさんに直接話せばいいと思いますけどぉ……」


 そう言って、軽く小首を傾げてみせる。そんな凍呼の姿を見て、総司郎は小さく苦笑した。


「決まってるっすよ、それは。凍呼ちゃんが、先生と同じように優しい人だって思ったからっす。だから、本当の先生の姿を話しても解ってもらえるだろうって……そう思っただけっす」


「御鶴木先生と……同じ?」


「そうっすよ。俺の顔、目玉がなくて凄ぇ薄気味悪いと思うっすけど……これを見て怖がらなかったの、先生の他には凍呼ちゃんだけなんっすよ。だから、最後まで話したっす。俺が、昔どんな人間だったのかも、先生がどんな人なのかも……」


「弓削さん……」


 それから先は、凍呼も言葉が出なかった。


 自分でも意外だったが、凍呼は総司郎の顔を見ても恐れることはしなかった。いや、恐れることさえ忘れていたといった方が正しいか。


 目玉のない、大きな二つの穴だけが開いた顔。しかし、怖い話が苦手な凍呼でも、何故か総司郎のことは平気だった。彼の顔に目玉があろうとなかろうと、そんなことは彼を知る上で重要なことではないと。あの黒い穴を見た瞬間に、自然とそんな気持ちが生まれていた。


 最初、総司郎がサングラスを外したのは、こちらの出方を窺う意味もあったのだろう。そして、凍呼は彼の姿を見ても驚かなかった。だからこそ、総司郎も最後まで語ってくれたのかもしれない。人を外見で判断しない人間として、凍呼を捉えてくれたのかもしれなかった。


「解りましたぁ……。それと……明日のことなんですけどぉ……私もまゆさんと一緒に、病院へ行くことになってしまってぇ……」


「えっ!? いや、無理する必要ないっすよ! 凍呼ちゃん……確か、怖いの苦手なんじゃ……!?」


「はぃ……。少しは慣れないと困るとか、弓削さんがいれば大丈夫だとか、色々言われて押し切られちゃいましてぇ……。でもぉ……」


 途中、急に恥ずかしそうに視線を背け、凍呼はしばし言葉を切った。目の無い総司郎は、凍呼の視線など判るはずもない。そんなことさえも、完全に頭の中から抜けていた。


「弓削さんがいれば……前みたいに、私を守ってくれますよねぇ……」


 最後の方は、少しだけ涙が滲んでいた。


 以前、総司郎は凍呼を蛇の霊から救ったことがある。もっとも、悪霊に止めを刺したのは自分だが、ほとんどは魁が解決したようなものだ。自分はあくまで手伝いをしたに過ぎなかったのだが、以来、どうにも凍呼は総司郎のことをヒーローか何かと勘違いしている節があるようだった。


「まあ、凍呼ちゃんがそこまで言うならいいっすけど……。その代わり、怖くなったら直ぐに帰った方がいいっすよ。俺が戦うところなんて見たら、それこそ悪い夢見るかもしれないっすからね」


 自嘲気味な笑みと共に、総司郎はアロハシャツからはみ出た腕を軽く撫でて見せた。実際には、そもそも戦いになるかさえ判らない。だが、それでも念には念を押し、怯える凍呼を少しでも気遣うようにして。


 両腕に刻まれた複雑な刺青。身体に直接掘り込まれた様々な梵字が、微かに赤く輝いて見えた。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 場末にあるその店は、普段から客足が少なかった。


 北の酒場通りには、昔ながらの店が今もなお残る場所がある。そういった店を穴場として通う常連客達がいるのも事実だが、その店は大衆向けの居酒屋とも違っていた。


 薄暗い店内には、何やら怪しげな雰囲気の洋楽が流れている。客は皆、高級そうなスーツを身にまとい、横には煌びやかな衣装を着た女達を侍らせている。


 銀座や赤坂、それに六本木辺りには、こうした店もあるだろうか。だが、ここは北海道。眠らない街として有名な、東京の歓楽街などでは決してない。


 よくよく見ると、店内にいる客の中には、数人の外国人が紛れているようだった。いや、客ばかりではない。店の女達の何人かもまた、明らかに日本人離れした目と髪の色をしている。東南アジア系ではなく、明らかにスラブ系の白人の血を引いている。


