政略結婚初日に別々に食べろと言われた浪費家令嬢ですが、旦那様と献立表で横流しを暴きます
「別々に食べる」
婚礼の翌朝、夫となった人は、私ではなく湯気のない皿を見てそう告げた。
ひどい。
材料費、人数、冷たさ。三項目とも赤点である。
「承知いたしました」
声だけは伯爵令嬢らしく返した。内心では採点表を破り捨てている。政略結婚とはいえ、初日から夫婦別膳。しかもディートリヒ様の前には焼きたてのパンと卵料理、私の前には昨夜の宴席から取り分けたらしい冷たい肉が一切れ。
妻ではなく保存食を娶ったつもりだろうか。
「奥様は高価な食材をお好みとうかがっておりますので」
ブノワ家令が、食卓に残っていた二人の客へ聞かせる声で言った。
「お食事を分けたほうが、辺境伯家の倹約にもよろしいかと」
客の一人が口元を隠し、もう一人と目を合わせた。
なるほど。社交界で育った「家の金を食い潰す浪費家令嬢」が、もうこの屋敷の食卓にも着席しているらしい。本人より先に馴染むとは、噂というものは礼儀を知らない。
「そういう理由ではない」
ディートリヒ様が言った。
「では、どういう理由でしょう」
「食事は部屋へ運ばせる。厨房へ入ることも禁じる」
説明が増えたのに、状況が悪化した。
別膳、立入禁止、理由なし。材料費、人数、過保護。三項目へ仕分け直しても、やはり赤点である。
「奥様、辺境伯閣下のご配慮です」
ブノワ家令は私へ指を立てた。
「婚礼のお疲れがあるうちは、ご自室でお静かに。厨房は火も刃物もございます。さあ、食事がお済みでしたらご退席を」
私と厨房使用人しか見ていない時と同じ、教師めいた声だった。反撃しない生徒だと思われているらしい。
私は立たず、卓上の献立表を引き寄せた。
日付、食事場所、食材、受領数、調理数、注文者。実家の台所で毎日見ていたものより欄が多い。なのに、肝心の数字はずいぶん大らかだった。
行を指でなぞる。
朝食は四人。では、この受領数は——。
「フローラ」
初めてディートリヒ様が私を見た。
「冷めているなら、別のものを運ばせる」
気づくところはそこですか。
ただし、冷たい肉よりは温かい謎のほうがましだ。
「お願いいたします。それから、明日の献立表もこちらへ」
ブノワ家令の立てた指が、半端な高さで止まった。
* * *
「山桃の煮込み?」
翌朝、自室へ届けられた献立表の一行に、私は目を疑った。
婚礼前の顔合わせで、一度だけ話した好物である。それも「幼い頃、熱を出した時に食べた」と、会話が途切れないよう口にした程度だ。
献立表には、山桃の煮込み、柔らかな白パン、香草を控えた鶏のスープ。食事時刻まで、私が実家で取っていた時間に合わせてある。
「こちらは誰の指示ですか」
マルセル料理長は大柄な肩を縮め、無言でディートリヒ様を見た。
嫌われている。だから別膳。
私が一晩かけて組み立てた自説は、山桃一皿で脚を二本ほど折られた。まだ倒れてはいない。厨房立入禁止という太い脚が残っている。
好物を覚えていた点は加点します。厨房へ入るな、は越権です。差し引きすると、まだ褒めません。
「ディートリヒ様が?」
「奥様のお食事は、胃に負担をかけぬものを。量はこれほど。時刻は遅らせるな、と」
マルセル料理長は両手で示した。私が普段食べる量とほぼ同じだった。
そこまで知っていて、本人には尋ねない。
過保護という料理は、味付けを誤ると支配になる。残念ながら私は、焦げつきを見逃さない女だ。
「では、この鶏も指示どおりに?」
献立表には七羽受領とある。
行を指でなぞる。
厨房から届いた皿は、私のスープと、使用人用の煮込み。骨の量まで見れば分かる。七羽は使っていない。
「調理したのは何羽ですか」
マルセル料理長の視線が献立表へ落ちた。
「二羽です」
大声の料理長が、数字だけを置いた。
「残りの五羽は?」
「厨房には届いておりません」
配慮、数量、欠損。
昨日まで私を遠ざける壁だった献立表が、今朝は入口になった。しかも入口の向こうから、誰かが鶏を五羽抱えて走り去っている。
