プロローグ
1930年5月23日 GMT1400 タウンゼンの森
真昼だというのにここ、タウンゼンの森は高い針葉樹の広く拡散する大きな葉のせいで太陽の光がほとんどささない。まるで闇夜の暗がりのように気味が悪いと小隊の全員が思った。ここ数日間続いた雨の落とし物がまだ腐葉土に埋め尽くされた地面はぬかるみのごとく彼らの底が薄くなった軍靴をとらえる。先頭を歩く小隊の指揮官らしき男は珠のような汗を額に浮かべている。完全に敵地を行軍しているため全員が極度の緊張を強いられているのだ、しかもこの深い森なら尚更。すぐ目の前の茂みから伏兵があらわれてもおかしくない。
瞬き間に共和国製の機関銃がうなりをあげ、何十というライフル銃が火を吹く一一一そんな光景を彼らは何度とも頭に思い浮かべる。
ただただ、沈黙が彼らをつつんでいた。手にもつプロシア帝国正式採用ボルトアクション式のライフルの重さだけが彼の体力を奪うわけではなかった。森に入ってまだ三時間というのに、彼らの足取りは軽くはなくココロは踊ってはいなかった。数秒後の自分の生命の保証ができない、このことが彼らの精神力を削いでいった。加えて共和国の一方的な開戦布告から三ヶ月、ろくな補給や休息もない。大規模な増援部隊が帝都で編成されつつあると噂立つが、それを信じる兵は多くはなかった。
戦場で兵士を支えるのは噂ではない。自分自身の経験やスキル、そして自らの指揮官の能力だ。
(しかしなあ)
指揮官の男は決して有能ではなく、士官学校をでたばかりのプライドだけ高いひよっこ、というのが小隊の副隊長をつとめるランス軍曹の評価である。
(まったく、やってらんねえぜ)
軍曹はこころのなかで毒を吐く。それもしかたないことだろう。そもそもこの任務自体ただの尻拭いなのだから•••
軍曹はこの小隊では最古参のヴェテランである。若いながらも、もらった勲章の数は籠ひとつ満たすともっぱらの噂だ。しかし兵士として優秀なだけではなく指揮官としてもすぐれた能力を持ちながらも彼が小隊の指揮官になることが難しいのが、プロシア帝国軍の旧態依然とした面の一つだ。
(まあ、気楽なのはいいんだが•••今回はちとばかり大変そうだな)
指揮官の無能は部下の死に直結する。このことを軍曹はよく知っていた。
(それに、嫌な予感がするぜ••••••まるで、だれかに見張られてるような気が•••)
軍曹は額の汗を拭う。そして自分のライフルに弾が込められていること確認する。
(俺の予感は良くあたるからなあ、気いつけていくか•••)
そして軍曹の感が正しいことは、すぐに証明されることとなる。
一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一
同年同日 GMT1500時 ヨラム駐屯地
ひとりの男が列車のフラップを降りて駐屯地内の駅に立つ。泥臭い風が鉄のオイルと無数の人間の体臭を運んできて彼の嗅覚を刺激する。その一陣の風は彼のいつかの戦火の記憶を呼び起こすには十分すぎるものであった。
男の名前はミッコ•ハルトマン、長身細身でありながら筋肉質であり全く頼りなささを感じさせない。大きな兵嚢を楽々担ぎ、肩にはライフルをかけいかにも兵士風の格好でありながらその軍服には小さいながら輝く士官の階級章がつけられている。端正な顔立ちが軍帽から見え、切れ目がちの眼の、どんな色とも言い表せないくぐもった瞳は見る者の心をざわつかさせる。
帝都から南に300kmにある帝国南部地方最大の都市ヨラム。そこにあるヨラム駐屯地はプロシア帝国南部における最大の駐屯地であり現在共和国との戦争の最前線の基地でもある。帝都と直接線路がつながっていて即座に兵力を送り込むことが可能となっている。が、共和国との開戦から三ヶ月、その線路はまともな機能をはたすことはなかった。しかし、そして今ようやく、第一陣の増援部隊が到着したのだ。
ミッコに続いて多くの兵士が列車を降りて、駐屯地に足をつける。あっという間に彼の姿は人ごみの雑踏に消える。そんなミッコの前にひとりの若者がたつ。ミッコとは対照的な大きな丸い眼に色鮮やかなブルーの瞳、軍帽で顔の半分近くがかくれているがはっきりと綺麗な顔立ちとわかる。中肉中背で肩幅は狭く、肩にかけるライフルが大きくみえる。ミッコの第一印象としては戦場よりも舞台の上が似合う、男というより少年、町に一人はいる華奢な美少年、そんな感じだ。
「ミッコ•ハルトマン中尉でしょうか?」
「そうだ。君は?」
「はっ、自分はフリード•ヨーツンへイム二等兵です。案内に参りました」
丁寧な声音でフリード二等兵はミッコに答える。
「ご苦労さま。」
「司令がおよびです。至急司令室に来るように、と」
「どのような用件か、わかるか?」
「司令室までの道中に説明するように司令から指示されています」
「わかった」
フリード二等兵は顔を曇らす。その表情からわけあり、らしいことをミッコは読み取った。
「では、向かいましょう」
