離縁の前夜、私たちは初めて喧嘩をした
「君が望むなら、そうしよう」
離縁届を差し出したエレナに、夫はそう答えた。理由を尋ねることも、引き止めることもない。書類に目を通すと、机の端に置かれたペンへ手を伸ばす。
「あ……」
思わず声が漏れた。ユリウスの手が止まる。
「どうした?」
「……何でもありません」
自分から離縁を申し出たのだ。署名されるのは当然だろう。それなのに、こんなにも簡単に受け入れられるとは思っていなかった。
結婚して三年。二人は一度も喧嘩をしたことがない。以前は、それを幸せな結婚の証しだと思っていた。
「本当に、よろしいのですか」
「君が望んだことだろう?」
「そうですけれど」
「今後の暮らしで心配なことがあれば、遠慮なく言ってほしい。できるだけ希望に沿うつもりだ」
エレナは膝の上で指を組んだ。
まただ。この人は、いつもそうなのだ。
「理由を、お聞きにならないのですか」
「学び舎のことだろう」
「それもあります」
「移転先を決められなかったのは僕の責任だ。申し訳なく思っている」
「……分かっていらしたんですね」
「ああ」
エレナは笑いそうになった。笑えるはずのない話だった。
夏の豪雨で領地の穀物倉庫が損傷し、冬の食料を保管する場所が足りなくなった。そこで、エレナたちが子どもの学び舎として使っていた旧収税所を、備蓄倉庫へ戻すことになった。
建物は伯爵家の所有で、使用許可は九月末まで。食料を守るために必要な措置だったから、エレナも反対しなかった。ただし、子どもたちには新しい教室が必要だった。
「移転先の候補を三つ、お渡ししましたね」
「覚えているよ」
「どれも、お返事をいただけませんでした」
「一つ目は家賃が高すぎた。二つ目は冬の坂道が危険で、三つ目は十分な明るさを確保できそうになかった」
「……そこまで分かっていたのですか」
「ああ。けれど、君が懸命に考えた案だったから、反対しづらくて」
「それなら、そう言ってほしかったんです」
「君の努力を無駄にしたくなかった」
「何も決めなければ、無駄にならないとでも?」
ユリウスが目を見開いた。夫にこんな言い方をしたのは、初めてだった。
「……すまない」
「謝ってほしいわけではありません!」
思わず声が大きくなった。
「今、子どもたちは北岸の教会で勉強しています。机が足りなくて、板を膝に載せて字を書く子もいるんです」
昨日、一人の男の子に尋ねられた。いつになったら元の教室へ戻れるのか、と。
「何も答えられませんでした。私はずっと、あなたのお返事を待っていたから」
「……エレナ」
「何度も確認しましたよね。そのたびに、もう少し考えようとおっしゃいました」
「君をがっかりさせたくなかったんだ」
「では、今の私はがっかりしていないと?」
ユリウスが口を閉じた。その沈黙を見て、エレナは堪えきれなくなった。
「また黙るんですか」
「……何を言えばいいんだ」
「あなたの考えです。私に合わせた答えではなく、あなたがどう思っているのかを聞きたいんです」
「だから、今、話しているだろう」
「いいえ。あなたは私が問い詰めなければ、何も言わない!」
ユリウスの表情が変わった。
「……君だって、僕に何も聞かなかったじゃないか」
エレナは言葉を失った。
「何ですって?」
「学び舎が忙しいのは分かっていた。でも、僕だって君と夕食を取りたかった。仕事の話ではなく、ただ二人で過ごしたかったんだ」
「そんなこと、一度も……」
「言わなかったよ。君が疲れているのは知っていたから」
「だったら、どうして今になって!」
「君が僕の考えを聞きたいと言うからだ!」
初めて聞く声だった。ユリウスは立ち上がりかけ、すぐに椅子へ座り直した。
「……僕だって、寂しかったんだ」
エレナは唇を噛んだ。
「だったら、そう言ってください」
「君はいつも忙しそうだった。帰ってきても学び舎の図面を広げていた。僕が何か言いかけても、明日にしてほしいと言われることがあった」
「仕事だったんです」
「分かっている」
「子どもたちが待っていたんです。あなたなら分かってくださると思っていました」
「分かっていたよ!」
ユリウスは彼女をまっすぐ見た。
「でも、君が仕事を大切にすることと、僕が君と一緒にいたいことは、両立しないのか?」
エレナは答えられなかった。夫はいつも穏やかで、不満など抱いていないのだと思っていた。
「……私だって、あなたと話したかった」
絞り出すように言った。
「夕食のとき、今日あったことを話したかった。面白い本を見つけたら、一緒に読みたかった。でも、あなたはいつも『君の好きにするといい』としか言わなかった」
「君が望むことを、邪魔したくなかったんだ」
「私は、あなたに邪魔されたかったわけじゃない!」
エレナは椅子から立ち上がった。
「一緒に考えてほしかったんです!」
部屋が静まり返った。二人とも息が上がっていた。
結婚する前は、よく意見を交わした。旧収税所を学び舎に改修するとき、窓の大きさや机の高さを巡って、何日も話し合った。ユリウスが費用を計算し、エレナが図面を書き直す。
あの時間が好きだった。
ある日、彼は笑いながら言った。
『まだ君に反対したいところが三つあるんだ』
エレナは答えた。
『では、あと三日お話しできますね』
意見が違うたびに、目の前の人をもっと好きになった。それなのに結婚後、二人は少しずつ遠慮するようになった。
「……覚えているかい」
ユリウスが静かに言った。
