~ 弐ノ刻 接触 ~
翌日、魁は総司郎を連れて、北寮総合病院を訪れていた。
「あ、これ運賃ね。お釣りは要らないから、とっておいてよ」
それだけ言って、タクシーの運転手に一万円札を押し付ける。実際は大した額でもなかったが、その程度の金を惜しむ様子は微塵も見せなかった。
財布の中には一万円札とカード以外を入れるつもりはない。いつの時代の人間かと失笑されそうな行為だが、これは魁のこだわりでもあった。
「ここが、例の病院っすか?」
走り去るタクシーの排気音を後ろに、総司郎が白い建物を見上げて言った。
見たところ、ここからでは妙な気配は感じられない。病院は常に死と隣り合わせの場所ではあるが、だからといって悪霊の類が徘徊しているとは限らない。
大概の場合、病院にいるのは殆どが悪意のない浮遊霊である。そういった相手は大した力も持っておらず、故にこちらの霊的なセンサーにも引っ掛かり難い。
「見立てはどうだい、総ちゃん? 何か、変な物が動いてるのを感じるかい?」
そう言って総司郎に振る魁だったが、残念ながら総司郎も首を横に振るだけだった。
「駄目っすね。なんか、こう……色々とぼんやりしてる上にゴチャゴチャして、どうにも判り難いっす」
「だろうね。まあ、虎穴に入らずんばなんとやらだ。この手紙を出して来た看護師さんの話も聞かなきゃいけないし、とりあえず中に入ってみるか」
徐にスーツの内ポケットからはがきを取り出して、魁はそれにちらりと目をやった。
差出人の名前は水島綾子。この病院に勤める看護師で、はがきには『女の子の幽霊に恐ろしい目に遭わされた』と書いてあった。なんでも、当直の際に廊下で少女の姿を見かけ、更にはその少女が背中に圧し掛かって来たらしい。最後はショックで気を失って、気が付けば朝になっていたという。
場合によっては、これは随分と厄介な話になると魁は踏んでいた。
霊が背中に乗るというのは、多くの場合、その相手に憑依しようとしてのことである。もしくは、何らかの呪詛に当たるものを仕掛け、徐々に対象者の命を吸って衰弱死させようとしているか。
どちらにせよ、放っておけば命に関わる。必要とあらば除霊を行わねばならぬと、気合を入れて病院の自動ドアをくぐり足を踏み入れた。
「へぇ……。なかなかどうして、綺麗な病院じゃないか」
瞬間、鼻を突く独特の臭いに顔をしかめながらも、魁は取り澄ました顔で口にした。
消毒薬の臭いが混ざった病院の空気は好きになれないが、見た目だけで言えば比較的綺麗な病院である。幽霊が出るとの話を受けて、どんな古臭い病院かと思っていたが、どうやら思い違いだったらしい。
「やあ、失礼。ちょっと、看護師の水島綾子さんに会わせてくれない?」
何ら遠慮することもせず、魁は受付の女性に無遠慮に尋ねた。ともすれば軽薄そうに映る彼の態度に、受付の女性の視線が少しばかり鋭くなった。
「あの……水島さんに、なにかご用ですか?」
「ご用も何も、俺は彼女に呼ばれて来たんだけどねぇ……。なんだったら、この名刺を本人に渡してよ。俺の名前見たら、ちゃんと解るはずだからさ」
名刺を取り出し、それを押し付けるようにして受付の女性に渡す魁。明らかに不審がられているが、それでも何ら気にしない。
訝しげな表情のまま、名刺を受取った女性は奥へと引っ込んで行った。やれやれといった表情で、魁は大袈裟に苦笑してみせた。
陰陽師、御鶴木魁。オカルト関係に詳しい者であれば、名刺の名前を見た途端に納得してくれるはずだろう。だが、どうやらあの受付係は、そういった話に疎い人間のようだった。まあ、いくらテレビで顔が売れているとはいえ、こればかりは仕方のないことなのだが……それでも、どこかやり辛さを感じてしまう。
やはり、一般市民の依頼を受けて動くのは色々と疲れる。ビジネスの話をしようにも、商談に持ち込むまでが一苦労だ。
もし、これが何やら訳在りの物件を抱えた大地主や、もしくは代議士の先生などであればどうだろうか。彼らの方が、意外にも向こう側の世界の話に対する抵抗が少ない者が多い。世間の目を気にして秘密裏に仕事を処理する必要はあるが、その代わりとして、少々吹っかけても素直に金を支払ってくれるのはありがたい。
そんなことを考えていると、やがて奥から先程の女性が姿を現した。彼女の後ろを歩いているのは、これはこの病院の医師だろうか。随分と若い男だが、それにしては妙に自信に溢れた顔付きをしているのが気になった。
「えっと……君かい? うちの看護師の、水島君に用があるってのは?」
ともすれば喧嘩を売っているような口調で、いきなり男が名刺を突き返して来た。随分と高圧的な態度の医者だと魁は思った。
「ああ、そうだよ。そういうあんたは、いったい誰? 俺は、水島さんに呼ばれて来たんだけどなぁ……」
