第1章 助けられた日
その人は、まだ病院のリストバンドを外していなかった。
白いプラスチックの輪が、少し緩んで手首に残っている。
「早かったですよ」
それが、最初に聞いた言葉だった。
私は何が早かったのか分からず、曖昧にうなずいた。救急車か、処置か、それとも判断のことか。本人は説明を続けなかった。
カウンター席の向こうで、コーヒーが注がれる音がした。昼前の店内は静かで、客はまばらだった。救急搬送された翌日に、こうして外でコーヒーを飲んでいるという事実だけが、目の前にあった。
「通知が来たんです。何分後に到着します、って」
その人はリストバンドを指でなぞりながら言った。
「だから準備もできたし、家族にも連絡できた。ああいうの、助かりますね」
私は「そうですね」と返した。
他に言うことが見つからなかった。
テーブルの端に置かれたスマートフォンが、一度だけ震えた。画面を伏せたまま、その人は触れなかった。特に急ぐ用事ではないらしい。
「昔だったら、どうなってたんでしょうね」
問いかけの形だったが、答えを求めてはいないようだった。
その人は笑っていた。大きな声ではなく、軽く息を漏らすように。
私はカップを持ち上げ、少し冷めたコーヒーを飲んだ。苦味は強くなかった。
窓の外では、道路工事の誘導員が腕を上げ下げしている。通行止めの区間があり、車は順番に流れていた。滞りはなかった。
「今は、判断が早いですから」
そう言ったのは私だった。
言いながら、自分が何を指しているのか、はっきりとは考えていなかった。
その人は「ですよね」とうなずいた。
「人が迷わなくていいのが、一番です」
その言葉は、評価のようにも、感想のようにも聞こえた。
私はそれを訂正しなかった。
会計を済ませて店を出ると、外の空気は思ったより冷たかった。季節の変わり目で、風が一定しない。歩道の端に、撤去されたコーンが積まれている。
「じゃあ、また」
その人はそう言って、駅の方へ歩いていった。足取りは安定していて、背中に不安は見えなかった。
私は少し遅れて反対方向へ向かった。
ポケットの中で、自分のスマートフォンが鳴る。
通知は、いつもの生活情報だった。
私は画面を確認し、特に考えずに閉じた。
助けられた人がいる。
それだけの事実が、その日は十分だった。
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