 裏の世界に少しでも詳しい者が見れば、この店が犯罪者達の巣窟であることに気付いただろう。


 北海道には、ロシアンマフィアと取引をする暴力団が存在する。彼らが落ち合うのは裏路地ではなく、こうした高級クラブとなるのが通例だ。


 彼らとの取引は、決して通りすがりのものではない。あくまでビジネスとして対等に話を持ちかけて来る辺り、アラブ人や中国人にはない恐ろしさを秘めている。何かあれば国内に高跳びする彼らとは違い、ロシアンマフィアはそもそも尻尾を掴ませない。それこそ、冷戦時代のKGBよろしく、表に顔を出さずに水面下で事を運ぶことに長けているのだから。


「ところで……例の件、少し手違いがあったようだな、ドウジマ?」


 葉巻から立ち昇る紫煙を曇らせながら、客の一人が唐突に尋ねた。目の色からして、明らかに日本人とは思えなかった。


 身の丈は、立ち上がれば裕に180cmは越えるだろうか。黒いスーツを着ていたが、その上からでも屈強な肉体の持ち主であることが良く判る。眼光は鋭く、頭には一本の毛髪もない。冗談抜きで、洋画の世界から飛び出して来た殺し屋のような男だ。


 対して、そんな彼の前にいるのは、これまた黒いスーツに身を包んだ男だった。もっとも、こちらは純粋な日本人なのか、髪の色も肌の色も典型的なアジア人のそれだったが。


「まあ、そう慌てるな、ボルチェノフさんよ。ルートの一つが潰れたところで、別のルートくらいは既に確保しているさ」


 そう言って、日本人の男は不敵な笑みを浮かべて見せた。殺し屋のような男が相手でも怯まない。額に大きく付けられた傷が、男が並の修羅場をくぐって来たわけではないことを物語る。


 堂島悟どうじまさとる。日本の広域暴力団に詳しい者であれば、あるいはこの近辺に縄張りを持つ裏稼業の人間であれば、彼の名を知っている者もいたかもしれない。


 堂島は、北総連合会ほくそうれんごうかいと呼ばれる広域暴力団に所属する人間の一人だった。一昔前であれば、この界隈でその名を聞いて、道を譲らない極道はいないとまで言われた団体である。


 サラ金や地上げ、風俗店の経営は当たり前。更には拳銃や麻薬の密輸入にまで手を伸ばし、一大勢力を誇った時期もあったという。


 だが、そんな北総連合会であったものの、今は随分と牙を抜かれてしまった。暴力団を取り締まる法律は年々厳しくなって行き、今までのように大出を振って裏の仕事ができなくなったのが原因だ。


 ヤクザ者に対する世間の目が、なによりも警察の取り締まりが厳しくなったことで、数ある広域暴力団は次々に力を失っていった。北総連合会も例外ではなく、今では堂島を中心とした数人の幹部がロシア人相手に車の密輸入で稼ぐ程度になっている。


「そちらの問題には興味がない。余所との諍いに巻き込まれなければ、それで構わない。ただ……」


 青眼の巨漢、ボルチェノフと呼ばれた男が葉巻を灰皿に置いた。凄みのある眼光が堂島を射抜く。


「警察に嗅ぎつけられたのであれば、話は別だぞ」


「それは心配ない。気を付けるべきは、むしろ県警より麻取まとりの方だろうが……奴らもまだ、例のブツの存在は掴んではいないからな」


「そうか……。しかし、私の方ではそちらの抱えていたバイヤーが殺られたという話を聞いている。何か、色々と裏できな臭いものが動いているのではないか? それこそ、こちらにも言えぬような……」


「問題ない。それに、殺られたのではなく、あくまで不慮の事故だ。そうでなければ、こうも簡単に取引を継続などできるはずもない。そうだろう?」


 絶対なる自信。何ら揺らぎのない姿勢を見せつけるようにして、堂島はボルチェノフの視線を跳ね退けた。


 これはビジネスだ。だからこそ、先に隙を見せた方が負ける。裏も表も関係ない。常に対等な関係でいなければ、その時点で食い物にされる。


 弱肉強食とは、よくいったものだ。互いに相手の腹を探り合い、少しでも自分に有利になるよう画策する。表の世界で投資家や実業家達がやることも、裏の世界でヤクザ者がやることも、本質的には変わらない。