「結婚した翌年、君が教室を増やす準備で忙しかった頃のことを」
「……ええ」
「ある晩、君が持ち帰った図面に僕が反対した。君は、今日はもう何も考えたくないと言ったんだ」
エレナは記憶をたどった。確かに、あの頃は疲れ切っていた。
「それは……ただ疲れていただけです」
「今なら分かる。でも、あのときは僕の意見が君を苦しめたのだと思ってしまった」
「そんなことで……?」
「父は母のすることに何でも口を出す人だった。僕はあんな夫にはなりたくなかった」
ユリウスは俯いた。
「君が何かしたいと言えば認めようと思った。反対しなければ、君は自由でいられると」
「……それで、何も言わなくなったんですか」
「ああ」
「一度くらい、聞いてくださればよかったのに」
「怖かったんだよ。君に嫌われるのが」
エレナは返事ができなかった。夫がそんなことを考えていたなんて、今日まで知らなかった。
「でも、移転先を決めなかったのは僕の責任だ」
ユリウスが続けた。
「そこは君のせいにはできない。僕が判断しなければならなかった」
「……はい」
「ただ、僕が何も不満を持たずに暮らしていたと思われるのは違う」
エレナは目を伏せた。
「私も……あなたが何も言わないから、不満なんてないのだと思っていました」
沈黙が落ちた。エレナはまだ夫を好きだった。だからこそ、今聞いたことが苦しかった。
「僕は、離縁したくない」
ユリウスが言った。
「君と、これからも一緒に暮らしたい」
三年間、ずっと聞きたかった言葉だった。けれど、今になって聞かされても、すぐには喜べなかった。
「……遅いです」
声が震えた。
「もっと早く、言ってほしかった」
ユリウスは離縁届を見つめた。
「でも、今は言えた。だったら、もう一度やり直せないだろうか」
エレナはすぐに答えられなかった。
今すぐ夫の手を取れば、明日も同じ屋敷で暮らせる。慣れた部屋も、朝食の席も、彼の隣も失わずに済む。
けれど、それではきっと、同じことを繰り返す。
「……私は、しばらく一人で暮らしたいんです」
「一人で?」
「はい。学び舎を、伯爵夫人ではなく、一人のエレナとして続けてみたいんです」
「それなら、別々に暮らすだけでもできるんじゃないか?」
当然の疑問だった。エレナも、何度も考えていた。
「移転先を探していたとき、ある商人の方に建物を借りられないか相談したんです」
古い空き家だった。修繕費がかかるため、断っても構わないと伝えたつもりだった。
けれど商人は、困ったように笑った。
『伯爵夫人のお申しつけでしたら、私どもに断ることなどできません』
そんなつもりではないと説明しても、商人は頭を下げるばかりだった。
「私が個人の仕事だと言っても、伯爵家のお考えだと思われるんです」
ユリウスは黙って聞いていた。
「別居しても、伯爵夫人であることは変わりません。離縁したからといって、すぐに皆さんの見方が変わるとも思っていません。でも、そこから始めたいんです」
「僕は、君が今まで何も自分で決めてこなかったとは思わないよ」
「……はい」
「君はずっと努力してきた。学び舎が続いてきたのも、君がいたからだ」
ユリウスは言葉を切った。
「けれど、その仕事が伯爵家の立場と切り離せないことも事実なんだね」
「ええ」
「それでも、僕には君がいなくなっても構わないとは言えない」
「……はい」
「離縁には反対だよ」
エレナはその言葉を受け止めた。
「分かっています」
「それでも、行くのかい」
「行きます」
今度は、はっきり答えられた。
ユリウスは小さく息を吐いた。
「……そうか」
彼はペンを取った。
「一晩話せたからといって、三年間のことをなかったことにはできない。僕は納得していないし、今も君と別れたくない。それでも、君の決断を尊重したい」
エレナは頷いた。
「ありがとうございます」
さらさらとペン先が紙を滑る。署名を終えると、ユリウスは離縁届を机の中央へ置いた。
「明日、法務官へ届けよう」
「お願いします」
エレナは立ち上がった。扉へ向かいかけたとき、背後から名前を呼ばれた。
「エレナ」
振り返る。
「君は、僕のことを嫌いになったのか?」
ずるい質問だと思った。そんなことを聞かれたら、正直に答えるしかない。
「……嫌いになれたら、もっと簡単だったと思います」
エレナは部屋を出た。
廊下には、いつものように灯りがともっている。明日、この屋敷を離れる。荷造りはもう終わっていた。
それでも、自室へ戻る途中で一度だけ足を止めた。
夫の執務室の扉は、閉まったままだった。
*
離縁が成立して最初の週、エレナは卵を三回焦がした。
「お嬢さん、卵に恨みでもあるんですか」
四回目の朝、大家のハンナが呆れたように言った。
「ありません。むしろ好きです」
「だったら、もう少し優しく焼いてやりなさい」
エレナは笑って火を弱めた。
町の小さな家の離れを借り、母から相続した資産と学び舎の仕事の報酬で暮らし始めていた。買い物では釣り銭を数え間違え、洗濯物は風に飛ばされた。
それでも、自分で家具を選び、仕事の図面を広げられる暮らしは気に入っていた。
町の教師や商人たちと運営委員会を作り、新しい学び舎を探し始める。
冬になる頃、伯爵家から正式な告知が出された。旧収税所を備蓄倉庫に戻す際、代わりの教室を用意できなかった責任を認め、教会の臨時教室へ不足していた机と暖房設備を手配したという。
エレナが教会を訪れると、子どもたちは新しい机で字を書いていた。
