~ 壱ノ刻 虫報 ~
初夏が近いとはいえ、早朝の国道は少しばかり肌寒い風が吹いていた。
本土は既に温かな陽射しに包まれているであろう季節。が、しかし、北の大地を吹き抜ける風は、未だ冬の名残を感じさせる。日中は温かな日もあるが、それでも涼しいことに変わりはない。
いつも通りの平穏な朝。何も知らない者からすれば、そう思えただろう。平原の真ん中を突っ切るようにして作られた道の脇に、一台の車が不自然な停められ方をしていることを除いては。
「ったく……。こんな朝っぱらから妙な事件起こしやがって……」
薄い灰色の背広を着た男が、車の側で悪態を吐いていた。辺りには、他にも数名の人間がおり、黄色いテープの中で忙しなく何かを探している。
隣にいるのは、これは彼の部下だろうか。背広の男と比べても、随分と若い感じである。何やら辺りの人間と話ながら、手帳にメモを取っている。
男の仕事は刑事だった。こういった現場には慣れているのか、先程から表情一つ変えずに突っ立っている。だが、実際は朝一番で事件の報を受け、慌てて現場に飛んだというのが正解だった。
「おい、何か判ったか?」
背広の男が、先程までメモを取っていた若手に尋ねた。色白で細面な、どこか不健康そうに見える男だった。
「はい。亡くなったのは、栗木彰人。この近くにある、北寮総合病院に勤めている医師ですね」
「医者の先生だぁ? そんなやつが、なんでこんな場所でぶっ倒れてやがるんだ?」
「それが判れば苦労しないですよ……。鑑識の話だと、遺体にはこれといった外傷は見られなかったそうですし……」
「傷がなくったって、他にも原因は考えられるだろ? 例えば……帰りがけに、酒でも煽ってたとかな」
飲酒運転による事故など、別に珍しいものではない。そう言わんばかりの口調で、背広の刑事は大きく伸びをしながら欠伸をした。だが、細面の刑事の方は、それでもどこか納得いかず、未だ首を傾げて話を続けた。
「お言葉ですけど……お酒を飲んでいたら、もっと派手な事故を起こしているんじゃないでしょうか?」
「派手な事故、ねぇ? お前、あのドアガラス見て、どう思うよ? あんなに滅茶苦茶になってやがるのに、あれでも派手な事故じゃねぇってのか?」
「いえ……ですが……」
そこまで言って、細面の刑事は口を噤んだ。
車のドアガラスは、見るも無残な姿になっていた。細かい亀裂が無数に入り、まるで霜が降りたようになっている。ちょっとやそっと叩いただけでは、こんな風にはならないはずだ。
だが、それでも、と細面の刑事は思った。
ドアガラスに限らず、車のガラスは比較的砕け散り易いように作られている。何かの事故があった場合、下手にガラスが裂けて割れれば、それらは鋭利な凶器となって搭乗者の身体を切り刻む。そんな二次災害を防ぐためにも、車のガラスは限界以上の衝撃を受けると、木っ端微塵になるように設計されているはずなのだ。
では、今、この現場にある車はどうだろうか。確かにドアガラスは酷い損傷だが、車にそれ以外の損傷は見られない。ボンネットにも扉にも、およそ車の外装には、ドアガラス以外に傷付いている場所が見当たらない。
それ以前に、いったいどうすれば車のガラスが、こんな奇妙な壊れ方をするのだろう。仮に金属バット等で叩いたとして、それでは粉々に割れてしまう。それこそ、銃弾でも撃ち込まれなければ、こんな亀裂は入らない。
まさか、この医師は誰かに命を狙われて、遠方から狙撃されたのではあるまいか。そんな馬鹿馬鹿しい考えも頭をよぎったが、直ぐにそれは打ち消した。
銃弾が撃ち込まれたのであれば、必ずドアガラスに穴が開いているはずだ。しかし、実際には穴など見当たらず、無数の亀裂だけが放射状に広がっているだけである。鑑識の話では遺体に外傷はなかったとのことで、そもそも凶器を用いて殺害されたとも考え難い。
結局のところ、今は何も判らずじまいだ。大きく溜息を吐いて手帳を閉じたところで、車の後部トランクが開いているのが目に留まった。
「あのぅ……」
「なんだ? まだ、何か言いたいことでもあるのか?」
