~ 逢魔ヶ刻 霧訪 ~
人は皆、四つの自己を持っている。
公開された自己、隠された自己、他人から見られている自己、そして……まだ誰も知らない自己の四種類である。
その日は珍しく、北海道にしては湿った雨が降っていた。
北寮総合病院。北の最果てに近い場所にある病院が、水島綾子の勤務先だった。
季節は春を迎えていたが、今日の雨はやけに冷たい。さすがに霙になることはないと思ってはいたが、それにしても気が滅入る。
ふと、外に目をやると、辺りはすっかり暗くなっていた。だが、彼女の仕事はこれからが本番だ。当直の看護師として、今夜は泊まり込みで仕事をしなければならない。夜勤の手当が出るとはいえ、重労働には違いない。
気が付くと、自然と口から溜息が零れていた。そんな彼女の気持ちを察したのだろうか。突然、後ろから声がしたかと思うと、温かいコーヒーの入ったマグカップが目の前に差し出された。
「やあ、お疲れさん。まだ、頑張ってたのかい?」
「栗木先生……。先生こそ、まだ病院にいらしたんですか?」
「まあね。とは言っても、僕も今日はこれで上がりなんだけどさ」
右手に持っていた方のカップを綾子の前に置き、白衣を着た男、栗木彰人は微笑みながら言った。
栗木のことは、綾子も良く知っている。この病院に勤める医師の中では若手の方だが、なかなかどうして腕前は確かだ。院長からの信頼も厚く、患者からの評判も良い。眼鏡の奥にある優しい瞳。病院を怖がる子どもの患者も、彼の顔を見れば不思議と安心感を抱くという。
今時、珍しいくらいに丁寧な医者だと綾子は思っていた。
大病院は縦社会。腕前よりも、才能よりも、コネとゴマすりが物を言う。そのように揶揄する者達もいるが、綾子はそうは思わない。
他所はどうだか知らないが、この北寮総合病院に限っては、そんな話はないと思っていた。医者同士の縄張り争いもなければ、患者の押しつけ合いや責任のなすり合いもない。仕事は大変なこともあるが、それでも理想の職場であると。
「ねえ、水島君。ところでさ……」
コーヒーを片手にカルテに目を通しつつ、栗木は綾子に唐突に尋ねた。
「最近、この病院で妙な噂が流れているみたいなんだけど……君は知らないかい?」
「妙な噂、ですか?」
「ああ、そうだよ。でも、別に汚職とか医療ミスとか、そういった話じゃない。夜、この病院の廊下を歩いていると……出るんだってさ」
最後の方は、少しばかり勿体を付けて。普段の優しい声から一変し、栗木は低く押し殺したような声で、にぃっと笑って言ってのけた。
「で、出るって……まさか!?」
「そう、そのまさかだよ。深夜、病院の廊下に女の子の幽霊が出るって噂、君は聞いたことないかい? 小さな女の子の幽霊で……その幽霊を見た者は、近々本当に死んじゃうんだとか」
マグカップを降ろし、さも当たり前のように栗木は告げる。だが、綾子にとって栗木の話は、まったく聞き覚えのないものだった。
深夜の病院に幽霊が出る。ありがちな怪談話ではあるだろう。もっとも、これから夜勤に入る者からしてみれば、そんな話など聞きたくもないのは当然なわけで。
「ちょ、ちょっと! 止めて下さいよ、先生! 私、これから当直なんですよ!? それなのに……」
「あはは! ごめん、ごめん。君があんまり肩肘張ってるようだったから、ちょっと意地悪したくなっちゃってね」
「もう! 先生、酷いです!!」
綾子が頬を軽く膨らませて叫ぶ。それでも栗木は何ら悪びれず、むしろ笑いを堪えるのに必死といった様子だ。
彼にとってみれば些細なこと。ほんの小さな悪戯なのかもしれないが、正直なところ勘弁して欲しかった。悪気はないと解ってはいるが、時折、こういった悪戯を仕掛けて来るから困り者だ。
「おいおい、そんなに怒るなよ。あんまり河豚みたいに膨れてると、折角の美人が台無しだぞ」
「お世辞で誤魔化そうとしても駄目です! 私、お化けとか幽霊とか、そういう話は大っ嫌いなんですからね!!」
冗談ではなく、綾子にとってこれは本心だった。
小さい頃から、綾子は怪談話の類がとにかく駄目だった。トイレの中から現れる白い手の話。タクシーを呼び止め、気が付けば消えてしまう幽霊の話。深夜、学校の音楽室から鳴り響くピアノの音の話。