「もう板を持ってこなくていいんだよ」
男の子が嬉しそうに言った。
彼が、自分の責任を果たそうとしている。そのことは素直に嬉しかった。
冬の町の集会でも、エレナはユリウスの姿を見かけた。備蓄倉庫への道路整備費を町に負担させようとした管理官に、ユリウスが反対していた。
「町に負担を求める前に、伯爵家の支出を見直す。移転を決めたのはこちらだからね」
管理官の反論も聞いたうえで、費用の再検討を命じる。すぐに全員が納得する結論は出なかったが、彼は曖昧に話を終わらせなかった。
エレナは、その姿を少し離れた席から見ていた。
会議が終わると、運営委員会の仲間が待つ商会へ向かった。北岸にある古い事務所を、学び舎に使えそうだという話が届いていたのだ。
*
春、新しい学び舎の建物が決まった。
古い商会の事務所を修繕し、北岸の子どもたちが通える教室を作ることになった。ところが、雪解け水で増水した川に架かる石橋が、通行禁止になってしまう。
南岸の子どもたちは、新校舎へ通いにくくなった。
エレナは橋の補修案をまとめ、領主へ通行再開を申請した。
返事は、不許可。
理由を確かめるため、エレナは半年ぶりにユリウスの執務室を訪れた。
「久しぶりだね」
「お久しぶりです」
ユリウスは調査報告書を広げた。
「橋脚の基礎が傷んでいる。君の案では、安全を保証できない」
「でも、橋が使えなければ、南側の子どもたちは遠回りになります」
「分かっている。それでも許可はできない」
反対されるのは、やはり少し悔しかった。
「報告書を、見せていただけますか」
「もちろん」
図面には、露出した基礎と損傷箇所が記されていた。専門的な部分は難しかったが、すぐに子どもを通すべきでないことは理解できた。
「……別の方法を考えます」
「ああ。その方がいいと思う」
エレナは報告書を返し、立ち上がった。
「ありがとうございました」
「エレナ」
「はい?」
「鉛筆が耳についているよ」
右耳に触れると、確かに一本挟まっていた。
「……またですか」
ユリウスが笑った。
「相変わらずだね」
「半年も経ったんですから、少しくらい変わったと言ってください」
「そうだな。前は二本挟んでいた」
「ユリウス!」
思わず声を上げると、彼は堪えきれずに笑い出した。エレナも笑った。
仕事で訪ねたはずなのに、帰る頃には少しだけ足取りが軽くなっていた。
*
橋を渡れないのなら、南側にも教室を作ればいい。
そう思いついたのは、エルシーという少女の家を訪ねたときだった。学校へ通えなくなってから、エルシーは弟に文字を教えているという。
「先生に教わったところまでしか分からないけど、弟よりは知ってるもの」
少女は得意そうにノートを見せてくれた。少し曲がった文字が並んでいる。
「お母さんにも教えてあげるんだよ」
「まあ、そうなの?」
「うん。でも、お母さんは仕事で忙しいから、なかなか時間がないの」
南側には、もともと学び舎で教えていたマルタ先生も住んでいた。
教師が子どもたちのところへ行けばいい。
エレナは建物を探し直し、織物組合の帳場を見つけた。
「午後でしたら、空いておりますよ」
組合長のリディアは前向きに相談に乗ってくれた。広さは十分で、十二人分の机も並べられる。
廊下の奥には使われていない古い扉があったが、正面玄関の方が広くて便利そうだった。
エレナは机や教材の準備を始めた。正式な契約と安全点検は残っていたが、順調に進めば一週間後には授業を始められる。
そう保護者たちに伝えた翌日。
「申し訳ありません。このままではお貸しできません」
リディアから告げられた。
「……どういうことでしょう」
「帳場は空いているんです。でも、正面には午後も荷車が通ります」
窓の外を見ると、布を山積みにした荷車が門をくぐってきた。ちょうど、子どもたちが出入りする予定だった場所だ。
「でしたら、授業が始まる時間だけでも荷車を止めていただければ……」
「それは困ります」
入口から声がした。作業着姿の女性だった。指先には赤い染料の跡がついている。
「荷車が遅れれば、私たちの仕事が止まります」
エレナは彼女の顔を見た。
「あなたは……エルシーのお母様?」
「アダと申します」
アダはまっすぐエレナを見返した。
「娘は学校へ行くのを楽しみにしています。でも、そのために私の仕事が減ったら、あの子たちの食べるものをどうすればいいんですか」
エレナは言い返せなかった。
何度もこの建物を訪れている。窓の位置も、机の配置も測った。けれど、ここで働く人々が一日をどう過ごすのか、きちんと聞いたことがなかった。
「……もっと早く、お知らせいただければ」
口にした途端、リディアが申し訳なさそうに目を伏せた。
「奥様が、もう決めていらっしゃるようでしたので」
奥様。
離縁して半年以上が過ぎても、町の人々はそう呼ぶ。
アダが唇を結んだ。
「元伯爵夫人のお話に、私たちが簡単に反対できると思いますか」
その言葉が、胸に刺さった。
離縁前夜、ユリウスに伝えたことが頭をよぎる。自分に反対してほしかった。遠慮せず、本当のことを話してほしかった。
それなのに今度は、自分が誰かを黙らせていた。
エレナは図面を畳んだ。
「……開校を延期します」
リディアが顔を上げる。
「奥様?」
「皆さんのお仕事を止めるわけにはいきません。子どもたちにも危険です」
「でも、もう保護者の方々には……」
「私から説明します」