「いえ……。ただ、もしかすると、今回の事件……物盗りの可能性ってないですかね?」
「車上荒らしか? いや、そいつはないだろうよ。少なくとも、車に乗ってた野郎の財布は無事だったんだろう? 確かに医者の先生なら、それなりに金を持ってるんだろうが……わざわざ先生を殺してまで何かを盗った挙句、財布だけ残してトンズラする間抜けなんぞいるものかよ」
それだけ言って、背広の刑事は言葉を切った。
初夏の日に起きた小さな事件。地方紙の片隅にしか載らないような、些細なものだ。
そのときは、誰もがそう思っていた。これから始まる恐ろしい事件。北の大地に這い寄る悪意の足音に、誰一人気が付くこともなく。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「お疲れ様でした~」
お約束の挨拶と共に、篠原まゆは収録の終わったスタジオを後にした。北海道には撮影で初めて訪れたが、東京のスタジオで撮影するのと大した違いは感じられなかった。
地方局の撮影とはいえ、やはり同じ業界の仕事であることに変わりはない。スタジオに入る際は時間に関係なく『おはようございます』で、収録が終われば『お疲れ様』だ。後者はまだ解るとしても、前者の挨拶には未だ疑問を感じてしまう。
「ふぅ……。今日も、色々と大変でしたぁ……」
ふと、隣を見ると、真っ黒なゴスロリ服に身を包んだ少女が溜息を吐いている。
葵璃凍呼。まゆの仕事仲間であり、同じ事務所の後輩でもある。だが、特徴のないのが特徴と称されるまゆとは違い、凍呼は既にそこそこ名前の売れているアイドルでもあった。
凍呼がデビューした場所は、東京の秋葉原地区に程近い場所である。そこに集まるオタク青年達をターゲットにしたためか、ダンスや歌よりも見た目の印象から先に入った感じが強い。
実際、ゴスロリなのは衣装だけで、メイクは極めて自然なナチュラル派だ。間違っても、隈のように濃いアイシャドーや、血のように赤い口紅などはしない。本物のゴシックロリータを着こなす者からすれば、実に失笑物のお人形さんである。
そんな凍呼であったが、それでもまゆよりは売れていた。理由はダンスや歌ではない。何を隠そう、彼女は大の怖がりで、ホラー映画でも見せようものならリアクション芸人顔負けの悲鳴を上げて泣きじゃくるのだ。
ちなみに、これは演技などでは決してない。凍呼は真正の怖がりで、お化けや幽霊といった類のものは大嫌いだ。が、そんな彼女のリアクションがウケたのか、はたまた可憐な少女が泣きながら怖がる様が絵になったのか、呼ばれる番組は決まって怪談番組ばかりであった。
現に、まゆが凍呼と今のような関係になっているのも、東京で起きたとある事件が原因なのだ。生放送中に起きた恐るべきアクシデントから始まり、果ては関係者が立て続けに亡くなったという、世にも恐ろしい心霊事件。凍呼にとってはトラウマ物の記憶だが、それでもまゆは、彼女との出会いに感謝していた。
事件の後、彼女の看板番組が潰れたことをきっかけに、駄目もとで事務所に打診してみたのだ。すると、何故か上手い具合に話が進み、今では二人して地方局を回る仕事をもらっている。東京のテレビ局でないのが少々不満ではあったものの、二流のゴスロリアイドルと売れないタレントのコンビでは、安定した仕事が貰えるだけでも御の字というものだった。
「さて、と……。それじゃ、さっさと着替えて帰りましょうか? 凍呼の服、着替えるだけでも時間かかるしね」
「うぅ……。待ってくださいよぉ、まゆさぁん……。私が着替え終わるまで、一人にしないでくださいね……」
廊下をスタスタと歩くまゆを見て、凍呼は慌てて後を追って袖を掴んだ。仕方なく手を握ってやると、これ以上にない強い力で握り返して来る。おまけに、掌にはじっとりと汗をかいており、小刻みに震えているのがまゆにも判った。
「ちょ、ちょっと! あんまり、くっつかないでよね! 誰かに見られたら、変に思われるじゃない!!」
「そ、そんなこと言ったってぇ……。今日のゲストの稲葉さん、でしたっけ? あの人の話、怖過ぎですよぉ……」