「解った。だが、念のため取引場所と時刻を変更させてもらう。場所が決まれば、私の方から連絡する」


「そちらが望むなら、俺の方は何処でも構わないがな。ただし、連絡の際は足が付かない方法で頼むぞ」


「明日の晩、ナターシャを使いに出す。それが合図の代わりだ」


 再び葉巻を咥え、ボルチェノフが白い煙を吐き出して言った。


 こちらを完全に信用していないのか。が、しかし、それも仕方のないことだろう。


 北の地に潜むロシアンマフィアは彼だけでない。祖国で所属している組織が違えば、敵対関係にある者達がいるのも当然だ。中には異国の裏社会で、人知れず抗争を続けている者達もいると聞く。


 相手の全てが信用できない以上、どこで誰がどう繋がっているかも解らない。使いの女を出させるというボルチェノフの態度は、異国の地で取引をするマフィアとしては実に自然なものだった。


 店内に流れる音楽が変わったところで、堂島はひとしきりの話を終えた。新しく酒を頼もうとした矢先、ポケットの中で携帯電話が震えているのに気が付いた。


「どうした?」


「いや……噂をすれば、例のブツを扱ってるやつからだ。悪いが、少し席を外させてもらうぞ」


「新しいバイヤーか? くれぐれも、警察の動きには……」


「ああ、解っている。だが、心配するな。今のやつは、県警も麻取もノーマークな男だ」


 それだけ言って、堂島は音もなく席を立つ。電話の主がバイヤーでないことは、敢えてボルチェノフには教えなかった。


 まあ、それでも嘘を吐いたわけではない。電話の相手はバイヤーではなかったが、ボルチェノフに売り付けるブツを扱っている者であることに変わりはない。そして、その男が県警や麻取に目を付けられていないことも、揺るぎようのない事実だったのだから。


(さて……。この取引が上手くいけば、俺にもツキが回ってくるだろうな。そうすれば……)


 そのときこそが、北総連合会が再び力を取り戻すときだ。警察により骨抜きにされた組織を立て直し、かつての威光を取り戻すときだ。


 他の客と女達が談笑する姿を横目に、堂島は確かな手応えのようなものを感じていた。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 翌日は、運の悪いことに雨だった。


 窓ガラスを伝わる水滴を、魁はうんざりした様子で眺めながらコーヒーを口に運んでいた。


 こういう日は、どうにもやる気が失せてしまう。だが、それでも約束は約束だ。昨日、香取から喫茶店で聞かされた変死事件。その遺体を調べるという話になっていたのだから。


「それじゃ、俺はちょいと行ってくるよ。総ちゃんは、トーコちゃんやまゆゆんと一緒にランチでも食べててね」


 そう言いながら、懐から何かを取り出し投げる。総司郎の足下に、万札で折られた鶴がはらりと落ちる。


「先生……。お気をつけて」


 後ろから総司郎の心配するような声がした。魁はそれに軽く頷いて答えると、そのままホテルを後にした。


 仕事の詳細は、総司郎には告げていない。ただ、出掛けるとだけ告げたことで、却って余計な気を遣わせてしまったか。そんなことも考えてはみたが、直ぐに気を取り直して歩き出した。


 今は余計なことを考えている暇はない。それに、総司郎の話では、あの篠原まゆが何やらよからぬことを企んでいるようだ。なんでも、総司郎を抱き込んで例の病院の再調査に向かうとのことだが……まあ、正直なところ、期待は何もしていない。


 自分と違い、彼女は何の力も持たない一般人だ。いや、力だけでなく知識もない。そんな彼女が出向いたところで、あの病院にある何を掴めるというのだろう。仮に総司郎の力を借りたとしても、そもそもお目当ての幽霊を見つけ出す手段さえないのだから。


(やれやれ……。まったく、お笑い草だね)