声が震えそうになった。エルシーの弟は、もう自分用の鉛筆を買ってもらったと聞いた。がっかりさせるのが、何よりつらい。
それでも、ここで押し通すわけにはいかなかった。
「申し訳ありません。皆さんのお仕事を、もっとよく知るべきでした」
アダは驚いた顔をした。
「いえ、私は……」
「学校は諦めません。ただ、今の案は取り下げます」
エレナは図面を鞄へしまった。
「もう一度、皆さんのお話を聞かせていただけますか」
アダはしばらく黙っていた。やがて、作業場の方へ目を向ける。
「……だったら、仕事が終わったあとに来てください」
「え?」
「荷車がどこを通るのか、全部見てもらった方が早いです」
「ありがとうございます」
「まだ教室を貸すと決めたわけじゃありませんからね」
「はい」
エレナは頷いた。
「それから、私はもう伯爵夫人ではありません。エレナと呼んでいただけませんか」
アダは困ったようにリディアを見た。
「……すぐには慣れないと思いますよ」
「ええ。それでも、少しずつ」
アダが初めて小さく笑った。
*
開校延期の説明を聞いたエルシーは、悲しそうに俯いた。
「来週から学校だって、弟に言っちゃった」
「……ごめんなさい」
「また、お母さんの仕事が終わるまで待たなきゃいけないの?」
「マルタ先生の授業は続けるわ。でも、新しい教室はもう少し待ってほしいの」
少女は小さく頷いた。
その日の夕方、エレナは織物組合へ戻った。アダたちに仕事場を案内してもらい、荷車の通路や作業時間を確かめる。
帳場の裏側まで回ったところで、アダが古い扉を指さした。
「昔はここから中庭へ出ていたそうです。裏通りにつながっています」
「子どもたちの出入口にできそうですね」
「でも、石畳が崩れているんです」
「修理が必要ですね」
「それなら、この中庭も直せませんか」
「中庭ですか?」
「布を干す場所が足りなくて困っているんです。子どもたちの道と仕切れれば、私たちにも使えます」
エレナは顔を上げた。
学校のためだけに借りるつもりだった建物。その工事が、職人たちの仕事にも役立つ。
そんな可能性は考えていなかった。
「必要な広さを教えていただけませんか」
「……私が?」
「はい。私は布の仕事について、何も知りませんから」
アダは少し考え、それから笑った。
「それなら、いくらでも注文をつけますよ」
「お願いします」
その晩、図面にはまず、布を干す場所が書き込まれた。そこから子どもたちの通路を分け、裏口の修繕を計画する。
職人たちは何度も意見を出した。エレナはそのたびに図面を書き直した。意見が増えるほど、使いやすい建物になっていく。
組合と運営委員会が費用を分担し、安全点検と使用許可を終えたのは、当初の予定日から三週間後のことだった。
*
開校の日。
エルシーの弟が、修繕された裏口から顔を覗かせた。
「先生、こっちでいいの?」
「ええ。ここでいいのよ」
男の子は嬉しそうに教室へ駆けていった。
十二人分の机が並んでいる。壁には組合の古い掲示板が残り、窓も少し小さい。
最初に考えていた教室とは随分違った。それでも、子どもたちはそんなことを気にしない。
「マルタ先生、今日はどこから?」
「前に勉強したところの続きですよ」
「やった!」
本を開く音が重なった。
授業が終わる頃、エルシーが弟のノートを掲げた。
「見て! 自分で名前が書けたの!」
少し曲がった文字が並んでいる。
「とても上手ね」
エレナが褒めると、弟は得意そうに胸を張った。隣では、アダが目を細めていた。
その日は、東の三つの村を回りながら子どもたちに文字を教えているサビナという女性も見学に来ていた。
「最初から、こういう教室を考えていたんですか?」
何度も描き直された図面を見て、サビナが尋ねた。
「いいえ。私一人では思いつきもしませんでした」
エレナは、窓の外で布を片づけているアダたちを見た。
「皆さんに、たくさん教えていただいたんです」
サビナは感心したように頷いた。
「私の村でも、こんなふうにできるかもしれません」
エレナは、必要なら運営記録を送ると約束した。
*
それから数週間後の夕方。
エレナが帳場へ顔を出すと、マルタ先生が机を並べ直していた。
「今日は、子どもたちの授業は終わったはずでは?」
「ええ。これから大人の方々がいらっしゃるんです」
仕事が終わったあとに読み書きを学びたいという職人たちの希望が、組合と教師の話し合いで実現したのだ。
しばらくすると、作業着姿の女性たちが教室へ入ってきた。その中に、アダもいた。
「……エレナさん」
「こんばんは。お仕事、お疲れさまです」
「ありがとうございます。……あの、笑わないでくださいね」
「何をですか?」
「私、まだ自分の名前もうまく書けなくて」
「笑いませんよ」
エレナが答えると、アダはほっとしたように笑った。
マルタ先生が、紙と鉛筆を配った。エルシーも、母親の隣に座っている。
「あなたもお勉強?」
エレナが尋ねると、少女は首を振った。
「今日はお母さんの先生なの」
アダが苦笑する。
「娘に教わるなんて、変でしょう」
「変じゃないわ」
エルシーは当然のように言った。
「お母さんだって、私に布の織り方を教えてくれたもの」
「……あれは、まだ上手にできないでしょう」
「お母さんだって、字はまだ上手に書けないじゃない」
母娘は顔を見合わせ、笑った。
授業が始まると、教室には鉛筆の音が響いた。