「僕は、この病院で副院長を務めている者だ。それより、水島君に呼ばれて来たって……これ、いったいどういうこと?」
男の視線が隣にいた女性の看護師に向けられた。先程の受付にいた人間とは違う。胸の名札に目をやると、どうやら彼女が水島綾子本人のようだった。
「す、すいません、瀬川先生。でも……私、栗木さんのこともあって、どうしても怖くなって……」
「それで、こんなインチキ宗教家紛いの人間を病院に呼んだのか? 勘弁してくれよ、まったく……」
怯える綾子を他所に、瀬川と呼ばれた男は溜息交じりに頭をかいた。
「とにかくだ……」
そう言って、再び魁の方へと向き直る。明らかに軽蔑した眼差しを向けて、ゴキブリでも見たかのように手を払った。
「ここは、君達みたいな人間が来るところじゃない。悪いけど、さっさとお引き取り願おうか」
「お引き取り、ねぇ……。でも、そういう御宅こそ、俺みたいなやつの力が必要になってるんじゃないの? この病院、幽霊が出るって噂なんでしょ? 潰れた廃病院ならいざ知らず……こんな現役バリバリの大病院で、幽霊の噂なんてのは拙いんじゃないの?」
「詐欺まがいの勧誘に失敗して、今度は脅迫する気か!? 悪いが、ここは神聖な病院なんだ。君達みたいな人間に歩き回られると、それだけで患者の精神状態に障る。それでも引き下がらないなら、こっちも警察を呼ばせてもらうぞ」
「へぇ……。さっきから黙って聞いてれば、随分な言い草じゃないの。まあ、そっちがその気なら、俺も喧嘩を買ってやってもいいんだけど……」
一触即発。途端に悪くなった場の空気に、その場にいた他の誰もが口を開けなかった。
魁は普段から感情を大きく表に出すことを良しとしない。しかし、そんな彼であってさえ、明らかに怒っているのが誰の目から見ても明らかだった。
口から下半分は笑っているが、そこから上は笑っていない。両目を細めて笑顔を装っているものの、内心は腸が煮えくり返っていた。
この男には、何を言っても無駄だろう。しばしの睨み合いの後、魁はそう判断して身を引いた。後ろで綾子が何か言っているのが聞こえたが、既に聞く耳を持とうとはしなかった。
「行くよ、総ちゃん。はがきを貰って来たけれど、どうやら俺達は招かれざる御客さんみたいだからね」
去り際にそれだけ告げて、後は振り返ることさえしない。病院に幽霊が出ると聞いて幾許かの金の臭いを感じ取ってはみたものの、どうやら一看護師の暴走に過ぎないものだったらしい。
本当に幽霊の被害に困っているのであれば、目上の人間があそこまで霊能者を邪険に扱わないはずである。少なくとも、風評被害を真に恐れる者であれば、大金を積む代わりに秘密裏に事を済ませてくれと泣き付いて来るのが普通なのだ。
たかが幽霊、されど幽霊。実際、何かを経営するに当たり、霊的な風評被害ほど恐ろしいものはない。客が減るのは勿論のこと、心霊スポットの様に騒がれてしまえば、今度はマナーの悪いオカルトマニア達の格好の餌食とされてしまう。また、それこそ先程の話ではないが、インチキ宗教家が連日の如く押し掛けて来ないとも限らない。
副院長を名乗った瀬川の反応を見る限り、幽霊の話はガセの可能性が高かった。まあ、もしかすると未だ看護師の噂レベルで止まっている話なのかもしれないが、それで誰かが困ったところで自分の知ったことではない。
幽霊の噂で病院の評判が悪くなったとしたら、そのときは改めて自分があの副院長を笑ってやろう。そう、意地悪そうな笑みを浮かべながら、魁は自動ドアを抜けて病院の受付を後にした。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
病院の門をくぐり外に出ると、少しばかり肌寒い風が頬を撫でた。
こんなことなら、まだ夏のスーツを出すのは早かったか。そんな考えが魁の頭をちらりと掠める。
北の大地を吹く風には、まだどことなく冬の香りが残っていたのだろうか。東京の真夏日に比べれば過ごしやすい気温なのかもしれないが、空気の質が違っているのが少しばかり好きになれなかった。
「先生……。本当に、あれでよかったんっすか?」
「ん? 何のことだい、総ちゃん?」
後ろを歩く総司郎の言葉に、魁は軽く流すようにして質問で返した。
「あの、女医さんのことですよ。本当に……あそこで帰ってよかったんっすかね……」
「仕方ないだろう。それと、あの人は女医さんじゃなくて看護師さんね。そういうの、今じゃ色々と煩いからさ。総ちゃんも気を付けないと、なんやかんやで職業差別とか言われちゃうよ」
そう言って、少しばかりおどけた口調で誤魔化した。実際、話さえさせてもらえずに追い払われてしまったのだから、これ以上はどうにもできない。
だが、そんな魁の説明にも、総司郎は珍しく納得しなかった。
「先生……。あの女医……いえ、看護師さんっすけど……」