 思わず軽い溜息が零れる。だが、確かに気になるのも事実ではある。


 例の変死事件で亡くなった男は、あの北領総合病院に勤める医師だった。では、その医師と病院で目撃された幽霊とに何らかの関係があると思ってしまうのは、これは考え過ぎだろうか。


 確証はない。しかし、きな臭いものが動いている空気も拭い去れない。ならば、こちらも最大限の保険を掛けさせてもらおうか。


 自動ドアが閉じかけた瞬間、魁は小さな紙人形を放って投げた。兎か、それとも狼か。純白の紙で折られた小さな獣は、そのまま扉の隙間を縫って、スルリとホテルの中に消えて行った。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 午前中の仕事を終えたところで、凍呼とまゆは総司郎と共に北領総合病院へと向かっていた。


 今日の仕事は朝のレポート番組の生放送取材。外は生憎の雨だったが、天井付きのショッピング街を巡りながらの報道は、なかなかどうして楽しめた。


「さて、着いたわね。それじゃ、今日のお仕事、第二ラウンドよ」


「ここが……その病院なんですかぁ……?」


 タクシーから降りるや否や、まゆは腕をまくって病院を見上げるまゆ。凍呼は凍呼で、不安そうに建物を見上げている。曇天の空にそびえ立つ白塗りの壁。普段であれば清らかで優しい印象を与えるそれが、今日に限って不気味な牢獄のように思えて仕方がない。


「なに、いきなり怖がってるのよ。こんな時間なんだし、まだ何も出やしないわよ」


 震える凍呼を余所に、まゆが呆れた表情のまま言った。だが、そんな彼女の気持ちなどお構いなしに、凍呼は総司郎の服の袖を掴んで震えていた。


「そ、そんなこと言ったってぇ……」


「別に、廃病院に潜入しようってわけじゃないんだからね。それに、あなたって前は恐怖番組の突撃取材とかやってたんでしょ? それに比べれば、こんなの可愛いものじゃない」


「それはぁ……確かに、そうですけどぉ……」


 そこまで言って、凍呼は少しだけ視線を下に向けた。両目に涙を溜めて、総司郎の後ろに隠れている。


 ここから先は、何が待っているか判らない。ならば、せめて頼りになる人間の側を離れたくないと。そう考えてのことなのだろうが、まゆは思わず頭を抱えて溜息を吐いた。


 凍呼の異様な怖がりは、今に始まったことではない。しかも、妙に神経質な性格なのか、ちょっとした物音でも直ぐに反応する。


 例えば、夜に突然部屋で何かが軋んだような音がしただけで、震えながらこちらを叩き起こしてくる。相部屋故に隣同士で寝ているのだが、それだけでは不安なのかベッドの中にまで潜り込んでくる。


 凍呼いわく、自分の家にいるときは平気なのだが、見知らぬ場所だとどうにも緊張してしまうとのことである。が、いくらなんでもこれは酷い。実際、あのホテルには何の問題もなく、全ては凍呼の思い込みだろうとまゆは思う。


「大丈夫っすよ、凍呼ちゃん。もし、幽霊が凍呼ちゃんの前に現れても、そのときは俺がぶっ飛ばしてやるっすから」


 服の裾を掴んだままの凍呼の頭に、総司郎が優しく手を乗せていた。温かく大きな手が凍呼の頭を撫でる。それに少しばかり落ち着いたのか、ホッと息を吐いて裾を離した。


「それじゃ、早速乗り込むわよ。まあ、こんな真っ昼間じゃ、幽霊も寝ているかもしれないけどね」


「うぅ……。できれば、そっちの方が助かりますぅ……」


 俄然、やる気になっているまゆとは違い、凍呼は最後まで腰が引けている。昼間とはいえ、もしも幽霊が目の前に現れたら。それを考えると、色々と想像してしまい仕方がないのだ。


 できることなら、自分は受付で待たせてもらえないものか。そう、凍呼が思った瞬間、彼女の視線に妙な色の建物が飛び込んで来た。


(あれ……?)