片手を振り解こうとするまゆの顔を、凍呼がしたから目に涙を浮かべて見つめて来る。何を隠そう、今日の収録で登場したゲストは、その道では有名な怪奇作家。そんな人の話を聞かされたものだからして、スタジオには何度も凍呼の悲鳴が響き渡ることとなった。
正直、この反応はどうかとまゆは思った。確かに、ゲストの話は怖かったかもしれないが、悲鳴を上げて泣き叫ぶほどのものではない。せいぜい学校の怪談レベルか、良くて多少の薄気味の悪い都市伝説レベル。既に高校に通う年齢になっているまゆにとって、あの程度の話でここまで怖がることはなかったのだが。
「と、とりあえず、一緒に着替えてくださいね。あんな話を聞いた後じゃ……一人で鏡の前になんか立てないですぅ……」
残念ながら、凍呼にとってはどんな怪談もさして代わりがないようだった。恐らくは、人一倍想像力が豊かな故のことだろう。それに、今の自分の立場を思い出してみると、凍呼を守ってやるという流れも仕方のないことなのかもしれなかった。
凍呼と違い、自分には特徴らしい特徴がない。そんなまゆに与えられた格好は、男性と見紛うほどにスタイリッシュなスーツ姿の衣装だった。どうやら凍呼の衣装とセットになっているようで、彼女を守るボディガード的な何かを意識したものらしかった。
男装の麗人とまでは行かないが、それに準ずるような衣装。普段の自分ならば決して着ることはしないが、仕事であれば仕方がない。与えられた役割を演じることは、この業界に入ってから慣れていた。
「はいはい、解ったわよ。それじゃ、着替えが終わるまでは、一緒にいてあげるからね」
まったく、どこの小学生だ。自分と同じ年頃の相手を前に、つい喉まで出掛かった言葉を飲み込んでドアノブに手を掛ける。そのまま控室に入ったところで、直ぐに堅苦しいスーツを脱ぎ棄てた。
「った~……。なんていうか、やっぱり肩が凝るわね、この格好。大人になっても、私はキャリアウーマンにだけは絶対になれないわ」
「そうですよね。私も、肩凝りには前から悩まされてるんですよぉ……」
首を回しながらスーツをハンガーにかけるまゆの後ろで、凍呼もゴスロリ服を脱ぎながら自分の肩を揉んでいる。ふと、そちらの方へ目を向けたところで、まゆの視線は凍呼の胸元に釘付けとなった。
(うっ……。私の方が年上なのに……色々な意味で、負けてるかも……)
そっと自分の胸に手を当てて、改めて虚しさを覚えるまゆ。凍呼の肩凝りの原因は、あれは絶対に衣装のせいなどではない。
彼女が豊かなのは想像力だけではなかったのだ。ここ最近、彼女はどうにも成長しているようだったが、まさかここまで負けていたとは。
「あれ? どうしたんですか、まゆさん?」
「えっ!? ああ、いや、何でもないのよ、何でも。ちょっと、考え事しちゃってね……」
それだけ言って、慌ててその場を取り繕った。
スーツを脱げば、その中身は特徴がないのが特徴と揶揄される一人の少女。だが、それでも、こんなところまで負けなくてもいいのではないかとまゆは思った。人前で肌を晒す趣味はなかったが、凍呼と違ってグラビア撮影の御誘いさえ来ないことに、改めて一抹の寂しさを覚えてしまった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
人気のないテレビ局の一室で、御鶴木魁はテーブルの上に積まれたはがきの山を前にしていた。
手紙はどれも、自分宛のファンレター。綺麗な字で書かれた大人のものから、たどたどしい字で書かれた子どもの物まで千差万別取り揃えてある。
正直なところ、これだけの手紙を全て読む気にはなれなかった。妙な内容の手紙を局側が弾いてくれるとはいえ、似たり寄ったりの内容の手紙を全て読めるほど暇ではない。それに、場合によってはチェックの目を逃れた黒い羊が紛れこんでいることもあり、下手に読んでしまうと随分と不快な思いをさせられる。