アダは指先に残った染料を気にしながら、ゆっくり線を引いている。一文字書いては手を止め、エルシーの顔を見る。
「次は?」
「ここから、こっちへ」
「……こう?」
「うん。でも、もう少しだけ長く」
エルシーは母親の手を取ろうとして、途中でやめた。
「お母さん、自分で書いてみて」
アダは頷き、もう一度鉛筆を動かした。
時間はかかった。途中で何度も消した。それでも最後には、紙の上に一つの名前ができあがった。
アダ・フェルン。
アダはその文字を、しばらく見つめていた。
「……これ、読める?」
エルシーが顔を近づける。
「もちろん!」
少女は嬉しそうに声を上げた。
「お母さんの名前だよ!」
「……そうね」
アダは笑った。けれど、目には涙が浮かんでいた。
「私、自分の名前を、自分で書けたんだね」
「うん!」
エルシーは母親に抱きついた。
アダは娘の背中を抱きしめたまま、机の上の紙を見た。
「これからは、帳簿にも自分で名前を書けるかもしれないね」
「もっと練習したら、きっと書けるよ!」
「そうね。もっと練習しなきゃ」
アダは袖で目元を拭った。
帰り際、彼女はその紙を丁寧に畳んでいた。
「持って帰るんですか?」
「ええ。主人にも見せたいんです」
アダは誇らしげに笑った。
「自分の名前くらい、ちゃんと書けるようになったぞって」
「きっと、喜ばれますね」
「ええ。それで、次は取引先の名前も読めるようになりたいんです」
「では、マルタ先生に相談してみましょう」
「はい」
アダは大きく頷いた。
初めて会ったとき、彼女は自分の意見を口にするのをためらっていた。今は、もっと学びたいと真っすぐ伝えてくれる。
エレナは、そのことが嬉しかった。
その夜、彼女は机に向かい、一通の手紙を書いた。宛先は、ユリウス。
仕事上の報告ではなかった。今日、アダが自分の名前を書けたこと。エルシーがどれほど喜んでいたか。
その話を、どうしても聞いてほしかった。
*
返事は、三日後に届いた。
ユリウスからの手紙は、思っていたより短かった。
『アダさんが名前を書けたことも嬉しいけれど、それを君が誰より喜んでいるのが、手紙からよく分かったよ』
エレナは思わず口元を押さえた。
続きには、こう書かれていた。
『その紙は持ち帰ったのかな。きっと、ご家族に見せたかっただろうね』
エレナはもう一度、読み返した。
アダは、確かに紙を持ち帰った。夫に見せたいのだと、誇らしげに話していた。
ユリウスは、その場にいなかった。それでも、同じところに心を留めてくれた。
エレナは返事を書こうと、引き出しを開けた。
鉛筆がない。
机の下まで探したところで、右耳に一本挟まっていることに気づいた。
「……本当に、私ったら」
誰もいない部屋で笑ってしまった。
今度会ったら、この話もしてみよう。どうせユリウスは、また笑うのだろう。
そう思いながら、エレナは便箋を広げた。
*
「甘いものは、あまり得意ではないんだ」
数日後、ユリウスがそう言ったとき、エレナは手にしていた菓子パンを見つめた。
「……今、何と?」
「甘いものが、それほど得意ではないと」
「でも、結婚していた頃は毎週のように食べていたでしょう」
「ああ。君が買ってきてくれたからね」
「いつも美味しいと言ってくださったじゃありませんか」
「美味しいとは思っていたよ。ただ、半分で十分だった」
「半分?」
エレナは彼を見つめた。
「それなら、そう言ってください。私が二つ食べられたのに」
ユリウスが吹き出した。つられてエレナも笑ってしまう。
二人は町の小さな喫茶店に来ていた。アダの話をひとしきりしたあとも、話は途切れなかった。
「では、あなたは何がお好きなんですか」
「胡椒の効いたパンかな」
「初めて聞きました」
「言ったことがなかったからね」
「三年間も一緒に暮らしていたのに」
「そうだね」
ユリウスは苦笑した。
「今度、一緒に買いに行かないか」
「胡椒のパンを?」
「それもいいけれど、町の夏祭りはどうだろう。旅の人形劇団が来るそうなんだ」
「人形劇がお好きなんですか?」
「子どもの頃、父に内緒で見に行ったことがある。ああいう仕掛けを見るのは好きなんだ」
エレナは驚いた。同じ屋敷で暮らしていたのに、彼が人形劇を好きだったことも知らなかった。
「では、人形劇の前に本屋へ寄ってもいいですか? 古本の露店が出るそうなので」
「いいよ。ただ、開演には遅れたくない」
「分かりました。少し早く待ち合わせましょう」
二人は予定を決めた。
店を出るとき、ユリウスが言った。
「楽しみにしているよ」
エレナは笑った。
「私もです」
その返事は、何も考えずに口から出ていた。
*
夏祭りの日、エレナは約束より少し早く広場へ着いた。ユリウスは、すでに噴水の前に立っていた。
「お待たせしました」
「僕も今来たところだよ」
「本当ですか?」
「……少し早く来すぎたかもしれない」
エレナは笑った。
「私もです」
二人は古本の露店を覗き、人形劇を見た。
欲張りな商人が隠した金貨を犬に見つけられるという、子ども向けの喜劇だった。ただ、その犬の人形はどう見ても猫にしか見えない。
「……あれ、犬なんですよね」
エレナが小声で尋ねると、ユリウスは真剣な顔で頷いた。
「犬のはずだ」
「あなたが昔描いた犬に似ています」
「……それは褒め言葉かな」
「もちろんです」
彼は笑いをこらえきれず、肩を震わせた。
芝居が終わったあとも、ユリウスは人形の仕掛けについて楽しそうに話してくれた。エレナはその横顔を眺めながら、こんなに夢中になっている彼を初めて見たと思った。