「どうした? 何か、気になることでもあるのかい?」
「いや、別に……そこまで何か、酷いものがあるってわけじゃないっす。ただ、あの人が出て来たとき、随分と気が減っているような感じがしたっすから」
「そうだねぇ……。そいつは、俺も感じていたさ」
一瞬、魁は歩みを止めて、顎に手を当てたまま振り返る。確かに総司郎の言う通り、綾子の気は随分と減っていた。
「でもね、総ちゃん。あそこで追い払われちゃったら、俺達にはどうしてやることもできないだろう? 見たところ、悪霊に取り憑かれているってわけでもなし、単に日頃の疲れが祟って、一時的に気が弱くなってるだけだと思うけどね」
「そうっすね……。そうだといいんすけど……」
その大柄な体躯に似合わず、総司郎が溜息と共に肩を落とした。
まったくもって、外見と中身が一致しない人間だと魁は思う。一応、彼は自分の弟子という立場の人間だが、傍から見ればボディガードにしか見えはしない。それでいて、どこか繊細で腰が低く、ロマンチストな一面も持っているから不思議なものだ。
身体は漢で心は乙女。総司郎を形容するなら、そう表した方がしっくり来る。もっとも、見た目が強面な彼のこと。下手にそんなことを言いふらせば、却って周りに妙な誤解を生む原因にしかならないが。
「おいおい、今日は随分と食い下がるね。さては、あの看護師に一目惚れでもしたのかい?」
「そんなんじゃないっす。ただ……先生は、俺みたいな人間でも拾って、こうして色々と面倒見てくれる素晴らしい人っす。そんな人が……こうも簡単に依頼人を見捨てるなんて、ちょっと意外で……」
なるほど、そういうことか。だが、しかしと魁は思う。
自分は総司郎が思っているほど心の出来た人間ではない。少なくとも善か悪かで訊かれれば、間違いなく善人ではないとだけは確信を持って言える。
仏門に入ってありがたい仏の教えでも学んだ者ならいざ知らず、自分は別に宗教家でもなければセラピストでもない。厄介な悪霊どもを倒して金を荒稼ぎこそすれど、他人の心の悩みまで救ってやる義理はない。
心霊事件を解決した後に、その依頼人がどうするか。そんなことは興味の範疇外だった。無論、彼らが自分に対して感謝するか否かということも、魁はまったく気にしたことがない。
「悪いけどね、総ちゃん。俺だって、慈善事業で陰陽師やってるわけじゃないんだよ。今回のことだって、現役の病院に幽霊が出るなんて話が広まったら、それこそ風評被害を受け兼ねないだろうからさ。その辺をちょいと利用して、病院から金をせしめてやろうって思ったんだけど……どうやら、当てが外れたらしいね。それにさ……」
溜息交じりに、魁は改めて総司郎を見た。サングラスの奥にある、存在しない二つの瞳。吸い込まれるように深い闇を携えた二つの穴が、じっとこちらを見つめて来る。
「俺が総ちゃんを拾ったのだって、総ちゃんが霊能者として優れた素養があったからさ。俺が生身で殴り合うのが嫌いなの、総ちゃんも知ってるでしょ? だから、代わりに戦ってくれる兵隊が欲しくて、俺は総ちゃんに力を与えたってわけ。そこんとこ、勘違いされちゃ困るんだけどな」
それだけ言って、わざとらしく肩を竦めて見せた。目の無い総司郎には判らなかったかもしれないが、少なくとも雰囲気からこちらの意図することは察したようだった。
「とにかく、今日はもう俺はホテルに帰らせてもらうよ。時間は金では買えないからね。折角、トーコちゃん達と一緒に北海道に来ることができたんだ。今日の夜は、皆で海鮮ディナーでも食べに行かないかい?」
残念ながら、総司郎からの返事はなかった。怒っているというよりも、気持ちの整理が付かないといった方が正しいのだろうか。
まあ、それでも構わない。ロータリーに留まっていたタクシーを呼び止め、魁はするりと後部座席に滑り込んだ。途中、横にいる総司郎の顔が車内のミラーに映っていたが、彼はホテルに着くまでの間、一言も言葉を発しなかった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「お疲れ様。今日も、大変だったわね」
ホテルのロビーでくつろいでいる凍呼に、まゆはそう言って自販機で買ったジュースを放り投げた。
「あっ、ありがとうございます。えっと……夕張メロンシェイク、ですか?」
「そういうこと。たぶん、ご当地限定品の一種じゃない? 味の方は、私も保証できないけどね」
怪訝そうに首を傾げている凍呼の前に座り、まゆはサラッと恐ろしいことを言ってみる。ご当地限定品の商品など珍しくもないが、中には酷いハズレが混ざっているのも事実だから。
フルーツ味の食べ物ならまだマシだが、中には何をどう間違えたのか、とんでもない珍品が売られていたりすることもある。例えば、ジンギスカン味のキャラメルだの、ラーメン味のキャンディーだのといったものだ。
