1.勃発!ヅラ強奪事件(事件編)
十四年生きてきて、思ったことがある。真夏の太陽は午前だとしても容赦がない。
拷問の終わりを告げるチャイムが耳へ届くと、流れるように、吸い込まれるように下駄箱へ急ぐ。頭髪を焼くかのような光線から逃れ、靴を履き替える。
振り向いた彼女は一息つく私に対して、いつもの警告をくれた。
「時音。早く戻らないと男子に着替え見られちゃうよ?」
「わかってるもん。うるさいなあ」
人の波は私を置いて軽やかに階段を駆け上がる。靴のつま先をコツコツと地面に叩きつける。履き心地は上々だ。大きく息を吸って先に行った彼女たちの名前を呼ぶ。楽し気な笑い声と急がせるようなそれに導かれ、私は三階の教室へ戻った。二年二組と書かれた私たちの教室へ。
制汗剤の臭いが充満する教室の中で、誰かが声を上げる。理由は簡単。ドアが音を鳴らしているから。
「やばっ。もう男子来てんじゃん。ってか三時間目始まんじゃん。上田先生来ちゃうって!」
時計は10:28と主張していた。おかしいなぁ。最速で帰ってきたはずなのに。
なんてことを言ったらむしろ、火に油を注ぐだろう。彼にはそんなこと関係ないだ。私たちの担任であり、三時間目の担当教師である上田先生には。彼は厳格な生活指導や低い声色から恐怖の対象となっている。学年だけでなく、中学校全ての支配者だとすら言える。そんな彼の影響力はすさまじく、ダラダラと行われるはずの着替えは、いつの間にか終わっていた。
10:30を回るも授業は始まらない。
緊張を失った教室がざわつき始める。お話を始める人やスマホを見る人、果てはおかしを食べる人すらも現れる大問題だ。
小さくため息をつく。どうせ無視されるだろうけど。椅子を引き、軽く机を叩いた。
「静かにしてくださーい!」
静寂が訪れた。
それは同意によるものではない。
思考の停止。
もちろん、私の言葉に起因するものでもない。
そして、静寂は一瞬にしてざわめきを取り戻す。いや、先ほどとは比べ物にならないほどのものだ。もはや、合唱だった。
「先生! 髪どうしたの!?」
「はげてんじゃん!」
「やっぱ、あの噂マジだったのかよ!」
止まない声の間をかいくぐり、上田先生は話し始めた。うつむき加減の彼と目が合うことはない。
内容は悲惨なものだった。
***
私、上田は二年二組の壊れたテレビを修理しようと教室へ足を運んだ。丁度二時間目が体育だったこともあり、誰もいないうちに作業を終わらせる魂胆だった。
気が狂うほどの暑さは室内も同じだ。特に今日はエアコンの調子が悪い。滴る汗が蒸発し、教室は蒸し風呂へと変貌する。
誰も見ていない。そもそも、授業中のはずだ。誰も通らない。ならば、いっそのこと。下着が透けるほどに濡れたシャツ。意思を持つかのように張り付くそれを脱ぎ捨てる。
風が吹いたようだった。爽やかな青を感じさせる風だ。
解放された私の体は新たなる解放を求める。理性を本能が上回る。
震える手を頭へと当て、汚らしく濡れたそれに力を加える。
……外したのだ。
外してしまったのだ。
慣れない作業は終わりを迎えない。放送に呼び出され、職員室へ戻る。朦朧とする意識は大事なものをその場へ置き去りにしてしまった。
職員室に戻り、暑さから解放された。代わりに囚われたのは血の気を失くすほどの寒さと少しの涼しさだ。同僚から向けられた冷ややかな視線は、頭を撫でるエアコンの風よりもはるかに冷たかったのだ。
力の限り走った。血走る目から涙を流した。
叩きつけるようにドアを開けた。こんな者が礼節を説く? 笑ってしまうほどだ。
そして、絶望した。
あるはずだった大切なものはどこかへ消え失せている。探せども、探せども、見つかるのは消え失せたという事実だけ。
どうしようもないやるせなさが、蒸し風呂の中に漂っていた。
***
授業が始まったのは10:50を過ぎたころだった。
額に汗を輝かせる先生と彼が書き殴る黒板をボーっと見る。教室のざわつきは収まる様子もない。私も例に漏れず、授業に集中することはなかった。
そして、隣の男子に顔を向けるとざわめきの中で一つ、相談をつぶやいた。
「ねえねえ、家達くん。私、上田先生のカツラ探してあげたい」
