第五章 オリエンタルパラダイス
第一節 泡沫世界と永遠世界
天竺に逃避行したルシフェルとミカは、須弥山の頂上にあるナンダナ林(Nandana Vana)の園にいました。そしてミカを抱いたルシフェルは如意樹(カルパヴリクシャ Kalpavriksha)の元で憩いました。如意樹に生っている黄金色をした果実はたわわに実り、とても良い香りを放っていました。天からは如意樹の華の雨が降り、遠くで天女達が奏でる妙なる琴の音が流れていました。時折園では天人五衰の兆しが表れ、死期の近づいた天人が苦痛と憂いを忘れて逍遥していました。園から都を見晴らせば宝樹に囲まれた宝楼、宝閣などの建物が目に入り、いずれも七宝または百千万の宝を以て厳飾されていました。羽衣を羽織った美しい天女がその周りを飛び交っていました。
ルシフェルはホッとしてミカに言いました。
「やれやれ、ここまで来れば誰も追って来ることはできない。ミカ、ここは私の隠れ家なんだよ。行き詰まった時、ここに訪れては癒しを得ている。もう一つの天の国と言っていい。須弥山という高い山の上にある。」
ルシフェルは如意樹に手をついてはにかんで小難しいことを言い、自分の感情を胡麻化しました。
「そして今日、ミカは私と共にパラダイスにいる。私は半可通のスノビズムに一撃を加えるため、あえてパラダイスと言う俗な言葉を使う。ミカよ、私は混乱しているかもしれないが良くお聞き。私は何も俗悪な無駄話や霊知を弄し、ますます不敬虔に深入りしているわけではない。真理が不真面目な態度で語られるなら、私はあえて真面目にふざけて真理を語る。俗物の間に伍することも潔しとしよう。真理を語る場合、英知を愚かさで包まなくてはならない。何よりも慎み深さが必要だ。それではパラダイスとはどこか?『たとひわれ死の陰の谷を歩むとも禍害を恐れじ。なんじ我とともに在せばなり』。つまり神と一緒にいられるなら、そこがゲヘナであってもパラダイスなのだよ。またパラダイスはいつ訪れるのか?それは客観的な時間であるクロノス(Κρόνος)では測れない。神の時であるカイロス(Καιρός)によって至るんだ。そのカイロスの時はミカの神への従順な信仰故に早まり、今こそ私達はパラダイスにいるんだ。」
ミカはルシフェルの回りくどい話を上の空で聞き流し、目を白黒させて言いました。
「ウワッ!すてきね!ねっ、ここは天の国なの?天の国と言ってもミカがいた天の国とは全然雰囲気が違うわ。」
ルシフェルはミカに説明しました。
「そう、ここも天の国、私達が属している天の国とは異なる別世界の天の国さ。別世界とは私達の世界の過去、現在、未来においてどこにも存在しない世界のことだと認識してもらえばいい。」
ミカは不思議そうな顔をして言いました。
「ミカにはルシフェルさんの言っていることが良く分からないわ。どこにも存在しない天の国にどうしてミカは今ここにいるの?」
ルシフェルは説明に困り空を見上げながら答えました。
「うーん、そうだな、言葉で説明しようとするとなかなか分かってもらえないし、実は私自身も別世界が存在する理由が分からないのだよ。ただ別世界が存在していることを知っているだけさ。あえて言えば私達が存在している世界と言うものはミクロ事象の泡沫世界で、それに対して神が創造した世界とは絶対的なマクロ事象の永遠世界なのさ。マクロ事象の永遠世界に対して無数の収束していないミクロ事象の泡沫世界が重なり合った状態で存在する世界で、いつかは泡沫世界が永遠世界に収束すると思う。そのミクロ事象の泡沫世界の一つが私達の存在している世界のことなのさ。」
ミカはため息をついて言いました。
「聞けば聞くほどミカにはチンプンカンプンだわ。ミカはお頭が弱いのかしら?」
ルシフェルは軽く否んで答えました。
「そうではないよ、決してミカのお頭の問題じゃないよ。時空を俯瞰する目を持つ私、そして時空を天翔る翼を持つ私が理解したことであり、神の創造した泡沫世界の様相は無限としか言いようがないことさ。
そうだ、川で例えて説明しよう。川の流れは必ずしも一直線ではないのは知っているよね。ある所では支流に分かれ、またある所では複数の支流が合流している。河口に行けば複雑な運河になっている所もある。どんどん川をマクロ事象として捉えればどうなるか?収束していないミクロ事象の川の集まり、つまり複数の異なる因果律で構成される同一時空系列の川がいくつも存在する。更にもっともっと川をマクロ事象と捉えれば、その時空系列さえも全く異なる川が存在してしまう。ちょうどナイル川とアマゾン川のように。でもナイル川とアマゾン川は決して交わることはないけど、結局は大海原に流れ込む。これは私達が存在する世界で生きる者達はその生きる世界が個々に異なるけど、大海原である永遠の命に至ることは共通しているのだね。」
ミカは首をかしげて言いました。
「えーと、分かったような、分からないような。猫のミカが大好きなお魚は、他の川に棲むお魚のことを知らないってことかしら?」
ルシフェルは優しく頷いて言いました。
「うん、そうだよ。」
ミカは混乱して喜びと感動で満ちた眼差しでルシフェルに言いました。
「ルシフェルさん、ミカがここにいるのは、素晴らしいことだわ。だってミカが知っている大好きなルシフェルさんとここにいるのですもの。」
ミカはどう言えば良いのか分からなかったのです。ミカはこの多幸感が永遠に続くと思っていました。ルシフェルは軽く笑いました。