どれも在り来りな怪談話であったが、初めて聞いた時はベッドの中で震え上がり眠れなくなったものだ。友人に馬鹿にされ、笑われようとも構わない。人一倍想像力豊かな綾子にとって、駄目なものは駄目なのだ。
そんな自分が、これから病院で夜勤に入る。そんな折に、最悪のタイミングで怪談話を聞かされてしまった。
きっと、栗木は知らないのだろう。こちらがどれだけ幽霊を怖がり、お化けの存在を恐れているのかを。患者の寝静まった夜の病院を一人で歩くのが、どれだけ不安で恐ろしいのかを。
気が付くと、自然と目に涙が浮かんでいた。それを見た栗木も、さすがにやり過ぎたと思ったのだろうか。手にしたカルテを机に置いて、そっと綾子の頭に手を乗せて来た。
「そう、心配しなくてもいいよ。幽霊の話なんて、ほんの冗談なんだからさ」
「う……。で、でも……」
「だから、大丈夫だってば。だいたい、幽霊を見た者が死んじゃうんなら、どうやって噂が広まるっていうんだい?」
幽霊話など単なる噂だ。だから、気にせず仕事に戻って欲しい。ほとんど気休めにもなっていない言葉だったが、それでも栗木にそう言われると、綾子も少しばかり気が楽になった。
今日はこれからが大変だ。栗木の出て行った後の部屋で、綾子はしばし自分の受け持ちの患者のことを考えた。
深夜であっても、ナースコールがあれば患者の下へ出向かねばならない。特に、お年寄りの患者は心配だ。昨日まで快方に向かっていたのに、急に容体が悪くなることも普通にある。
だが、綾子にはそれ以外にも、少しばかり気になる患者が存在した。
病室番号305号。名前は、確か木下奈津美と言っただろうか。まだ小学生くらいの女の子だったが、随分と長い間入院生活を続けている。なんでも腎臓が悪いらしく、移植を受けねば完治しない病気らしい。
あの歳で、移植を待ちながら透析を続けるのは、さぞかし辛いことだろう。透析の痛みは大人でも泣きたくなるほどだというのに、彼女はまだ小さな子どもなのだ。
現に、綾子は奈津美がなんどか泣いているのを見たことがある。透析は辛い。透析は痛い。そう繰り返して、頑なに治療を拒み泣き叫んでいる彼女を前に、何もしてやることができなかった。
自分は無力だ。患者の痛みや苦しみを少しでも代わってやることができたなら、どれだけ彼女の助けになるだろうか。そう思い、せめて話だけでも聞いてやろうと、気づけば奈津美の話し相手になっていた。
仕事の休憩の合間を縫って、綾子は奈津美とよく話をした。最初は緊張していた奈津美も、直ぐに綾子とは打ち解けて、色々と話をしてくれるようになった。
病気が治ったら、美味しい物をうんと食べたい。いや、その前に、思い切り野原を全力で駆け回りたい。いやいや、それよりも先に、まずは学校の友達と会って、色々と積もる話をしたい。そんな他愛もないことを、時間の許す限り聞いてやった。
奈津美の両親は仕事で忙しい。常に見舞いに来られるというわけでもなく、奈津美にとっては綾子に姉か母親の面影を抱いていたのかもしれない。
そんな奈津美ではあったが、最近になって妙なことを口走るようになった。
夜中になると、自分の部屋を誰かが歩き回っているような感じがする。確かめようと思って身体を動かそうとしても、何故か身体が動かない。そればかりか、目の前に童話の世界から飛び出して来たような怪物がたくさん現れて、奈津美をうんと怖がらせるのだという。
これは夢だ。そう思ったところで、大抵は目が覚める。が、しかし、夢で味わった恐怖は忘れることができず、結局は眠れぬ夜を過ごすことになってしまう。
怖い夢を見て眠れない。そんな奈津美の姿が、綾子には幼き日の自分のように映っていた。
自分も怖い話は苦手だった。怪談話を迂闊に聞いて、眠れなくなったことが何度もある。だからこそ、奈津美の気持ちも解るのだ。傍から見れば下らない悪夢でも、当の本人からすれば大変な恐怖だということが。
「もし、次に怖い夢を見たら……」
去り際に、綾子は奈津美に優しく告げた。
「ナースコールで、私を呼びなさい。奈津美ちゃんが眠れるまで、ずっと一緒にいてあげるから」
そう言って、奈津美の手を握ってやったのは記憶に新しい。病は気からとも言うが、その言葉はある意味では当たっていると思う。日頃から闘病生活を続けている奈津美にとって、少しでも心の支えになれれば幸いだと。
(奈津美ちゃん……。今日は、ちゃんと眠れているかしら?)