その言葉を聞いて彼はこちらに首を振る。艶やかな黒髪がサラリと揺れた。
「その内、見つかるんじゃないか? 俺たちが探さなくてもいいだろ」
否定的な言葉を返す彼は”乗り気”だ。
切れ長の目は興味の色に染まっている。そもそも私は宣言をしただけ。協力を要請した事実はない。それでも、彼は言った。”俺たち”と言ったのだ。
日常に潜む非日常を楽しむことが大の趣味。私の隣人は”徳川家達”はそんな人なのだ。
「今日中に見つけないと。持って帰っちゃったらわかんなくなるよね」
彼はニヤリと口角を上げる。小さく鼻を鳴らすとこう告げた。
「まずは情報収集だな」
「うん!」
私だけ怒られるのは理不尽だと思う。涼し気な隣人を見てそう感じた。
理解できない授業は長く感じるもので、興味のあることはすぐに終わってしまう。チャイムの音と共に相談を再開した。
「授業中ずっと考えてたんだけど、やっぱり二組の子が怪しいと思う」
「その理由は?」
クルクルとペンを回しながら彼は問う。噂があったのだ。
「その、上田先生のカツラのことさぁ。最近二組で噂になったじゃん。ほんと最近だし、興味持った子がいるんじゃないかなぁ」
「失くしただけじゃないのか? 疑うなんてひどい奴だ」
無表情の彼は背もたれに体を預け、椅子の前足を浮かせる。
「だって、それしか考えられないもん」
「それなら、容疑者は?」
ギィーっと高い音を奏でながら彼は揺れている。
私の思いついた容疑者は三人だ。
一人は守谷 新。私のお友達で、天真爛漫なちびっこな女の子。中高一貫のこの学校を経営する理事長の孫娘。たまに突拍子もないことをやりだすけど、たくさん大好きな子。ただ、常識は考えてほしい。
一人は上太田 優也。いわゆるオタク的な感じの子でツヤツヤな髪がちょっとうらやましい男の子。いつも何かを食べてるイメージで授業中でもお菓子食べたり、没収されたりしてる。死ぬときは食べ過ぎで死ぬんだって。
一人は小金井 京。怖い感じの孤高女子。体育の授業に出てるところを見たことがない。上田先生とはたまに衝突していて、廊下から怒鳴り声が聞こえてくることもある。スラっとした高身長で、実は高校生なのでは? という話が私の中でブームに。
彼ら彼女らは二時間目の体育を欠席、または途中抜けしていた子たちなのだ。つまり、怪しい。私は笑顔で胸を張り、隣人へとそう告げた。
彼は楽器にしていた椅子から腰を離すと歩き出す。
突然のことに驚きつつも声をかける。かけようとした言葉を遮り、こちらを見ることなく言った。
「お前は小金井」
私は鳩村時音って名前ですけど??? 頬を膨らませるも、彼がこちらを見ることはなかった。ため息をつきながら席を離れる。半分は彼に対して。もう半分は彼女に対して。
暇そうに爪を眺めている彼女はこちらに興味を向けることなく、ただ、そのルーティンを続けている。
私は緊張を紛らわすために大きく息を吸い、ゆっくりと吐く。そして、にこやかに話し始める。
「小金井さん、ちょっといい?」
視線がこちらに向かう。細くしていた目はピクリと、大きく開かれる。肘をついた体勢のまま、返事を返した。ハスキーな声が少し羨ましい。
「いいけど、何?」
「小金井さんってさ、体育の授業何で休むの? いつも休んでるから、たまに一緒に遊びたいなって」
「別に大したことじゃないけど。体操服ってさ、ダサくない? 着たくないんだよね」
それって休む理由になるのか? 私は言わなかった。自分で自分を褒めたい。
首をかしげながらも彼女の隣にしゃがみ込む。
「わからなくもない……かも? 体育の時、暇じゃないの?」
「ん-、暇な時もあるけど、雑誌とか持ってきてるから困んないよ。読む?」
「読む! 貸して貸して!」
彼女は頷くと、二つ持って来ているカバンを探り、私に約束の物を手渡した。開いたカバンの中身を見せないように、少しだけ不自然な渡し方だった。
「興味あるなら他のも貸してあげるよ。屋上におきっぱだから取りに行かないといけないけど」
さも当然そうに抑揚のない口調を放つ彼女。それに比べて私はポカンと口を開き、首を傾げる。間抜けと言わざるを得ない表情だった。
「屋上?」
