最終章 正しかった
送信は、音もなく完了した。
画面には、
「送信されました」とだけ表示される。
どちらの文面を選んだか、
もう確認する気は起きなかった。
選んだ、という感覚もなかった。
ただ、これ以上遅れないために、
指を動かしただけだった。
後日、市役所の会議室に座っている。
以前と同じ机、同じ配置。
違うのは、
私の前に資料が置かれていることだった。
意見を求められる。
質問が来る。
私は、答えた。
数値の妥当性。
判断基準の透明性。
説明の必要性。
感情については、
語らなかった。
誰も、それを求めなかった。
会議は、予定通りに終わった。
結論は、導入。
段階的に、慎重に。
その言葉が、何度も使われた。
帰り際、
担当者が頭を下げた。
「ありがとうございました。
あなたの意見は、大きかったです」
私は、うなずいた。
その重さを、
受け取る資格があるのかは、分からなかった。
数か月後、
ニュースが流れる。
新システムの稼働。
救助の迅速化。
評価の改善。
数字は、確かに良くなっていた。
同時に、
小さな記事も出る。
判断が早すぎたのではないか、
という指摘。
私は、どちらの記事も最後まで読んだ。
意見は、形成されなかった。
ある朝、
駅前を通る。
人は倒れていない。
誰も、立ち止まっていない。
それが良いことなのか、
分からなかった。
でも、遅れてはいなかった。
家に戻り、
電気をつける。
部屋は静かだ。
以前と同じ。
私は、椅子に座り、
しばらく何もしなかった。
胸に、強い感情はない。
後悔も、達成感もない。
ただ、知っている。
誰かは助かり、
誰かは助からない。
それは、私のせいではなく、
私と無関係でもない。
正しかったかどうかは、
結果が決める。
結果は、いつも遅れてくる。
私は、今日も判断しない。
でも、逃げてもいない。
その中間に立ち続けることを、
選んだのだと、
あとから理解するのだろう。
それが善か悪か、
誰かが決める。
私は、
それを引き受ける。
この作品は、
「正しい判断をした人は、報われるべきか?」
という問いへの、意図的に不快な答えです。
主人公は、間違ったことをしていません。
合理的で、誠実で、社会的にも評価される行動を取っています。
それでも私は、
その人が“救われる物語”を書きませんでした。
なぜなら現実では、
正しい判断をした人ほど、
その判断から逃げられなくなるからです。
誰かを助ける正しさは、
同時に、誰かを切り捨てた事実と結びつきます。
この物語を読んで、
主人公を「立派だ」と思う方も、
「卑怯だ」と感じる方もいるでしょう。
どちらも、正しい読後感です。
評価が割れること自体が、
この物語が扱ったテーマの証明だと、
私は考えています。