不安が頭をよぎる。去り際に見た笑顔から、心配はないと自分に言い聞かせる。
だが、そんな矢先にナースコールが鳴ったことで、綾子は思わずハッとして顔を上げた。
噂をすれば、なんとやらだ。が、点滅するランプの下にある数字。病室番号を示すそれを見て、直ぐに胸を撫で下ろした。
「奈津美ちゃんじゃない……」
病室番号は403号。奈津美とは関係ない、赤の他人が寝ている部屋だった。
時刻は既に夜の二時。あんな話を聞いた後では気が重いが、それでも行かねばならない。看護師である以上、そこに自分を呼ぶ患者がいる限り、放っておくわけにもいかないのだから。
不安な気持ちを押し殺し、綾子はそっと部屋を出た。瞬間、廊下の空気が肌に触れ、背筋に冷たい物が走る。
春先とはいえ、夜が寒いのは承知していたつもりだ。しかし、それにしても今日は寒い。まるで冬に逆戻りしたかのように、廊下の空気が冷え切っている。
いったい、これはなんだろう。なにやら嫌な予感がしたが、直ぐに気持ちを切り替えて小走りに歩き出す。
あの部屋に入院していたのは、確か富樫とかいう年配の女性だ。看護師仲間からは、あまり良い噂を聞かない老婆である。最近は少し痴呆も始まっているのか、下らない迷信を真実だと思い込んで譲らないのだとか。
(嫌だなぁ……。早く済ませて、さっさと部屋に戻らなきゃ……)
薄暗い廊下の中に、綾子の足音が響き渡る。病院の外を吹く強い風が、窓ガラスをガタガタと音を立てて揺らしていた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
深夜の国道を、栗木は愛車のセダンを走らせながら考えていた。
今日、病院を出る前に、看護師の綾子に語った怪談話。一部の医師や看護師達の間で囁かれている下らない噂話だったが、まさかあそこまで怖がるとは思わなかった。
「まったく……。ちょっと冗談のつもりだったのに、なにも泣かなくてもいいと思うんだけどな……」
自然と口から言葉が毀れる。あの程度の話、普通の大人であれば、とんだ子供騙しだと言って鼻で笑っているはずなのに。
まあ、それでも栗木自身、綾子の気持ちも少しは解らないでもない。
あれは、一昨日の晩だっただろうか。夜勤で仕事に入っていた際、唐突に看護師からの呼び出しが入った。なんでも、203号室の患者の容体が急変したとかで、大至急来て欲しいとのことだった。
こんな夜中に、できれば勘弁願いたい。そう思っても、看護師の手前、患者を見捨てるわけにもいかない。
仕方なく、栗木はできるだけ急いで203号室の患者の下へと足を急がせた。幸い、患者の容体はそこまで悪くなく、喉に痰を詰まらせて苦しんでいるだけだった。
適切な処置を施せば、大事には至らない症状だ。患者の喉に詰まった痰を取り、栗木は安堵の溜息を吐きつつ病室を後にした。そして、その帰りに見てしまったのだ。病院の廊下の向こう側、旧病棟へ続く渡り廊下の方へ向かう、小さな女の子のような人影を。
今思えば、あれが噂の幽霊だったのかもしれない。しかし、だからどうしたと栗木は思う。
あの時間、確かに子どもの患者が歩き回っているのは少しおかしいだろう。が、仮にその少女が幽霊だったからといって、何か実害があったわけでもない。
病院は、常に人の生と死が交錯する場所だ。中には治療の甲斐も虚しく、この世を去った患者もいたことだろう。そんな患者達の無念の想いが、病院の中に残っていても不思議ではない。病院に幽霊など縁起でもないと言われそうだが、もしも霊魂というものが本当にあるのなら、その一つや二つが病院の中を漂っていてもおかしくはない。