まあ、実際には彼が局の番組に顔を出すのが、月に一回程度であるということも相俟ってはいたのだが。下手に自分の自宅住所を教えれば迷惑行為の的にされ兼ねず、かといって芸能人でもない以上、どこぞにマネージャー付きの事務所を構えているわけでもない。
だが、それでも魁が手紙に目を通す理由は、ファンレターに紛れて届けられる心霊相談があるからに他ならなかった。
公の場では、魁の仕事は現代を生きる陰陽師ということで通っている。白いスーツに身を包み、茶色く髪を染めたホストのような格好からは想像できないが、彼は紛れもない本物の霊能力者の一人である。
そんな彼にとっては、テレビ局の仕事は自分の名を売るための手段の一つに他ならなかった。今では随分と規制も厳しくなり、一種のやらせを除いては、本物の心霊番組など放送することさえ難しくなってしまったのが残念だが。
しかし、そんなご時世であっても彼の下に心霊相談や、場合によっては心霊写真の類が届けられるということは、そういった類の話に需要があるということである。現に、こうして地方局で下らない怪談話をしているだけであっても、本物の陰陽師という肩書さえあれば事件の仕事は向こうから勝手に転がり込んで来る。
テレビの仕事など、所詮は仮の顔でしかないのだ。本物の陰陽師として向こう側の世界の連中を相手にする仕事を引き受けた方が、どれだけ金になるか分からない。
(なんだかんだで、金持ち連中の方が幽霊話を本気にしたりするんだよねぇ……。まあ、話が嘘でも本当でも、こっちの懐が温かくなるなら俺は構わないんだけどさ)
はがきをめくる手を休め、ふとそんなことを考えたときだった。
「先生、まだ手紙を読んでらしたんですか?」
唐突に部屋の扉が開き、少々柄の悪そうなパンチパーマ風の男が姿を現した。
真っ赤な柄のアロハシャツ。目元は大きなサングラスで覆われ、袖口から覗く両腕には梵字のような刺青が施されている。褐色に焼けた肌と精悍な肉体を持ち、腕っぷしもなかなか強そうだ。
「悪いね、総ちゃん。もうちょっとで、一通り読み終わるからさ」
「すいません。先生の代わりに、俺が読めればいいんですけど……」
そう言って、男は軽く頭をかくと、申し訳なさそうに魁に告げた。
見た目に反し、随分と低姿勢な態度である。だが、それも仕方のないことなのだ。この男、弓削総司郎は、決して単なるヤクザ者などではない。何を隠そう、彼こそが魁の一番弟子。魁のボディガード兼、日本でも数少ない『幽霊を殴る』ことのできる霊能力者なのだから。
魁の下で修業を積んだ総司郎は、類稀なる霊的感性を駆使することで、盲目でありながら常人と同等の生活を送ることも可能となっている。だが、それでもやはり、文字を読んだり書いたりすることは難しいのか、他の人間の手助けを必要とする。
彼の霊感が察知できるのは、せいぜいどこにどのような物体が存在し、どのような人間がいるのかといった程度の内容だ。色覚に関しても完全に失っており、こればかりはいくら修業を積んでもどうにもならなかった。道端の障害物を避けることはできても、書物や絵画を楽しむことは、光を失った両目では不可能だった。
「ねえ、総ちゃん」
先程から、総司郎がどことなく落ち着かないのを悟ったのだろう。魁は読んでいたはがきを山に戻すと、顔だけを総司郎の方へと向けて告げた。
「俺は、もうしばらく手紙を読んで行くからさ。先に、ホテルまで帰っててよ。それに……そろそろトーコちゃん達の着替えも、終わる時間だろうからさ」
それだけ言って、何事もなかったかのようにはがきへと視線を戻す。総司郎は何も言わなかったが、答えは聞かずとも解っている。
「それじゃ、お先に失礼します。先生も、お気をつけて……」
案の定、深々と頭を下げて、総司郎は部屋を出て行った。あんな身形をしているが、あれでなかなかどうして義理堅いところもある男だ。大方、世話焼きのまゆと怖がりの凍呼のことが気になって、彼女達の様子を窺いにでも行ったのだろう。
(まったく、総ちゃんは随分とお節介なところがあるよねぇ……。まあ、そうは言っても、あの二人には番組紹介してもらった義理もあるしね。俺もそろそろ、改めてお礼でも言っといた方がいいのか?)