正直、このレベルまで来てしまうと、さすがに開発者の神経を疑ってしまう。食べられないことはないのだが、決して美味しいものではない。明らかにネタ重視、もっと言えば罰ゲーム用として作られたとしか思えない。そして、そんな商品でさえも真剣に研究し、開発し、量産に踏み切った者がいるという現実が、その馬鹿馬鹿しさと下らなさに拍車をかけているような気がする。
「そう言えば……」
今朝の撮影のことを思い出し、まゆは徐に缶を開けて口にした。濃厚な甘い味が広がって、身体の疲れが癒される。どうやら今回のご当地限定品は、ハズレの類ではなかったらしい。
「今日の撮影にも、ご当地ネタの変なキャラが出てたわね」
「変なキャラですか? ノースカイザーなら、私はカッコイイと思いましたけど……」
「そっちじゃないわよ。あの、緑色の被り物した女の方。確か……マリモマダムだっけ?」
下が透けて見えるガラスのテーブルに、缶を置いてまゆは言った。気が付くと眉間に皺が寄り、大きな溜息が零れていた。
ちなみに、今日の撮影はローカル局で放送中のご当地ヒーロー番組へのゲスト出演である。凍呼とまゆは、怪人に襲われて逃げ惑う役。その際の敵役が、緑色の全身タイツを着た毬藻女だったのだ。
ご当地幹部、マリモマダム。近所の小学生が、ノートの隅に落書きしていそうな感じの怪人である。明らかにネタ色が強く、怖さなんぞ欠片もない。実際、予算もなかったのか、緑色の全身タイツを着ただけの女性が、毬藻の被り物をしているだけである。
だが、そんなネタ怪人ではあったものの、まゆにとって今日の撮影はトラウマ物だった。
毬藻女の得意技は、相手を巨大な毬藻状の球体に閉じ込めるというもの。逃走中に、凍呼をその一撃から庇ったことで、毬藻にされてしまうというのがまゆに与えられた役である。
所詮はローカル局のご当地ヒーロー番組。立派なCGなど使えるわけもなく、まゆはスタッフの用意した巨大な緑色の大玉の中に入れられることになってしまった。それこそ、運動会の大玉顔負けの巨大ボールを着せられて、手足の先と頭がようやく出ているだけという、実に情けない姿を撮影されたことは記憶に新しい。
(はぁ……。なんか、どんどん私の考える芸能人のイメージから、自分が掛け離れて行くような気がするわね……)
仕事とはいえ、これはさすがに気が重い。いくら低ギャラで使える人間だからといっても、あんな扱いはあんまりだ。
まあ、それでもこれは、やはり仕方がないことなのかもしれない。自分は所詮、凍呼のオマケのようなものだ。半ば付き人のような扱いにされているが、それでさえ御情けのようなものなのだから。
自分には才能がないのだろうか。望んで入った業界とはいえ、さすがにここまで低空飛行が続くと自信も失われて来てしまう。そう思い大きな溜息を吐いたところで、ホテルの入口から見慣れた人影が戻って来たのに気が付いた。
(あれは……)
「あっ、弓削さん!」
まゆが声を掛ける前に、凍呼が立ち上がって総司郎の名を呼んだ。
「あ……どうもっす」
サングラスを掛けた強面の長身男が、やけに腰の低い感じで頭を下げている。人間、外見だけで判断してはいけないと、総司郎を見ていると痛感させられる。
今、彼は独りなのだろうか。辺りに魁の姿が見当たらないことを怪訝に思い、まゆもまた何気なく総司郎に尋ねた。
「今、独りなんですか?」
「あ、そうっす。先生は、なんか用事があるとかで……さっき、俺だけホテルに戻ってるよう言われたっす」
「用事ねぇ……。あのチャラ男のことだからね。どうせ、その辺のキャバクラで女の子口説きながら飲んでるんじゃないの?」
露骨に嫌悪感を露わにし、まゆは総司郎に向かって吐き捨てるように言った。弟子である彼が魁のことをどう思っているか。それも承知の上だったが、遠慮をしようとは思わなかった。
まゆは魁のことが苦手だった。陰陽師の末裔など名乗ってはいるが、その外見はどう見てもホストクラブにいそうな軽いノリのチャラ男だ。人は外見でないと言われるが、彼に限ってそれは当てはまらない。いや、むしろ、一見して温厚そうな顔付きをしている分、単なる遊び人より性質が悪い。
テレビカメラの前では見せないが、まゆは魁がひと皮剥けばエゴの塊だということを知っていた。以前、彼の家に凍呼と一緒に押しかけたこともあったが、その際も露骨に袖の下を要求された。
庶民を悪霊や妖怪の類から守る、漫画や伝承の中の陰陽師とは程遠い男である。己の欲望に忠実で、その内実は酷く薄汚い拝金主義者。それでいて、そんな素顔を決してテレビの前の客には見せないのだから、その演技力は大したものだとまゆは思う。