 思わず首を傾げて足を止める。白塗りの病院の更に奥、ちょうど影になるような場所に、灰色の壁の建物が建っている。


「あのぅ……まゆさん?」


「なによ? どうしても駄目っていうなら、受付で待ってる?」


「いえ……そうじゃないんですけどぉ……」


 そう言って、凍呼は再び奥の建物を見やり指差した。怪訝そうな顔をして指された方へと顔を向けると、果たしてそこには古ぼけたコンクリートの建物の姿があった。


「なに……あれ……」


 建物を見た瞬間、まゆは思わず後ろに下がって言葉を飲んだ。何か物凄く嫌なものが、身体の中を走ったような感じがする。自分には何の力もないはずなのに、この違和感と胸騒ぎはなんだろう。


「嫌な感じの建物っすね……。気が……淀んでるっすよ……」


 珍しく、総司郎の声も重たくなっている。普段の腰の低い様子は既にない。拳を強く握り締め、まるで巨大な敵を前にして身構えるような感じになっていた。


 以前、この病院に来たときに感じた妙な違和感。人の生死を分ける場所だけに、浮遊霊の類が多いからだと思っていたが……どうやら、考えを改めねばならないようだ。


 もしかすると、一連の幽霊騒動の原因は、あの建物にあるのではないか。そう、誰ともなしに思った矢先に、風が近くの木をザワザワと揺らした。


「きゃっ!?」


 突然、カラスの群れが鳴き声を上げて飛び立ったところで、凍呼が総司郎にしがみついた。いつしか雨は随分と弱まり、肌に張り付くような霧雨へと変わっていた。


 べたつく雨が、カラスの声が、否応なしに不安を煽る。白き巨塔の影に建つ灰色の建物。コンクリートの無機質な塊が、まゆや凍呼には巨大な墓標のように感じられた。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 窓ガラスに貼り付く霧雨を眺めながら、魁はホテルの近くにあるレストランで遅めの昼食を摂っていた。


 もっとも、昼食といっても紅茶と軽食だけの簡単なものだ。普段の彼の食生活からは、およそ想像できないほどに質素なメニュー。


 だが、それも仕方ないことである。今日は朝から公安の香取に頼まれて、例の死体を調べる仕事をしていたのだから。


(まったく……。あんな部屋で毎日死体と格闘してるなんて、随分と物好きな連中もいたもんだよ)


 周りの客の目を気にしてか、思ったことを声に出すことはしない。が、やはり死体置場の空気を嗅いだ後では、どうしても食欲が失せてしまう。


 自分の仕事は陰陽師。向こう側の世界・・・・・・・に通じる力を持ってはいるが、しかし死体の臭いが好きかと訊かれれば答えは否だ。むしろ、死体特有の穢れを全身で感じ取ってしまい、常人よりも気分が悪くなることもザラである。


 これが幽霊ならば、霊的な感性を使って一種のバリアを張ることもできる。だが、死体は駄目だ。それも、なにやら悲惨な死に方をした挙句、死後数日経過したような死体は特に駄目だ。


 悪霊が陰の気の集合体であるとすれば、非業の死を遂げた死体は正に穢れの塊だった。亡くなった者には申し訳ないが、実際にそうなのだから仕方がない。躯の放つ独特の淀んだ気は、それだけでこちらの力を奪い、神経を逆撫でする何かがある。


 本当であれば、今すぐにでもホテルに帰ってシャワーを浴びたいところだった。近くに清流があるならば、躊躇わずに飛び込んで禊をしたことだろう。かつて、冥府下りをしたイザナギ神が、現世に戻ってからそうしたように。


(それにしても……あの死体、どうにも気に入らなかったね)


 そっとカップを置いて、魁はしばし考えた。食欲は完全に失せている。しかし、別に死体の穢れが気に入らなかったというだけではない。


 香取の話にあった通り、死体には何の外傷もなかった。毒物反応も、ましてや既往症の跡もない。ならば霊的な存在によって殺されたのかと思ったが、そもそも証拠らしいものは何も見つけることはできなかった。


 これが仮に呪いの類であったならば、肉体を腐らせた呪詛の片鱗を見つけることができたかもしれない。もしくは悪霊の類に魅入られたものであったならば、肉体の異様な変貌や、果ては体重の異常な減少といった形で現れていたかもしれない。