そのときだった。
「伯爵様」
人混みの向こうから、伯爵家の職員が駆け寄ってきた。
「南の排水門で不具合が見つかりました。管理官が現場での判断を求めています」
ユリウスの表情が変わった。
「技師は?」
「すでに向かっています。水路の切り替えが必要になるかもしれません」
「分かった。僕も行く」
彼はエレナへ向き直った。
「……すまない。今日は、ここまでになりそうだ」
「ええ。お仕事ですもの」
エレナは笑おうとした。けれど、うまくいかなかった。
今日は、まだ一緒にいたかった。芝居のあとに市場を歩くつもりだったし、ユリウスが好きだという胡椒のパンも買う予定だった。
「本当は、僕ももう少し君といたい」
ユリウスが言った。
「……そうですか」
「ああ。正直に言えば、帰りたくない。でも、僕が決めなければならないことがある」
エレナは頷いた。
「分かっています」
「次に会う日を、今決めてもいいだろうか」
「……次ですか?」
「来週なら、休みが取れると思う。君の予定は?」
「来週は、教師たちの研修があるんです」
「そうか。では、再来週は?」
エレナは答えかけて、口を閉じた。
再来週。
随分と先に感じた。
「……そんなに待ちたくありません」
自分でも驚くほど、素直な声が出た。ユリウスが目を見開く。
「今日は、まだ一緒にいたかったんです。だから、残念です」
頬が熱くなった。けれど、目は逸らさなかった。
ユリウスは一瞬言葉を失い、それから嬉しそうに笑った。
「……僕もだよ」
職員が馬車の準備へ走っていく。ユリウスも向かおうとした。
そのとき、エレナは無意識に彼の上着の袖をつかんでいた。
「あ……」
慌てて手を離す。
「すみません」
ユリウスは袖を見て、それからエレナを見た。
「明後日の夕方なら、一時間だけ空けられる」
「私も、その時間なら空いています」
「一時間だけでも会いたい」
エレナは頷いた。
「私もです」
彼は安堵したように息を吐き、人混みの向こうへ急いでいった。
エレナはその背中を見送った。ほんの少しでも引き止めたかったのは、エレナ自身だった。
帰宅すると、読みかけの本を開いた。けれど、同じ行を三度読んでも内容が頭に入ってこなかった。
「……困ったわ」
本を閉じる。
彼が仕事を優先すれば寂しいし、意見が違えば腹も立つ。それでも、また会いたい。もっと話したい。
エレナは机の上の暦を見た。明後日の夕方に、小さな印をつける。
結婚していた頃も、確かに彼を好きだった。
けれど今は、あの頃よりもずっと、次に会える日が待ち遠しかった。
*
夏の終わり、サビナから正式な仕事の依頼が届いた。
東の三つの村で、学び舎を立ち上げるための仕事だった。最初の半年間は現地に滞在し、教師を育てる。その後も別の村から依頼があれば、仕事を続けられる可能性があるという。
エレナは手紙を何度も読み返した。
自分がいなくなったあとも、教師たちが教え続けられる仕組みを作りたい。
町の運営委員会へ相談すると、北側の新校舎も南側の教室も、すでに教師たちを中心に運営できるようになっていた。
三日間考え、彼女は依頼を引き受けた。
新しい仕事が始まる。その喜びと同じくらい、ユリウスのことが気にかかった。
彼は領地を離れて暮らすことができない。自分も、半年後に戻るとは約束できない。
もう一度恋人になりたい。けれど、伯爵夫人に戻りたいかと問われれば、答えは違った。
アダたちが、元伯爵夫人という立場に遠慮して反対できなかったことを思い出す。ようやく手に入れた仕事を、手放したくなかった。
ユリウスなら、何と言うだろう。帰ってきてほしいと言われるのが怖かった。笑って送り出されるのも、少し怖かった。
結局、次に会ったときも、その次に会ったときも、東へ行くことを話せなかった。
依頼を引き受けてから、十日が過ぎた。
*
「東へ行くことになりました」
エレナがそう告げると、ユリウスは嬉しそうに顔を上げた。
「新しい学び舎の仕事?」
「ええ。三つの村で、教師の方々をお手伝いすることになりました」
「それはすごいな。おめでとう」
「ありがとうございます」
「いつから?」
「九月の初めです」
「そうか。準備で忙しくなるね」
「……最初の仕事は、半年間です。そのあとも、別の村で仕事を続けるかもしれません」
ユリウスはカップを置いた。
「もう返事はしたのかい?」
「十日前に」
「……そうか」
エレナは膝の上で手を握った。また、あの返事が返ってくるのだろうか。
しかし、ユリウスは黙って考えたあと、顔を上げた。
「正直に言うよ。寂しい」
まっすぐな返事だった。
「君には近くにいてほしいと思っている。でも、仕事を諦めてほしくはない」
「……ユリウス」
「半年後には、この町へ戻ってくるのかい?」
「分かりません」
「そのあとも、ほかの村で仕事をしたい?」
エレナは迷った末に頷いた。
「できるなら、続けてみたいです」
「そうか」
ユリウスは小さく息を吐いた。
「僕は領地を離れて暮らせない。君も仕事を続けたい。それなら、僕たちはいつ一緒に暮らせるんだろう」
エレナは唇を噛んだ。それは、ずっと考えないようにしていたことだった。
「……私、伯爵夫人には戻れません」
「エレナ?」
「あなたのことは好きです。でも、今の仕事を手放すつもりはないんです。もう一度伯爵夫人になれば、また周りの人が私に遠慮してしまうかもしれません」