ずいぶん羽数の多い倹約である。
「この受領欄の署名は」
「ブノワ家令です」
それなら、ご本人に数えていただこう。
私は温かな山桃の煮込みを一口食べた。おいしい。腹が立つほど、ちょうどいい甘さだった。
* * *
「三つございます」
執務室で、私は指を一本立てた。
ディートリヒ様が何か言いかけ、口を閉じた。そこは加点してもいい。まだ半点。
「材料費。人数。そして過保護です」
「最後のものは、調査と関係があるのか」
「一番ございます」
ディートリヒ様の眉間に線が一本増えた。
「私の食事場所、量、時刻、厨房への立入りを、私に尋ねず決めましたね」
「君は婚礼前から食が細いと聞いた。慣れない屋敷で無理をさせたくなかった。厨房では以前、使用人が火傷をしている」
「ですから閉め出した、と」
「安全のためだ」
「私が料理をするか、厨房へ入るか、何を食べるか。それを選ぶのは私です」
彼の右手が卓の端をつかんだ。私へ伸ばしかけた手だったのかもしれない。けれど、卓を越えては来なかった。
「ブノワに、君の望む食事を用意させた」
「そのブノワ家令が確認を任された結果、七羽のうち五羽が消えました」
指を二本には増やさない。一つずつ。話を勝手にまとめる人には、一つずつ噛ませるのがよい。
「あなたは私を守ろうとして、私から確認する権利を取り上げた。そうして空いた場所へ、ブノワ家令が入りました」
「……私の責任だ」
言い訳より先に、その言葉が来た。
私は立てていた指を下ろした。
「調べる許可をいただけますか」
「許可ではない。私も調べる」
「では、条件がございます」
「言ってくれ」
「第一に、私は厨房へ入ります。調理する権利も返していただきます」
「火傷を——」
私はもう一度、指を立てた。
ディートリヒ様は口を閉じた。学習が早い。
「……分かった。禁止を撤回する」
「第二に、食事の量、内容、時刻、場所は私が選びます。助言は歓迎いたします。決定はお断りします」
「分かった」
「第三に、献立の変更には、私、ディートリヒ様、マルセル料理長の三者署名を必要とします。一人の指示だけで食材を増減させません」
「私の指示でもか」
「特に、あなたの指示でも」
返答まで、二呼吸あった。
「受け入れる」
「口頭では困ります」
差し出した献立表には、すでに三者の署名欄を設けてある。
ディートリヒ様はそれを読み、ためらわず自分の欄へ名を書いた。守るための独占管理を、自分の手で手放した形だ。
これは高得点。だが満点を差し上げると、また先回りして私の人生を献立へ書き込みかねない。七十点にしておこう。
「マルセルを呼ぶ。それからブノワの受領分を——」
「その前に、フローラ様がお食事を抜かれています!」
扉の外からマルセル料理長の大声が飛んできた。
なぜ今、それを。
ディートリヒ様が立った。
「すぐに用意させる。いや、私が運ぶ。フローラ、ここを動くな」
「食事場所は私が選ぶ条件でしたね」
ぴたりと止まった。
「……どこで食べる」
「こちらで。あなたも同じ卓へどうぞ」
彼は私を見たまま、しばらく動かなかった。
「不都合が?」
「ない」
声が低すぎて床へ落ちた。
やがてディートリヒ様は、自分で温かな鶏の包み焼きを運んできた。消えた五羽とは別に、厨房へ残っていた一羽を使ったらしい。皿を私の前へ置き、椅子を引き、それから私の肩へ触れようとした手を途中で止めた。
「座るのを手伝っても?」
「はい」
許可を得てから触れる手は、思っていたより慎重だった。
私は同じ卓へ座ることを選んだ。
ただし鶏肉の取り分は半分。おいしいものの共同管理は、食卓から始めるべきである。
* * *
「では、こちらをお読みください」
領政院の書記が着席すると、ブノワ家令の声は目に見えて小さくなった。
両手を卓上へ置き、呼ばれるまで口を開かない。昨日、私へ退席を命じた指はどこへしまったのだろう。仕入れ品と一緒に横流ししたなら、返済額へ加えておきたい。