「そう。体育サボるときはだいたい屋上だから。最近晴れ多いしさ。今日もずっと屋上。昼寝日和だったよ。あんたも来る?」
「来ないよ!? むしろ体育来て!?」
「無理」
カラッと笑う彼女が拒否を告げたころ、鐘の音が始業を告げる。慌てて席へ戻ろうとする私のポケットに何かが突っ込まれた。
号令を終え、席に着く。
小金井さんの方を見ると、手を振っている。訳も分からず振り返す。彼女はそんな私を見て、軽く笑い視線を切った。
日常に戻ると気付く。スカートにある異物感。手の意味はこれか。突っ込まれたチョコレートを金色の個包装ごと机にしまい込む。
零れそうになるよだれを押さえる。食べ時を考えている私の机が、小さく音を立てる。
細い指を叩きつけるのは家達くん。
「小金井はどうだった?」
「怖いかと思ったけど、素敵な人だった!」
「んな話はしてねえよ……」
彼の顔を見ることができなかった。怒っているか、呆れているか。どちらにせよ、面白い顔はしていないだろうから。
「聞いた感じだとずっと屋上にいたみたい」
「なら、犯行は可能だろうな」
そう。可能なのだ。
推測された犯行時刻は9:50~10:00ほど。上田先生の話によれば職員室へ行き、教室へ戻った合間の時間は十分というほんのわずかな時間だった。この間にアリバイのない人物は十分に犯行が可能なのだ。
机に押し込んだチョコレートを優しく掴む。思考が淀む。嬉しくない想像しか浮かび上がらない。
新たな犯人を立案するために私は彼の口を開かせる。彼はただ、事実だけを述べた。
上太田について。
体調不良を訴え、9:40、一人グラウンドを後にする。グラウンドに戻ったのは9:55。
「てか、この教室暑くないか? 先生だけ? エアコンかけていい?」
その間誰とも会うことなく、二年のトイレにずっとこもっていた。
「エアコンぶっ壊れてるんすよ。とりあえず窓、開けますね」
リモコンを振り回す先生を横目に数名が席を立つ。
生ぬるい風が頬を撫でる。
私は思った。
五分間だけチャンスがある。トイレならば先生の足音が聞こえるかもしれない。彼はきっと、慌てた足音に驚き、教室を確認した。そして、思わぬ掘り出し物を見つけ、隠し、何食わぬ顔でグラウンドへ戻る。可能なはずだ。
首がひとりでにうなずいていた。
コッペパンには黒糖が合う。モサモサと口を動かしながら、物思いにふける私の机には二つの牛乳パック。
「時音ちゃんに飲んでもらえて牛乳も嬉しいと言ってますよ」
薄い笑みをたたえた新ちゃんは口元を押さえながらそう言った。どこか幼さの残る表情が月のように光る。
「好き嫌いしたらダメなんだよ? おっきくなれないんだからね?」
頬を少し膨らませながら抗議する。丸く赤くなった私はさながら太陽だろうか。
「小は大を兼ねるのです。小さいということは偉大なのですよ」
食事に手をつけることもなく胸を張る彼女は、何を栄養に動いているのだろうか? 私が食べ進める様子を嬉しそうに観察する様は、もはやよくあることで驚きなどすでになくなってしまっている。
「お前の話だと、大きいは偉小ってことなのか?」
「そんな言葉はないですけどね。しいて言うなら、矮小でしょうか。あなたにぴったりですね。徳川くん」
薄笑いの新ちゃんと無表情の家達くん。新ちゃんの笑い声だけが小さく漂う昼食班の空気は悪いらしい。先ほどまで別の話で盛り上がっていた数名は、息をひそめ、ただ食事をむさぼる機械へと変貌した。
二人は犬猿の仲でよくケンカしている、というのがクラスメイトの共通認識らしい。私はそう思わないけど。ストローがズズズと空気の音を立てる。新たなそれを袋から出したとき、二人は確かめ合うように言葉を交わす。
「お前だろ? 犯人。体育の時もいなかったもんな」
「いえいえ。そんなわけないじゃないですか。徳川くんも知ってますよね? 私、体が弱くて」
「そうだよ! 新ちゃんは保健室にいたんだよ! 私が付き添いしたから間違いないもん」
二人の間に割って入るのは私。新ちゃんを疑うなんてひどいよね。少し細くした目で家達くんを見る。彼は面倒くさそうに視線を切った。勝った! 新ちゃんに目を向けると喜ばしそうに小さく手を叩いていた。
「事実として私は保健室にいましたので。名簿を見ればわかるのでは?」