「ふぅ……。いったい、俺も何を考えているんだか。まだ、あの日に見た女の子が幽霊だって決まったわけでもないのにな」
車が緩やかなカーブに差し掛かったところで、栗木はしばし苦笑しながら呟いた。
今日の自分はどうかしている。悪戯に、あんな話を綾子に話したのが拙かったのだろうか。
幽霊の存在など、自分は端から半信半疑だ。それに、今はそんな下らないことよりも、もっと大切なことがある。自分の今後の人生をかけた、極めて重要な取引が。
そう、栗木が思った矢先に、彼の横で唐突に携帯電話が鳴り始めた。
メールではなく電話の呼び出し音。こんな夜中に誰だろう。訝しげに思い電話を手に取るが、なにしろ今は運転中である。付近に巡回中のパトカーはいなかったが、それでも自己を起こしてはたまらない。
仕方なく、栗木は一度車を止めて、改めて電話の着信履歴を調べてみた。
「えっと……なんだよ、非通知かよ。これじゃあ、かけ直そうにもかけ直せないな」
こんな時間に非通知の電話。大方、悪戯か何かだとは思うが、それでも万が一ということもある。もし、明日の取引相手からの連絡だったのであれば、こちらからかけ直さないのは失礼だ。
「えっと……。彼の名刺、どこへやったっけ?」
相手の連絡先は、自分の携帯電話に登録していなかった。栗木はなんとも思っていないが、相手が自分の携帯番号を登録されるのを嫌がったからだ。
連絡先の書かれた名刺を探し、栗木は自分の鞄を開けて名刺入れを取り出した。薄暗がりの中、目を凝らして名刺を探しているところで、ふいに妙な音がするのに気が付いた。
――――キチ……キチ……。
「なんだ?」
金属と金属を擦り合わせたときに出るような、妙に耳障りで不快な音だ。
音の原因となりそうなものは、近くにない。空耳かと思って再び名刺入れに目をやったところで、再び先程の音が耳に届いた。
――――キチ……キチ……キチ……。
今度は、よりはっきりと聞こえていた。しかも、音のした場所が先程に比べても近い。初めは気のせいかとも思ったが、間違いない。
「なんだってんだよ……ったく」
車のエンジンブレーキを入れて、栗木はドアを開け外に出た。もしや、どこか車の調子が悪くなったのかと。そう思ったからだ。
外に出ると、雨は既に止んでいた。だが、色々と調べてみたところで、車には傷一つ付いてはいなかった。
当たり前だと栗木は思う。ここに来るまでにどこかにぶつけたこともなければ、整備を怠ったわけでもない。車検には出して戻って来たばかりだったし、故障の原因になりそうなものは何もない。
やはり、考えすぎだったか。首を傾げつつも、栗木は車のドアに手をかけた。こんなところで遊んでいる場合ではない。早く相手に連絡しなければと。そう、彼が思った瞬間、先程とは比べ物にならないほど近くで音がした。
――――キチ……キチ……キチ……キチ……。
「……っ!?」
思わずドアに伸ばした手を引っ込め、栗木は耳元を抑えて顔をしかめた。
耳の奥が痛い。鼓膜を直接針で突かれたような痛みが走り、頭に直接音が響いて来る。
――――キチ……キチ……キチ……キチ……キチ……キチ……。
だんだんと、音が近づいて来た。それに伴い、耳の奥を引き裂くような痛みもまた増して来る。
もう、これ以上は限界だ。思わず車のドアにあったガラスに拳を叩きつけようとしたところで、栗木は自分の目に映るものを疑った。