同じ卓にはディートリヒ様、私、マルセル料理長。向かいに領政院書記団。壁際には屋敷の納入係と、厨房使用人たちが並んでいる。婚礼翌朝にブノワ家令の当て擦りを聞いていた客も二人、訂正の立会人として残っていた。
卓上にあるのは、三度目の献立表だった。
第一の献立表は、夫婦を別々に座らせた。
第二の献立表は、私への配慮と、厨房へ届かなかった食材を同じ行に並べた。
第三の献立表には、受領した者、調理した者、運んだ者、確認した者の回答が順番に記されていく。最後には三者署名と、領政院の確認欄が加わる。
日課の紙一枚が、ずいぶん出世したものだ。
「ブノワ家令」
私が呼ぶと、彼は顎を上げた。
「奥様、このような大げさな席を設けずとも、家内のことは家令である私が——」
「読み上げてください」
「ですから、奥様は屋敷の仕入れをまだご存じなく」
「受領数を」
声を重ねられる前に、短く切った。
ブノワ家令の口元が硬くなる。私と厨房使用人だけなら、ここで指を立て、話を遮り、部屋へ戻れと言えたのだろう。
領政院書記が筆記の構えを取ると、彼の顎が下がった。
「……鶏、七羽」
「受領したのは?」
「私です」
「受領欄の署名は?」
「私のものです」
書記が復唱する。
「鶏七羽。受領者、ブノワ家令。署名本人に相違なし」
「相違ありません」
私は献立表を自分の前へ戻した。
行を指でなぞる。
数字は怒鳴らない。泣きつかない。身分を笠に着ない。ただ、七から二を引いた場所に、五つ分の逃げ道をきれいに残して待っている。
「マルセル料理長。調理したのは?」
「二羽です」
厨房では壁を揺らす声が、その一度だけは低く、はっきり卓を渡った。
書記が復唱する。
「調理数、二羽。証言者、マルセル料理長」
「ブノワ家令」
「保存に回したのでしょう。厨房の管理については、料理長にも責任が」
マルセル料理長が腰を浮かせた。私は手で制した。
まだです。鶏は逃げませんし、ブノワ家令もこの席からは逃がしません。
「七羽を受け取り、二羽を調理した。では残り五羽は、どなたの夕食になりました?」
「奥様のご注文が増えたため、別の料理へ——」
「私の注文欄を読んでください」
「……空白です」
「もう一度」
「空白です」
「私の署名は?」
「ありません」
「鶏を追加した署名は?」
ブノワ家令は襟元を押さえた。
「私です。しかし、それは奥様が高価な食材を好まれると聞き、前もって——」
「私は一羽も注文していない。あなたが七羽を受け取った。それでも私の浪費ですか」
「辺境伯家の格式を保つには、客人へ出す料理も必要です。新たな奥方を迎えれば仕入れが増えるのは当然で、その費用を奥様のためと説明しただけで——」
婚礼翌朝の客の一人が、もう片方から顔を逸らした。
笑った記憶というものは、笑われた側より、笑った側の頬を先に熱くするらしい。
「私のため、と説明した相手は?」
「社交の席で、何人かに」
「『家の金を食い潰す花嫁』と?」
「私は、そのような下品な言い方は」
もう一人の客が口を開いた。
「私の前でおっしゃいました。婚礼後は高価な肉と果実の注文が三倍になる、奥方の浪費を抑えるのが家令の務めだ、と」
隣の客も小さくうなずいた。
「私も聞きました。笑ってしまったことも、認めます」
書記が二人の証言を復唱し、献立表の確認欄へ記した。
ブノワ家令は私には教師、客には忠臣、書記には従順な使用人。三種類の顔をお持ちらしい。残念ながら、受領欄へ置いた署名だけは一種類だった。
「五羽の行方を確認します」
「記憶が定かでは」
「納入係」
壁際から、一人が進み出た。
ブノワ家令が振り返る。その目に、初めて声量が戻った。
「余計なことを言うな。お前は命じられたとおり運んだだけだ!」
書記の筆が止まった。
ブノワ家令の声も止まった。
納入係は縮めていた背を起こした。
「五羽は、ブノワ家令のご命令で、お兄様の宿へ運びました」
「奥方の注文だと聞かされていたのでは?」
書記が尋ねる。
「はい。運ぶ前にも、門番の前でも、そのように復唱するよう命じられました」