「名前と実体が一致するとは限らないだろ。書いてすぐに部屋を抜けることは可能だ」
「ええ。ですから名簿を見ればわかるのでは、と言っているのですよ」
「どうゆうこと?」
「当時保健室を利用していたのは私だけではありません。彼らがきっと私の無実を証明してくれる、そう言いたいのです」
手のひらとこぶしを打ち鳴らす。
目撃者がいれば犯行のチャンスはなくなる。新ちゃんに限らず、他の人たちもそうだ。次なる目標が見えてきた。少しにやけ顔で宣言する。
「目撃者。絶対見つけるからね!」
「はい。期待していますよ」
友人の言葉が背中を押した。
以前より小さくなったせいだろうか? 二本目の牛乳を一息で飲み干してしまった。
光線のような日差しを側面に受け、一人、廊下を進む。
昼休みは四十分。自由に動けるのは今と次の十分休みくらいのものだ。何か決定的な証拠を見つけなくては。
証拠を求め、たどり着いたのは保健室。曰く、目撃者がいるはずの場所だった。独特の臭いを感じながらも視線を振る。
名簿はわかりやすいところに放置されていた。
確かに新ちゃんの名前がある。残りは男女の先輩がそれぞれ一人ずつ、か。どちらも推定犯行時刻9:50~10:00にはこの場にいることとなっている。
名前とクラスを基に彼らを訪ねる。そして、明確な証言を得た。
「すごいうなされてた子かな? 心配だったんだけど、途中から寝息たてだしたから、安心してあたしもサボれたわ」
「サボりは良くないのでは? ともかく、新ちゃんは保健室にいたんですね」
「そうだと思うよ。あ、これはサボりに対してではなく」
「わかってます!」
目撃者である先輩と別れ、小さくため息をつく。
容疑者はあと二人。上太田くんにも小金井さんにも目撃者がいるかもしれない。事件現場となった2-2は2-1および2-3に挟み込まれた位置にある。つまり、人が通った場合にはそれを目撃される可能性が高い。私は一人頷きながら、同輩たちに聞き込みを始めることにした。
それぞれのクラスで控えめに声を上げる。少し恥ずかしかったが気にするべきではない。そんな私の正義感に呼応するかのようにして、目撃者は意外にも早く見つかった。
「俺、上太田のこと見たぜ」
「ほんと!?」
「おう。二時間目の途中で腹痛くなってよ。トイレ行ったんだけど、戻ってきた時に二組の前にいた上太田と鉢合わせた」
「時間ってわかる?」
「時間? んなのいちいち見てねえよ」
露骨に落胆する私へ彼は慰めをかけてくれた。
そんな彼にかけられた言葉は慰めとは正反対のものだろう。
「漏らし記念で写真撮ったじゃん。あれに時間あんじゃね?」
「漏らしてねえよ。先生キレてスマホ取り上げられたやつか」
「お前のせいでめっちゃキレてたよな。マジ授業中に漏らすなよな」
「いや、写真のせいだろ。どっちかというと。てか漏らしてねえ」
「え、えっと、つまり写真があるってことでいいんだよね?」
「それに時間載ってるんじゃねえかなあ。とりかえして来てくんね? 鳩村だったら先生から信用されてるし、いけるだろ」
「行ってみる!」
職員室は独特の雰囲気があって、少し苦手だ。
裏返りかけた声で先生を呼び出し、スマホについての相談をする。小さくうなりを上げた彼に、一言追加する。
「上田先生のためなんです」
当人にも聞こえるほどの声量で付け加えたそれは、効果を発揮した。手渡された他人のスマホをポケットにしまい込み職員室の扉に手をかける。
冷たい感覚が指先に伝わる。電気が走ったかのように、湧き出るのは疑問。脳裏をよぎったそれは解決を求める。
私は上田先生の元までツカツカと足を進め、念押しのように確認を取った。
「教室を離れていた時間は9:50~10:00で間違いないんですよね?」
「ああ、間違いない。私宛の電話を職員室で受けてね、それを保留している間に放送で呼び出されたんだ。電話の履歴を見たら時間がわかるはずだ」
言葉は発さず首で合図を返す。
「職員室から戻った後も動揺で教室中を見たからね。戻った時間も間違いないだろう」
私は小さくお礼を返し、その場を後にする。
扉を開けて教室に戻ろうとしたその時、激しい歓迎を受けた。まるで世界を救った英雄に与えられるそれかと、錯覚するほどの声だった。