「ひっ……!?」
煌々と輝く二つの光。ドアガラスに映ったそれは、しかし栗木の後ろには存在しないもの。まるでガラスの向こう側から、別の世界からこちらを覗き込むようにして、しっかりと栗木の姿を捉えていた。
「な、なんだ、こい……」
それが、栗木の残した最後の言葉だった。
次の瞬間、ドアガラスから飛び出したそれは、一陣の影のようにして栗木に飛び掛かって来た。
言葉は最後まで紡がれない。悲鳴は誰にも届かない。聞こえるのは、ただ肉を食いちぎり咀嚼するような音。獰猛な野獣が、捕えた獲物の身体を貪る音だけだ。
自分の身に何が起きたのか。それを理解するだけの時間もなく、栗木の意識は二度と再び浮かび上がることはなかった。光の届かない永遠の闇。一度落ちたら抜けられぬ、奈落の底へと吸い込まれるように消えて行った。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
誰もいない病院の廊下。患者の寝静まった深夜、綾子は焦る気持ちを抑えつつも、当直部屋へと足を急がせていた。
先刻のナースコール。緊急だと思い慌てて駆け付けたが、患者は別に具合が悪いというわけではなかったようだ。
入院していた富樫という老女は、部屋にやって来た綾子を見るなり言ったのだ。
今日はなんだか、部屋の空気が薄気味悪くて眠れそうにない。医者に言って、良く眠れる薬をくれないかと。
まったくもって、馬鹿らしい。怒ってはいけないが、ついそんな気持ちが頭に浮かんで来てしまう。
こちとら、夜も寝ずの番をしながら、入院患者の容体が急変しないかどうか見張っているのだ。その上、今日は奈津美とも約束した晩。もし、彼女が悪夢にうなされていたらと考えると、目の前の老女の相手をしている時間も惜しまれる。
片や、悪夢で眠れない少女がいる一方で、同じく眠れないから薬をくれという老婆が入る。目の前の患者が悪いわけではないと知ってはいても、なんというか、やるせない気持ちになってくる。
「申し訳ありませんが、そう簡単に薬をお出しするわけにはいかないんです」
それだけ言って、なんとか老婆を宥めて部屋を出た。廊下に出ると、先程の冷たい空気が再び肌に張り付くように襲って来た。
(うぅっ……。なんで、今日に限ってこんなに冷えるのよ……)
三階へと続く階段を下り、綾子は自分の手が妙に汗ばんでいるのに気が付いた。身体が震えるほど寒いのに、掌だけは妙に生温かく感じられた。
医者の不養生という言葉があるが、まさか夜の冷気に当てられて風邪でも引いたのだろうか。
いや、違う。この汗の原因は他にある。ただ、それを考えたくなかっただけ、思い出したくなかっただけだ。
深夜、病院を徘徊する女の子の幽霊。しかも、その姿を見た者は死ぬなどという、ありがたくないおまけ付き。先程の栗木の話が頭を掠め、悪寒が全身を駆け抜けた。
考えては駄目だ。あんな話は全て単なる噂話。そう、栗木も言っていたではないかと頭では思っても、やはり身体は正直だ。
足が竦んで動かない。ほんの僅か、たった一歩を踏み出すだけでも、古びた吊り橋を渡るくらいの勇気がいる。
そろそろと、足音を忍ばせるようにして、綾子は息を殺しながら廊下を歩いた。背中は壁にくっつけている。何故かと聞かれれば、特に理由はない。ただ、自分の丸腰の背中を誰かに見せたくないと、本能が自然に働いていた。
廊下の角を曲がり、綾子は暗く光のない先へと視線を向けた。
(あれ……?)