「命令者は?」
「ブノワ家令です」
「お前も分け前を受け取っただろう!」
「余った骨と肉を一度、家族へ持ち帰りました」
納入係は俯いた。
「それで黙りました。以後も荷を運びました。私が黙った回数も、記録してください」
書記が確認する。
「命令に従った事実、利益を得て黙認した事実、ともに記録します。異議は?」
「ありません」
黙っていた者の責任は、黙ったまま消してはいけない。別の欄へ、きちんと載せる。
ブノワ家令が椅子を引いた。
「一人の使用人の証言だけで、私を罪人扱いなさるおつもりですか。そもそも奥様が来られてから支出が増えたことは事実です!」
「増えた支出を、もう二件だけ確認しましょう」
全件を読み上げる必要はない。鶏五羽で穴は開いた。あとはそこへ、彼自身の言葉を順番に落とせばいい。
「白麦粉、六袋。受領者は?」
「私です」
「厨房へ届いた数は?」
マルセル料理長が答えた。
「三袋です」
「残りは?」
納入係が答えた。
「兄君の宿へ」
「干し果実、四箱。受領者は?」
「……私です」
「厨房へ届いた数は?」
「一箱です」
「残りは?」
「兄君の宿へ運びました」
同じ状態の数字は、それで十分だった。
書記が顔を上げる。
「鶏五羽、白麦粉三袋、干し果実三箱について、受領後に辺境伯家の厨房へ納めず、ブノワ家令の兄の宿へ運んだ。命令者はいずれもブノワ家令。受領署名はいずれも本人。奥方の注文欄および署名欄はいずれも空白。相違はありますか」
「私は、辺境伯家の倹約を守るために」
「倹約した食材が、ご兄弟の宿へ着くのですか」
私が尋ねると、彼の唇だけが動いた。
「宿から何か受け取りましたか」
「……売上の一部を」
「いくらです」
「正確には」
「算定済みの被害額は、確認欄のとおりです。受け取った事実は?」
「あります」
「私の名を使いましたか」
「……使いました」
「納入係へ、私の注文だと復唱させましたか」
「させました」
「社交客へ、私が浪費していると話しましたか」
「話しました」
「自分が受領し、自分が横流しした食材を、私の浪費として?」
ブノワ家令は襟元から手を離した。
「はい」
よろしい。
鶏は七羽。調理は二羽。残りは五羽。
引き算が終わっただけなのに、胸の奥で長く場所を取っていた噂まで、まとめて五羽分ほど外へ出ていった。してやったり、と笑うにはまだ早い。最後の一羽——責任が残っている。
「待て」
ディートリヒ様が低い声を落とした。
ブノワ家令へ向けたものだった。
「妻の名を使い、屋敷の財を盗み、評判まで傷つけた。今すぐ——」
私は指を一本立てた。
ディートリヒ様は言葉を止めた。
列席者の視線が、私の指と辺境伯の顔を往復する。
ええ、夫も止まります。共同管理とはそういうものです。
「まだ私の質問が終わっておりません」
「……続けてくれ」
「ブノワ家令。仕入れ権限を利用した横流しを認めますか」
「認めます」
「私が注文していない品を私の支出とし、浪費家だと流布したことを認めますか」
「認めます」
「納入係へ虚偽を復唱させ、黙認させたことを認めますか」
「認めます」
書記が一つずつ復唱した。
同じ献立表の確認欄へ、ブノワ家令自身が認めた回答が並ぶ。最後に彼は署名を求められた。
「署名を拒まれた場合も、列席者の証言とともに記録します」
「……署名します」
震えた字でも、署名は署名である。
書記団がその形を確認し、受領欄の署名と同一人物のものだと読み上げた。屋敷の内輪話は、そこで終わった。領政院の記録となり、彼が明日別の顔を選んでも、昨日の数字は変えられない。
「処分について確認します」
書記の声に、ブノワ家令が立ち上がった。
「閣下! 長年お仕えした私を、奥様の一存で——」
「座れ」
ディートリヒ様は彼を見なかった。
「これは妻の一存ではない。お前自身の受領数、証言、署名に基づく処分だ」
「ですが、私はこの家のために!」
「私が妻の確認権を奪い、お前一人へ仕入れと受領を任せた。その責任は私にある」