そしてルシフェルは如意樹を指してミカに言いました。
「ほら、この大きな如意樹をごらん。願いをかければどんな望みでも叶えてくれる力があると言われているのだよ。またエデンの園にある命の木と同じで、その果実は永遠の命が約束されている。」
ミカは驚いて言いました。
「えっ、そうなの。別世界と言っても似ている所もあるのね。」
ルシフェルは頷いて答えました。
「うん、そうなのだよ。神の創造した世界とは一コマずつバラバラになった膨大な数の映写フィルムのようなもので、それを神のシナリオに沿ってつなぎ合わして完成したのが個々の世界なのさ。だから若干似ている所もある。私が収束していない一つのミクロ事象の世界に降り立てば、その世界は泡沫世界となる。そしてその世界は神のシナリオが再生される。そしてどの世界でも神の言葉で満ちている。本当に神の創造した世界の様相は万華鏡のように無限なんだ。」
第二節 如意樹の下で
ややあって二人の気まずい沈黙の後、ルシフェルは如意樹から舞ってくる花弁ひとひらを指で掴み、如意樹に密かに願いをかけました。そしてたどたどしく上擦った声でミカに内に秘めた思いを告白しました。
「あのう、そのう、月が綺麗ですね…虹が綺麗ですね…夕日が綺麗ですね…雨、止みませんね…星が綺麗ですね。」
しかしミカを心憎からずと思っているルシフェルの気持ちは伝わらず、ミカは聞き返しました。
「えっ、ルシエルさん何言っているの?まだ昼なのでお月様もお星様も出ていないわ。お日様は真上にあるので夕日ではないわ。どこをどう見たって虹なんか空にはないわ。それに今日は雨でなくて晴れているわよ。」
ルシエルは羞恥で顔を赤くし、言い訳がましいことを言って弁明しました。
「いや、それは言葉の綾と言うものかな。前からミカに話そうと思っていたことなんだ。数年後に私がナザレを去って二十一世紀の世界に戻る時、ミカも一緒に来ないかい?ミカに私の家族になってもらいたいのだよ。今の野良猫のままだと六歳くらいで死んでしまう。でも家猫だと二十歳まで生きる猫もいるし、私はずっと長くミカと一緒にいたいんだよ。」
ルシエルの気持ちを察したミカは初心な所もあるルシフェルをちょっとからかいたくなりました。そして意味ありげに含み笑いを浮かべて答えました。
「今ならお月様に手を伸ばせば届くかもよ…虹なら一緒に渡りません?…夕日の後にもうじきお月様が見えるでしょうね…雨でとても寒いわ…お星様ばかりでなくお月様も綺麗ですよ…。ミカはルシフェルさんのシャロンのばら、谷のゆりです。」
ミカは恥ずかしそうに俯いてからチラっとルシフェルの顔色を窺うように視線を送りました。ルシエルはドギマギしてしまい、たまらずミカを抱き寄せて言いました。
「ああ、ミカが受け入れてくれて私は嬉しいよ。それとちょっと家猫になるには早いけど、これはミカへのプレゼント。今から首につけてもらいたいな。」
それはかわいい花柄模様の入った和柄の猫首輪でした。その首輪には迷子札がつけてあり、ミー子の名と携帯電話番号が記されていました。
この首輪にはイエス様から預かった恋茄子の罪の躓きが封印されていて、ルシフェルはその封印を密かに解きました。そしてミカに首輪をつけると、ミカはプットの姿になりました。ルシフェルが如意樹にかけた願いが叶ったのです。ルシフェルは驚くミカの頭を優しく撫で、宥めて囁きました。
「実は私が如意樹に祈ったことが成就したのだよ。それにしても小さいね。可愛いね。お利口だね。よしよし、いい子だ、いい子だ。ミカは生きているだけで偉いぞ。」
ミカはうれしそうに目を細めました。
第三節 御陰の目合
恋茄子の催淫効果によりルシフェルは抑えきれないリビドーの高まりで理性を失い、興奮した欲情の翼を露出しました。これでもかこれでもかと言わんばかりに隆々とした翼を傘のように広げ、激しくびくつかせていました。ミカはキャッキャッして掌で目を覆いました。
「いやん、エッチ!変態!」
後ずさんで逃げようとするミカをルシフェルは欲情の翼で覆って強く抱きしめました。ミカはルシフェルが本気であることを悟ると、涙声で懇願しました。
「お願い乱暴にしないで。大事にしてください。お願いです。」
如意樹から降ってくる花冠がミカの頭を花櫛のように飾りました。そして恋茄子のエロスの躓きにより、ミカの背中に発情の翼が露わとなりました。ミカは羞恥心でいっぱいになり叫びました。
「いや、いや、見ないで、見ないで!恥ずかしいよう!」
加虐性愛を刺激されたルシフェルは欲情の翼から強力なフェロモンを分泌しました。ミカは法悦に浸って黙りこみました。
暫くするとルシフェルとミカがいる如意樹にたくさんの物見高い小鳥が集まり騒ぎ出しました。ミカは衝動性を伴う情交に慎重になり、戸惑いながら小鳥達に言いました。
「ねえ小鳥さん、そんなにピイチクピイチクと囃し立てないでください。ミカを揺り起こしたり、掻き立てたりしないでください。愛がそうしたいと思う時までは。」
ルシフェルはミカの目を優しく見つめて言いました。
「愛というのは関係の中に自然に目覚めるもの、育ってくるもの、実を結ぶまで時を要するものだとミカは言いたいのだね。でもミカよ、安心おし。機は熟しているのだよ。この如意樹の下で愛は巡り会ったのだから。」
そして二人は浅からず契りを結びました。