ユリウスは黙って聞いていた。
「その気持ちは分かった。でも、一つだけ聞いてもいいかな」
「はい」
「君は、僕とこれからどうしたいんだろう」
エレナは答えられなかった。
「君の将来を僕が勝手に決めることはできない。でも、僕一人で二人の将来を決めることもできないよ」
「……ええ」
「君の考えを聞きたいんだ」
その言葉に、胸が苦しくなった。
離縁前夜、彼に何度も求めたことだった。自分の考えを、隠さずに話してほしい。
それなのに今、隠しているのは自分の方だった。
「……どうして、もっと早く教えてくれなかったんだい」
「それは……」
「君が決めたことを責めたいわけじゃない。ただ、最近は少しずつ話せるようになったと思っていたから」
彼は寂しそうに笑った。
「君が十日も悩んでいたのを知らなかったのが、悲しかった」
エレナは視線を落とした。
「……ごめんなさい」
仕事を引き受けたことは後悔していない。けれど、彼には話せたはずだった。
「私、あなたに何と言われるか怖かったんです」
「……うん」
「それで、今も何を言えばいいのか分からなくて」
ユリウスはしばらく考えた。
「今すぐ答えを出さなくてもいい。ただ、僕がどう思っているかは伝えられたから」
エレナは頷いた。
「少し、考えてもいいですか」
「もちろん」
彼はそう答え、今度はそれ以上言葉を重ねなかった。
*
店を出たエレナは、広場の噴水の前で足を止めた。
彼は、ちゃんと話してくれた。寂しい。一緒にいたい。いつかは同じ場所で暮らしたい。それでも、仕事を諦めてほしくはない。
自分はどうだろう。
東へ行くことを隠していた。彼がどう思うのか気にしてばかりで、自分がどうしたいのかを話していない。
「……何をしているのかしら、私」
エレナは鞄から手帳を取り出した。東の村の資料が挟まっている。
仕事のことなら、分からないことがあっても調べられる。誰かに相談して、少しずつ計画を立てられる。
それなのに、ユリウスとのこれからには、最初から完成した答えが必要だと思い込んでいた。
エレナは手帳を閉じた。
明日、もう一度会いに行こう。
今度は、自分の望みを伝えるために。
*
翌日の夕方、エレナは伯爵邸を訪れた。
執務室へ案内されると、ユリウスが驚いた顔で立ち上がった。
「エレナ?」
「お話があります」
「……ああ。座ってくれ」
「立ったままでいいです」
エレナは鞄を下ろした。
「東へは、行きます」
ユリウスは頷いた。
「分かっている」
「半年後に帰れるかどうかも、まだ分かりません」
「ああ」
「伯爵夫人に戻るつもりも、今はありません」
彼は黙って続きを待っていた。
「それでも、あなたのことが好きです」
言ってしまった。あれほど難しかったのに、口にすると、たったそれだけの言葉だった。
「結婚していた頃のあなたも好きでした。でも、今のあなたを知って、もう一度好きになったんです」
ユリウスの耳が少し赤くなった。
「人形劇が好きなところも、仕事で間違えて恥ずかしがるところも。私が間違えたら、ちゃんと反対してくれるところも」
「……そんなところまで?」
「ええ」
エレナは笑った。
「だから、離れるのが寂しいんです」
ユリウスは一度目を伏せた。それから、まっすぐ彼女を見た。
「僕も、君が好きだよ」
静かな声だった。
「離縁した夜から、ずっと後悔していた。でも、君と再会してからは、後悔しているだけではなくなった」
「……どういうことですか」
「今の君と、もっと一緒にいたいと思うようになったんだ」
ユリウスは椅子の背に手を置いた。
「僕は、いつか君と同じ家で暮らしたい。それは今も変わらない」
「……はい」
「でも、それがいつ叶うのか分からないからといって、君と会うことまで諦めたくない」
彼は小さく息を吐いた。
「君にはこの町へ戻ってきてほしい。でも、仕事を辞めてほしくはない。僕も、領地を離れて君についていくことはできない」
「……ええ」
「だから、今すぐ二人の将来を決めることはできないと思う」
ユリウスは少し照れたように笑った。
「それでも、僕はもう一度君と恋人になりたい」
エレナの目が熱くなった。
「君が困ったときには、僕にも話してほしい。僕が困ったときには、君にも聞いてほしい」
「……はい」
「君が好きだ。それだけは、もう黙っていたくない」
エレナは頷いた。
「私も、あなたと恋人になりたいです」
ユリウスが手を差し出した。エレナは、その手を取った。
温かかった。覚えている温かさだった。
ユリウスは彼女の手を握ったまま、少しためらっていた。
「……エレナ」
「はい?」
「もう一つ、僕の望みを言ってもいいだろうか」
「もちろんです」
彼は小さく息を吸った。
「君を、抱きしめたい」
エレナは目を見開いた。
結婚していた頃の彼なら、きっと黙って手を離しただろう。自分の気持ちを押しつけないようにと、何も言わなかったはずだ。
「……聞いてくださるんですね」
「君が嫌なら、そう言ってほしい。でも、僕は今、君を抱きしめたいんだ」
エレナは微笑んだ。
「嫌なわけ、ないでしょう」
ユリウスはゆっくり彼女を引き寄せた。エレナも、彼の背中へ腕を回した。
懐かしい温かさだった。同じ屋敷で暮らしていた頃、何度も抱きしめてもらった。
けれど、今日は少し違う。
夫だからでも、妻だからでもない。
互いに望んだから、こうしている。
「……本当に、東へ行くんだね」
ユリウスが小さな声で言った。