ディートリヒ様は献立表を自分の前へ置いた。
「私は献立の独占管理権を放棄する。今後、フローラ、私、マルセルの三者署名がない変更は認めない。彼女の食事場所、内容、量、調理、厨房への立入りを、私だけの判断で制限しない」
書記が復唱した。
「辺境伯ディートリヒ殿。妻フローラ殿の食事および調理に関する選択権を確認し、独占管理権を放棄。献立変更はフローラ殿、ディートリヒ殿、マルセル料理長の三者署名制へ移行。相違ありませんか」
「ない」
「フローラ殿、異議は?」
「ございません。ただし、危険がある場合の助言は受けます。危険への対処は話し合いますが、選ぶのは私です」
「追記します」
ディートリヒ様が、自分の筆記欄を私のほうへ差し出した。
先回りではない。空白のまま、私の言葉を待っている。
ならば、共同生活を継続してもよい。
私は自分の欄へ署名し、マルセル料理長も続いた。料理長の字は、焼き上がったパンのように大きかった。
「次に、ブノワ家令の処分を確認します」
ブノワ家令の両手が卓の下へ落ちた。
「本日付で家令職を解任。仕入れ、受領、支払いに関する一切の権限を返上。横流し品および受領した売上相当額は、領政院の算定に従って本人が返済する」
「お待ちください。家令職を失えば、返済など——」
「そのため、監督下の労働へ移します」
書記は声を変えなかった。
「倉庫および厨房の出納には触れさせず、領政院指定の作業に従事。賃金の定率を返済へ充て、完済まで履行を記録します。追放による免責は認めません」
ここで屋敷から放り出せば、被害額まで一緒に門外へ逃げる。
働いて返す。黙認した者も記録される。役割を変え、監督を置き、責任だけは残す。
実に消化のよい処分である。
「異議は?」
書記団が列席者を見渡した。
納入係が最初に「ありません」と答えた。マルセル料理長、厨房使用人、客たちが続く。
ディートリヒ様も答えた。
「ない」
「フローラ殿は?」
「ございません」
「ブノワ」
役職名が、書記の呼びかけから消えた。
彼の肩が一段落ちた。
「返済義務と監督下の労働について、異議は?」
「……ありません」
「では、家令職の印を返却してください」
ブノワは胸元へ手を入れた。取り出した家令職の印を、すぐには置かなかった。
ディートリヒ様が手を伸ばす。
私は止めなかった。
印は彼の掌から離れ、卓上の献立表の脇へ置かれた。受領欄へ好きな数を書き込めた手から、仕入れを動かす権限が現に失われた。
書記が受領を確認する。
「家令職および仕入れ権限の返上を執行しました」
厨房使用人の一人が息を吐いた。婚礼翌朝の客は二人とも立ち、私へ向き直った。
「フローラ様。根拠も確かめず、浪費家との話を信じたことをお詫びいたします」
「私もです。訂正が必要な相手には、自分の口で訂正いたします」
「領政院からも、確認された事実を記録として通知します」
書記は献立表の最終欄を読み上げた。
「辺境伯家の食材および献立について、フローラ殿に共同管理権を認める。献立変更には三者署名を要し、食事および調理の選択権は本人に帰属する。浪費家との評は事実に反し、支出増加の原因はブノワによる横流しである」
客の一人が、今度ははっきりと言った。
「共同管理者フローラ様」
マルセル料理長が胸を張った。
「共同管理者様、今夜の献立はいかがいたしますか」
「まず在庫を確認します。ある材料、食べる人数、ディートリヒ様の過保護。三項目を正しく数えてから」
「私も数える」
ディートリヒ様が言った。
「勝手に決めなければ、歓迎いたします」
「決めない。君に聞く」
満点ではない。けれど、同じ卓で次の献立を相談するには十分だった。
書記が最後にブノワを見た。
「新たな管理者への呼称を訂正してください」
ブノワの顔から色が引いた。
「……奥様」
「管理権が記録されました。訂正を」
「フローラ様」
「役割を含めて、もう一度」
数字より往生際が悪い。
ブノワの唇が二度、空振りした。
「……共同管理者様」




