第一章
その日の朝。
マーシャは、小さな旅行鞄を閉じた。
マーシャ「二、三日で戻るわ」
アレクサンドル「本当に大丈夫なのか」
マーシャ「お母様?」
アレクサンドル「ああ」
マーシャ「熱はもう下がったらしいの。ただ、一人にしておくと後で何を言われるか分からないから」
アレクサンドル「それなら行った方がいい」
マーシャ「あなたは?」
アレクサンドル「何が」
マーシャ「また宮廷でしょう?」
アレクサンドル「ああ」
マーシャが少し笑う。
マーシャ「今度は何を着せられるの?」
アレクサンドル「まだ決まってない」
マーシャ「赤?」
アレクサンドル「知らん」
マーシャ「青?」
アレクサンドル「知らん」
マーシャ「可愛いのだったら見たかったのに」
アレクサンドル「人ごとだと思って」
マーシャ「人ごとだもの」
アレクサンドルはため息をついた。
馬車まで送る。
マーシャが乗る。
マーシャ「じゃあ、行ってくるわ」
アレクサンドル「ああ。気をつけて」
マーシャ「そっちも」
意味ありげに笑う。
マーシャ「何を着せられてもね」
アレクサンドル「余計なお世話だ」
馬車が出る。
アレクサンドルは見送った。
この時はまだ、
マーシャが数日いないことを、
少し寂しい程度にしか考えていなかった。
宮廷へ着く。
違和感はすぐにあった。
いつもの連中がいない。
ミハイル。
ナターシャ。
コーリャ。
ドーニャ。
見知った顔が、
ほとんどない。
代わりにいるのは、
古参ばかり。
十人以上。
それも、
妙に選りすぐられている。
若い美男子。
年齢を重ねても顔立ちの整った男。
細身。
均整の取れた身体。
完成後に女性として見ても、無理のない者。
アレクサンドルは嫌な予感がした。
その時。
女「アレクサンドル・イリイチ・アルセーニエフ様」
呼ばれる。
振り向く。
年は三十前。
落ち着いた雰囲気の女性。
高圧的ではない。
だが、
その場にいる男たちは皆、彼女の言葉を聞いている。
女「エレーナ・ミハイロヴナ・サブーロワと申します。陛下付きのフレイリナでございます。本日の進行を担当いたします」
アレクサンドル「よろしく」
エレーナ「恐れ入りますが、支度が始まりましたら、本日は女性役としてのお言葉遣いをお願いいたします」
アレクサンドル「……そこまで?」
エレーナ「陛下のお達しでございます」
便利な言葉だった。
支度が始まる。
参加者たちは次々と女性へ変わっていった。
ただドレスを着た男ではない。
二十代は若い令嬢。
三十代は落ち着いた婦人。
四十代、五十代なら、それぞれ年齢相応の高貴な女性。
誰も笑いものには見えない。
むしろ、
これだけ揃うと異様だった。
宮廷の控室に、
本物の貴婦人たちが十数人集まっているようにしか見えない。
アレクサンドルも仕上がる。
エレーナ「本日はお名前も変えていただきます」
アレクサンドル「……名前を?」
エレーナ「はい」
札。
アレクサンドラ。
エレーナ「今夜は、アレクサンドル様ではございません。アレクサンドラ様とお呼びいたします」
アレクサンドル「姓は?」
エレーナ「必要ございません。一夜限りのお相手との催しですので、お名前だけで結構です」
アレクサンドル「そこまで徹底する必要が?」
エレーナ「陛下のお達しでございます」
アレクサンドル「……便利ですわね、その言葉」
エレーナ「はい。大変」
少しだけ笑った。
そして規則。
エレーナ「本日の会では、支度を終えた時点から女性役を崩されませんように」
男たちが聞く。
エレーナ「お相手へ男性口調で怒鳴らないこと。乱暴に突き飛ばさないこと。舞踏中、勝手に役割を放棄しないこと」
参加者「何をされるんだ?」
エレーナ「お言葉遣いを」
参加者「……何をされますの?」
エレーナ「それは会場で」
不安だけが増えた。
大広間。
アレクサンドルは、
そこで初めて本日の相手役を見た。
男。
全員。
女装男性の相手役に、
本物の男性が用意されている。
なるほど。
だから古参だけ。
だから女性にしか見えない者だけ。
アレクサンドルの前へ来た青年。
リョーヴァ「アレクサンドラ様?」
アレクサンドル「はい」
リョーヴァ「レフ・アンドレーエヴィチです。リョーヴァとお呼びください」
アレクサンドル「よろしくお願いいたします」
リョーヴァは疑っていない。
目の前にいるアレクサンドラが、
本物の女性だと信じている。
だが。
アレクサンドルは、
そのことを知らない。
舞踏。
最初は距離がある。
やがて近づく。
リョーヴァの手が背へ。
アレクサンドルの身体が強張る。
アレクサンドル「もう少し――」
