第8章 遅れ
雨は降っていなかった。
空は低く、音が吸われているようだった。
駅前の広場を抜ける途中で、人だかりが見えた。
救急車が止まっている。
赤色灯は回っていない。
私は歩く速度を落とした。
近づく理由はなかった。
担架が運ばれていく。
白い布が、端だけ揺れている。
誰かが、電話で話していた。
「……もう少し早ければ、って」
その言葉は、特定の誰かに向けられたものではない。
それでも、私の足は止まった。
周囲の声が、断片的に聞こえる。
「倒れたの、少し前だったらしい」
「最初は、休んでるだけだと思ったって」
私は、距離を保ったまま立っていた。
関係ない。
そう思うには、十分な距離だった。
それでも、胸の奥がざらつく。
人だかりが解けて、
地面に、濡れた跡だけが残った。
私は、その横を通った。
数歩進んだところで、
背後から声がした。
「すみません」
振り返ると、若い男性が立っている。
顔色が悪い。
「さっき……あなた、そこにいましたよね」
否定する理由はなかった。
私は、うなずいた。
「あの人、最初に倒れたとき……
誰か、声かけてたらって」
男性は、言葉を探していた。
責めている調子ではなかった。
「みんな、判断できなくて」
その「みんな」に、
私は含まれていなかったはずだ。
でも、含まれていると感じた。
「あなたも……気づいてた?」
一瞬、時間が止まった。
気づいていたか。
倒れた瞬間を見たわけではない。
でも、立ち止まった。
避けた。
私は、口を開いた。
「……分かりません」
それは、正確だった。
男性は、そうですか、とだけ言って、
その場を離れた。
私は、しばらく動けなかった。
もし、あのとき。
もし、声をかけていたら。
結果は、変わらなかったかもしれない。
でも、それは判断だ。
私が避け続けてきたもの。
帰宅しても、落ち着かなかった。
手を洗い、
何度も石鹸を足した。
鏡に映る自分の顔は、
説明会のときと変わらない。
理性的で、
落ち着いている。
それが、急に恐ろしくなった。
夜、ベッドに座ったまま、
考え続けた。
選ばなかった。
迷わなかった。
正しくあろうともしなかった。
それでも、
遅れた。
遅れは、判断よりも静かで、
誰にも止められない。
その事実が、
胸に沈んでいった。
初めて、はっきりと分かった。
自分は、
もう無関係ではいられない。
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