そんなことを考えつつ、苦笑しながらはがきの山に手を伸ばした。
凍呼とまゆ。以前、東京で起きた事件の際にも一緒になった二人である。今では二人の参加する地方局の番組に、魁もまた出演させてもらっている。
以前の事件で、魁は凍呼と約束したのだ。力を貸す代わりに、こちらに新しい仕事を持って来て欲しいと。何を隠そう、東京で起きた一件により、魁の出演していたオカルト番組は完全に潰れてしまったのだから。現役のアイドルとはいえ未成年から高額の報酬を取り立てるわけにもいかず、無難なところで次の仕事の斡旋ということで話をまとめていた。
二流アイドルの凍呼の人脈では、頑張っても地方局の仕事がいいところ。が、しかし、当時から既に名の売れていた魁にとっては、同じ番組で仕事をしていた凍呼と一緒の方が、何かと都合が良かったということもある。
潰れた番組の看板霊能者と、おまけに怖がりのゴスロリアイドル。それが地方局にまとめて転がり込んでくれるとなれば、向こう側としても御の字だろう。なにしろ、コンセプトはほぼ同じまま、東京の局で扱っていた番組と似たような企画ができるのだから。
今の世の中、互いにギブ&テイクが当たり前。どんなビジネスにおいても、これは常識中の常識だ。テイク&テイクは許さない。魁自身、その辺はきちんと弁えている。少なくとも、自分が大損をしないように、ある程度の手綱を引ける状態にしてはおくものの。
「やれやれ……。今月も、空振りで終わりかな?」
在り来りのファンレターを軽く読み飛ばし、何気なく最後の一枚に手を伸ばす。普段と同じ調子で読み流そうとする魁だったが、はがきの文面に目を通すや一変。今までの気だるい表情が嘘のように、二つの瞳を輝かせてにやりと笑っていた。
「なるほど……。病院に出る幽霊を退治してくださいってわけか。こいつは久しぶりに、面白そうな話じゃないか」
待てば海路の日和あり。そんな言葉を思い出し、手にしたはがきをそっとスーツの内ポケットに入れる。
廃病院探索ならいざ知らず、今現在、営業中の大病院に幽霊が出るという話。そこに微かな金の臭いを感じ取り、久々に懐を大きく暖めてくれそうな機会に胸を躍らせて。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
薄暗い地下の一室で、香取雄作は紫煙の立ち昇る煙草を片手に二枚の写真を眺めていた。
蛍光灯の無機的な灯りが、部屋に束の間の光を与えている。警視庁の地下深く作られたこの場所には、外からの光が届くことは決してない。
警視庁公安部第四課捜査零系。本来であれば、決して存在するはずのない部署に、香取はその身を置いていた。
公安四課の仕事とは、主に資料の管理である。が、しかし、それとは別に公にできない捜査資料を文字通り『管理』する部署が存在する。
捜査零系が扱っているのは、主に超常的な現象を扱った事件だった。より具体的に言えば、一般的にはオカルトやSFとして扱われるような案件を、あたかも通常の事件のように装って公開する。要するに、事件の隠蔽と情報操作が主な仕事というわけだ。
存在しないとされる部署で、これまた存在しないとされるものを相手に仕事をする。それらの意味合いを込めて、捜査零系はこう呼ばれた。
公安部死霊管理室。誰が言い始めたのかは知らないが、香取はその呼び名が言い得て妙だと思っていた。
自分達の仕事は、文字通り『死霊』を『管理』することである。祟りや幽霊といったものに対して真っ向から戦いを挑むのではなく、それらの社会に与える影響を懸念して、情報操作をするのが仕事なのだから。
「おや? 香取さん、まだ残ってらしたんですか?」
突然、部屋の扉が開いて声がした。細身でスマートな印象を受ける、眼鏡をかけた男がそこにいた。
「氷川か……。少し、厄介な案件を受けることになってな。お前の方は、何か用か? 今は特に、妙な事件を追う仕事を任せたつもりはないんだが……」
一瞬だけ視線を向けて、香取は直ぐに写真に目を戻した。眼鏡の男、氷川英治が部屋に入って来たが、取り立てて気にする様子もなしに。