「はい」
「寂しいな」
「私もです」
エレナは彼の背中に回した腕へ、少しだけ力を込めた。
「でも、行ってきます」
「……ああ」
ユリウスも、彼女を抱きしめ直した。
「行っておいで」
しばらくして、二人はゆっくり離れた。ユリウスは名残惜しそうに彼女の手を取った。
「もう一度、抱きしめてもいいかな」
「……さっき十分に抱きしめたでしょう?」
「僕には、少し足りなかった」
エレナは笑ってしまった。
「随分と欲張りになりましたね」
「君に会えなくなるからね」
「では、もう一度だけですよ」
そう言いながら、今度はエレナの方から彼に抱きついた。
*
少しして、二人は執務机へ戻った。
「それと……もう一つ、相談したいことがあります」
エレナが鞄を開くと、ユリウスは椅子を勧めた。
「何だい?」
「同じ町で暮らせる日がいつになるかは、まだ分かりません。でも、次に会う日まで決められないわけではありませんよね」
ユリウスが顔を上げた。
「……東で働いている間に?」
「ええ」
エレナは旅程表を取り出した。
「東街道の途中に、ミルデという宿場町があります。私の赴任先からも、こちらからも馬車で行ける場所です」
「知っているよ」
「そこで、一度会えませんか」
ユリウスは予定表を取り出した。
「君は、いつ頃なら休める?」
「十月の後半には、最初の研修が一区切りつく予定です。次の研修までに二日ほど休めると、サビナさんにも確認しています」
「十月の後半か……」
彼は予定を確かめた。
「十八日は収穫の検分がある。でも、二十四日なら調整できそうだ。管理官と仕事を分担すれば、三日ほど領地を空けられると思う」
エレナは自分の手帳を開いた。
「……その日なら、私も休めます」
「本当に?」
「ええ」
ユリウスは嬉しそうに笑った。
「では、ミルデで会おう」
エレナの胸が高鳴った。
十月に一度会えても、そのあとはまた離れて暮らす。いつか同じ町で暮らせるのか、まだ分からない。
けれど、次の約束はできる。
「十月二十四日ですね」
「ああ」
「昼の鐘が鳴る頃に、中央広場でどうでしょう」
「いいね。そこで待ち合わせよう」
「もし予定が変わってしまったら……」
「そのときは、すぐに伝えるよ。君もそうしてほしい」
「はい」
「そして、また二人で決め直そう」
エレナは頷いた。鞄から小さな紙を二枚取り出す。
「同じことを、二枚書いておきませんか」
「どうして?」
「片方だけが覚えていたら、困りますから」
ユリウスは笑った。
「確かに、それは困る」
二人は机に向かい、それぞれの紙へ約束を書いた。
十月二十四日。
ミルデの宿場町、中央広場。
昼の鐘が鳴る頃。
書き終えると、エレナは一枚をユリウスへ渡した。彼も、自分が書いた一枚を差し出す。
「交換するんですか?」
「ああ。君の字で書かれた約束を持っていたいから」
エレナは受け取った紙を見つめた。少し癖のある、見慣れた文字だった。
「……私もです」
彼女は紙を丁寧に畳み、手帳へ挟んだ。ユリウスも、自分の手帳にしまった。
*
「そういえば、東の村の建物は決まったのかい?」
ユリウスが尋ねた。
「まだです。でも、候補の図面はいただいています」
「見せてもらっても?」
「もちろん」
エレナは鞄から一枚の図面を取り出した。ユリウスは窓の位置を指さした。
「ここは、冬になると寒いかもしれないね」
「ええ。私も気になっています」
「窓を少し小さくした方がいいと思う」
「でも、子どもたちが外を見られなくなるのは困ります」
「それなら、断熱材を……」
「その前に、現地の先生方へ聞いてみたいんです」
ユリウスが顔を上げた。
「風向きも、普段使っている机の位置も、実際に教えている人でなければ分からないことがありますから」
「ああ。そうだね」
彼は図面の端を押さえた。
「では、確認したいことを書き出しておこうか」
「そうしましょう」
二人は余白に書き込みを始めた。
冬の風向き。子どもたちの人数。暖房に必要な費用。入口の段差。
現地で確かめたいことは、思っていたよりも多かった。
「……この倉庫も気になるね」
「どこですか?」
「ここだよ。教室から少し遠い」
「そうですね。でも、現地の方が使いやすい場所かもしれません」
「では、それも聞いてみよう」
エレナは頷き、紙の端に印をつけた。
ユリウスはさらに図面を眺めた。
「あと三つほど、気になるところがあるんだ」
エレナは思わず笑った。
昔も、同じことを言われた。結婚する前、二人で初めて学び舎の図面を描いたとき。
『まだ君に反対したいところが三つあるんだ』
『では、あと三日お話しできますね』
あの頃は、話す理由が欲しくて仕方がなかった。
エレナは鉛筆を置いた。
「……ユリウス」
「何だい?」
「出発まで、あと四日あります」
「そうだね」
「三つでは、一つ足りませんね」
彼は少し考えた。
「では、もう一つ探しておこう」
「わざわざ探すんですか?」
「君と話す理由になるだろう」
エレナは呆れてしまった。
「反対するところがなくても、会いに来てくださっていいんですよ」
ユリウスは少し黙った。それから、照れたように笑った。
「それなら、明日も君に会いたい」
「明日は旅の支度があります」
「そうか。……では、一時間だけでも」
エレナは首を振った。
「反対です」
ユリウスが目を見開いた。
「理由を聞かせてくれる?」
エレナは笑った。
「一時間じゃ、足りませんから」
― 完 ―