兵士の寝泊まりする兵員宿舎が林立する通りを雑多な兵隊達が埋め尽くしていた。その多くはその場に座り込み、うつろな瞳で宙に視線をそそいでいた。泥にまみれた軍服にボロ雑巾のごとくの軍靴をみにつけ、どこかしらには血がにじんだ包帯をまいていた。良くみれば、ミッコの前を歩くフリード二等兵もぼろぼろの軍服にあせた色の赤色がところどころに滲んでいた。
「しかし、酷いな。全員ぼろぼろだ」
思わず、ミッコは口をひらいた。通りすぎた道の一角から強烈な腐臭を一瞬感じたからだ。
「三ヶ月間連戦です。予備兵力もとうの昔に尽きました。最早立って戦える者はこの駐屯地に二千人といません。しかもその内の千人は今まさに死につつあります」
「どういうことだ?」
「•••中尉はどの程度まで現在の戦況についてお知りになっていますか?」
「新聞にでてる程度しか持ち合わせていないが、戦線は膠着していて国境から60キロ地点まで共和国軍が進軍しているのは知っている」
「いいえ、国境から100キロ地点というのが正しい数字です。ここの駐屯地から40キロまで敵は迫っています。そして、現在僕たち帝国南部方面軍は壊滅状態にあります」
そんなこと、新聞には載ってはいなかった。戦力は拮抗しているはずではなかったのか。少なくともミッコがとっている新聞にはそう記されていた。
「この状態を打開するためには大規模な増援とその到着まで共和国軍の進撃を止める必要がありました。そして開始されたのが、ラインツベルク奪還作戦です。」
「南部第二の都市だったかな、ラインツベルクは」
「そうです。共和国軍はそこに拠点を置き軍を集めています。完全に敵の準備が整う前に攻撃し、部隊の集合を阻止して一時的にでも共和国軍の進撃を食い止める、それがラインツベルク奪還作戦です。この駐屯地から一個連隊と他の南部方面の基地から更に一個連隊が投入されました。この二個連隊はなけなしの残存兵力でした。しかし、作戦は」
「失敗、したわけか」
フリード二等兵は苦々しく笑う。
「雑な作戦計画のおかげで攻撃部隊はラインツベルク郊外で包囲され、現在も圧倒的に不利な状態での戦闘を強いられています」
「退路は開けないのか?」
「恐らく、中尉が呼ばれたことに関係することですが、この基地から一個小隊が退路を開くために今日の1100時に出撃しましたが
1430時に連絡を断ちました」
「それで、更なる救援部隊が必要というわかけか」
フリード二等兵はうなずく。
「•••詳細は司令にお聞きください」
気がつけば、ミッコは宿舎の通りを抜け無駄に立派なレンガ造りの建物の前に立っていた。木製の扉の上には『南部方面軍司令部』と金文字のプレートが光っている。死につつあるこの駐屯地にそれがどれほどミスマッチであるか、言うまでもないだろう。
「どうぞ、中尉」
フリード二等兵は扉を開け、ミッコに入るように仄めかす。
「では、自分は外で待っていますので」
「中に入らないのか?」
「司令はブルーブラッド以外の人間を見るのも嫌そうなので。自分は外に待機しています」
フリード二等兵の言葉に込められた意味をミッコは理解して苦笑いを浮かべた。
ブルーブラッド。貴族の血は一般の人間とは違い赤色ではなく青色らしい。高貴な青色。勿論嘘っぱちだ。馬鹿げた話だが、貴族どもは自分のエリート意識からかよく用いる。自分の血は赤色で、貴族だろうが浮浪者であろうが変わらないことだと思いたくないらしい。つまりここの司令は自分の血の色もしらない貴族軍人、というわけらしい。
「案内ありがとう、フリード二等兵」
「はっ!!」
ミッコは笑顔で二等兵の脇を抜けて司令部の中へと足を踏み入れた。だが、すぐに笑顔は顔から消える。
司令部の中は静けさが占拠していた。だが人の気配が全く感じられないわけではなかった。時折部屋部屋から聞こえる怒声に近い指示や入り口の扉から慌てふためく士官クラスの人間がミッコに目もくれず走って脇を駆けていく。間違いなく戦闘の指揮をとっている。それも状況は芳しくないことをミッコは感じ取る。
「ちょっといいか?」
ミッコは士官の一人を捕まえて聞く。士官を露骨にめんどくさそうなこ顔を露にする。
「なんだ、ようがあるなら早く済ませてくれ」
「ここの司令に会いたい」
「だったら、そこの部屋だ。あんた、ひょっとして•••」
「さっきここに着いた、ミッコ•ハルトマン中尉だ」
「へええ、あんたがねえ。そんなんには見えないね」
「••••••」
士官の男は好奇なものを見る目つきでミッコを見る。その理由に自ずと理解したミッコはこの士官に礼も言わずに士官が告げた部屋へと向かう。この士官との会話を盗み聞きしてか、司令部内の人間がミッコの姿をのぞき見るように彼のほうに顔をむける。その視線を振り払うかのように、ミッコは目的の部屋のドアをノックしてノブをまわした。
ミッコは英雄だ。少なくとも、そう呼ばれた。名誉なことだと思うだろうか?
ミッコはそうとは思わなかった。むしろこの上なく不名誉なことだと考えている。だから一度は軍務から離れた。
だが、またこうして彼は戦場に舞い戻ってきた、死んでいった友人、恩師との約束を果たすために。
「ミッコ•ハルトマン中尉、ただいま着任しました」
直立不動の姿勢で最高敬礼をするミッコの瞳は鈍くだが力強く輝いていた。またここから彼の戦いが始まるのである一一一一
続くよ^^