実際、役者としては、自分より彼の方が上なのではないか。そんな風に思ったこともある。兎にも角にも、自分はあの男が好きにはなれない。総司郎の前で失礼だとは思ったが、こればかりは変えようのない事実だった。
だいたい、女性に対する扱いがなっていないのだ、あの男は。特別な関係でもない癖に、凍呼のことは『トーコちゃん』、まゆのことは『まゆゆん』などと、一般のファンからも呼ばれていない妙な愛称で呼んでくる。これが恋人や自分のファンから呼ばれるならまだしも、あんな男に呼ばれると、どうにも軽く扱われている気がしてならないわけで。
「あの……弓削さん?」
なんとも言えぬ気まずい空気。間に入っては拙いかと思いつつも、凍呼が様子を窺うようにして後ろから顔を覗かせた。
「御鶴木先生、今日は朝から御仕事でしたよね? どちらに行かれていたんですか?」
「ちょっと、近くにある病院まで行ってたっす。なんか、病院に出る幽霊退治してくれって、局に送られて来たはがきにあったっすから……」
「幽霊……」
総司郎の口から出た一言に、凍呼が身体を震わせる。怖がりの癖に、なぜ凍呼は総司郎に仕事の話など訊いたのだろう。彼らのやっていることを考えれば、怪談話の類になるのは容易に予想が付きそうなものなのだが。
「まったく……怖い話になるの判ってるんだったら、最初から聞くんじゃないわよ。で、その幽霊ってのはどうなったの? やっぱり弓削さんのお師匠様の御鶴木大先生が、ちょろっと片手で捻り潰しちゃったとか?」
「いや……それが、先生と病院の人の間で、ちょっと揉め事になってしまって……。結局、何もせずに引き上げて来たっす……」
「はぁ!? 呆れた! あなた達、それでも陰陽師の末裔なんですか? 普段は大口叩いてる癖に、肝心なときに全然役に立ってないじゃない!」
何もしないで引き上げた。それを聞いたとき、まゆの魁に対する嫌悪感は抑えきれないところまで来て爆発した。
自分も以前、怪奇な事件に巻き込まれたからこそ解る。ああいう話は、普通は誰にも信じてもらえない。自分の目が、頭がおかしくなったのかと、一人悩んで色々と抱え込んでしまうのが関の山だ。
しかし、だからこそ、数少ない理解者を探して心の重荷を軽くしたいと思うのもまた事実。それこそ、藁にもすがるような思いで、駄目元で魁のところへ話を持って行った可能性もある。それなのに……。
「ま、まゆさん……。ちょっと、言い過ぎのような気もしますけどぉ……」
「何言ってんのよ。幽霊退治を放り出して、弟子とは別にキャバクラで飲んでるような男なのよ? 普段は豪そうにしてるんだから、このくらい言われたって文句言えないわよ」
既に、まゆの中では魁がその辺のキャバクラで遊んでいるのが確定しているようだった。想像で決め付けるのはよくないと思ったが、凍呼はまゆの剣幕に押され、完全に場の空気に飲まれていた。
「ねえ、弓削さん。あなた、明日は暇かしら?」
興奮覚めやらぬ口調で、まゆは畳み込むようにして総司郎に問う。周りの目など気にしない。自分の芸能人という立場も忘れ、随分と大きな声で喋っていた。
「えっと……。まあ、確かに暇といえば暇っすけど……」
「だったら、ちょっと私達に付き合ってくれません? さっきの話にあった幽霊の出る病院……。そこに、案内して欲しいんですけど」
「えっ!? あの病院にっすか?」
これには凍呼だけでなく、総司郎も驚いたようだった。彼の瞳は既にないが、何も知らない者からすれば、サングラスの向こうで目を丸くしていると思われたに違いない。
「弓削さんだって、御鶴木大先生の下で修業してるんですよね? だったら、病院に出て来る幽霊の一匹や二匹、簡単にやっつけられるんでしょ?」
「いや……まあ、確かにそうっすけど……」
「それじゃ、決まりね。明日は私も凍呼も仕事の予定が入ってませんから」
気圧されする凍呼や総司郎を置いて、まゆはどんどん勝手に話を進めて行った。自分でも、なぜこんなに積極的になれるのか、後で考えると不思議で仕方がなかった。
まあ、それでも構わない。心霊事件などこりごりだと思っていた時期もあったが、あの東京で起きた大惨事に比べれば、病院に出る幽霊退治など可愛いものだろう。
それに、これはチャンスでもある。いつもスカした態度を取って、こちらを見下すような目で見て来る御鶴木魁。あのチャライ陰陽師の鼻を明かしてやるためにも、ここは一つ、彼が尻尾を巻いて逃げ出した事件を自分と彼の弟子で解決してやろう。
幽霊と戦うには、自分は何の力もない。しかし、もしも自分にできることがあるならば、放っておくのは間違いのような気もした。以前、自分が東京で恐ろしい事件に巻き込まれたとき、こちらを気遣い、頼りになる霊能力者の少年を紹介してくれたアイドルのように。
(見てなさいよ、あの陰陽師……。私だって、やる時はやるってことを見せてやろうじゃないの!!)