男の声が出そうになる。
飲み込む。
アレクサンドル「……もう少し、お離しいただけませんこと?」
リョーヴァ「申し訳ありません。ただ、この距離でと教わりましたので」
向こうだけ、
知っている。
アレクサンドルは女官を見る。
エレーナは、
仕事として平然と見ている。
曲が終わる。
アレクサンドルは思った。
こんなものは、
舞踏の練習ではない。
衣装の練習でもない。
相手が男でも、
自分の女性役を保てるか。
それを試されている。
そして。
自分が一番嫌なのは、
意外にも、
リョーヴァが乱暴ではないことだった。
礼儀正しい。
こちらを本物の女性として扱う。
だからこそ、
逃げ道がない。
特別会が終わった。
鬘を外す。
化粧を落とす。
ドレスを脱ぐ。
アレクサンドラが消えて、
アレクサンドルへ戻る。
ようやく終わった。
そう思った時だった。
使者「アレクサンドル・イリイチ・アルセーニエフ殿」
呼ばれる。
使者「お話がございます」
通された部屋。
そこにいた男を見て、
アレクサンドルは姿勢を正した。
アレクセイ・ペトロヴィチ・ベストゥージェフ=リューミン伯爵。
帝国宰相。
普段なら、
アレクサンドルが気軽に会えるような人物ではない。
ベストゥージェフ「座ってよろしい」
アレクサンドル「はっ」
内容は、
舞踏会の話ではなかった。
国家機密文書が盗まれた。
それも、
外国へ渡れば外交上の問題になり得る文書。
犯人は、
一人である可能性が高い。
だが外見の証言が一致しない。
若い男。
女。
中年。
使用人。
複数の人物が同じ事件へ出入りしているように見える。
あるいは。
一人の人間が、
姿を変えている。
ベストゥージェフ「以前にも似た者を捕らえた」
アレクサンドル「では、その者から」
ベストゥージェフ「聞けなかった」
短い答え。
ベストゥージェフ「取り押さえる直前に死んだ」
逃走。
転落。
自殺。
詳細は語られなかった。
ベストゥージェフ「ゆえに今回は生け捕りだ」
アレクサンドル「文書の回収と、背後関係の確認」
ベストゥージェフ「そうだ」
実務上の相棒は後日つける。
アレクサンドルが選ばれた理由も、
まだ完全には説明されなかった。
ただ。
衣装。
化粧。
男女双方の装い。
宮廷での振る舞い。
それらを実地で知っていることは、
今回の相手を追う上で、
意外な意味を持つらしい。
その日の仕事は、
それで終わるはずだった。
帰る前。
もう一度、
呼び出しが来た。
女帝陛下から。
ただ。
いつもの部屋ではない。
少し離れた小部屋。
妙に静か。
女官も少ない。
護衛もほとんど見えない。
そこに、
エリザヴェータがいた。
少なくとも、
アレクサンドルにはそう見えた。
エリザヴェータ「今日の出来は悪くなかったわ」
アレクサンドル「ありがとうございます」
エリザヴェータ「でも、一晩だけ女性役をやって、それで終わりでは駄目ね」
アレクサンドル「と申しますと」
エリザヴェータ「身体に覚えさせなさい」
アレクサンドルは嫌な予感がした。
エリザヴェータ「次の会まで、普段から婦人用の基礎衣類を身につけておきなさい」
アレクサンドル「……は?」
エリザヴェータ「シュミーズとステイズ」
アレクサンドル「普段から?」
エリザヴェータ「毎日」
アレクサンドル「宮廷へ来る時も?」
エリザヴェータ「もちろん」
アレクサンドル「男物の服の下へ?」
エリザヴェータ「そう」
さらり。
エリザヴェータ「それから、できるだけ女性側の基礎の着方へ寄せなさい。いつもの男物の下着も使わないこと」
アレクサンドル「…………」
エリザヴェータ「一週間に一度だけドレスを着ていても、身体は覚えないわ」
アレクサンドル「しかし」
エリザヴェータ「命令よ」
終わった。
さらに。
エリザヴェータ「マーシャにも言わなくていいわ」
アレクサンドル「婚約者にも?」
エリザヴェータ「ええ」
なぜ。
そこまで。
聞きたかった。
だが。
女帝本人からの命令。
そう思っている。
断れるはずがない。
部屋を出る。
アレクサンドルは長く息を吐いた。
朝。
マーシャを見送った。
昼。
アレクサンドラになった。
夜。
本物の男と踊った。
その後。
国家機密盗難事件の捜査を命じられた。
そして最後に。
男物の服の下へ、
毎日婦人用のシュミーズとステイズを着ろと言われた。
自分でも、
何の一日だったのか分からない。
ただ。
この時。
アレクサンドルはまだ知らなかった。
今日、
自分へ命令を出した人間たちのうち、
いったい何人が、
本当に見た通りの人物だったのかを。