「俺は少し、忘れ物をしてしまいましてね。香取さんの方は、また何か妙な幽霊騒動でも引っ掻けたんですか?」
氷川がパソコンのスイッチを入れながら尋ねた。彼の言う忘れ物とは、どうやら一種のデータのことらしい。紙か電子かに関係なく、この部屋から勝手に資料を持ち出すことは許されない。どうしても気になることがあるならば、わざわざ部屋に戻って調べねばならないのが少々もどかしい。
聞き慣れたファンの音と共に、パソコンの画面が明るくなった。起動と同時に手慣れた様子でキーを叩く氷川の横では、未だ香取が二枚の写真を前に難しい顔をして煙草を咥えていた。
「なあ、氷川……」
煙草を口から放し、灰皿に軽く灰を落とす。互いに目線を合わせることはなかったが、それでも意思の疎通には困らなかった。
「お前は、この写真を見てどう思う?」
そう言って、唐突に自分の見ていた写真を氷川に押しつけた。
「えっと……。ちょっと待って下さいね。これは……車のドアガラスですか?」
キーを叩く手を休め、氷川が差し出された写真に目をやって言った。二枚の写真の内、一枚は亀裂の入ったドアガラス。もう一枚は、これは男性の遺体だろうか。苦痛に顔を歪めた、見るからに痛々しい形相。その最後が決して楽なものではなかったことが、否でも伝わって来る一枚だ。
いったい、これは何だろう。あの香取が見せる以上、氷川にもこれがただの写真でないことは解っていた。
「一枚目の写真のドアガラス、妙な具合に亀裂が走ってますね。普通、銃弾か何かの直撃でも受けない限り、こんな風にはならないと思いますけど……」
「その通りだ。しかし、気付いているとは思うが、そのドアガラスには銃撃痕がない。しかも、こいつと一緒に送られて来た資料には、もっと妙なことが書いてあった」
「妙なこと、ですか? 我々の間でその言葉を使うということは……もしや、久々に大物が?」
眼鏡の奥で、氷川の瞳が静かに輝いた。
死霊管理室に身を置く者としては、そうそう滅多なことでは驚きの感情を表に出しはしない。彼らにとって、超常現象の類は常に身近に存在しているものである。そういうスタンスでいる以上、心霊写真やスプーン曲げ程度では大して驚きもしないのだ。
ところが、そんな部署に勤める人間が、敢えて『妙なこと』と口走る。それが意味するところは唯一つ。本当に本物の、極めて危険な心霊事件が絡んだときだけである。
「今から五日前のことだ。北海道の国道で、奇妙に乗り捨てられた車が発見された。車の持ち主は、栗木彰人。近くにある北寮総合病院に勤める医師で、どうやら病院から家まで帰る途中だったらしい」
淡々とした口調で香取は告げる。それこそ、まるで自分が現場を見て来たかのように、実に流暢な喋り方で。
「車の持ち主の栗木は、車の近くに倒れているのを発見された。鑑識の話では、外傷の類は見当たらなかったらしいがな……」
「もしや、二枚目の写真にあった男ですか? それでは、彼は既に……」
氷川の言葉に無言のまま頷く香取。ちなみに、検視の結果も解っており、毒物中毒や既往症の可能性も低かったとのことである。要するに、北海道の国道の真ん中で、男が原因不明の変死を遂げたということだ。
これだけであれば、香取も別に興味など示すことはなかっただろう。仮に、霊的な何かが関わっていたとして、公には変死とだけ伝えておけばいい。一時は騒がれるかもしれないが、それでもせいぜい地方紙の新聞に載る程度だろう。わざわざこちらが手を下すまでもないと、少なくともドアガラスの写真を見るまでは、そう思っていた。
問題なのは、そのガラスだった。激しく亀裂の入ったドアガラスは、しかし何かを叩き付けられたわけではない。銃撃を受けたわけでもなく、不自然な亀裂が運転席側のドアガラスだけに走っている。
「この、ドアガラスの亀裂なんだが……どうも、内部から付けられたものらしいな。裏側ではなく、あくまで『内部』だ」
最後の方は、やや強めの口調で香取は告げた。灰皿の煙草は既に火が消えて、微かに白い煙を燻らせているだけになっていた。