そう、心の中で呟いて、拳をぐっと握り締めるまゆ。後ろで唖然とする凍呼と総司郎の姿は、残念ながら今の彼女には見えていなかった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
煌々と輝くネオンサイン。夜の帳が降りた街は、今日も変わらぬ景色が広がっている。
街の喧騒に背を向けて、魁は場末の喫茶店でコーヒーを飲んでいた。
薄野などに比べれば、この街はまだ静かな方だろう。が、しかし、残念ながら今は酒を飲んで騒ぎたい気分ではない。それに、居酒屋で安い酒を飲むような趣味は、そもそも魁は持ち合わせていない。
「それじゃ……まずは、俺をわざわざこんな場所まで呼び出した理由を聞かせてもらおうか?」
カップから口を離したところで、魁は目の前に座っている男に向かって素気なく尋ねた。
黒いスーツにソフト帽。おまけに夜だというのにサングラスまで外さない。見るからに怪しい男だが、魁の関心はそこにはなかった。
男が接触して来たのは、北寮総合病院を抜けて昼食を摂っていたときのことだった。いつ、どこでこちらの足取りを掴んだのかは不明だったが、何の前触れもなしに、いきなりこちらの前に現れたのだ。
いや、もしかすると、前触れは以前からあったのかもしれない。この男の素性を知ったとき、魁はそう確信していた。東京で起きた恐るべき連続変死事件。あれに携わってから、自分がどこかで監視されているのではないかということに。
「公安の香取さんだっけ? 御宅の方から俺に接触して来るなんて、いったいどういう風の吹き回しだい?」
テーブルの隅に置かれた名刺にちらりと目を移し、魁はあくまで普段の調子を崩さず尋ねていた。
公安警察第四課。そこに所属する香取雄作とは、以前にも少しだけ顔を合わせたことがある。なんでも心霊事件の情報管理に携わっているとのことらしかったが、それ以上のことは聞けなかった。あのときは本当に軽く顔を合わせただけであり、香取の仕事の詳細までは、残念ながら聞いている余裕などなかったのだ。
もっとも、そもそも香取の立場を考えた場合、そう簡単に仕事の内容を口にするとも思えなかった。決して表に出ることのない、出てはいけない男達。そんな人間が、今度は表の顔を持つ霊能力者の自分に声を掛けて来る。
ここまで来れば、どんなに勘の鈍い者でもきな臭いものを感じずにはいられなかっただろう。実際、この男が動いているということは、何やら裏で妙な事態が進行しているということである。
「単刀直入に伝えよう。今日は、少しばかり仕事を頼みたく思ってな」
「仕事? それって天下の公安警察様が、俺に直々に依頼を持って来てくれたってわけ?」
魁の言葉に、香取は無言で頷いた。顔を見る限り、どうやら本気らしい。
奥の席にいた客が、そっと立ち上がってカウンターの方へ歩いて行った。こちらの側を通る間、香取は何気なく煙草を取り出して火を付ける。煙を軽く吐き出したところで魁にも勧めて来たが、魁はやんわりと断った。
「俺、煙草は吸わないんだよね。悪いけど、くれるなら金と女にしてくれない?」
鼻先に棚引いて来た白い煙を、フッと息をかけて吹き飛ばす。無言の主張が相手にも伝わったのか、香取は火を付けたばかりの煙草を惜し気もなく灰皿に押し当てた。
潰された煙草の先端が、細く白い煙を出して燻っている。ポケットに煙草をしまい直す代わりに、香取は二枚の写真を取り出して見せた。
「なんだい、その写真は? 妙な心霊写真でも持ち出して、俺に霊視でもさせようってわけ?」
「半分は正解だが、半分は違う。とりあえず、この写真を見てどう思ったか……向こう側の世界に通じる力を持った人間として答えて欲しい」
「まあ、その程度なら、別に構わないけどね。でも、御宅だって心霊事件のプロフェッショナルなんでしょ? わざわざ俺なんかに頼まなくても、霊視のできる人間の一人や二人、抱えてないのかい?」
そう言って面倒臭そうに写真を受け取った魁だが、香取は何も答えなかった。ただ、とにかく写真を見て欲しいと、無言のままに訴えていた。
こうなっては、もう仕方がない。相手の真意が不明なのは気に障ったが、とりあえず魁も二枚の写真に目を通す。
一枚目。これは誰かの車だろうか。運転席側にあるドアガラスが酷く割れているが、しかし大きな裂傷が入っている以外は何もない。幽霊や、その類の何かが写っていることもない、どこにでもある普通の写真だった。
二枚目は、こちらは男の顔が写されていた。どうやら酷く恐ろしいものを見たようで、青白い顔が苦悶の表情を浮かべていた。
状況からして、恐らくこの男は生きてはいまい。死因の特定はこの写真からは難しかったが、普通の死に方でないのは明らかだった。
「どうだ? 何か、気付いたことはあるか?」