呆れたように笑いながら彼にスマホを返す。その手に強く押し付けながら、小言もセットでお渡ししてあげた。
恥ずかしそうに頭を掻きながら彼は画面を突き出す。思わず、感嘆の声を上げてしまった。
見せられたのは写真だ。トイレから戻ってきたであろう彼の姿をメインに教室の様子が切り取られている。
そして、画面の端に印字された数字は9:45。これはつまり。
「君は完全に白ってことだね。あと、上太田くんと会った時刻もこの時間で確定できる」
「白ってか茶色じゃね?」
「漏らしてねえよ」
「もう中学生なんだよ?」
「鳩村まで!?」
いたずら気に笑いながら、彼らに手を振った。
午後になると夏の暑さはさらなる進化を遂げる。屋外は特に。
推定犯行時刻、体育の授業を受けていた私は、その場に戻って過去を追憶する。ジリジリと過熱する日差しに頭を悩ませながら。
何か変わったことがあっただろうか。いつもいない小金井さんと多分仮病な新ちゃん、上太田くんはよくわかんないけど、彼らを除いたこちら側の授業自体は滞りなく進んでいたはず。
風が砂を巻き上げる。思わず目を覆い、うつむく私の頭に何かが存在を告げた。
カサカサとした金色の紙。どこか甘い匂いを纏ったそれは何となく見覚えがあった。
そうだ。確か体育の時にも同じものが飛んできていたんだ。突然、眼前に現れたこれのせいで幅跳びのとき転んでしまったのだ。
大きくため息をつく。誰が見ているわけでもないが、悲運な私を慰めてほしいものだ。
何となく顔を上げた私は絶望した。
時計が告げているのだ。
昼休みの終わりまであと二分。
弾かれるように教室へ急ぐ。誰が見ているわけでもないが、悲運な私を慰めてほしいものだ。
人間は死に際に追いつめられるとすさまじい力を発揮することがあるらしい。否定派の人間も山ほどいるようだが、私は声を大にして言いたい。
それは正しい、と。
何とか五時間目に間に合った私は、汗だくになりながら席に着く。四時間目まではいなかった新ちゃんが私の前に座っている。良くサボる割には成績いいんだよなぁ。うらやましい話だ。
何でもいいから着替えたい。あいにく汗だくの体操服しか交換先はないのだが。
「ってかさあ。お前らなんか近くない? 一マスずつ下がって」
数学は私を安眠に運ぶことのできる授業の一つだ。机を動かしながらもすでに眠い。いつもより壁が近い。何となく憂鬱だ。これも数学のなせる業だろう。
眠気眼の中、隣人の顔色を窺った。
真剣な眼差しを前へと送り、無表情で手を動かしている。たまに怖いこともあるが、比較的まじめでいい友達だ。周りからはいつも怒っている、と評される彼だけど、意外と面倒見がいいんだよなぁ。なんだかんだで助けてくれるし。一部からモテるのもそれが理由なんだろうか。
私からの視線に気づいたのか、払いのけるようなジェスチャーでこちらに反応を返す。適当に笑みを返すことで事なきを得た。
家達くんはもう犯人にたどり着いたのだろうか。興味が口を開こうとした。朝の光景がフラッシュバックする。
私だけ怒られるの嫌だし、やめとこ。
視界の端で上太田くんがコソコソとカバンをいじっている。何かお菓子を取り出しているようで教科書を立て、隠れるように口に運んでいた。さっき給食だったよね? あ、やばい。先生が歩き出した。
コツコツと鳴るかかとの音は小さく、味覚に夢中の聴覚が拾うことのできないものだった。
彼が新たな宝物をバッグから取り出そうとした瞬間。
その顔は絶望へと染まる。
バッグごと教卓へ戻った先生は、放課後に約束を取り付けると、授業を再開した。
一人、笑っていた私と小金井さんの目が合う。もはや隠すことなく雑誌の授業を受けていた彼女は、こちらに軽く手を振ると、元の興味に視線を落とす。
私は笑みを浮かべながら頷く。仲良くなれてよかったな。……授業中であることは置いといて。頷きはため息に変わってしまった。
吐き終わるや否や、ハッっと短く息を吸う。
そして、小さく唸る。
新ちゃんの下着が透けていた。朝は寝ぼけていて気付かなかったのだろう。ハッキリとした黒が制服に浮いている。
言うべきか? でも、授業中だし。私が見る分には構わないけど。