 だが、香取に見せられた男の死体は、それらの形跡がまるでなかった。その顔が恐怖に引きつっている他は、実に綺麗なものだった。


 傷はなく、呪詛の跡もなく、しかし不快な穢れを撒き散らす。なんともアンバランスな亡骸であると、さすがの魁も首を唸らせた。


 これが事故とは思えない。呪詛や憑依の類とも違う。では、あの男、栗木彰人が死んだ原因は何か。考えられる可能性として、魁は一つだけ心当たりがあった。


「どうやら、俺と同じような力を持ったやつがいる……。そういうことらしいね」


 紙のナプキンで戯れに鶴を折りながら、魁は小声で呟いた。


 陰陽師は自らの手足として、古来より式神を使役すると言われている。その式神の力を持ってすれば、場合によっては人を殺すことも可能となる。


 問題なのは、たった一体の式神では、あまりに力が弱過ぎるということだ。漫画やアニメでは強大な怪物として描かれる式神だが、実際の式神は術者が自らの力の一部を紙の中に封じ込めたもの。調度、魁が早朝のホテルを出る際に放った紙人形のように、それ自体には人を殺すほどの力はない。


 式神で人を殺すには、一体だけでは力不足。より多くの、それこそ百体単位での集合体をぶつければ、あるいは可能になるだろう。


 もっとも、現場に式神の欠片らしきものさえ残っていなかったということで、この推理は脆くも崩れ去ってしまうことになる。単に式神を放って集団で人を殺したのとは、どうやら訳が違うようで。


「普通の式神使いじゃないね、これは……。と、いうことは……」


 そこまで口にしたとき、唐突に近くで何かの割れる音がした。


「あっ! す、すいません!!」


 音のした方へ顔を向けるよりも早く、若いウェイトレスが慌てて魁の足下に転がっているガラスのコップを拾っていた。どうやら、別の客に運んでいたグラスを落としてしまったらしい。


「おいおい、気をつけてくれよ。俺のスーツ、こう見えてもブランド品で高いんだからさ」


「ほ、本当にすみません! あの……もし、お差支えなければ、当店の方でクリーニング代だけでも……」


「いや、別に構わないよ。よく見たら、俺の方は全然濡れてなかったみたいだしね」


 平謝りになるウェイトレスに、魁は軽く笑って答えた。勿論、本心からではない。本当は白のスーツに飲み物が跳ねていたのだが、しかし今はそれを咎めるよりも別のことで頭がいっぱいだっただけだ。


 割れたグラスの破片を見た瞬間、魁の脳裏に香取から見せられた車のドアガラスが思い浮かんだ。


 不自然な亀裂の入ったドアガラス。香取の話によれば、ガラスは『内部』から割れているとのことだった。無論、車のガラスがそんな割れ方をするなど前代未聞。故に、今回の事件に何らかの繋がりがあることは否定できない。


(もし、仮に……)


 ガラスに傷を付けたのが、向こう側の世界・・・・・・・の住人だったとしたらどうか。掃除をするウェイトレスを他所に、魁は再び考える。


 亀裂は中から入っていた。それは即ち、『内部』から何者かが力を加えたということだ。それも、超常的な存在でありながら、現世の物体に物理的に干渉するくらい強い力を兼ね備えた何かが。


 普通に考えた場合、そんな相手は祟り神級の大悪霊か、はたまた土地神に封じられた古の妖魔である可能性が極めて高い。しかし、最初の犠牲者が発生してから、同種の事件は未だこの界隈で起きていない。相手が無差別に殺戮を好む存在であるならば、もっと多くの人間が犠牲になっていても不思議はないというのに。


 やはり、敵は自分と同じような力を持った人間だ。霊的な力を、それも自分と極めて良く似た力を行使できる人間が、何らかの目的を持って栗木彰人を殺害したのだ。


 ガラス越しに微かに聞こえる霧雨の音を横耳に、魁は確信を抱きながらカップの中身を口に運んだ。紅茶はすっかり冷めてしまっていたが、僅かに残ったハーブの香りが疲れた頭を優しく癒してくれるような気がした。

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