「いや、別に何もないね。確かに車のドアガラスが変な割れ方をしているけど、一枚目の写真はそれだけだ。幽霊やら妖怪やら、そういった類のものは写ってない。心霊写真じゃないってことだけは、間違いなく言える」
「では、二枚目はどうだ。その男の死因について。何か判ることはあるか?」
「そいつも無理な相談だね。この男が生きていれば、まだ色々と探れたとは思うけど……死んじゃったんなら、それ以上のことは判らない。俺達は魂の状態の強弱で人の状態を判断するんだ。魂のない死体なんて……ましてや、写真越しに霊視しろなんて、随分な無茶ぶりをしてくれるね」
渡された二枚の写真をテーブルの上に置いて、魁は少しばかり皮肉を込めた言葉で香取に返した。どんな大仕事を与えられるのかと思っていたら、やらされたことは写真の霊視。しかも、その内の一枚は既に亡くなった人間のものだとすれば、これほど面白くない仕事もない。
よく、テレビなどで心霊写真の鑑定をやっているものがあるが、あれはほとんどがインチキだ。中には本物の霊が写っている写真も存在するが、普通は写真に霊が写っていても判らない。本当に本物の力を持った人間が、それなりの眼を持って視れば判るのだが、それとて大半が無害な浮遊霊だ。
この男は、まさかそんなことも知らずにこちらに接触して来たのか。一瞬、香取に対する疑念が浮かんだが、魁は直ぐにそれが間違いだったことに気付かされた。
目の前の香取は、魁の答えを聞いても落胆の色さえ見せなかった。いや、むしろ軽い笑みを浮かべて、何かを確信しているようだった。
(なるほど……。答えの判ってる写真を見せて、こっちの力を探ったってわけか。まったく、随分と手の込んだテストをしてくれるよ)
あくまで平静を装って、魁は写真を香取に返した。本当は今すぐにでも帰ってやりたいところだったが、気に入らない試され方をした借りもある。出し抜かれたまま逃げ帰っては、現代を生きる陰陽師の名が廃る。
「まあ、俺から言えることは、今はこれだけだね。それより、今度はこっちが質問させてもらっていいかい? この写真の男……いったい、何をやって死んじゃったの?」
「それは、こちらの仕事を受けるという意味で取っていいのか?」
「どうとでも、好きに解釈しなよ。言っておくけど、俺は気に入らない仕事は引き受けない。世の中、ギブ&テイクだからね。出すもの出してくれるなら、多少のことには目を瞑ってやってもいいけどさ」
互いに腹の探り合いが続く。香取の仕事は情報操作。立場上、場合によってはいつ魁の敵になってもおかしくない存在だ。
その一方で、香取にとっても魁は頼りになる力の持ち主であると共に、不安要素であることにも変わりがない。表の顔を持つ、しかも本物の力を持った陰陽師。その気になれば今までの香取達の努力を全て水泡に帰すこともできるだけに、常に警戒をしなければならない人物でもある。
そういえば、陰陽師とはいつの時代も、社会の表と裏を繋ぐマージナルな存在であった。香取と自分の立場を思い出し、魁はふとそんなことを考えた。
平安時代、陰陽道が生まれた頃から、陰陽師は常に朝廷と共に在った。その力の源を同じとしながら、時に民間の祈祷師や呪術者を相手に立ち回り、常に世の中の秩序を保って来た。
毒を持って毒を制す。結局、自分も本質的には外法使いと変わらない。柄にもなくそんなことを考えてもみたが、それより今は、香取の話を聞くことが先だろう。
気を取り直し、魁はカップの中に残ったコーヒーを口にした。すっかり冷めてしまっていたが、頭を覚醒させるには調度良かった。
「この写真の男だが……」
説明をする香取の顔に、魁は探るような視線を送る。どうやら、向こうも無言のままに、契約成立と見做したようだ。
「栗木彰人。この先にある、北領総合病院に勤めていた医師だ。五日ほど前、国道の脇に車を止めた状態で、本人が外に倒れているのが発見された」
北領総合病院。その名を聞いたとき、魁は一瞬だけ心の中に何かが引っ掛かるのを感じていた。
他でもない、自分が幽霊騒ぎを解決すると言って訪れた病院である。門前払いを食らわされたものの、これはいったい何の因果か。まさかと思うが、病院に出没する幽霊と、この男の変死に何か関係があるのだろうか。
「どうした? 何か、気になることでもあったか?」
「いや、気にしないでくれ。それより、話の続きをどうぞ」
一瞬、心の中でギクリとしつつも、魁はあくまで表情を崩さなかった。
さすがは公安の腕利きだ。霊的な感性は何も持ち合わせていないのだろうが、こちらの挙動や表情から、微かな変化を確実に読み取る術に長けている。こちらも気を引き締めてかからないと、心の内を読まれることになり兼ねない。
「男が発見されたとき、辺りには争ったような形跡はなかった。外傷もなく、当然ながら血痕もない。毒物中毒や既往症の線も、検視によって否定された」