隣人の視線を伺う。ペンを置く。
「見てたよね?」
「見てない」
「絶対見てた!」
私だけ怒られるのは理不尽だと思う。涼し気な隣人を見てそう感じた。
チャイムと共に教室を離れ、個室に逃げ込む。
暑い中での運動と唐突な説教によって湧き出た汗を拭うと、廊下へ戻った。私ばっかり怒られるのおかしいと思う。
「不満そうな顔じゃん」
私の感情を読み取ったかのように笑うのは小金井さん。教室へ戻ろうと、歩き始めた足を止める。
「私ばっかり怒られて、ひどいと思わない? 不良になっちゃいそうだよ」
「あらかわいそう。ついてきてよ」
さらりと話を流すと、返事も待たずに歩き出す。
現実に取り残された私の足は動かず、少しした後に声を上げた。
「待ってよぉ」
目的地は近かった。立ち尽くしていた場所とトイレの間ほど、そこにあるのは階段だ。一段一段踏みしめる。ほんの少し、太陽に近づいた気がした。
たどりついたのは行き止まり。閉じたドアと小窓があしらわれた行き止まりだ。
「どうしたの小金井さん?」
彼女は得意気に鼻を鳴らすとポケットに手を入れる。
金属音が鈍く揺れる。
その手には小さな鍵。小窓から漏れる光が灰色を明るく照らしている。
「誰にも言わないなら、入れてあげてもいいよ」
閉じたドアを、曲げた指で叩くと、口角を上げる。サラリと伸びた髪が踊るように揺れた。
私は小さく頷き、彼女へ一歩、また一歩と足を進める。
顔には笑顔を張り付けておいた。
相手の体温を感じるか、と思うほどの距離。彼女を見上げ、頬を膨らませる。
「没収です!」
彼女の笑い声は職員室まで響いたらしい。
チョコレートはカカオが少なければ美味しいのだ。
ニコニコの私は舌を転がす。もうすぐ今日が終わる。天井を見上げながら、放課後に思いを馳せていた。
「日直の人は黒板消してください」
先生の言葉は耳に入らない。少しの静寂の後、困り顔の新ちゃんが黒板消しを両手に振るっていた。
少し、気になっていたことがあった。
上太田くんの動向だ。トイレに籠っていたという彼の話と、彼を見たという証言は微妙に食い違っている。おかしいのだ。私はただ一人、頷く。
トイレと教室の位置関係上、二人が鉢合わせるのはおかしい。トイレは階段横に位置しており、それを挟んだ反対側に犯行現場となった教室がある。つまり、明確な意図がなければ教室側に行くことはないはずだ。
推定犯行時刻は9:50~10:00。鉢合わせてから姿を見せていないのは9:45~9:55。
アリバイはない。代わりにあるのはチャンスだ。動機なんていくらでも考えられる。乾いた唇に舌で潤いを与えた。
あとは、証拠さえあれば。
それさえあれば、上太田くんが犯人であると決定づけることができる。暑いはずの教室で冷たくなった指先をこすり合わせる。来るべき結末を願い、祈るかのようにして。
日常は残りわずか。残ったそれに縋りつくようにホウキを振るう。
後ろから中央へ。
「誰だよ用具入れに水零したやつ!」
後ろから中央へ。
「ホウキ終わったら机動かすからね!」
後ろから中央へ。
「てかマジでエアコンいつになったら治るんだよ」
ほんの少しの違和感。
床板を見つめる。へんてこに首を傾げた。手を止め、小さく唸る。私を呼ぶ声に思考は途切れさせられた。
椅子を上げた机を運ぶ。口を開くことなく作業を続けた。
「なんか後ろ狭くね?」
「こんなもんだろ。ってか前狭くね?」
「どうでもいいから男子! 机運んで! 時間大事にしてよ」
私は思わず机を落とす。ポカリと空いた口がふさがらない。心配する声が聞こえる。首を縦に振るも、その声は収まらない。
もしや、いや、おそらく。
新ちゃんのスマホを勝手に借りる。どうせ二台持ってるし気にすることもない。
そんなことより確認しなければならない。良く思い返せば、朝からおかしいと思っていたんだ。
かけられる声を背中に受けながら、私は走り出す。
見当違いの推理であれ。ポケットに入れた手を握りしめた。
以上で本作の事件編終了です。
次回、解決編では時音が華麗な推理を見せてくれるでしょう。素晴らしい推理だね、鳩村くん。
ここまでお読みいただきありがとうございました。次回もお待ちしております。