ふいに妙な違和感を覚え、綾子は思わず目を凝らした。
目の前を、誰かがこちらに向かって歩いて来る。背丈からして子どものようだ。腰まで伸びた黒い髪と、病院には不釣り合いな黄色いワンピース。
どろっとした空気が肌を撫で、全身に鳥肌が立つのが綾子にも解った。
まさか、あれは噂の幽霊ではあるまいか。姿を見た者は死ぬという、栗木の話にあった少女の霊。そう考えると、もう駄目だった。
「あ……あぁ……」
掠れた声が喉の奥から漏れ、懐中電灯を握る手がガタガタと震えていた。
最悪だ。夜勤の日に、よりにもよって怪談話を聞かされたその日に、本当の幽霊に出会ってしまうとは。しかも、見た者は死ぬと噂される、死神のような存在に。
(に、逃げなきゃ……)
心臓の音が、どんどん大きくなって行く。相手に気取られてはいけないと解ってはいるが、一目散に逃げ出したい衝動に駆られて抑えきれない。
まるで蛇に睨まれた蛙だ。金縛りなど遭ったこともなかったが、今の自分の状況を一言で言い表すならば、正にその言葉が相応しい。身体が動かず、声を出すことも叶わない。その間にも、相手との距離はどんどん縮まって来るわけで。
もう駄目だ。自分はあの少女の霊に殺される。
覚悟を決めて、思わず身体を強張らせる綾子。が、次の瞬間、辺りの空気がふっと軽くなったかと思うと、途端に目の前の気配が消えた。
「えっ……?」
そっと目を開けてみると、そこには誰もいなかった。廊下の先には、ただ真っ暗な闇が広がっているだけだ。黄色いワンピースの少女などいない。まるで、最初からそこに何もなかったかのように、綾子の前から忽然と姿を消していた。
いったい、あれは何だったのか。栗木から妙な話を聞いたことで、幻覚でも見ていたのだろうか。
馬鹿馬鹿しい。幽霊話など、所詮は単なる噂話。作り話の類に過ぎないと、なにより話していた栗木自身が言っていたではないか。
全ては目の錯覚だった。自分は今まで何を怖がっていたのだろう。なんだか急に気が楽になり、自然と口から言葉が毀れた。
「ホント、下らないわよね……。だいたい、病院に幽霊だなんて、そんな縁起でもない話を信じてどうするのよ……」
自分にもはっきりと聞こえるくらいの声で、綾子はわざと言ってのけた。残された恐怖心の欠片を消し飛ばす意味もあったが、それ以上に自分の情けない姿を恥じ、それを隠そうとすることの方が大きかった。
とりあえず、こうしていても仕方がない。早く部屋に戻り、溜まった仕事を片付けねば。そう思い、再び足を踏み出した時だった。
(えっ……!?)
突然、先程と同じ、否、それ以上に重たい空気が綾子の両肩に圧し掛かって来た。
身体が冷たい。そして重い。全身を襲う鳥肌と、首から胸元にはっきりと感じられる氷のような感触。
ゴクリ、と唾を飲み込んで、目線だけを下に降ろす。その先にあったもの見た瞬間、綾子の心は文字通り完全に凍りついた。
「ひっ……!?」
小さな青白い日本の腕が、首筋から胸元にかけて降ろされている。気づけば背中がずっしりと重く、後ろから何やら冷たい息が背中にかかっている。
これは何だ。先程のことは、悪い夢ではなかったのか。
頭の中で警告音が鳴り響く。見てはいけない。振り向いてはいけない。しかし、その言葉とは反対に、目線はどうしても後ろの方へと向けられて行く。自分の背中にいる者、自分が背負っている者の正体を、この目で確かめようと動いて行く。
「……っ!?」
首をほんの少し右に傾けたところで、綾子は今度こそ本当に言葉を失った。
そこにあったのは、紛れもない小さな少女の顔だった。黄色いワンピースを着た髪の長い女の子。先程まで目の前にいた幽霊が、今や自分の背中にいる。
だが、それ以上に彼女を驚愕させたのは、他でもない少女の顔だった。
少女の顔には目玉がなかった。そればかりか、口と呼べるような口もない。本来であれば目と口のあった場所には、大きな黒い穴が開いているだけだった。
埴輪の顔だ。感情の起伏も、ましてや生気さえ感じさせない凹凸のない表情。ぽっかりと開いた黒い穴の向こう側には、決して先の見えない闇が延々と広がっている。そんな少女が自分の背中におぶさって、冷たい息を吐いている。
これ以上は限界だ。少女の瞳に奥にある、深淵よりも深い闇。その先を覗こうとしたところで、綾子の意識はふっつりと途切れた。
本作品は一部に暴力的な表現を含みますが、これは作中の暴力行為その他を推奨するものではありません。
また、一部の人間が差別的な考え方に囚われて非道な行いを働いたり、それらの人間が法ではなく、個人の意思や超常的な存在によって裁かれる描写が存在します。
これらの描写に対して政治的道徳観、及び宗教観から不快な思いをされる可能性がある方は、これより先の内容を読むことを控えるようお勧めいたします。