「正真正銘、原因不明の死ってわけね。だったら、あの車のドアガラスに付いた傷は?」
「それが判れば苦労はしない。あんな傷は銃弾でも撃ち込むか、後は鋭利な突起物で突くかしなければ発生しない。だが、実際にはそういった類の裂傷ではなく、『内部から付けられた傷』だということだ」
「内部から? それって、車の中から付けたって意味じゃなくてかい?」
魁の言葉に香取は無言のまま頷いた。目を見る限り、嘘を言っているとは思えない。どうやら話をしている香取自身も、この傷の正体が判っていないようだった。
「この傷に関しては、俺達の方でも何もつかんではいない。だが、無関係というわけでもないはずだ。少なくとも、この男が……栗木彰人が超常的な力や存在によって殺されたのであれば、この傷から尻尾がつかめると踏んでいるんだがな」
「おいおい、なんだよ。肝心要のところで、そもそも相手が何なのかも判ってないってわけ? それなのに、俺に仕事を吹っかけて来るなんて……御宅、こういう話に関しては、国家公認の専門家じゃなかったの?」
「だからこそ、そちらに依頼している。何もなければ、それに越したことはない。しかし、放っておけば、同種の事件が再び発生することにも成り兼ねない。そうなる前に止めるのも、俺達の仕事のひとつだからな」
「警察は、事件が大きくならないと動かないんじゃなかったの? それとも、公安の裏組織に回されるだけあって、普通の警察とは価値観が違うのかい?」
半ば呆れるように肩を竦め、魁は溜息混じりに言ってのけた。ともすれば、挑発とも受け取られかねない危険な行為。しかし、これもまた作戦の一つである。仮に向こうが本気だとすれば、選択肢は一つしかないのだから。
「こちらの私情を語る必要はない。それよりも、仕事を受けてくれるのか? もし、捜査に協力してくれるのであれば、明日の朝に再びこの店の前で落ち合おう。無論、仕事への報酬は、こちらで用意させてもらう」
相変わらずの仏頂面で、香取は端的に用件だけを述べた。感情に左右されて本質を見失うような真似はしない。プロの仕事を意識して動く男の顔がそこにあった。
「オーケー、了解した。そっちの捜査ってやつに、俺も協力させてもらおう。ただし……」
最後の最後で、魁は含みのある笑みを浮かべて言葉を切る。向こうの立場と覚悟は解ったが、それで快く協力するほど自分はお人好しなわけではない。
「俺への依頼料は、ちょいと高いぜ? とりあえず、前金だけで五百万くらい必要だけど……御宅んとこの組織に、それだけの金が用意できるかい?」
仕事はあくまで仕事なのだ。相手が職務に忠実な者であるからこそ、こちらが下手に出れば足元を見られる。常に対等の立場で話を進めねば、そこに公平な取引は生まれない。
「問題ない。キャッシュで必要なら、今すぐにでも用意させる準備はできている」
「おっ、話が解るじゃない。だったら、交渉は成立だな。改めて宜しく頼むぜ、公安のエリートさん」
最後の方は、本心から声が軽くなっていた。病院の訪問は空振りに終わったが、代わりにもっと金になりそうな仕事が、何の前触れもなく舞い込んできた。同じ病院に勤める医師が犠牲になっていることが気にかかったが、今はそれよりも目の前の金だ。
捨てる神あれば拾う神あり。そんな言葉を思い出しながら、魁はテーブルの上に置かれた明細表を取って立ち上がった。
「それじゃ、ここは俺の奢りにさせてもらうぜ。そちらとの友好の印にね」
「いや、気にしないでくれ。そもそも、今回の件は俺が無理を言って頼んだようなものだ。仕事の報酬とは関係なしに、コーヒー代くらい払えなければ物笑いだからな」
「そうかい? でも、生憎だけど、他人の言葉にいつも甘えるほど甘ったれじゃないんでね。やっぱりここは、俺が払うよ」
互いに一歩も譲らない。解ってはいたが、ここは魁も譲れない。相手に借りを作ることは、魁自身のプライドに関わるからだ。それがたとえ、コーヒー一杯の借りであったとしてもである。
こういうとき、相手が女性なら話が早い。俺が奢ると口にして、最後まで意地を張る女は少ないからだ。特に探りも入れることなく、最後は奢られて終わるのが常なわけで。
「なんで、俺が奢るのにこだわるかって? 決まってるじゃないか、そんなのは……」
案の定、香取の方も譲るつもりはないようだった。こんなことで意地の張り合いをしていても仕方がない。ならば、先に支払った者勝ちだろうと、財布の中から一万円札を抜き出して。
「陰陽師が警察に奢られたなんて知られたら、それこそ末代までの物笑いだからさ」
支払いを済ませながら、魁はにやりと笑ってみせる。釣銭を惜しげもなく近くにあった募金箱に放り込むと、何事もなかったようにして店を出た。