「内部ってことは……これ、誰かが貼り合わせたガラスの隙間に入り込んで、そこから割ったってことですか?」
「そういうことになるな。ちなみに、亀裂が入っているのは運転席側のガラス、一枚だけだ。表にも裏にも叩いた痕は見られなかったらしい。力の加減を調節して、中にだけ亀裂が入るように叩いたわけでもなさそうだ」
もっとも、そんなことができる者がいれば、それはそれで超常現象扱いされそうだが。
苦笑を交えて疑問を口にする香取だったが、氷川はそれを聞いても笑わなかった。
外側から一切の傷を付けずに、内部からガラスを破壊する。そんなことができる者が、果たしてこの世に存在するのだろうか。
自分の知る限り、地球上の生き物で当てはまる者は存在しない。超能力のような力を持った人間なら可能かもしれないが、そんな能力は聞いたこともない。
だいたい、仮にその力を持った者が車の持ち主である栗木を殺したとして、なぜガラスに奇妙な亀裂を残さねばならないのか。それに、そもそも現段階で、果たしてこれを超常現象と片付けてよいものなのか。
捜査零系の人間として、自分は未知なる存在を信ずる立場にある。が、しかし、何でもかんでも子どものように信じてしまうほど、考えなしでも酔狂でもない。そういう事件を扱う者だからこそ、常に客観的な視点から物事を見ることを忘れてはならないと。その辺りは、氷川も十分に弁えていた。
「正直、今は俺にもなんとも言えませんね。香取さんは、どう考えているんですか?」
「さあな。俺としても、こいつは久々に厄介な案件だと思っている。誤魔化すだけなら何ら問題ないのだろうが……この栗木とかいう男を、仮に何者かが殺害したとする場合、その犯人は野放しのままだ」
「なるほど、確かにそいつは厄介ですね。今回の事件だけならいざ知らず、同種の事件を何件も起こされては、今に誤魔化しも効かなくなる。そういうことですね?」
氷川の言葉に、香取は無言のまま頷いた。煙草の火は完全に消えてしまっていたが、それを気にする様子もない。ただ、眼光鋭く正面を向いて、口元を隠すように顔の前で両手を組んでいた。
「とりあえず、俺は明日にでも向こうへ飛ぶ。北の方の事件は何人か担当がいるはずだが、連中はあくまで俺達の手足に過ぎんからな。場合によっては、こちらで後始末をせねばならん事態になるかもしれん」
そう言って、香取は懐から一丁の拳銃を取り出して見せた。日本の警察で広く用いられているニューナンブではない。およそ、一般の警察官が持つことは想定されていない、カスタム化されたオートマチック拳銃だった。
「後始末ですか……。でも、実際に幽霊だの妖怪だのいった連中と戦うことになって、そんなものが通用するんですかね? 俺には上の連中が、いまいちその辺を理解できていないように思えてなりませんけど」
「ぼやくな、氷川。確かに相手が化け物なら、銃や銃弾の種類なんぞは関係ないかもしれん。交番のお巡りが使ってるラウンドノーズも、俺が使ってる軍用弾もな。それこそ、狼男退治に使う銀の弾でも用意してくれた方が、まだマシかもしれんよ。だが……」
拳銃を懐に戻し、香取はスッと立ち上がる。そのまま卓上に置いてあった煙草の箱をポケットにねじ込むと、古びたソフト帽を被って氷川に言った。
「今、現地には都合よく使えそうな男がいるようだ。場合によっては、そいつに協力を要請することになるかもしれん」
「使えそうな男ってことは、向こう側の世界に通じる力を持った人間ですよね? まさか、以前の事件で出会った例の少年ですか?」
「いや、違う。しかし、以前の事件で顔を合わせたことはある」
背中を向け、ドアノブに手をかけたところで、香取は徐に立ち止まった。
以前、東京で起きた前代未聞の変死事件。その際に関わった霊能力者は二人いる。
一人は現代を生きる外法使い、犬崎紅。高校に通っているような年齢でありながら、既に一端の退魔師として仕事をこなす、類稀なる才能を持った少年だ。そして、もう一人は……。
「御鶴木魁……。正真正銘、本物の力を持った、現代を生きる陰陽師だ」